2015年11月19日

『経友』から新たな事実2

 最後の第6号のことから先に書きます。
 冒頭に大内兵衛の撮影になる故糸井靖之の写真が掲げられています。1923年8月とありますから、大内が糸井と別れる直前のものだということがわかります。
 『経友』による追悼文の後に、「糸井助教授を悼む」として、ゆかりの人々からのコメント・エッセーが並んでいます。驚いたのは、大内や有沢に混じって、猪間驥一が寄稿していたことです。その文面から、1925年1月後半から2月初めの間に書かれたことが確認できるので、東大を追放された後ということになります。編集責任者が土方成美であったことから(猪間は最終的には土方のゼミに入っていた)、こういうことが可能であったのかもしれません。
 『経友』第6号(1925年3月1日)
 「糸井助教授を悼む」
 糸井君に就て   山崎覚次郎
 嗚呼糸井助教授  河津暹
 糸井君を悼む  矢内原忠雄
 糸井君を憶う  大内兵衛
 糸井さんの綽名 佐々木道雄
 糸井先生と私  有沢広巳
 糸井先生の思出 猪間生
 もう一つ驚いたのは、猪間の「糸井先生の思出」には、猪間が戦後に書いたと思っていた糸井の思い出のすべてがすでにここに書かれていたことでした。つまり、糸井の死から1ヵ月余りの、まだ生々しい記憶が残っている時期に、それらが書かれていたということです。
 『経友』は痛みが激しい資料で、コピーが許されておらず、この文章はすべて手で書き写してきたのですが、大半が今まで紹介してきたエッセーに含まれるものですから、前3分の1(桜の葉っぱの話とか演習で最後まで残った6人が優をもらった話とか)を省略して、同じことでも、ややニュアンスの異なった後の3分の2を写しておきます。
 演習でしょっ中顔を合せた外、「経友」の雑誌委員として、先生と私はいつも一所だった。雑誌の原稿など云うものは、委員がいくら熱心になったって、なかなか誰も書いて呉れるものじゃない。あっちこっち友達に頭を下げて頼み回り、河津先生には、論文と雑録と二つもお願いした。自分も二つ三つ書いた。併し、どうしても頁が足りない。弱っていると、糸井先生、よし俺が引受けてやろうと云って、たった一晩の中に、ポアンカレの「空間の相対性」と云う難しい20頁からの論文を翻訳して来て下さった。喜ぶと共に、私は先生のいろんな「力」に驚かざるを得なかった。雑誌の編集が終った日。――それは、4年前の、丁度今日此の頃だったろう。曇った寒い寒い日だった――先生は「御苦労だったね、今日は慰労に一つ奢ろう、」と云って、青木堂まで私を引張り出して、紅茶を啜りながら、2,3時間もレクられた。それから、学校へ引返して来て、研究室の建物と、図書館との間の、霜に凍えた道をザラザラ何度か往復しながら、なお、語り続けた。そのうちに、私は斯う先生に訊ねた。
 「一体商品学なんて学問になるんですか?」
 その時の先生の答えを、私は今も忘れる事が出来ない。
 「そりゃあ君、一つ一つの商品の性質を調べてなど行ったら、人間業で知り悉せるもんじゃない。ただ、あらゆる商品を欲望の客観化されたもの、と見る時何等かの統一的見地が出来ようかってものさ。而も、その客観化は数量的表現を得るんだからね。ここに於てか、僕は先ず統計学をやったって訳さ。」
 其の後も、「君、人間は劣等感覚を共にする程親しいんだよ、尤も之は僕の説ではないがね」と云っては、幾度か青木堂を奢られ、幾度か食卓に招かれた。その度に話して聞かされる事は、何故人間は腹が減った時腹が立つかとか、何故物価調節問題は貴族院で喧しくて参議院で左程ではないかとか、博打は如何なる原理に立つかとか、とても、外の人からは聞く事の出来ない鋭い観察であった。
 併し、先生に親しく接した期間は、極めて極めて短かかった――ほんとにそれは半年を僅かに越すだけである。演習は10月に始まって。翌年の6月の初めには、先生はもう留学の途上に上られたのだから。
 留学の途に就かれる先生の胸は、どのような学問的野心に満たされていた事であろう。「僕の様な考え方をしてる商品学の研究者も、独逸に一人はいるらしい」と云って居られた、「君等、しっかり勉強しといて呉れ給え。僕、帰って来たら大いにやるよ。今の学会の悪風潮を一掃して呉れるから、なあ、君等その時には片腕になって働いて呉れ。」と我々を顧みられた。
 雄志、遂に伸ぶるの日無く、異域の煙となられた先生を思うと、黙然たらざるを得ない。そして、ただ、その度の楽しかりし記憶の外には、俤を偲ぶるよすがも無いのを悲しく思う。
 東大を追われて間もない、石橋湛山に迎えられ、東洋経済新報社で、新入社員向け統計学講義を行っている傍らで、この文章は書かれたのですね。感慨深いものがあります。
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『経友』から新たな事実1

◆近況のご報告
 先月末、博士論文を書いて提出するところまで行きました(受持ちの先生には提出の方法を教えてもらえないし、事務室では自分たちには教えられないといわれるし、これはこれでたいへんでした)。
 まだこれからどうなるのか皆目見当がつかないのですが、審査の先生が前とは変わり、希望していた先生に外部審査委員として加わっていただけることになって、もうそれだけで猪間驥一の研究をやってきたかいがあったと思っています。
 いつもでしたら、書いたもののチェックなどするのですが(今回も、山室信一の書いた論文に『日本人の海外活動に関する歴史的調査』に言及しているを見つけ、追加できればと思って原稿だけは書きました)、この空いた時間を利用して、猪間が雑誌委員を務めていたという『経友』を見てきたいという思いがむくむくと頭をもたげてきました。そこで――
◆『経友』を見るため東大へ
 ついに、東大経済学部資料室で、猪間驥一の編集になる『経友』の第1号から第6号までを見てきました。私はどこかで、これを「新聞」と書いたと思うのですが、年1回発行の「雑誌」でした。猪間は、2年間、雑誌委員を務め、第2号・第3号の編集をほぼ一人で担っています。
 【初期の『経友』の発行日】
 創刊号:1920年5月25日(責任者:河津暹)
 第2号:1921年2月8日(責任者:糸井靖之)…猪間
 第3号:1921年12月17日(責任者:本位田祥男)…猪間
 第4号:1923年2月15日(責任者:本位田祥男)
 第5号:1924年3月25日(責任者:土方成美)
 第6号:1925年3月1日(責任者:土方成美)
 この雑誌から驚くべき事実がいろいろ判明しました。その一つが第6号の「糸井助教授を悼む」に、大内兵衛や有沢広巳に混じって、東大を追放された猪間が寄稿していたことです。そしてもう一つが、有沢がどのような口実でもって猪間を東大から追放したのか、ほぼ特定できたことです。これから何回かにわたってそれを書いていきます。
◆東京帝大経済学部の学科課程
 書類上では、次のように書かれています。
 1919年度:
 秋学期:9月11日〜1月31日
 春学期:2月1日〜7月10日
 1920年度以降:
 夏学期:4月1日〜10月15日
 冬学期:10月16日〜翌年3月31日
 しかし猪間の学年は実際には次のようになっていたことが確認できました。つまり2学年は1年を半年に短縮して調整していたのですね。
 1学年(1919年9月〜1920年7月)
 2学年(1920年9月〜1921年3月)
 3学年(1921年4月〜1922年3月)
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2015年10月16日

「果して帝国主義戦争か」

 石橋湛山が、日本が国際連盟からの脱退を声明した直後する直前に書いた「社説」に、びっくりさせられるものがありました。「果して帝国主義戦争か」(1933年3月4日号)というのがそれです。
 日支紛争、それから引続いての我国と国際連盟との衝突が、社会的に或は歴史的に、我国に取って何を意味するかを考究し、確(し)かと之を理解することは、単に理論家の遊戯としてでなく、此際我国民が此問題を処理する実行の上に最も肝要な用意である。
 之に就て予てから一の鋭き評論を試みつつあるは左翼理論家の一群であろう。彼等は一般に此事件を、彼等の所謂帝国主義戦争と見るのである。然るに私の察する所に依れば、此事件を所謂帝国主義戦争なりと解する者は、必ずしも左翼理論家ばかりではない。政治家、資本家、企業家、乃至一般大衆の多くも、亦無批判的に同様に考えている観がある。何となれば彼等は、此事件を甚だ単純に、日清日露戦役以来の我国の大陸政策の引続きに過ぎずと解釈し、そこに何等の特異性を認めぬからである。果して此事件が左様に単純の性質のものであれば、私は寧ろ其処理の容易なるを楽観する。併し事実は果して何うか。
 云う所の帝国主義とは、左翼理論家が経典の一とせるレーニンの著『資本主義の最後の段階としての帝国主義』に依れば、五個の重要なる特徴を持っている。即ち(……)
 ここで湛山は、帝国主義の五つの特徴について解説し日本がそれに当てはまらないといっているのですが、長くなるので省略します。
 此事件は、単に連盟を脱退し、熱河を討伐し、満州国を建設する等の事で終るものでないことは明かだ。真の問題は、斯様の国外の事にあるのではなくして、国内に存するのである。国内の政治を改め、経済制度を変える。而して所謂王道国家なる抽象的名称に依って表示せらるる理想を、満州国にでなく、我国内に於て実現する。之が前年以来の事件の底を流るる漠然たれども、強烈なる希望ないし思想である。而して思うに此の希望に相当満足が与えらるる見込みのつかぬ限り、現に発展しつつある事件も容易に片付かず、或は一応片付いた所が、真の安定は得られないであろう。私はここに我時局は帝国主義戦争の現れと見る場合以上の困難を伴っていると考えるのである。
 さて然らば何うしたら善いか。難局ではあるが処理の方法は無くはない。一言にすれば、国内の政治及経済に改造を施す事である。それは過激な論者の主張するごとき急進的なるを必ずしも要せぬ。今日政界及経済界等に支配的位地を占むる者が、時潮に省み、改造の決心を固め、秩序的に為し得る所から実行に着手するの誠意あらば、解決は寧ろ意外に容易なるを感ずる。
 「西洋文明模倣から独創時代への波瀾」(1934年7月8日号)では、明治維新以来の日本経済を以下のように時代区分しています。
 第一期 明治初年より日露戦役まで:西洋文明輸入に依る産業革命時代
 第二期 日露戦役より昭和6年まで:西洋文明模倣から独創時代に入らんとする煩悶時代
 第三期 昭和7年以後:金輸出再禁止を契機として展開せる独創時代
 日本は、リフレーション政策によって危機を脱しただけでなく、いよいよ独創時代に突入したというのです。
 それは、どのようなイメージかというと、戦後になって書いた「私の見た大河内博士の功績:いわゆる科学主義工業の主張」に端的に示されています(すでに2年前にも引用していますが)。
 昭和6年12月内閣が更迭し、高橋是清大蔵大臣の下に金の輸出再禁止が行われるや、我国の産業界は俄然活況を呈した。ことに多年半死半生の有様にあった重化学工業界は、目ざましき発展を示した。同時に卓越せる産業指導者がくつわをならべて現れた。その中でも、いわゆる理研コンツェルンの総帥とし華々しく登場した大河内博士は、日本窒素の野口遊、昭和電工の森矗昶、日本産業の鮎川義介の三氏と合せて、私はこれを産業界の四傑と称し、特に推奨したしだいであった。(……)その四氏が時を同じくしてそれぞれの分野に活躍した有様はおそらくわが産業界空前の偉観であったと思う。
 十五年戦争ということばを安易に使っている人たちには、湛山のこの主張をかみしめてほしいです。
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2015年10月08日

「医学の仮想博物館」より

 以前、搾乳器について書いたときに参照した「Musée virtuel de la Médecine(医学の仮想博物館)」ですが、Instruments médicaux utilisés en Médecine(医学で使用される医療機器)というところに、トラウベについて、また吸引分娩用の吸引器と鉗子分娩用の鉗子について、興味深い写真とコメントがありましたので、ご紹介したいと思います。
◆「トラウベについて追加B」
 Stéthoscopes obstétricaaux (pièces de musée) …産科聴診器
 Stéthoscope obstétrical de Pinard (toujours utilisé)…ピナール産科聴診器(今日も使用)
 前者の項には、19世紀に用いられたトラウベを集めた写真があって、一般的な(つまり日本でトラウベと呼ばれるピナール型でない)聴診器が、産科聴診器として分類されていることから、児心音の聴取に常用されていたことがわかります(ピナール型が誕生したのはフランスなので、ピナール型一色とも思われたのですが)。最終月経から18週ないし20週以降の心音を聴取していたこともわかります。
 後者には、初期のピナール型聴診器の写真があり、これがアルミ製だったことがわかります。音がどんな風に響くものか一度聞いてみたいと思いました。
 (なお、トラウベについては何度も書いてきましたので、タイトルをこのようにしました)
◆吸引分娩用機器
 Ventouse obstétricale (産科吸引器):
 Ventouse de James Young SIMPSON ; modèle historique de 1848.
 (ジェームズ・シンプソンの産科吸引器:1848年の「歴史的モデル」)
 鉗子が相当古い時代から存在したことは想像がつきますが、吸引器は電気の使用が一般的になってからだとばかり私は思っていました。でも真空ポンプの原理を応用すれば、電気は要らないのですね。他のサイトで確認して、柔らかいゴム製だということがわかったのですが、1848年(つまりフランス二月革命の年)にこれが存在していたというのは驚きですね。ただし、この吸引器は、鉗子に押されて一般化するにはいたらず、1950年代に、スウェーデンのTage Malmstroが、今日の産科吸引器を発明するまで、ほとんど空白期となっています。なお、ジェームズ・シンプソンは英エディンバラ大学教授。
◆鉗子分娩用機器
 Forceps (鉗子):
 Historique du forceps (Tarnier - Budin ; 1901) (鉗子の歴史)
 Mains de fer de Palfyn (「パルフィン(パルファン)の鉄の手」:1720年)
 Forceps de Dubois(デュボアの鉗子:19世紀)
 Forceps de Pajot(パジョーの鉗子:19世紀)
 Forceps de Suzor(ズゾーの鉗子:1899年)
 Forceps Tarnier (version ancienne de 1877)(タルニエの鉗子:1877年)
 このうちの「鉗子の歴史」を見ると、その発明者を中心に、第1期:Levret(1600-1747)、第2期:Levretから Tarnier まで(1747-1877)、第3期:1877年から現在までの3期に分けて考えられていることがわかります(ひどく雑な読み方をしていますので、間違っている可能性があります。直接、ご確認いただければと思います)。
 第1期(1600-1747):
 この1600年というのは何か具体的な年号をあらわしているのではなく、発明されたのがこのころということだと思います。Rueffという人がすでに1554年に産科鉗子を着想していたのですが、産科鉗子の真の発明者というべきは、その長男のPeter Chamberlen(1560-1631)で、1600年頃にこれを発明し、Peterの甥のHugh Chamberlenが1670年、パリで使用したのが実施の始まりということのようです。
 1720年、Palfynが「鉄の手」を発明しますが、写真を見るとわかるのですが、二つの鉄の手が平行に固定されているので、接合部がダメージを受けやすかったので、1747年、Levretによって改良、つまり二つの手がかみ合わさる平行でないものに戻されます。
 第2期(1747-1877):
 その後、改良が加えられた様々な鉗子が登場し、1877年に、画期的なタルニエの鉗子が誕生し(これが、パリコミューンの少し後)、基本的にはこのモデルのものが今日まで使われ続けたということのようです(とはいっても21世紀になって使われた例は多くないはずです)。
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2015年09月18日

猪間追放「後」の派閥抗争

 大内は、『経済学五十年』(東京大学出版会、1960年)で、東大経済学部の草創期を振り返り、学内対立が起ったのは経済学部独立から10年たった頃であるとして、次のような主張を展開しています。
 後年の学内対立
 ぼくははじめそういうことに気づかなかったが、これより10年の後、すなわち三・一五事件のころから東大内で左右両派の対立がクライマックスに達し、それがまた久しく世間の問題になり非難の的ともなったとき、そのことに気づいた。今となって、こういう対立の歴史を否定することはできぬが、その対立は自由主義とファシズムという二つの色彩において分類すべきであって、マルクス主義と資本主義とに分類すべきではない。すなわち、われわれはマルクス主義の研究を許容する少数派であり、河合君たちはそれを排斥する多数派であった。そして後者が学内の支配者グループであった。
 大内は、自らを自由主義者と名乗り、河合はファシストだというのですね。
 有沢の「わが思い出の記:森戸事件のあとさき(三)」(『エコノミスト』1956年4月21日号)にも、厚顔としかいいようのないことが書かれています。
 糸井先生の演習「もし生きて帰れば」
 それでぼくは糸井先生のことを思いおこすと、もし先生が健在でお帰りになっていたなら、昭和年代の初めの東大経済学部はどうなっていただろうと考えるのです。戦前の人なら、御承知と思いますが、経済学部は昭和のはじめごろから内部対立がひどく激化して、同僚が同僚を裏切る、同僚の追出しをはかるというふうになった。後の矢内原事件とか河合事件とか、またぼくたち教授グループ事件にしても、この内部対立が背景となっているのです。単に軍部ファッショの時代に変ったので、思想上の問題として、これらの事件がおこったのではないのです。外部からの弾圧から同僚を守ろうとするのではなく、かえってそれと手をつないで、同僚を傷つけて追い出そうとするものが同僚の中にいたからです。(……)同僚が同僚を裏ぎるというのは全く深刻な対立なんですね。
 小さな学部内にそんな深刻な対立があったんですから、ほんとにたまったもんじゃない。糸井先生が大正年代の終りに元気に帰朝されていたとしてもこうした対立の激化はどうにもならなかったかもしれません。あるいは、もっと早く対立が爆発していたようにも見えるのです。しかし、その対立の姿はもっとちがったものになっていたといえましょう。対立が内訌してゆくのを、そうはさせない存在となったかもしれないと思うんですね。
 最初に同僚を傷つけて追い出したのは一体誰か、という話ですよね。
 東大の派閥抗争は昭和の初めに激化するという概念を戦後の歴史学に植えつけたのも、実は大内兵衛一派だったということになりますね。
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2015年09月16日

有沢広巳と森戸事件の空白

 有沢広巳「わが思い出の記:森戸事件のあとさき(二)」(『エコノミスト』1956年4月号)を読み直して、改めて気づいたことがありました。
【教授会の責任を問う】
 森戸事件のさなかに、ちょうど大正9年1月半ばころでしたが、当時東大の中に「興国同志会」というのがありました。これはどちらかというと、右翼的な学生のつくった団体ですね。それが“森戸事件”に関する報告会という会を突然催したのです。そこで明らかにされたことは(……)驚いたことに森戸事件を摘発したというか、その論文を国体に反すると告発したのは興国同志会だということだったんです。
 泣いた興国同志会
 この興国同志会というのは、当時上杉慎吉先生の息のかかった団体といわれていた。(……)森戸先生のような論文は、国体を晦渋ならしめるかたいけないということで、それが検察当局に伝えられ、そして検察当局の発動ということになった。(……)そこでこの報告会が終った途端に、一人の学生が壇上にかけ上りましてね、「(……)われわれはこの興国同志会の責任を問うため、ここにただちに、この報告会を学生大会に切り替える」という動議を出したんです。
 するとこれが圧倒的な支持を受けて、(……)興国同志会の連中のやったことを痛烈に非難した。とうとう興国同志会の一人の学生は泣きながら壇上に立って「自分のやったことは間違っていた、この罪亡ぼしに自分は坊主になる」と、いったものです。(……)
 興奮した学生大会
 こうして興国同志会の方はひとまず済んだですが、(……)学生大会はこの経済学部教授会の態度をどう考えるかということを引続いて議題として取り上げることになった。
 まだ学生であった蝋山政道さんや、当時法学部の助手であった鈴木義男さんらが立って、鋭く経済学部教授会の軟弱な態度を非難しました。(……)経済学部の学生も、いくたりも壇上から教授会の不当な決定を攻撃しましたっけ。
 結局落着いたのが「経済学部教授会の責任を問う」という議決案になってこれを学生大会で採決しようということになったのです。(……)
 (……)
 そこでいよいよ採決に入る段になると、学生の中にも慎重なものが出てきて、学生が教授会の責任を問うというのは、少しひど過ぎやせんか、という議論も出て来た。そして夜になっても決らない。とうとうこんどは正式に学生大会を一ぺん開くということで散会になったんです。
 一喝した山川学長
 (……)
 そこで翌日やったわけですが、前日の興奮はもはやおさまっているから、教授会の責任を問うというかわりに、反省を促すということになったんです。そしてその決議文を教授会に提出したんです。むろん、なんの反省もありませんでした。
 (……)
 森戸事件はそういうふうな結末になったけれども、われわれ学生には非常に深刻な影響を与えたということはいえますね。
 興国同志会の報告会というのは、渡辺鉄蔵が乗り込んだものですね(渡辺には触れられていませんが)。1月15日のことでした。
 次の「学生大会」、これが驚くべきことに、16日に開かれた経済学部の学生大会ではなく、17日に開かれた法学部の学生大会を指しているのですね。法学部の学生大会には、有沢も書いているように経済学部の学生も参加してはいましたが、有沢自身は、経済学部の学生だったわけですからね。
 森戸も、大内も、有沢も、消したいものは何でも消してしまうんですね。
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2015年09月10日

“10日間限り”の森戸事件

 森戸事件に関する新聞記事ですが、猪間驥一にスポットライトを当てて、時系列に並べると、実に興味深い事実が浮かび上がってきました。今書いている論文に収録するためにまとめてみましたので、ご覧いただければと思います(今回の内容は、前回、前々回の記事に重複するものであることはあらかじめご了承ください)。

 この時期の一般紙には、猪間の名前が散見される。実は、森戸事件において、彼は大きな役割を果たしていたのである。
 事件は、1月1日、森戸のクロポトキン論文を掲載した東大経済学部の機関誌『経済学研究』創刊号が店頭に並んだことから始まる。上杉慎吉教授の影響下にあった東大右派学生の団体、興国同志会は、これを無政府共産主義を宣伝するものとして、南文部次官や山川総長に陳情して、森戸の排斥運動を行った。
 1月10日付で、森戸が休職を命じられる。休職決定前の教授会では、「学問の自由」のために極力反対を唱えた森荘三郎、渡辺鉄蔵ら若手教授もいた。
 1月14日、森戸と編輯人の大内兵衛助教授が東京地方裁判所検事局から起訴される。翌日、大内は辞表を提出する。
 1月15日、渡辺は、森とともに、皇国同志会の「森戸問題報告会」の会場に乗り込んで、「同志会の諸君は何故に経済学部教授に諮らずして自ら大学の自由を失うの処置に出でたか、諸君は教授会議を侮辱している、学生として相当の処分があるべき」と訴える。
 1月16日、経済学部の学生団体、経友会が学生大会を開き、猪間・東ら学生委員が提出した「吾人は学問の独立を期す」という宣言と、「経済学部教授会および総長の反省を促す」という決議案が満場一致で可決される。これを教授会に提出するため、猪間・東を含む実行委員10名が選出される。
 1月17日、法学部でも学生大会が開かれるが、左派学生団体、新人会から提出された、「吾人は経済学部教授会の責任を問う」という問責を含む決議案に異論が出て紛糾する。採決の結果、原案支持が多数に及ぶが、僅差であったため異議が起り、19日に協議を続行することになった。
 1月19日、法学部の第2回学生大会が開かれ、原案「吾人は経済学部教授会の責任を問う」と修正案「教授会の反省を促す」とをめぐって争われたが、採決の結果、一転して修正派が勝利する。「ここに経済学部と同一態度になった訳である。」敗れた新人会系の急進論者は、散会後、対策の協議に入る。渡辺は、こうした動きを警戒して、「学生の容喙を許さぬ」と論難する。
 同日、猪間ら経友会の実行委員10名は、決議案を山川総長、金井部長に提出したが、何らの回答がえられなかった。多くの学生はこれを握りつぶしと見ており、委員内の硬派学生は第2回学生大会に向けて会合を開いた。これを見て、法学部新人会の学生は、京大の新人会と呼応してあくまでも初志を貫徹しようとする。
 1月23日、新聞に、文部省が、世論の紛糾を気づかい、大内の辞表は握りつぶして、目下、形勢を見守っているという、すっぱ抜き記事が掲載される。気づかっているのは、「帝大経済学部法学部の学生及一部教授連を中心とし学問の独立を叫んで総長以下の反省を促すの外、実行委員を挙げて或種の運動に着手し(ている)」、つまり猪間たちの動きであった。
 1月24日、経済学部委員10名と法学部委員15名は協議会を開き、森戸問題に関する運動をひとまず打ち切りとすることを決めた。また学生間で主張されていた上杉教授排斥問題についてはこれを現在の委員の権限外のものとして散会した。文部省による大内の辞表の握りつぶしを、一定程度の運動の成果と見なしたためと推察される。
 教授会による、森戸の休職決定を受けて、宣言・決議案を準備してから、活動を停止するまで、わずか10日余り。こうした事件を、政争の具として長く引きずるのではなく、必要があれば直ちに動き、必要がなくなれば打ち切りとする。それが、猪間が考えていた運動の形態であった。
 ところが森戸は、経友会の決議はほとんど無視し、法学部の新人会が推していた「教授会の責任を問う」という決議案が、「反省を促す」に変ったことを、東大内の学生運動の「早くも一歩後退の兆し」あるいは、「足踏み状態」と位置づけるのである 。
 森戸事件のもう一人の当事者、大内について、猪間のエッセーには言及がない。実は、書きようがなかったのではないかと推察される。
 大内は、「森戸氏の書いたクロポトキン研究という論文は、自分も不穏当とは思った」、「自分は国家主義の方面からの社会改良論者である事を明かにして置く」と釈明して罰金刑のみとなった。しかも、本人は仕事を失ったことを強調するが、森戸によれば、「公判がはじまって2週間経つか経たぬうちに、事件落着後の森戸・大内の身のふり方に関する動きが出てき(て)」、大内については、「本人の希望もあって、大学復帰が進められていました」とある。別のところには、「できるだけ早い機会に東大に復帰する可能性を残す、という条件のもとで、東大を一応辞職することになりました」とあって 、本気でこの公判に臨もうとしていたのかどうかさえ疑わしくなる。

 猪間は最初から猪間であり、大内は最初から大内であったことを確認して、感慨深いものがあります。
 なお、法学部の新人会には、蝋山政道、平野義太郎がおり、学生大会では強硬派でがんばっていたことを付け加えておきます。

【追記】
 17日の学生大会では、原案136:修正案133。19日の学生大会では、原案49:修正案56。法学部の学生は、大学院生を合わせて1,690名いたのに、何か投票者が少ないですね。しかも19日の投票者は半数以下に減るのですね。他学部の学生や京大新人会からの応援が大勢いたということですね。経済学部の学生大会では、大半の学生が出席していたことを考えると(新聞には500名とあるもの370名余りとあるものがあるが、大学院生を合わせて464名のうちこれだけが参加)、この差は気になります(在籍者数は『東京帝国大学一覧』による)。
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2015年09月07日

森戸事件と大内兵衛の欺瞞2

 ところが、左派の学生団体、新人会が動き始めて様相が変わってきます。
 一たびこの事件が起るや、一般ジャーナリズム、特に新聞は実にやかましくなってきた。また雑誌『我等』は火蓋を切ってこの問題を扱い、森戸君を休職にするという経済学部教授会の決定が間違いであること、また森戸君の論文は、何ら暴力革命を論じているものでないと痛烈に弁護した。けれどもその論調があまりきびしかったので、渡辺鉄蔵、森荘三郎の諸君は、最初はわれわれを支持しようと思っていたらしいが、びっくりして退却した。そんなことで学生運動も分裂した。
 1月17日、経済学部に引きつづき、法学部でも学生大会が開かれ、以下の宣言及び決議案を掲げる。
 宣言:吾人は大学の独立を得、学問の自由を確保し大学本来の使命を完うせん事を期す
 決議案:1.吾人は経済学部教授会の責任を問う、2.吾人は法学部教授会が本大会の態度に賛成せられん事を希望す、3.吾人は興国同志会の行動を不当と認め其反省を促す
 この第2条、第3条については満場一致で決議されたが、第1条議案に対し異論が出たため、採決の結果、原案支持が多数に及んだが、採決に対して異議が起り、19日に協議を続行することになった(大正日日新聞1920.1.18)(大阪朝日新聞1920.1.18)(東京日日新聞1920.1.19)。
 渡辺鉄蔵はこれに対して、「教授会の態度が大学の独立、学問の自由を破壊するとは実にけしからんことをいう。穏便一点張りと見るのも間違っている。われわれは行政官のいうなりになったのではなく、自らの意見に従って断行したのである。我々の決議の正当なることは確信して疑わない。教授会に助教授を出世喫せずに独断的に行ったのは官僚的だ?助教授を出席させるかどうかについて学生たちに口を挟む権利はない」と論難した(国民新聞1920.1.19)。
 一方、同じ黎明会の吉野作造は、「大学内の運動であればどんな運動をしても異存はない。総長なり教授の態度にあきたらぬ点があれば辞職を勧告するも問責するもそれを容認するか否かは各自の自由意志であるからだ」と語っており、新人会側の主張に肩入れしていることがわかる(大正日日新聞1920.1.19)。
 1月19日、法学部の第2回学生大会が開かれ、前会未決の決議案、原案「吾人は経済学部教授会の責任を問う」か、修正案「教授会の反省を促す」か、経済学部教授会に対する態度を決定する、記名投票で採決が行われた。その結果、原案賛成49名、修正案賛成56名で、修正派の勝利、つまり法学部も経済学部と同じ態度を選択したわけである(時事新報1920.1.21)。採決に負けた急進論者は、散会後、会合して対策の協議に入った(大正日日新聞1920.1.20)。
 大内は、『我等』の論調があまりにきびしかったから、渡辺や森が支持を取りやめたと書いていますが、これはもっとはっきり、1月17日に開かれた法学部の学生大会で、教授会を問責するようになった新人会系の動きを憂慮してのものと思われます。
 大内は「学生運動の分裂」といういい方をしていますが、これはもちろん皇国同志会と新人会の分裂ではなく、経友会と新人会の分裂ですね。
 1月19日、猪間ら実行委員10名は、「決議案を山川総長、金井部長に提出したが未だ何等の回答が無い。学生の多数は握り潰しと観測しているが、その場合は当然、第2学生大会を開かなければならぬので、20日、委員内の硬派学生会合があった。この有様を見て法学部新人会の学生は遥に京大の新人会と呼応してあくまでも初志を貫徹せんとししきりに機運の醸成に努めている」(大正日日新聞1920.1.21)。
 なお、1月24日、経済学部委員10名と法学部委員15名は協議会を開き、森戸問題に関する運動をひとまず打ち切りとすることを決めた。また学生間で主張されていた上杉教授排斥問題についてはこれを現在の委員の権限外のものとして散会した(大正日日新聞1920.1.25)。
 こうした猪間たちや渡辺の動きを、森戸が批判するのならともかく、まったく言及していないことも、私には異様に思えてなりません。歴史のもみ消しとでもいうのでしょうか。
 森戸が書いていることを、もう一度確認しておきたいと思います。
 森戸助教授休職問題をきっかけに急速な盛り上りをみせた東大内部の学生運動が、前述の法学部学生大会の経過からもうかがわれるように、早くも一歩後退の兆しを示したのは、運動の自然発生性そのものに伴う弱さということのほかに、教授や大学当局からの陰陽さまざまの工作があったからです。「森戸を守れ」という要求を越えて大学の改革・学問の独立・研究の自由の確保というもう一つ高い次元で運動を組み直すには、経験も展望もあまりに不足していた当時の学生運動は、この時点でいったん足踏み状態とならざるを得ません。
 大内は「学生運動の分裂」といい、森戸は「学生運動の後退」というのです。新人会の敗北とはいわずに。

【お詫びと訂正】
 渡辺鉄蔵の、1月15日興国同志会「森戸問題報告会」における発言については、新聞記事が収録されていました。斜線にて訂正しています。
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森戸事件と大内兵衛の欺瞞1

 前回取り上げた大内兵衛の3冊の本のうち、『私の履歴書』には森戸事件の概要がまとめられており、これを当時の新聞記事と照合すると、大内のごまかしがはっきり見えてきます。
 それでいよいよ森戸君と僕は起訴されたんだ。罪名は出版法による朝憲紊乱。それから問題がやかましくなって、新聞は毎日々々この事件を大々的に報道する。また学内の弾圧反対の学生運動も活発に展開された。向坂逸郎君とか中西寅雄君とかが、経友会の委員で、また政治科の方では『学問の自由・危機を守れ』というスローガンで学内に演説会がもたれた。その演説会には、今日では右翼になっている渡辺鉄蔵君なんかも、森荘三郎君たちと一緒になって学生をアジった。司法省が大学に入ってくるのに屈してはならんというので、非常に学生は熱狂した。しかし、学生の中にはやはり上杉派(七生会)の人も出て、これに対抗した。もちろん新人会の方が活発であり、学生の人気もこの方に集まったが、反対派もまた演説会なんかやって気勢をあげた。
 このあたりの経過を、新聞記事からまとめると次のようになります。
 事件の起こりは。1920年1月1日発行の東大経済学部機関誌『経済学研究』創刊号に、森戸辰男が「クロポトキンの社会思想研究」を発表したのが原因で、この雑誌が東京市内各書店に出まわるや、東大右派学生で組織された興国同志会は、この論文を無政府共産主義を宣伝するものとして、南文部次官や山川総長に陳情して、森戸の排斥運動を続けていた(大阪朝日新聞1920.1.14)。
 1月10日付で、森戸助教授が休職を命じられる。休職決定前の教授会では、山川総長、山崎覚次郎、金井延ら長老派が勢力をもち、「学問の自由」のために極力反対を唱えた森荘三郎、渡辺鉄蔵の少壮派は、少数のため敗れている(大正日日新聞1920.1.14)。
 1月14日、森戸が大内とともに東京地方裁判所検事局から起訴される。大内は、1月15日、辞表を提出する(読売新聞1920.1.15)。
 1月15日、渡辺は、皇国同志会の「森戸問題報告会」の会場に乗り込んで、「同志会の諸君は何故に経済学部教授に諮らずして自ら大学の自由を失うの処置に出でたか、諸君は教授会議を侮辱している、学生として相当の処分があるべき」と訴える。このとき、深く反省した同志会員の一人が、「自ら処決します」と会場を出ていく(東京日日新聞1920.1.17)。
 1月16日、経友会は、経済学部学生大会を開催。猪間・東ら学生委員が提出した「吾人は学問の独立を期す」という宣言を朗読し、決議案「経済学部教授会及び総長の反省を促す」について提案理由を説明し、中には「宣言決議手ぬるし」として「教授会の問責」「宣言の実行」を叫ぶ者もあったが、けっきょく満場一致で通過。実行委員10名(東・佐々木・大山・倉橋・中村・諸井・高橋・猪間・粟屋・井上)を投票にて選定し、17日改めて協議を開き、今後の方針を定めることとした。森戸問題には一切触れず、今後は専ら学問の独立を掲げて邁進する方針である(東京日日新聞1920.1.16)(大正日日新聞1920.1.17)(大阪朝日新聞1920.1.17)(大阪毎日新聞1920.1.17)(中外商業新報1920.1.17)(時事新報1920.1.18)。
 1月16日に開かれた教授会では渡辺鉄蔵、吉野作造両教授はじめ新進の教授たちが山川総長や当局の処置を、テーブルをたたいて憤慨した(大阪朝日新聞1920.1.17)。
 渡辺のことを、これまで私はおさえきれていなかったのですが、教授会の中でも、渡辺や森は、「学問の自由」を訴えていたのですね。
 そして、これは以前にも書いたことですが、1月16日、森戸と大内が起訴されたのを受けて、すばやく準備会をもち、学生大会を開いて、宣言と決議を発表したのが、猪間たち経友会の学生委員だったというわけです。
 経友会は、東京帝大経済学部のすべての学生が参加する団体であるので、右派(皇国同志会)や左派(新人会)の学生もいるわけですが、ここで取り上げる新聞記事に登場する委員や発言があった学生の中に、「向坂逸郎君とか中西寅雄君とか」の名前は見つけることはできません(それにしても有沢・大森はこのときどうしていたのでしょう)。
 新人会の人気も、次回書きますが、上杉派には勝っていたかもしれませんが、経友会の中では負けていたわけです。

【お詫びと訂正】
 1月14日に開かれたという学生大会は、1月16日のものとまったく同じものでした。学生大会が2回開かれたと勘違いしていたのですが、1月14日は、1月16日学生大会の開催告知とあらかじめ宣言・決議案を記した掲示が出されたというだけでした(これを出したのが猪間と東)。句読点がなく読み誤ってしまいました。申し訳ありません。
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2015年09月05日

大内兵衛と糸井靖之の死

 ずっと気になっていた大内兵衛と糸井靖之の関係ですが、次の3冊を読んで、新たにわかったことがありました。
 ◆大内兵衛『旧師旧友』(岩波書店、1948年)
 ◆大内兵衛『私の履歴書』(黄土社書店、1951年)
 ◆大内兵衛『経済学五十年』(東京大学出版会、1960年)
 『旧師旧友』に収録された大内の「彼のこと――糸井君を憶う――」は、『経友』1924年12月24日号に掲載されたもの(おそらく糸井の追悼号だったのでしょう)。おわかりいただけるでしょうか、糸井が12月13日に亡くなった直後に書かれたものです。
 東京帝大経済学部の機関誌『経済学論集』第3巻第3号も、糸井の遺影が掲げられた追悼号ともなっています。発行の日付はなぜか見当たらないのですが、猪間驥一がここに発表した論文にそえられた擱筆の日付が12月18日となっていることから、『経友』と『経済学論集』はほぼ同時に出版されたと考えられます。
 彼のこと――糸井君を憶う――
 とうとう彼も死んだと聞いて、私は胸がせまるのを覚えた。無論一年余も病褥にあり、度々危篤が伝えられたことであるから、私もよくよくあきらめてはいたが『死』と聞いてはさすがに胸がせまるのを覚えざるを得なかった。(……)
 彼はハイデルベルクの病院で病との戦を一年余つづけて遂にその病気に勝つことが出来ず、とうとう死んでしまった。彼の病気はことの外悪性で彼はそのために苦しみぬいたとは、彼を看護する人から来る手紙によく見えたが、この苦しみにもかかわらず、而して青年32才ほんとに雄志をいだいて空しく異郷に逝かざるを得なかった悲運にかかわらず、彼は、自分の薄き運命を冷眼に見て晏如(あんじょ)として死んで行ったことであろう。彼は思い切りのいい男で、もう早くから自己の運命をよく知っていた。そしていろいろの後事を人に託して来たが、それはすべてあっさりとしたものであって、泣言一句をも言わす女々しい言葉一句をも吐かなかった。如何に彼と雖もはげしい肉体の苦しみには歯をくいしばったであろうが、世にも不幸なる運命に対しては彼のみは大胆に率直にそれに直面し得て、平然として大往生をとげたのであろうと私は信じている。
 思い返して見ると、もうかれこれ6年前である。私が役人をやめて大学の研究室に来たとき、(……)どことなくお坊ちゃん育ちのような男がいた。(……)
 その年の暮、吾々の間に一大事件――森戸事件が起った。吾国の思想界の闘争史の中に大きく印されている出来事であった。この事件に際して、始めて私は彼の真骨頂を見たのである。彼は本来この事件には何の関係もなかった。従ってこの際如何ようにもこの問題を回避する余地は彼には残されていたのであり、現に、彼の同僚の賢明な人々はそういう態度をとったのであるが、この事件が拡大して彼をして沈黙を許さざるに至ったとき、彼は如何に力強く見事に自己の態度を決し、その態度を鮮明にしたことであったか。(……)
 私がハイデルベルクでのさばっていたとき、彼はパリのシュミアン先生のところで演習をやっていた。毎週のように手紙をやりとりしても彼は中々にハイデルベルクへ来ようとはいわなかった。それだのに1922年4月私がイタリーの旅から帰って来ると、彼はもうハイデルに来ていて、顔を見るなり彼は『ハイデル見物はもうすんだ、早速本を読もう』と云った。(……)その後彼と一緒にドイツ国内を歩きまわった。(……)
 その年の秋、私は彼とポーランド、チェコ・スロバキヤ、オーストリア、ハンガリーへの一ヶ月間余りの旅をした。(……)
 私がロンドンへ去ってから、彼は4月にパリへ来いと云って来た。パリへ来れば俺がパリを案内してやると云って来た。(……)そこで私もパリへ行った。(……)しばらく同宿してパリを見て歩いた。(……)その内にまた二人でフランスの田舎の旅に出た。(……)この旅も約20日。彼は私一人パリに残して置いて、(……)ハイデルベルクに去った。(……)
 私は(……)ロンドンに帰った。その後暫くしてから、彼から『一寸病気をやったが、もう多分いいだろう』という意の手紙を受けとった。私は多少不安をもったが、そのままにして日本へ帰って来た。帰って見るともう彼が危篤だとの電報が来ていた。(……)私はなぜ今一度ロンドンから彼を見に行ってやらなかったか、今になってそれが残念でたまらない。(……)
 まずおさえておかなければならないのは、大内と糸井の親密さです。
 森戸事件の翌年、大内は、森戸辰男とともにドイツへ飛び立ち、糸井はフランスへ飛び立ちます。『私の履歴書』には、1923年、糸井がハイデルベルクへ移って来てから二人ですごした日々のことが記されていますが、二人は議論に明け暮れ、ドイツをまわり、1ヵ月間のヨーロッパ旅行にも出ているのです。さらに1923年初め、大内がロンドンに渡ってからも、糸井から呼び出しがかかり、フランス旅行を楽しんでいるのです。
 私が問題にしようとしているのは、これだけ親密に過ごした二人の「その後」です。
 『経済学五十年』(1960年)には、大内が糸井とともに過ごした年月が次のように端的に記されています。
 糸井君はその後大正11年フランスに留学し、大正12年ハイデルベルグに留学し、ここでぼくと旧交を温めた。不幸にして彼は大正13年、ここで客死した。(……)大正8年から大正13年までの間、ぼくはこの男と一番親しくし、とくに勉強を一緒にやった。
 大正11年というのは10年の間違いで、大正12年というのは11年の間違いです。これらは単なる思い違いかもしれませんが、「大正8年から大正13年までの間」といういい方には、恣意的なものを感じます。というのは、大内は、1923年(大正12年)の7月末から1年余り、糸井とは、まったくの没交渉だったからです。
 7月末、大内はフランスを去り、アメリカに渡り、9月の関東大震災で、そのまま日本に帰国します。一方の糸井は、この年の11月、最初の危篤が伝えられ、その後も何度か危篤が伝えられながら、1年余りを生き延びて、1924年12月13日、その生涯を閉じるのです。
 この間、大内は東大内での地歩固めに汲々としていて、糸井のお見舞いや、亡くなった後の遺族への挨拶、入院費用の支払い等は、河合栄治郎が一手に引き受けたわけです。
 ベルリンには、向坂逸郎などがいたはずですが、大内は、彼らに声をかけて、糸井を見舞わせることさえしていません。糸井はマルクス主義者でもなく、自分にとってすでに無用の人物と見なしていたのでしょうか。
 苦しんでいたのに、「平然として大往生をとげたのであろう」などといえる神経が私には理解できません。
posted by wada at 12:11 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする