2015年07月23日

石橋湛山の世界開放主義その後3

 「オッタワ協定の終期と英帝国貿易:世界通商自由回復の気運台頭」という論説があって、何とこれが『東洋経済新報』誌上に発表されるのが、1937年7月3日、つまり日中戦争開始のわずか4日前なのです。
 それでは、この時期、何をもって「世界通商自由回復の気運台頭」といっているのか。
 ここでは、まず、5月から6月にかけて、新聞記者をシャットアウトして開かれた英帝国会議で、「各代表は現存する通商障壁について他国と協力して検討を加える用意がある」とする報告書が出されたことが紹介されます。
 またこの会議と前後して、英米、日英、日米等の通商外交交渉が進められ、過去数年間募りに募った通商障害がようやく緩和の方向に転じつつあること、そして、表面化しないまでも前述の英帝国会議で、2,3の属領地から、オッタワ協定の修正を求める声が出たこと、さらに過日、ベルギーのヴァンゼーランド首相が世界経済会議を斡旋しようとしたことを上げています。
 一方で、英帝国貿易の概況は、次のように分析されています。
1. 英本国全体の貿易は向上し、帝国内貿易も増加したが、帝国内への輸出増加は帝国内からの輸入増加に較べると若干の劣勢にある。
2. 主要属領国も対帝国貿易はその比重を増しており、帝国内貿易の割合の増加は明か。しかしこれは比率上、英帝国内貿易の保護が効を奏したことを示すだけで、英帝国諸邦とその他の諸国との間の貿易は、オッタワ協定によって著しく妨害されてきた。
3. 近年における貿易の増加は世界的な景気回復に基くもので、もしオッタワ協定がなかったら、世界全体としての貿易はもっと遥かに増加したはず。
4. 1932年は世界恐慌のドン底時代であったから、英帝国諸国もこのような協定に甘んじたが、今日では世界景気の様相が著しく変化し、今日なお、英帝国が門戸を閉じていることは、世界の経済発展を妨げるものであり、英帝国にとっても決して利益ではない。
5. とくに原料品生産の多い英帝国属領諸国にとっては、輸入上の障害を取除いて輸出の増進を計る方が、大局的に有利である。オッタワ協定修正の要求が聞かれる理由でもある。
6. 物価指数がすでに1929年に帰ったのに、英国の輸出総額はまだその6割に過ぎないという事態を猛省すべし。
(ナンバリングは、私が適当に行っているものです)

 石橋湛山も、上田貞次郎も、ブロック経済は必ず行きづまると予測していたのですね。
 その兆しが見えはじめたというのに、なぜ、戦争なんか始めてしまったのでしょう。

【追記】内容に即してタイトルを少し変えました。
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2015年07月22日

石橋湛山の世界開放主義その後2

 1933バンフ太平洋会議→1936ヨセミテ太平洋会議・世界開放主義→1937国際連盟原料品問題調査会
 この流れを追うのに、実は、多くの文献をパッチワーク的につなぎ合わせて用いていますので、何かのご参考になればと思い、参考文献として列挙しておきます。
 なお、このうちの大半を近代デジタルライブラリーでご覧いただけます。
【参考文献】
石橋湛山全集編纂委員会編『石橋湛山全集』第15巻、東洋経済新報社、1972年
上田貞次郎『上田貞次郎日記』晩年編、上田貞次郎日記刊行会、1965年
上田正一『上田貞次郎伝』、泰文社、1980年
『東洋経済新報』(東洋経済新報社)1928年〜1937年
『日本経済年報』(東洋経済新報社)1930年〜1939年
『自由通商』(自由通商協会日本連盟)1930年〜1937年
高橋亀吉『経済評論五十年』、投資経済社、1963年
石井修『世界恐慌と日本の「経済外交」―1930〜1936年』、勁草書房、1995年
高橋亀吉『世界資本主義の前途と日本:欧米新経済戦線を探りて』、千倉書房、1934年
全国産業団体聯合会事務局『モーレット氏歓迎午餐会及懇談会記事』、1934年
国際労働局東京支局編『モーレット氏報告書: 国際労働局次長モーレツト氏の日本産業に関する報告書』、1934年
全国産業団体聯合会事務局『第一八回国際労働総会に関する報告』、1934年
フェルナン・モーレット『日本の産業的発展の社会的形相』、国際労働局東京支局、1935年
赤松祐之『昭和十年の国際情勢』、日本国際協会、1936年
赤松祐之『昭和十一年の国際情勢』、日本国際協会、1937年
赤松祐之『昭和十二年の国際情勢』、日本国際協会、1938年
赤松祐之『昭和十三年の国際情勢』、日本国際協会、1939年
横山正幸『国際聯盟の将来と日本との関係』、日本外交協会、1936年
赤松祐之編『国際経済関係現下の容相:国際聯盟経済委員会報告書』、日本国際協会、1936年
高橋亀吉述『日本経済の発展と世界経済再調整問題』、中央朝鮮協会、1937年
日本国際協会太平洋問題調査部編『太平洋問題:第六回太平洋会議報告』、日本国際協会、1937年
外務省情報部編『国際時事解説』、三笠書房、1937年
川島信太郎『対大陸経済関係強化の沿革及其の解決策』、日本外交協会、1938年
外務省通商局訳編『最近原料品取得問題:国際連盟原料品問題調査委員会の報告書』、日本国際協会、1938年
日本銀行調査局編『世界の原料問題』、日本銀行調査局、1940年
神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ【新聞記事文庫】
主なもの:
・『神戸又新日報』1934年6月3日「ソシヤルダンピングに非ず モーレット氏の認識正確」
・『大阪朝日新聞』1937年2月26日「原料資源の再分配連盟委員会で堂々我が公正な要求提唱 コンゴー条約の精神適用を求む きのう訓電を発す」
・『大阪朝日新聞』1937年4月23日「資源の獲得、開発に“自由の三原則”を闡明 聯盟委員会出席の首藤代表に外相、根本方針を授く」

【追記】内容に即してタイトルを少し変えました。
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石橋湛山の世界開放主義その後1

 石橋湛山が、1936年9月に発表した世界開放主義は、国の内外にどのような影響を与えたのか。ごく簡単に記しておきます。
 1937年2月、日米綿業協定が成立したことはすでに述べているかと思いますが、それを歓迎する「民間経済外交の成功:日米綿布協定成る」等の論評が『東洋経済新報』誌上にも何編か載せられます。
 3月、再び「世界開放主義の提唱:政府は更に積極的に努力せよ」という呼びかけがなされますが、念のために記しておくと、これら一連の記事を書いたのは湛山ではなく、同社の若手記者の一人だったと思われます。
 ここまでが、以前、私の知っていた動き。しかしこれ以降、さらなる動きが生まれます。
 それは、3月に書かれた記事の中で明らかにされているのですが、実は、湛山の世界開放主義発表後、広田内閣がこれを真摯に検討していたというのです。
 そして、有田外相が、帝国議会で、原料資源再分配の一試案として、東部アフリカの植民地に対する各国の利害調節のために制定されたコンゴ盆地条約を各国の植民地市場に適用すべきであると力説し、3月上旬からジュネーブで開かれる国際連盟原料品調査委員会で世界に訴えることになったのです。
 ここで確認しておくと、日本は、1933年3月に国際連盟からの脱退を表明し、1935年3月に脱退しますが、その後も平和的・人道的・技術的事業については協力を継続し、経済委員会には首藤商務書記官が個人の資格で参加していたのです。
 同じ3月、林内閣の外相に就任した佐藤尚武は帝国議会における外交方針演説で、中国との平等な対話を説き、戦争勃発の危機は日本の考え方しだいと述べるのですが、『東洋経済新報』はそれを好意的に取り上げます。佐藤外相は、3月中旬、児玉謙次を団長とする対支経済使節団を派遣しますが、失敗だとする評価がもっぱらだったのに対して、そうではなかったという論説を繰り広げます。つまり日中関係は親善化しており、今後、中国の経済発展を助けていけば、日本にも発展の道が開ける、中国の一部に残存している排日策動にも百年河清を待つ態度で望む必要があると訴えたのです。
 佐藤外相は、その後、原料品調査委員会の首藤商務書記官を招いて対策を練り、6月下旬に開かれる第2次会議において、世界平和の基礎を確立するために「資源獲得の自由」、「開発の自由」、「通商の自由」の3原則を根本方針として、これを表明させることを決定します。
 これに引き続き、東洋経済新報社の季刊誌『日本経済年報』には、「佐藤外交と訪支経済使節」と題された記事が掲載されますが、このときすでに、林内閣は解散し、佐藤外相もその職を去っていました。しかし東洋経済新報社では、あえて「佐藤外交」の文字を残そうとしたのです。
 湛山らは、ここで何らかの準備していたと考えられます。それは、湛山の世界開放主義に基いた「自由の3原則」を日本の国策として掲げ、国際連盟の原料品調査委員会を足がかりに、世界に広く働きかけることではなかったかと思うのです。
 ところが、その直後の7月7日、日中戦争の開始で、これらの計画は暗礁に乗り上げます。そして国際連盟でも、1937年9月初め、原料品問題調査会第3次会議が開かれ、理事会に報告書が提出された後、9月末日をもって日本の国際連盟協力が終止されるのです。首藤商務書記官もここで引き上げることになります。
 これで日本と海外との大きなパイプがほとんど完全に断たれることになるのです。

【追記】内容に即してタイトルを少し変えました。
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2015年07月21日

転向していた、鈴木武雄2

 よく考えてみれば、「湛山の公職追放と共産党」(2015年7月18日)で述べた、『真相』の記事「石橋湛山の戦犯記録――これでも自由主義者」中の、「昭和18年の秋、『大陸東洋経済』を朝鮮京城に創刊して、同地の戦時経済指導に協力した」のは、湛山というより鈴木武雄の主導によるものだったわけで、その大陸前進兵站基地構想を、湛山が『大陸東洋経済』を創刊してサポートしたというのが真相ですよね。
 ですから、鈴木が大内グループへもどってからも、湛山の公職追放に責任を感じ、その成り行きを憂慮していたことは間違いないですね。
 一方の大内兵衛や有沢広巳は、戦時中、東大を追われて、ものを書く場を失っていたわけですが、そんな彼らに誌面を提供したのが『大陸東洋経済』であり、大内は、プレッシアーニ・トゥローニの『インフレーションの経済学』を紹介する記事を、署名なしで14回連載しているのです。
 それにもかかわらず、日本共産党に便乗するようなことをやっているのですから、こうした事情に通じていたはずの鈴木が、不信感あるいは憤りを感じたとしても不思議はないと思います。
 一橋大学名誉教授であった木村元一が、1981年に行った「一橋の財政学について―井藤半彌教授を中心として―」と題する講演の中に、次のような興味深い一節がありました。
 東大では大内兵衛という方が財政学をやり、かつ並行講義で(……)もう一つのほうは土方成美という方がやっておられました。ところが土方成美さんと大内兵衛さんとは、こんなに仲の悪い同士というのはないくらいに喧嘩ばかりしておりまして、(……)同僚とでもあんなふうにけんかができるかと思うくらい。(笑)大内さんという人はちょっと人が悪いですから。(笑)とてもとても土方さんの手には負えなかったろうと思います。赤子の手をねじるようなものです。教科書に土方さんの『財政学原理』をお使いになったのです。(……)大内さんはそれを批判の材料にする。(笑)こういうへんなことが書いてあるからと学生に講義するためにその書物をお使いになった。私、その講義を聞いたわけではないですから間達っていたら訂正しなければなりませんけれども、そういうことがあった。時代の流れ流れに応じまして、ころっころっとその学風が変わっちゃうのです。戦争中になると、金融の橋爪さんといったようなナチスばかりの人たちが、非常な勢力をふるって、大内さんは牢屋に入ったのでしたか入らなかったのでしたか、とにかく特高に追い回され、検挙された。それが一生の自慢になっておりまして、免罪符を得たようなもので、自分の民主主義の看板にする。そういうところがあります。あのときに牢屋にでもちょっと関係した人は、戦後になるとわれこそは根っからの民主主義であって国策に協力しなかったということを自慢する人がいる。(……)
 木村は、井藤の門下で、井藤は有沢や猪間と同世代、木村は1930年代初めより井藤のゼミに所属しており、これは、当時、東京商科大学の経済学者・財政学者たちの目に、大内兵衛の姿がどのように映っていたかを知る、貴重な手がかりになると思います。
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2015年07月19日

転向していた、鈴木武雄

 森戸事件を調べるために『エコノミスト』のページをめくっていたら、1956年5月26日号に、「日本財政学会」についての記事があり、その「大内門下の三羽鳥」のところに、次の一文がありました(ちなみに三羽鳥というのは、武田隆夫、遠藤湘吉、大内力です)。
 マルクス派の異変は、従来この派の有力学者とみられていた鈴木武雄(武蔵大)が徐徐に転向し、いつの間にか実質上、近経派にクラ替えしたことである。その苦心の労作「現代日本財政史」はGHQの指令や官庁の豊富な資料を駆使して財政面から占領下日本の経済の歩みを顧みたもので臨床財政学の権威“鈴木外科”の異名を高らしめた。
 つまり、鈴木が、マルクス主義者ではなくなり、大内グループからも離れていたということですね。(鈴木の後に、地方財政研究者の藤田武夫(当時、立教大)が紹介されていますが、こちらは転向していないようです)
 『現代日本財政史』を借りてみたのですが(本文を読むのは少し後になりそうです)、東京大学出版会からこの上巻が出たのは、1952年2月、中巻が出たのが、1956年3月、したがって、この記事は、中巻が出版されたのを受けて、書かれたことになります。
 中巻の「序」を読むと、「本書上巻にたいし、大内兵衛先生、島恭彦教授、安藤良雄教授、大内力教授、守屋典郎氏その他の方々から新聞紙上その他において有益な批判を頂いた」とあります。
 大内の「有益な批判」が何だったのか、上巻を見ると、第2章の「8月15日のバランス・シート」に、1945年10月、大内が「渋沢蔵相に与う」として行った「戦時債務を破棄するために蛮勇を奮え」という有名なラジオ放送が紹介され、そこに、鈴木の批判と思われるものがありました。
 ところで、このような国債を中心とする膨大な政府債務は、たしかに戦争のマイナス的遺産であり、国民の巨大な借金であるが、反面においてそれは、外債を別とすれば、一部の国民にとり債権であり、プラスの資産である。この貨幣的資産は、大内兵衛のいうように、それに見合う実物的な資産をほとんど失ったものではあるが、しかもなお国民の誰かにとっては積極的な資産であり、財産である。したがって、国民は戦争の結果一方において背負い切れないほどの借金を背負ったが、他方においてそれだけの貨幣的資産を蓄積したのである。もし国民がただの一人であるならば問題は簡単であり、債権と債務を相殺すればよい。しかし国民は7,000万を超える多数であり、その構造は複雑である。ここに国家債務処理の問題の複雑さがある。(……)
 この内容について、私はコメントできる力がありませんが、いずれにしても、上巻が出てから中巻が出るまでのあたりで大内と鈴木の間に齟齬が生じ、鈴木の転向が起ったことが、推察できます。
 1985年に刊行された『昭和財政史―終戦から講和まで―』には、猪間の『日本人の海外活動に関する歴史的調査』や大内の『昭和財政史』のような、編纂者の歴史観を提示する「序」がありません。
 私は、鈴木の微妙な立場から(つまり、『日本人の海外活動…』朝鮮篇には署名論文を収録してこれが批判され、大内グループに所属し、企画が始まった1973年には『日本人の海外活動…』の刊行を求める市民運動が起るという)、書けなかったのではないかと思い込んでいたのですが、実は、『占領下日本財政史(=現代日本財政史)』がすでに書かれていて、それを『昭和財政史―終戦から講和まで―』の中にそのまま用いてもよかったくらいのものだったということです。
 そして、ここで非常に興味深いのは、
◆猪間『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(1946年→1950年)
◆大内『昭和財政史』(1947年→総説1965年)
◆鈴木『占領下日本財政史』(1949-1950年→1952年/1956年/1960年)
 これらが、ほとんど同時期(GHQ占領下)に並行して書かれていたということです。

【追記】書くのを忘れていましたが、『現代日本財政史』というタイトル、鈴木自身は『占領下日本財政史』としたかったようです。
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2015年07月18日

湛山の公職追放と共産党

 増田弘さんは、『石橋湛山 占領政策への抵抗』(草思社、1988年)の中で、共産党が湛山の公職追放に果たした役割について述べられています。
 共産党の野坂参三がGSのマーカム宛に、「湛山の戦争協力に関する資料」を同封した書簡(4月1日付)を送った。(……)(しかしこれは、)明らかに石橋追放のための捏造にほかならなかった。
 左翼系月刊誌『真相』は、当時、自由・進歩両党ばかりでなく、野党の社会党などの指導者攻撃を行った代表的雑誌であり、とくに追放該当とみなす政治家たちの戦前戦中の活動暦を暴露する記事を盛んに取り上げたが、同誌の昭和22年5月号に掲載された山下一郎「石橋湛山の戦犯記録――これでも自由主義者」は、「・・・・・・戦時中石橋は、・・・・・・昭和18年の秋、『大陸東洋経済』を朝鮮京城に創刊して、同地の戦時経済指導に協力した。・・・・・・昭和17年暮には香港総督磯谷中将と結んで香港支社を設け、磯谷のブレンと協力して常務理事斉藤幸治を陸軍嘱託の肩書で同地に送り、19年6月には『香港東洋経済』を創刊している。・・・・・・もしも彼がパーヂにかからないようだったら、日本中の出版業者の中で公職追放になるものは一人もないだろうし、金融資本家、軍需産業資本家からも追放者が出なくてもよいとゆうことになる。・・・・・・とにかく、インフレをなくすためにも、石橋のような蔵相の追放は当然であるが、日本民主化のためにも、このような侵略主義者、超国家主義者は衆議院、出版業界から絶対に追放せねばならない」旨述べており、前記野坂の資料との類似性が注目される。
 3月16日付ルーストGS政治課長の湛山に関するメモにも、共産党資料が使われている。
 NHK戦争証言アーカイブスに収録された日本ニュースを見ていると、当時であれば、こうしたことをやりかねないであろう雰囲気が伝わってきます。
 ただ、まん中の記事は、実は、情報の部分(太字)は間違ってないのです。
 私が以前、「経済学者、鈴木武雄の大陸前進兵站基地構想と戦時下、東洋経済新報社京城支局による『大陸東洋経済』の創刊」という小論を書いたのは、大陸前進兵站基地構想というのが、鈴木武雄(そして湛山)が、意識的に戦時協力を装って行った、農村工業計画の延長線上にある朝鮮工業化、つまり朝鮮の実質的な経済的自立を意図したプログラムであったこと、それは、やはりおさえておかなければならないと考えたからです。
 多くの研究者が、それを素通りして、湛山がそんなことに関わっているはずがないかのように扱っていることが、逆に、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』を、植民地主義を肯定する立場で書かれたとみなすような愚を犯すことにつながっているように思えるのです。
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2015年07月17日

有沢広巳の騙しのテクニック

 今回は、その有沢広巳の騙しのテクニックについて。
 まず最初に、糸井靖之が亡くなった後(つまり、猪間を東大から追放した後)、なぜ猪間でなく、自分が統計学講座を引き受けたのかを説明しなければならないと思ったようです。
 高野先生のあとをひきうけられて、統計座区講座担任者だった先生が思いがけなくなくなられたので、とうとうぼくが統計学をひきうけることになったのです。当時、ぼくは経済原論を専攻する助手としての2ヵ年をへて、助教授に昇進していたのですが、統計学をやれそうな若い人がほかにいない。有沢なら高野先生からもよい成績をもらっているし、糸井先生の演習もやっているから、やれるだろうというふうなわけで白羽の矢がぼくにたったというのです。
 ある日、舞出先生が学部長の代理として池袋のぼくの宅にこられて、引きうけてもらえるまではこの座を立てないという強硬談判なのです。どうもこれには困ってしまったのですが、やはりぼくの頭のどこかに統計学をやってみたいという考えがあったのでしょう。(……)とうとう舞出先生に説きふせられて、統計学を引きうけてしまったのです。もっとも、ぼくのほうも条件をつけて、統計学をやるが、それとともに経済学をもやるのを認めてもらいたいと申し出ました。
 まず誰かが自分のことを高く評価していて、あるポストについてくれと頼みにくる。自分は、いったん断るが、強引に説き伏せられて、仕方なく引き受ける……これが、何かをごまかそうとするときの、お決まりのストーリーなのでしょうか。石橋湛山を追放しようとしたときの状況にそっくりです。
 でも、これだけでは不安だったのか、他人事のように内部対立の話をもち出します。
 戦前の人なら、御存知と思いますが、経済学部は昭和のはじめごろから(つまり、有沢が猪間を追い出した後!)内部対立がひどく激化して、同僚が同僚を裏切る、同僚の追い出しをはかるというふうになった。後の矢内原事件とか河合事件とか、またぼくたちの教授グループ事件にしても、この内部対立が背景となっているのです。(……)学説の違いがあり、人と人との関係がうまくいかないということは、どんな社会にもあることでしょうが、同僚が同僚を裏切るというのは全く深刻な対立だったのです。
  「昭和のはじめごろから」という限定の仕方、ぬかりがないですよね。猪間の東大追放事件から、人々の目をそらそうとしたわけです。そして、大正期のことを聞かれると、「その頃のことは、あまり覚えていない」ととぼけるのです。
 猪間のことについても、「公式見解」を決めておきます。
 猪間君は助手時代に病気をされてやめてしまいました。
 助手時代に病気をしたところだけはほんとうですが、4月から、9ヵ月間、講師を務めた後、東大を追放されるわけです。
 有沢と大森義太郎は、6月に猪間を飛び越えて、助教授に就任していますが、論文を書かないで助教授になったことについても、いいわけが必要と考えたようです。
 助教授就職論文の提出は、舞出、糸井が助教授になるときが最初で、それからのちは助手が助教授になるときには必ず論文を出し、主としてその論文について審査することになったそうです。ぼくらの場合もやっぱりそうだったのです。
 大正13年6月、大森君とぼくとは助教授に昇進することができました。(・・・・・・)ぼくの論文は「カッセルの価値論」というので、この当時世界的名声をもっていたスェーデンの学者の「価値論なき経済学」を批判したものでした。ただどうしたわけか、大森君の論文もぼくのもついに雑誌に発表しないままになりました。
 ぼくの原稿は書棚の引出しに入れてあるとばかり思っていたのですが、最近捜してみても見つからないところをみると、やっぱり戦災のとき焼けてしまったのかもしれない。どうにも日の目をみないで死んだ子供のようで、なんだかさびしい気がします。むろん、内容はたいしたものではなかったのですけれど・・・・・・。
 何だか子供じみたいいわけですね。
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猪間驥一と森戸事件の真実D

 先日、猪間驥一の森戸事件に関連する資料を見ていたら、有沢広巳の『学問と思想と人生と』(毎日新聞社、1957年)が紛れ込んでいて、私がコピーを取った「糸井靖之」の前の項が、「森戸事件」であることがわかりました。
 暑い中、しかも有沢のことを調べるために。国会図書館へ行くことになるのかと少々憂鬱だったのですが、ひらめくものがあって、コピーの裏面を見ると、これが、『エコノミスト』に連載されたものであり、この雑誌がわが図書館にも置かれていること、しかも、1956年4月7日号〜8月18日号という、わずか4ヵ月分の誌面を見ればよいことがわかりました。
 「わが思い出の記」に書かれた、有沢の見た森戸事件をまとめると・・・。
・1919年12月、経済学部の機関誌『経済学研究』が、発売されたとたん、発禁になる。
・それは掲載された森戸助教授の「クロポトキンの社会思想の研究」という論文が、当局から“朝憲を紊乱”すると認定されたためであった。
・雑誌が発売禁止になったのみならず、筆者の森戸助教授は起訴され、雑誌の発行署名人であった大内助教授も、責任があるというので同様に起訴される。
・起訴された大内、森戸が、一審では無罪であったのが、検事の控訴で、有罪という判決が出て、森戸が三月の禁錮、罰金70円、大内が一月の禁錮、罰金20円で執行猶予になる。
・1920年1月半ば、上杉教授の息のかかった、東大の右翼団体、興国同志会が森戸事件に関する報告会を催し、論文が国体に反すると検察当局に告発したのが、この団体だとわかる。
・一人の学生が壇上に駆け上がり、報告会を、この団体の責任を問う学生大会に切り替えるという動議を提出する。
・興国同志会の一人の学生が、泣きながら自分の非を認める。
・学生大会は、引き続き、教授会が辞職をやむ得ないものとした態度をどう考えるかという議題を取り上げる。
・蝋山政道や鈴木義男が立って、教授会の軟弱な態度を非難し、学生たちは興奮して、「経済学部教授会の責任を問う」という決議案を学生大会で採決しょうということになる。
・しかし、いよいよ採決に入る段になると、学生の中に慎重な者がでてきて、そのまま押し切れば「責任を問う」に決まったのに、翌日に持ち越すことになる。
・翌日は、前日の興奮はもはやおさまって、教授会の責任を問うというかわりに、反省を促すということになる。
・実行委員が選ばれて、決議文を山川総長のところへもっていくが、“バカッ”とどなられ、何の反省もない。

 学生の興奮が冷めるというのは有沢にとってよくないことなのですね。
 大内が「森戸論文は不穏当と思った」、「自分は国家主義の方面からの社会改良論者である事を明かにして置く」と申し立てたことなど、どこにも書かれておらず、したがって、学生の出した「吾人は学問の独立を期す」という宣言についても言及がありません。
 これを読んでいると、有沢の「手口」というものがだんだんわかってきて、気分が悪くなります。
 要するに、自分たちの悪行をかくすために、矛先を他に向けるというやり方で、これが、大内グループのお家芸だったことも確認できます。
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猪間驥一と森戸事件の真実C

 森戸事件について、猪間が触れているのは、1952年に『統計』に書いた次の一節があるのみです(1957年、『人生の渡し場』に収録)。しかも、これは、河合栄治郎が東大に赴任することになった経緯を説明するための導入として語られたものでした。
 大正8年(1919年)9月経済学部の発足と共に、私たちは東大に入学したのだが、その翌年早々に、日本の社会思想史上に残る、いわゆる森戸事件が起こった。経済学部がその研究発表機関として華々しく発刊した雑誌「経済学研究」第一号に載せられた森戸辰男助教授(現広島大学長)の論文「クロポトキンの社会思想」が当局の忌憚に触れて、森戸先生は起訴、休職となり、裁判の結果ついに下獄され、外国留学の途に就かれるばかりになっていた矢先に、東大教授としての前途を失われたのである。
 したがって、もちろん、自分が何を行ったかなどどこにも書いてありません。
 ただ、『人生の渡し場』を上梓した翌年、「わたくしの東京(11)本郷の思い出」(『中央評論』1958年1月号)を書いていますが、その中に、猪間の意思が示されている(と私が感じた)部分がありますので、そこを取り上げておきたいと思います。
 猪間は、自分や同世代の者たちには、東大を母校と思う意識が希薄であるとした上で、東大のマスプロ教育と東京商大のゼミナール教育の優劣を問う際、次のように述べています。
 日本の学校には、学校騒動というものが多い。大ていの大学その他の学校で、教授と学生と先輩とが混みになっての紛擾を、その歴史に持たないものはないと云っていい。教授間の対立がこれの原因になるのも多いし、全部が一緒になって、例えば文部省に当るというようなものも少なくない。最初はいずれ(も)学内のゴタゴタなのだが、それが先輩の介入を見て、ストライキとか学校閉鎖とかいう点にまであおられるというケースが多く見られるのだ。
 ところが、東大にはこういう事暦が全然ない。もちろん、学生運動が過激にわたって、新聞紙面をにぎわすようなことはしばしばあるが、これはいわゆる学校騒動とは意味が違う。教授の軋轢がひどくて、学部が鼎の軽重を問われるというような事は、事実あったしそれはまったくここでいう学校騒動の一種に違いない。しかし、その際には、学生は傍観者になって、騒ぎにまき込まれることはない。先輩に至っては、タッチしようという者は決して出て来ない。よく云えば冷静だが、悪く云えば冷淡で、学校の運命などというものに何らかの関心を払わないのである。その冷淡さはチョッとほかの学校に見られない。
 最初のパラグラフに上げられた学園騒動の例は、東京商科大学のもので、1931年の籠城事件と1935年の白票事件を指していることは明らかです。とくに白票事件は、猪間が背広ゼミナールに参加して人口問題研究を進めている頃に起こり、上田貞次郎も巻き込まれたので、猪間は身近にあってこれを見ていたことになります。
 つまり、多くの点において、東京商大のゼミナール教育は、東大のマスプロ教育より優れているが、距離のある師弟関係、先輩後輩関係によって、学園騒動に巻き込まれないで済むという点では、マスプロ教育のほうがよいというのです。
 猪間は、東大のマスプロ教育が、森戸事件を騒動にいたらしめるのを防いだと考えていたのだと思います。
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2015年07月12日

猪間驥一と森戸事件の真実B

 森戸辰男の『思想の遍歴(上):クロポトキン事件前後』を読めば読むほど、森戸への疑問がわいてきますので、ほんとうはここまで範囲を広げたくないのですが、思いきって書いておきます。
 私が一番ひっかかっているのは、森戸が、猪間たちの出した決議について、「もう一つ高い次元で」などといっておきながら、自分たち、つまり助教授のレベルでは、決議も宣言も出してないということです。
 森戸は、教授会に助教授が出席できないことに文句をいっています。
 それなら、そのことを含め決議を出したらよかったのではないでしょうか。
 当時、助教授は、土方成美、舞出長五郎、糸井靖之、大内兵衛、森戸辰男の5人で、土方は留学中でも、舞出は留学の直前であれば、出発を少し延ばせたかもしれません。
 残りは、糸井、大内、森戸の3人で、糸井は、そうでなくとも大学に嫌気がさして辞めようとしていたわけです(止められて残りますが、やっぱり嫌気がさして、すぐに留学してしまいます)。
 大内は関係者ですから、彼を説得して3人の連名で、「学問の独立」をうたい、「吾人は経済学部教授会の責任を問う」という決議を出せばよかったのです。この時代、学生が動くより、助教授が声明を出すほうが、よほど社会に与えるインパクトは強かったはずです。
 ところが、森戸は、“大学に戻りたい”大内を説得できなかったのです。
 もちろん、自分が大内に対しては「加害者」の立場にあるという負い目もあったと思います。でも、それなら、学生たちの間には、「被害者」を増やしてもかまわないというのでしょうか。ここで騒動を大きくしたら、退学処分を受ける学生も出たかもしれないのです。
 ダメだったのは教授会ではなく(少なくとも渡辺鉄蔵と森荘三郎は「学問の自由」では動いている)、助教授だったということではないでしょうか。
 大内が、日和らずに、これを「学問の独立」をまもる闘いと位置づけ、師としての模範を示していれば、弟子たちが後に、猪間の東大追放など、汚い事件に手を染めることもなかったかもしれません。
 森戸のいい方であれば、次元が高い運動を組まなければならなかったのは、まず森戸と大内だったのではないでしょうか。
 これまで、とくに大原社会問題研究所の関係者の方々など、この森戸の著書を読むチャンスが多かったものと思われますが、その中の誰一人として、森戸や大内の態度に疑問を感じなかったのでしょうか。
 そうだったとすれば、それこそ、日本のアカデミズムの驚愕の事実ではないでしょうか。
 いずれにしても、こうした保身に走る人たちの中にあって、自分たちの意思を、民主主義のルールにのっとって表明した、猪間たちの見識の高さを改めて思います。
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