2015年09月02日

森田優三と大内兵衛グループ

 森田優三が、水谷一雄、中山伊知郎とともに、1931年に設立された日本統計学会の発起人であり、この計画は、彼ら3人が有沢広巳宅を訪問して、「大いにやりましょう」と盛り上がったところから動き出したことは、前々回、書いています。
 森田は、このとき有沢の知己を得たことから、1940年頃、秋丸機関で経済戦力研究グループに属し、太平洋戦争中、中央物価統制協力会議で、戦時家計調査や闇物価の調査の仕事を手伝い、終戦直後は、1946年の日本統計研究所の設立にかかわり、統計制度改善に関する委員会に参加し、1947年の内閣統計局長就任(大内からの要請による)へとつながっていくものと思われます。
 ただこの中で気になるのが、石橋湛山との関係です。森田は次のように書いています。
 物価統制協力会議の仕事を手伝っていたおかげで、戦時中の闇物価の実情にもいくらか接近することができた。その部内限りの報告書を問うよう経済新報社の石橋湛山社長にみせたら石橋氏がそれを『東洋経済新報』に発表してしまったので、文句を言って石橋氏から詫び証文を取ったこともある。もちろん戦争中のことで後の石橋総理もまだ在野の人、どちらかといえば当事は当局からにらまれている人であった。
 詳細はわかりませんが、森田は湛山にあまりいい印象をもっていなかったようです(ここ以外には湛山の名前は出てきません)。
 その一方で気になるのが、森田の理想とする師弟関係についてのものです。
 高野先生と大内先生
 昭和18年8月27日といえば、太平洋戦争も一転して、南方ではガダルカナル島をすでに撤収し、北方ではアッツ島の守備隊全員玉砕の報が伝えられて、銃後一般の国民もようやく戦局の前途に不安を感じはじめていた頃である。(……)連絡線のうす暗くむし暑い畳敷きの船室の一隅に、大内先生は恩師の高野岩三郎先生に寄り添うようにして座っておられたのである。(……)その年の8月28日から30日まで、日本統計学会の戦時中の最後の年会が、小樽高等商業学校の主催で小樽で開かれたのであって、それに出席される先生たちの北海道旅行であった。(……)何よりも強く印象に残っているのは、(……)狭い船室の中で、初老の孝行息子とも思えるような親身な態度で高野先生にかしずいておられた大内先生の姿である。
 大内先生が恩師の高野先生にどのように徹底した孝養を尽くされたかは周知のことであるが、この師弟関係のこまやかさは、高野・大内一系の確固たる伝統といってよい。(……)戦前の1938年の秋、チェコの首都プラハでの国際統計会議に高野先生が日本代表として出席されたとき、(……)たまたまその頃、まだ若き日の大原総一郎氏が婦人を同伴してヨーロッパを漫遊しておられ、ちょうどプラハで偶然先生と出逢われたのである。先生は先生が総一郎氏の厳父の大原孫三郎翁からうけられた知遇を私に事細かに語られて、総一郎氏との異郷での邂逅をことのほか喜ばれた様子であった。(……)総一郎夫妻を愛児のように優しく見守っておられる高野先生の眼なざしに、私は後年青函連絡船の中でかしずいておられたときの大内先生の眼なざしにみた同じ親愛の情を羨ましく感じとったことであった。
 高野・大内量先生の間に流れていた師弟間の親愛は、大内先生から愛弟子の美濃部前東京都知事に受け継がれている。1949年というとまだ戦後日本の被占領時代である。大内先生は当時政府の統計委員会の会長をしておられたが、占領軍司令部のはからいで、委員会の事務局長だった美濃部君と、統計局長をしていた私とを連れて、スイスのベルンで開かれた国際統計会議に出席された。(……)美濃部君と話し合われるときの先生はいかにも楽しそうであった。そして美濃部君もまた嬉しそうだった。羨しく思ったのはそうしたときの二人の意気が一分のすきもないほど投合して感じられたことである。大内先生が愛弟子の美濃部都知事にどのように大きな期待を寄せておられたかは、知事選挙のときから美濃部都知事の在任中を通じての先生の支援振りによってもよく知られているとおりであるが、美濃部君もまたそれに敗けないくらい恩師大内先生に対して献身的であった。
 大内グループって、こんな感じだったんですね。
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2015年08月31日

猪間驥一と日本統計学会2

 猪間驥一は、日本統計学会における最後の仕事、そして1942年、満州に新京商工会議所へ常務理事として赴任する前の日本での最後の仕事として、次のことを行っています。
 学会の事業として最後にもう一つ、官立統計図書館設立の政府建議の件を書き落としてはならない。日本の戦時色は昭和10年代から次第に濃厚になり、それと同時に統計資料の公表も国家機密という理由で制限されるようになった。たとえば昭和15年の国政調査結果は簡単な概要数字の一部分を除いては一般に公表されなかったし、唯一の官庁統計集である『帝国統計年鑑』も昭和15年度は印刷はされたが「極秘」と銘打って一般には頒布されず、16年以降は編集すら中止されてしまった。(……)
 高野岩三郎先生はこのことを心配されたのである。戦時下一般の公表をひかえるのは防諜上やむを得ないかも知れない。しかし国家的見地から必要な場合には、有資格者には利用させねばならない。一歩譲って部外者には公開できないとしても後日のために保存の方法を講じることは最小限度必要である。これが高野先生の御意見であった。そして昭和16年4月(太平洋戦争の開戦前である)慶応大学での第11回総会の席で、官立統計図書館設立の建議を熱心に提議されたのである。総会はこの提案を満場一致で採択し、直ちに左記のとおり実行委員を指名した。
 高野岩三郎 藤本孝太郎 汐見三郎 猪間驥一 森田優三
 委員会は同年4月から6月に至る間5回に亘って会合を重ね、決議文の起草を終って6月17日、森田を除く4名の委員は打ち揃って総理官邸、法制局、企画院を歴訪し、内閣総理大臣、内閣書記官長、法制局長官、企画院総裁宛に建議文を提出し、るる陳情した。この建議文は高野先生(実際には大内兵衛先生)が起草され、委員の合意によって若干の加筆を行ったものである。統計の資料センターあるいはデータバンクの構想は現在もまったく別の発想から存在していることは周知のとおりである。発想はまったく別であるが、時代の環境と相対的に考えるとその意図に相通じるものがある。高野先生の統計学者としての学問的情熱と時代にさきがけた炯眼に改めて敬意を表したい。この建議が戦争の遂行に狂奔していた軍国政府の一顧もするとこころとならなかったことはやむを得ない。
 何と猪間は、官立統計図書館設立の建議の実行委員の一人だったのですね。 
 実は、『猪間驥一評伝』の猪間の6人の師の内の高野岩三郎のところに次のように書いたのですが、それが、このことだったんですね(自分で腑に落ちるというのもヘンですが)。
 ところで、高野は第二次世界大戦の直前、「政治上、学術研究上、常にアップ・ツー・デートな参考資料を提供する」ことを旨とした、一大統計図書館の設立を建議している。この建議書を作るために、謄写版を刷ったり、袋とじをしたり、挙句の果ては、総理官邸まで高野のお供をしたのが猪間だった。間もなく戦争となって、この計画はうやむやになってしまうが、戦後になって、国立国会図書館の創設、あるいは内閣統計局図書室の付設として、日の目を見ている。
 高野もそうですが、猪間も図書館の大切さがよくわかっている人で、東京市政調査会の資料室の整備を手がけた体験から、1928年4月、『経済研究』第5巻第2号に「経済研究室の設備と作業に就て」を発表しているくらいです。
 こうしたことも猪間の業績に加えなければなりませんね。

 実は、森田の大内・有沢評、石橋湛山評で気になっているところもあるのですが、またの機会に書くことにします。
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猪間驥一と日本統計学会1

 「社会統計学・論文ARCHIVES(人生という森の探索)」というサイトで、森田優三『統計遍歴私記』(日本評論社、1980年)が紹介されており、そこに猪間驥一の名前が出ていたので、さっそく読んでみました。
 日本統計学会における猪間驥一の活躍ぶりがよくわかりますので、ここに書き写しておきます。
 1931年に日本統計学会が設立される前、森田の目に、猪間はどのように映っていたのか。
 東京帝大では高野先生の退任後、統計学講座は空席のまま、そしてその後任に予定されていた糸井先生は留学中に客死ということで、記録によると大正14年8月21日付で有沢広巳助教授が統計学講座担任に決定しているが、有沢助教授は統計学の講座を開講することなく、その年の暮に独逸留学に旅立ち、統計学の講義は従来に引き続き竹下清松先生が講師として担当しておられた。東京帝大からはその頃有沢助教授のほかに猪間驥一氏と中川友長氏が若き統計学者として巣立っていたが、猪間氏は経済学部の助手から後に市政調査会に転出され、中川氏も内閣統計局に入ってしまわれた。
 森田は、東京商科大学を1925年に卒業しているので、有沢による猪間の東大追放事件のことはまったく知らないようで、猪間が助手のまま東大を辞めて、東京市政調査会に入ったと思っていることがわかります。
 物価指数論でも当時の花形はやはり、蜷川、郡の両氏であった。(……)歴史の古い人口統計学の論文の数は必ずしも多くはなかったが、その中で岡崎文規氏と猪間驥一氏の研究が注目された。猪間氏はまたその頃から統計図表のエキスパートとしてユニークな存在であった。
 専門家の間では、猪間はとても評価されていたんですね。
 統計学会を創ろうという話がいつ頃どういうふうに始まったかは、いまほとんど記憶にないが、最初にそれを言い出した人は神戸商大の水谷一雄だったと思う。(……)先輩格の中山氏を中心に、水谷氏と私の3人の間で学会組織がほしいということを話し合ったのは、昭和5年の国際統計会議後いくらも経たない頃だったと思う。そしてこのことについての私のはっきりとした記憶は、中山伊知郎氏と同道で東京帝大の有沢広巳氏を笹塚の私宅に訪問したことからはじまっている。(……)中山、水谷と私の3人はみな一ツ橋出身だが、東大や京大の人たちにも動いてもらわないとということでこの訪問となったのである。
 したがって、東大を追放されていた猪間は、1931年1月の関西・関東で開かれた協議会のいずれにも参加しておらず、日本統計学会創立趣意書の発起人(13名)には、猪間の名前はありません。
 猪間が登場するのは、1931年4月の創立総会からです。こあたりのことは、2015年5月2日の「猪間驥一の写真を見たい方へ」等に少し書いていますが、36人の出席者の中に猪間の名前があり、記念写真の中に猪間の姿もあります。
 なおこの時の総会の決定事項で一つ書き落としてならないことは、統計学の学術用語の統一について調査に着手する計画を立てたことである。これは多分猪間驥一氏あたりの提案ではなかったかと思う。事実この仕事はその後同氏が中心になって進められた。そして調査委員として猪間氏の外に水谷、森田の二人が指名された。
 このあたりのことにもふれていると思いますが、ただ私自身、訳語の統一の大切さはよくわかりますが、先進的な猪間の一提案であって、これほど会員の総意に基づいた試みであったとは思っていませんでした。
 日本統計学会の推進力の中心は当時の若い統計学者たちであって、発起人13名中の9名、すなわち3分の2は当時まだ30歳代の若さであった。(……)
 この第2回総会での報告者の顔振れとその題目は、当時もっとも活発に活動していた若い学者たちがどのような問題にとり組んでいたかを示して(いた)。
 ちなみに、1932年4月に開かれた総会の、報告者の一番バッターが猪間であり、その演題は「価格の年次的統計と物価水準の推移を簡単に示すべき通俗的図表法に就いて」でした。
 東京では講演会を開いても入りが悪いので、第4回(昭和9年)のとき(……)JOAK(現在のNHK)にわたりをつけて講演会の代わりに講演を放送することになった。(……)第1回目の講師は上田貞次郎先生にお願いしたが、先生も恐らく最初の放送ではなかったろうか。私といっしょに愛宕山にお伴をしていった猪間驥一氏が放送室に入られる先生を見送って思わず「先生もさすがに緊張しておられる」と洩らしたのを今もはっきり記憶している。
 このエピソードも、どこかに書いているのではないかと思いますが、このとき猪間は、すでに上田の背広ゼミナールに参加していました。
 敗戦に至るまでの10余年間、日本統計学会の会合の場で日本の統計学がどのような歩みを進めてきたか。(……)資料の大部分は年報の中に残されており、(……)ここでは会員個別の研究以外で学会が学会としてやって来た仕事のいくつかを回顧しておこう。(……)
 その第一は(……)統計学用語統一のための調査委員会の活動である。この委員会は昭和6年の創立総会当時の決議で際遺書「統計学学用外国語訳語調査委員会」といういささか冗長な名称で設けられ、猪間驥一氏を委員長として水谷一雄氏と私の3名が委員に委嘱され、後に「統計学用語統一調査委員会」と改めて、厚東常照、田村市郎、中川友長の3氏が委員として追加され、最後の報告書は昭和12年発行の第6年報の付録として提出されている。上記のように6名の委員が委嘱されたがだいぶ文の仕事は委員長の猪間氏の苦心によるものであって、その成果についてはいろいろの見方はあろうが、とにかくいちおうまとめをつけることができたのはひとえにこのような根気のいる仕事に独特の才能をもっておられた猪間氏の努力のおかげであった。
  日本の統計学への貢献ですね。この『年報』は、近代デジタルライブラリーでも読むことができます。
 猪間驥一氏は統計用語の調査委員としてだけでなく、多方面に亘って学会の中枢メンバーとして活躍されていたが、戦争の後半、満州国の新京商工会議所の常務理事として赴任され、同地で敗戦を迎えて苦労された。帰還後は長く中央大学で統計学を講義しておられたが、戦後の統計学会に顔を出される機会は多くなかった。

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2015年08月22日

河合栄治郎クーデター事件

 猪間驥一の東大追放事件から1年余り後に起った「河合栄治郎のクーデター」、このことについてはすでに書いているのですが、正確さに欠けるところがあったので、あらためて整理しておきます。
 1922年11月、河合がイギリス留学へ出発してから、1925年に帰国するまでに起った、いくつかの出来事を確認しておくと、
 ◎1923年9月、関東大震災が起こる。10月、大内兵衛、帰国。河合には焼け落ちた図書館を復旧すべく、ヨーロッパで蔵書購入の命が下る。11月、糸井靖之の病状が悪化し、河合が見舞う。糸井はその後、もち直す。
 ◎1924年4月、猪間が講師に就任し、6月、有沢広巳と大森義太郎が、助手からいきなり助教授に就任する。このうち、有沢に関しては大内の推薦によることが確認されている。
 ◎同年12月、糸井が亡くなる。シュンペーター獲得の命をになってドイツに来ていた河合が、その後処理を行う。年末に有沢による猪間東大追放事件が起る。

 1925年8月初め、河合が、イギリス留学を終えて帰国します。
 8月19日、大森が来て、大学内部のことを話します。
 11月19日、だいぶ時間がたっていますが、河合は、山崎覚次郎を訪ね、「パルタイ」(大内兵衛らマルクス主義者のグループ)の動きを知らされます。このとき、猪間追放事件の真相を知ったという可能性もあります。
 11月30日、大森と有沢と午餐をともにしたとあるので、このとき何か聞き出そうとしたのかもしれません。
 12月12日、猪間が、河合を訪ねますが、これはその日に予定された、再び留学する川崎芳熊の送別会に誘うためだったかもしれません。

 そして、明けて1926年3月2日、そのクーデターは起こります。
 『河合栄治郎日記』と『東京大学経済学部五十年史』からその経緯を追うと、この日の教授会で、河合が、「(大内が)研究室主任として重要な人事を矢作先生と一緒になって独断専行したということ」で攻撃し、大内は任期なかばにして研究室主任を辞めさせられることになり、代って渡辺鉄蔵が、新しくできあがった研究室に主任として「乗り込む」ことになったことがわかります。河合が、「渡辺さんということに異論はないが、余り早く定め過ぎはしまいか、延期するようにしたいものと思う」と考えていたこともわかります。
 ここでいう「重要な人事」というのが、大森と有沢の助教授就任を指していることはもちろんですが、ここにはさらに重要なものとして、猪間の東大追放が含まれていたことが推察できます。
 日記には、「教授会を終えてから、土方(成美)と二人で安田講堂を巡り、それから上野の森を夕方暗くなるまで話をした。話題は多岐に亙ったが、頭に残るのは助教授の中に大したものがいないこと、グルッぺが大失敗をやったこと、これから主なる潮流を作って置かなくてはならないこと、それに僕を推したことなどであった。(……)唯物史観、暴力革命反対の運動を大学内に於て起こすことに付いては非常に共鳴したようである。彼は大学新聞に反感を持っているようである。11時近くまで更に神田を歩いて別れた。随分話をした。ともかく今日の話でグルッペの気勢は挫かれた。これからは我々の方がどう結束するかということである。と同時にこの傾向に対して僕が如何なる腹で進むかが、いよいよ決定されねばならぬ時に来た」とあり、河合と土方が意気投合して、新たな動きを作っていこうとしていたことがわかります。
 つまり、「パルタイ」とも「グルッペ」とも呼ばれる、大内グループの企みに一矢報いたということができると思います。

 1927年、渡辺は東大を辞めますが、その後も、大内グループの動きをチェックするために通いつづけました。
 1928年3月の三・一五事件(治安維持法違反容疑により社会主義者、共産主義者が一斉検挙された)を受けて、4月17日、東大評議会において、左派学生グループ「新人会」の解散が決定され、このとき大森義太郎の進退問題も協議されますが、大森は先手を打って辞表を提出します。
 おそらく、この頃までに、渡辺鉄蔵は商工会議所の所長に就任し、東大から手を引いたと思われます。

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2015年07月29日

湛山の荒木大将インタビュー

 「湛山の高橋蔵相インタビュー」、「湛山の町田商相インタビュー」ときて、一年近く過ぎて、今回、「湛山の荒木大将インタビュー」です。
 1935年5月13日、荒木貞夫陸軍大将「荒木大将国策縦談」(→『東洋経済新報』6月1日号)
 なぜ、この記事を取り上げたのかというと、高橋財政期の、湛山の軍事費に対する考え方がもっともわかりやすく説明されているように思えるからです。
 日本の生産力は今の軍費でマキシマムか
 石橋 理論的に私はこう思うのです。日本の財政が膨張したと云いますけれども、例えば英国とか米国とかいうような国に比すれば、国民一人当りの支出にしても、元の10円1ポンドで勘定しても英国に比すれば5分の1位でしょう。今の為替で比較すれば10分の1にもなる。そこに元来無理があると思うのです。軍備が多すぎるんじゃない、財政全体の支出が小さ過ぎるんだから、そこで世界にお付合をするのには足りない。随て軍費以外の必要の経費が大変乏しくなる。斯ういう事であるから、どうしてもこれは財政全体をモット膨張し得るように、それだけに国民の経済力が殖えるようにしなければならぬ。これが大方針だと自分では思って居るのですが、併しそれは急にそこまで伸び得ない。そこで国民の経済力を養って英米等と等しく財政支出を負担し得るのには順序を経、時を与えなければならぬ。随てその間は出来るだけ軍事に使う部分を経済力を伸ばす方へ持って行く以外にはないだろう、斯う思って居るのです。(大意)
 湛山は反軍国主義者で、軍事費の増大には反対していると思われがちですが、高橋財政期、彼は軍事費の削減をしないよう高橋蔵相に提言し続けているのです。不況というものがそれほど怖いものであるという認識があったわけですね(ところが、政友会の爆弾動議で、高橋蔵相が弱気になって、削減するとかいいはじめ、軍部の怒りを買ってしまったということだと思います)。
 ところが、これに対する荒木大将の返答はというと、「私は会議に於て高橋さん(蔵相)に言った。国策がそうと決れば竹槍三百万本を持ても国防の任に当ります」というものだったのですね。
 湛山は、軍事費は削減すべきでないといい、荒木は、軍事費がなくとも、いざとなれば竹槍三百万本で勝てるといい、世間話を交えながらのおだやかな会談でありながら、両者の主張は平行線のままなのです。
 このインタビューの中で、荒木は数回、「竹槍三百万本」ということばをもちだしています。
 武器がなくとも戦えるという精神主義こそ、湛山がもっとも恐れているものであることが、行間からも読み取れます。そのためかどうかわかりませんが、湛山はこの後も、荒木大将に面会を続けるのです。
 1934年12月19日、荒木貞夫大将と会談。
 1935年5月13日、荒木貞夫大将と会談。
 1937年12月3日、荒木貞夫大将を訪問し話し合う。
 1941年7月7日、荒木貞夫大将を訪問。防諜問題について意見交換。

 どこかで読んだと思っていたのですが、湛山は、『大陸東洋経済』1944年7月15日号「東京だより」に「遊撃戦と竹槍三百本論」を書いているのですね(ただし、このタイトルは、『石橋湛山全集』への収録に際してつけられたもの)。
 満州事変が起って間もない頃、当時陸相であった荒木大将が、竹槍三百万本論なるものを唱えたことがあった。之は世間から稍や誤解を受けた説であった。私は近頃其頼まれもせぬ弁明を折々行っているのだが、竹槍三百万本さえあれば、他の武器は無用だと云うのではない。只だ万已むを得ざれば、竹槍でも戦争は出来る。其の場合には損害は甚だ大きいが、之れを忍ぶ意力が国民にありさえすれば、戦争にはそれでも勝てると大将は説いたのである。而して大将の言に依れば、此の説は決して独断ではなく、大将が参謀本部に努めていた折、或想定の下に部内で戦術の研究を行った際得た結論であると云う。飛行機其の他の異常に発達した今日の戦争に於ては、或は状況は違うかも知れぬ。併し国民が何処までも戦意を喪わず頑張ることが戦勝の最大の条件で武器の如きは寧ろ二の次ぎだと、云うことは、確かに荒木大将の説の通りと考える。竹槍三百万本論は此の意味に於て、私は近頃特に含蓄深く感ずるのである。(こちらはそのまま)
 これは、いろいろな読み方ができると思いますが、上述の会談の内容を踏まえると、私にはこれが、荒木大将や参謀本部にいる人々への呼びかけに思えてきます。
 「あのとき、自分はまさか日本がこんなことになる(負けいくさをやる)とは思っていませんでしたが、あなたがおっしゃったように、竹槍三百万本が必要な事態になりましたね。」
 言外には、「日本がおろかな戦争を始めたために…」という気持ちがこめられていたと思います。
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2015年07月28日

転向していた、鈴木武雄4

 鈴木武雄は、このインタビューの中で、「現在の関心事」として、次のようなものをあげています。
 一つはいまの「戦後財政史」ですね。これは、頼まれたときには「現代日本財政史」と同じ時期のことを、今度は大蔵省の正史として編さんするというんですから、断るわけにはいかなくて引き受けたわけです。これがそうおろそかにはできない一つの仕事だと思っています。
 つまり、1973年ですから、今まさに『昭和財政史――終戦から講和まで――』の編さんが始まろうとしていたわけですね。『現代日本財政史』を下敷きにしようとしていたこともこれからわかります。
 それから例の「現代日本財政史」、最初、上、中、下の一、下の二というのが増版で第一巻から第四巻ということ。そのときに、これはあと五巻、六巻と続いてもいいんでそういうふうに改めたんだというのが東大出版会の話で、続きを何巻になっても、元気で限り書き続けようという気になりました。そういうことで増版本の第四巻の巻末には、もう第五巻の目次みたいなものも出ているわけなんですが、これをどうしてもやりたいと思っているんです。気持ちとしては、なんとか少なくとも国債発行が再開されるところまでは二冊か三冊になるでしょうが。
 『現代日本財政史』のほうも、下敷きにするだけでなく、さらにこれから続きを書こうというわけだったのですね。二つを同時進行させようという欲張りな計画、しかも、それだけではなくて…。
 そのほかにもう一つ、これは前から約束していて、まだ果たせない文債なんですけれども、今度は通貨論を書くことになっているんです。(……)
 ものすごいバイタリティですね。現在、以前書いた、鈴木の大陸前進兵站基地構想に関する論文を書き直しているところですが、個人的には、これでだいぶ鈴木の印象が変わりました。
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転向していた、鈴木武雄3

 鈴木武雄が「転向していた」といっておいて、いまさらですが、鈴木自身は、そこまで思ってなかったようでした。
 念のためと思って、1973年の『エコノミスト』を調べてみたら、『鈴木武雄――経済学の五十年』(1980年)では見落としていた(というより、石橋湛山や高橋亀吉との関係でしか、鈴木に興味をもっていなかったので、読み飛ばしてしまっていました)情報がいくつも出てきました。
 「転向説」については、次のようにいっています。
 マルクス経済学を若いときから勉強しまして、基本的には、ことに貨幣論ではいまだに私はマルクスの立場を捨てていないつもりなんですけれども、いろんな点でかなりマルクス経済学といわれるものから離れている点もありまして、近経は、私は必ずしも専門に勉強したわけじゃないんですけれども、ちょっとそれにちかいようなところもあります。
 マネタリー・サイドを重視する立場については、「大内先生の影響が相当あった」といい、「財政学の中心は租税論だ」とする考え方にも、「長い間の大内先生の影響によるところも大いにあります」と語っています。
 ただ、それでも、大内グループと距離を置くようになったことは、こうしたいい方からも間違いないでしょうね。
 あとは有沢広巳が湛山の公職追放に絡んでいたことを鈴木が知っていたかどうかですが、1949年頃書き始めたという『現代日本財政史』について、書いていた頃は、大蔵省の内幕的なものは、何もわからなかったといっているくらいですから、あるいはまったく知らなかったということも考えられます。
 『現代日本財政史』と『昭和財政史――終戦から講和まで――』の編纂との関係もいろいろわかってきたので、それは次回書きます。
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2015年07月25日

石橋湛山の世界開放主義その後4

 『日本経済年報』第28輯の第8章「佐藤外交と対支経済使節」の最後の部分、これをプリントアウトしたものを、すぐに使えるように文字起こしまでしていたのに、その重要性に気づいていませんでした。
 経済使節団の来支により幣制改革以来凍結していた在支邦商銀行の手持現銀引渡につき児玉団長と中央銀行席徳懋氏との間に円満な話合いが出来、各銀行も夫々本店と打合せた上当地の手持銀を全部中央銀行へ引渡すこととなり、本日(3月31日)から受渡しが開始された。引渡しの条件は、外国銀行がなした際と同様で、全額の3分の2に対し年6分の利息を2ヶ年間つけ、交換収受する紙幣には年1歩の利息を2ヶ年間支払うという華商発券銀行の例に準じた形式によっている。これは実質的に銀貨1元に対し約6分のプレミアムが付されたことを意味している。引渡される邦商銀行の手持銀内容は銀元並にミント・バーで総額930余万元であり、漢口、汕頭、厦門、廣束、北支等の在銀には触れていない。
 つまり、1937年3月31日の時点で、すでに対支経済使節団派遣の効果が現れていたということです。
 ここで、もう一つ確認できるのは、この記事を書いた記者(名前は特定できませんが、「佐藤外交」の名付け親でもあり、『東洋経済新報』の「佐藤外交」に関する一連の記事を書いています)が、この記事を書き終えたのが、3月31日、しかしその後、6月3日、佐藤外相が辞任したので、急遽、以下の冒頭の部分を付け加え、6月25日の発表に間に合わせたということになりますね(ちなみに、『日本経済年報』は東洋経済新報社発行の季刊誌です)。
 我々が林内閣の佐藤外交に特別の意義を認めてこれを本節に執筆し終えた直後、突如たる政変によって佐藤外相はその職を去り佐藤外交も当然終りになって了った。然しながら過去数代の外交方針と際立って異った、この著るしく国際協調的な「佐藤外交」は、決して氏一人の個人的好みによって生じたものでは無い。(……)
 佐藤外相の就任期間は、3月3日から6月3日までの3ヵ月間。この間、いろんな仕事をしていることには驚かされます。
 ちなみに、佐藤尚武は、1927年のジュネーブ国際経済会議に、志立鉄次郎や上田貞次郎とともに、日本代表として参加しており、1933年の松岡洋右の国際連盟脱退声明の折には、松岡とともに会場を出てきた人です。
 何ヵ月か前のNHKのスペシャル番組で、国際連盟脱退声明を非常に後悔していたという松岡の肉声テープが見つかったことが伝えられ、それはとてもよかったのですが、今度はそれを受けて、「それ以降の外交はことごとく失敗の外交だった」という結論にもっていかれてしまいました。松岡のことがあったのですから、もう少し考えて報道してもらえればと思います。
 国際連盟脱退声明以降の、外交官たちの危機感はすさまじく、芳澤謙吉(外相経験者で、ヨセミテ太平洋会議では団長を務めた)が束ねていたようですが、国際連盟との関係をつなげていくために協力体制で奮闘しているのですね。
 首藤安人の原料品調査委員会での仕事もその一環だったと思うのですが、こういう努力を「ことごとく失敗の外交」と片付けていいものかどうか。

【追記】わかりやすさのため、タイトルを変更させていただきました。
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2015年07月23日

石橋湛山の世界開放主義その後3

 「オッタワ協定の終期と英帝国貿易:世界通商自由回復の気運台頭」という論説があって、何とこれが『東洋経済新報』誌上に発表されるのが、1937年7月3日、つまり日中戦争開始のわずか4日前なのです。
 それでは、この時期、何をもって「世界通商自由回復の気運台頭」といっているのか。
 ここでは、まず、5月から6月にかけて、新聞記者をシャットアウトして開かれた英帝国会議で、「各代表は現存する通商障壁について他国と協力して検討を加える用意がある」とする報告書が出されたことが紹介されます。
 またこの会議と前後して、英米、日英、日米等の通商外交交渉が進められ、過去数年間募りに募った通商障害がようやく緩和の方向に転じつつあること、そして、表面化しないまでも前述の英帝国会議で、2,3の属領地から、オッタワ協定の修正を求める声が出たこと、さらに過日、ベルギーのヴァンゼーランド首相が世界経済会議を斡旋しようとしたことを上げています。
 一方で、英帝国貿易の概況は、次のように分析されています。
1. 英本国全体の貿易は向上し、帝国内貿易も増加したが、帝国内への輸出増加は帝国内からの輸入増加に較べると若干の劣勢にある。
2. 主要属領国も対帝国貿易はその比重を増しており、帝国内貿易の割合の増加は明か。しかしこれは比率上、英帝国内貿易の保護が効を奏したことを示すだけで、英帝国諸邦とその他の諸国との間の貿易は、オッタワ協定によって著しく妨害されてきた。
3. 近年における貿易の増加は世界的な景気回復に基くもので、もしオッタワ協定がなかったら、世界全体としての貿易はもっと遥かに増加したはず。
4. 1932年は世界恐慌のドン底時代であったから、英帝国諸国もこのような協定に甘んじたが、今日では世界景気の様相が著しく変化し、今日なお、英帝国が門戸を閉じていることは、世界の経済発展を妨げるものであり、英帝国にとっても決して利益ではない。
5. とくに原料品生産の多い英帝国属領諸国にとっては、輸入上の障害を取除いて輸出の増進を計る方が、大局的に有利である。オッタワ協定修正の要求が聞かれる理由でもある。
6. 物価指数がすでに1929年に帰ったのに、英国の輸出総額はまだその6割に過ぎないという事態を猛省すべし。
(ナンバリングは、私が適当に行っているものです)

 石橋湛山も、上田貞次郎も、ブロック経済は必ず行きづまると予測していたのですね。
 その兆しが見えはじめたというのに、なぜ、戦争なんか始めてしまったのでしょう。

【追記】内容に即してタイトルを少し変えました。
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2015年07月22日

石橋湛山の世界開放主義その後2

 1933バンフ太平洋会議→1936ヨセミテ太平洋会議・世界開放主義→1937国際連盟原料品問題調査会
 この流れを追うのに、実は、多くの文献をパッチワーク的につなぎ合わせて用いていますので、何かのご参考になればと思い、参考文献として列挙しておきます。
 なお、このうちの大半を近代デジタルライブラリーでご覧いただけます。
【参考文献】
石橋湛山全集編纂委員会編『石橋湛山全集』第15巻、東洋経済新報社、1972年
上田貞次郎『上田貞次郎日記』晩年編、上田貞次郎日記刊行会、1965年
上田正一『上田貞次郎伝』、泰文社、1980年
『東洋経済新報』(東洋経済新報社)1928年〜1937年
『日本経済年報』(東洋経済新報社)1930年〜1939年
『自由通商』(自由通商協会日本連盟)1930年〜1937年
高橋亀吉『経済評論五十年』、投資経済社、1963年
石井修『世界恐慌と日本の「経済外交」―1930〜1936年』、勁草書房、1995年
高橋亀吉『世界資本主義の前途と日本:欧米新経済戦線を探りて』、千倉書房、1934年
全国産業団体聯合会事務局『モーレット氏歓迎午餐会及懇談会記事』、1934年
国際労働局東京支局編『モーレット氏報告書: 国際労働局次長モーレツト氏の日本産業に関する報告書』、1934年
全国産業団体聯合会事務局『第一八回国際労働総会に関する報告』、1934年
フェルナン・モーレット『日本の産業的発展の社会的形相』、国際労働局東京支局、1935年
赤松祐之『昭和十年の国際情勢』、日本国際協会、1936年
赤松祐之『昭和十一年の国際情勢』、日本国際協会、1937年
赤松祐之『昭和十二年の国際情勢』、日本国際協会、1938年
赤松祐之『昭和十三年の国際情勢』、日本国際協会、1939年
横山正幸『国際聯盟の将来と日本との関係』、日本外交協会、1936年
赤松祐之編『国際経済関係現下の容相:国際聯盟経済委員会報告書』、日本国際協会、1936年
高橋亀吉述『日本経済の発展と世界経済再調整問題』、中央朝鮮協会、1937年
日本国際協会太平洋問題調査部編『太平洋問題:第六回太平洋会議報告』、日本国際協会、1937年
外務省情報部編『国際時事解説』、三笠書房、1937年
川島信太郎『対大陸経済関係強化の沿革及其の解決策』、日本外交協会、1938年
外務省通商局訳編『最近原料品取得問題:国際連盟原料品問題調査委員会の報告書』、日本国際協会、1938年
日本銀行調査局編『世界の原料問題』、日本銀行調査局、1940年
神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ【新聞記事文庫】
主なもの:
・『神戸又新日報』1934年6月3日「ソシヤルダンピングに非ず モーレット氏の認識正確」
・『大阪朝日新聞』1937年2月26日「原料資源の再分配連盟委員会で堂々我が公正な要求提唱 コンゴー条約の精神適用を求む きのう訓電を発す」
・『大阪朝日新聞』1937年4月23日「資源の獲得、開発に“自由の三原則”を闡明 聯盟委員会出席の首藤代表に外相、根本方針を授く」

【追記】内容に即してタイトルを少し変えました。
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