2016年03月26日

指導教官が求めたこと@

【2012年4月26日】
 私が最初に博士論文の草案を提出したときの返信メールです。このときはまだ、指導教授がマルクス主義的歴史観のもち主であることに気づいていませんでした。
和田様

ざっと拝見しましたが、以下のような点を明確化する方向で修正された方がよいと存じます。

・石橋湛山の「小日本主義」はある程度までは戦前の日本において実現していたことを明確に主張し、できるだけその根拠をあげて傍証する。
・にもかかわらず湛山の構想はいったん挫折するわけであるが、それが必ずしも必然ではないことの論証を目指す。
・それだけのことであれば既に多くの先行業績があるので、猪間(や上田)の仕事を湛山構想の一定程度の実現の証拠として、また特に猪間の戦後の報告書をその検証作業として読む、ということで研究史への貢献とする。
・湛山の半植民地主義はいったんは挫折し、湛山自身はその後消極的抵抗に入るが、高橋亀吉や猪間はあえてアジア主義にコミットすることで、「よりましな植民地帝国」を目指したことを明確化する。またそれはどの程度有効であり得たかも検証する。この際猪間の戦後の報告書は主要な資料となると期待される。

 湛山を主軸に据えるのはいいのですが、やはり猪間を活躍させないと、あまり目新しい仕事には見えなくなってしまいますので、湛山と猪間の関係についてはしつこく強調して良いかと思います。

 ここで注目すべきは、この教授がこだわる、「消極的抵抗」と「挫折」(=失敗のプログラム)という、二つのキーワードです。
 「消極的抵抗」とは、松尾尊兌らが「十五年戦争」ということばとセットにして用い始めたもので、満州事変以後、日本は「十五年戦争」に入り、湛山はその「戦時下」において、国家に対して表立った批判はできなかったが、「消極的抵抗」つまり「帝国主義」という怪獣とたった一人対峙しようとしたという文脈で説明しようとするものです。
 「挫折」とは、湛山の「小日本主義」の挫折をいうもので、優れた思想であったが、けっきょく戦争を防ぎきれなかったから「失敗のプログラム」であったとするものです。
 「消極的抵抗」が現実を反映したものでないことはすでに述べていますが(高橋財政期に「戦時下の抵抗」という枠組みに収めるべき湛山の評論が見つからない)、この教授の場合は、リフレ派も名乗らなければならないので、矛盾がさらに深刻化します。どのようなことになるかというと…。
 金解禁論争で湛山らの新平価金解禁の主張を支持するのは、問題ないですね。
 浜口内閣が成立して井上蔵相が行った旧平価金解禁や緊縮財政に批判的な立場を取るのも問題ないのですが、その不景気のさなか、1931年9月に満州事変が起こってしまいます。
 「十五年戦争」というのは満州事変開始以降の時期を指すので、ここから湛山は「消極的抵抗」に入らなければなりません。
 ところがその3ヵ月後に犬養内閣が成立し、高橋是清が湛山らの提言を採用して新平価金解禁・金本位制停止を実施します(湛山は、何と「消極的抵抗」を行いながら、政府にリフレーション政策を提案していたわけです!)。
 そして、高橋財政期を通して「消極的抵抗」を続けているはずの湛山が、リフレーション政策を展開する高橋蔵相をブレーンとして背後で支えていたのです(それも、「軍事費を縮小すべきでない」という提言を行って)。
 それが「失敗のプログラム」であるのなら、リフレーション政策の提言自体が間違っていたことになるのではないでしょうか。
 大内兵衛は、昭和財政史を失敗の歴史と規定し、その結末として太平洋戦争があったと結論づけ、その責任を高橋財政に帰していますが、これが奇しくも「失敗のプログラム」という考え方に符合するわけです。高橋財政開始の直後、湛山のこの政策提言に異議を唱え、暗殺される直前の井上準之助と手を組んで、湛山の追い落としを図ろうとしていたのが有沢広巳だったことも確認しておくべきだと思います。
 この教授に限らず、「湛山好き」の左翼の人たちってこういう矛盾に気づかないのでしょうか。
 念のため、猪間が、高橋亀吉や鈴木武雄のように、「あえてアジア主義にコミットすることで、「よりましな植民地帝国」を目指した」というような事実はありません。湛山のように、東洋経済新報社の京城支局を設置して『大陸東洋経済』を発刊するようなことさえ行っていないのです。
 当初、猪間と鈴木を取り違えただけかと思い、何度も指摘しているのですが、この教官はずっとこの主張に固執したままです。
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2016年03月25日

ご報告A

3.アカデミック・ハラスメントの報告
 私がこの大学院で指導教官より受けたアカデミック・ハラスメントの報告書をまとめ、大学当局に提出しました。それがどのように起こり、どれほどつらいものであったかを伝えるために、残っていたメールや添付ファイル等を用いて状況の再構築につとめたものです。
 報告書は20数ページに及ぶもので、これを少しずつブログに載せていくことも考えていますが、ここではとりあえず、その中に用いた指導教官の矛盾だらけの「主張」をいくつか公開することにしました。私からの反論も交えています。
 シリーズのタイトルは「指導教官が求めたこと」とします。
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2016年03月18日

ご報告@

 いくつかのことをご報告します。
 1.以下のタイトルで博士論文を提出し、学位をいただきました。
自由主義経済学者、猪間驥一の人口問題研究およびその近代史認識
――1920〜1940年代の考察――

Liberal economist INOMA Kiichi’s Studies on the population problem and his recognition of Japan’s modern history from the 1920s through the 1940s
 (構成・内容等については4月以降にご紹介させていただきます)

 2.以下のタイトルで明治学院大学大学院社会学研究科『社会学専攻紀要』に小論文を書きました。
いかにして日本の農村は自立しうるか?
――石橋湛山と猪間驥一の1930年代地方財政問題への視点――

How can the rural areas in Japan become independent?
-View on the issue of local finance in the 1930s by Tanzan ISHIBASHI and Kiichi INOMA, both economists-
 何かの機会にお目通しいただければ幸甚です。『紀要』論文はご希望の方があれば送らせていただきます。
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2016年03月04日

猪間驥一と国際連盟の関係

 猪間驥一は、国際連盟事務局東京支局の諮問機関、国際連盟経済調査委員会の7人のメンバーの一人だったんですね。
 この3月で研究にひとまず区切りをつけて、日本外交とくに戦前の外交を勉強したいと思っています。そこで例によって、近代デジタルライブラリーを「国際連盟」で検索して眺めていたら、驚いたことに猪間驥一の文字が目に飛び込んできました。
 「国際連盟経済叢書」刊行の辞
 国際的依存性は年と共に一層緊密を加え、如何なる国と雖も、他の国との協力なしにその生活を営むことは益々困難となって来た。殊に経済関係に於てその甚しきを見る。
 国際連盟が世界の経済界に対し過去十二年の間に為した偉大なる寄与はこの方面に於ける国際的依存性の発達を如実に示すものである。
 各国の経済事情乃至その国際関係については今日夥しい数の資料が発表され、又されつつある。而もこの方面に於ける国際連盟の調査書類および統計資料に至っては、広汎、正確、公平なる点に於て決して他の追随を許さず、その権威は今や世界的に認められて来た。日本は連盟の書類を購入することに於て米英に次ぐ地位に在るが、その約八割が経済関係の書類によって占められている事実は、日本に於て連盟の調書が信頼すべき資料として広く用いられていることを証するものではなかろうか。惟うに、若し連盟の刊行物が日本文としても発表されていたならば、更に一層大なる貢献を日本の経済界に与え得たであろう。
 国際連盟事務局東京支局は、ジュネーヴ連盟事務局の日本に於ける出張所として、国際連盟に関する情報の普及に努めているのであるが、連盟の、殊に経済に関する調査及び統計の貴重なる資料が未だ充分に利用されずに残されてあることを遺憾とし、而してその原因の一が原書の外国文たることに在るを知り、夙に主要なる調書の翻訳及び紹介を行っていたが、恰も本年四月国際連盟経済財政部長サー・アーサー・ソルターの来朝あり、同氏の熱心なる賛同の下に「国際連盟経済調査委員会」なるものを、連盟事務局東京支局の諮問機関として設置し、一は連盟の調査及び統計の翻訳紹介に当り、一は連盟本部に対する日本の経済情報の提供に努めることを申合せた。委員会は左の諸氏を中心として組織された。(ABC順)
 荒木光太郎(東京帝国大学教授) 青木節一(国際連盟事務局東京支局主任)
 猪間驥一(東京市政調査会研究員) 猪谷善一(東京商科大学教授) 
 木村孫八郎(『エコノミスト』編集次長) 高木友三郎(法政大学教授) 
 幹事 徳田六郎(国際連盟事務局東京支局長)
 「国際連盟経済叢書」の刊行は国際連盟本部の承認により、財団法人金融研究会の援助の下に、委員会最初の事業として着手されたのであって、各委員は自ら翻訳に当り、連盟事務局東京支局その刊行を為すものである。この計画によって連盟の経済事業及びその結果が日本に普く理解され、延いて国際平和と協力の促進に対し幾何かの寄与を為すことを得ば、吾々望外の幸である。
 昭和六年九月                             国際連盟事務局東京支局
【国際聯盟経済叢書】
第1冊『英米独仏における金移動問題:国際聯盟全委員会に提出せられたる四論文』(1931.10)
第2冊『世界農業恐慌:附・国際農業抵当銀行』(1931.10)
第3冊『世界経済不況の過程並びに様相』(1932.1)
第4冊『手形法国際統一と我商法の改正:改正手形法案の解説』(1932.6)
第6冊『国際聯盟金委員会最終報告書』(1932.10)
第7冊『世界経済概観:1931年至1932年』(1933.8)
第8冊『最近世界貿易概観』(1935.2)
 第8冊だけは刊行の辞がないのでわからないのですが、第7冊まで、つまり1931年9月から1933年8月までは、猪間が、経済叢書の編集に関わっていることがわかります。

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2016年03月03日

土方成美ゼミ生たちの受難

 前回同様、土方成美『事件は遠くなりにけり』(経済往来社、1965年)からの引用です。土方ゼミとはいっても、厳密にはゼミ生ではなく、ゼミに出入りしていた北山冨久二郎の話が中心になります(引用文中にもあるように、北山は山崎覚次郎の門下生です)。
 戦敗に歓呼の声をあげたもの
 昭和20年8月15日、終戦の詔勅は三井本社の廊下で聞いた。(……)
 それはともかく、如何に軍が無謀な戦争を始めたとはいえ、国民の大多数はこれに協力したのではないか。(……)
 ところが、同じ日本国民の中には、この敗戦を待ってましたとばかりに欣んだ人が少なからずあったことは残念なことである、
 中でも喜んだのは共産党を中心とする左派マルクシストの連中であった。(……)占領軍は戦時中の日本の旧勢力を抑えるためには共産党の勢力を借りる必要があると考えたらしい。ひどく共産党を煽てていた。野坂参三氏が凱旋将軍のように外地から引揚げて来る。日々のラジオ放送では野坂、志賀といった人々の放送が聞えて来る。それに呼応するかのように、躍り出した一人が大内兵衛君である。
 これより先、同君は「満州事変後の財政金融事情」を調査するという名目で日本銀行の嘱託?になっていた。当時の日銀総裁渋沢敬三氏とは相当昵懇であったらしい。先ず終戦早々、昭和20年の秋である。ラジオ放送で、日本の財政を論じて、各種の補償の打切を唱道した。これは当時の大蔵大臣渋沢敬三氏との狎れ合いの疑も持たれた。
 これでもだいぶ端折りましたが、ここまで大内の悪口をいっている人を私は知らないので、長めに引用してみました。北山冨久二郎の動静もこれによってわかります。
 大内教授はさらに、この勢を利用し、占領軍を背景に多数の教授を追い出し一党を率いて東大復帰を試みられた。(……)先ず血祭に上ったのは荒木光太郎教授である。それについで追出しを喰ったのは、油本豊吉君、中川友長君である。ご両人とも東大在学中、私のゼミ(学習指導)に出席した人々である。(……)難波田助教授も追放された。(……)その外に、平賀縮学の時に、内務省社会局から招かれて教授になった北岡寿逸君も追われた一人であった。北山富久二郎君も追われたが、この理由は、私にはもっともわからないことの一つである。北山君は私の所にも親しく出入していた人で、山崎覚次郎教授の推薦で、台北大学の教授として招聘された人であるが、平賀粛学後東大入りをした。終戦当時、大内君の東大復帰を非常に歓迎されていたが、それにどうしたことか、結局追われることになった。現在は舞出五郎君の下に、学習院大学の教授をしている。(……)かくて、東大経済学部は終戦と共にマルクス主義者ないしその同調者が体勢を支配するところとなった。
 北山が東大に戻った後、追放されたこと、そのため学習院大学へ行ったことも私は知りませんでした。
 「昭和4年頃、土方ゼミの参加者(敬称略)」という写真があって、そこに猪間驥一も写っていますが、同じところに北山の姿もあって、二人が戦前より面識があったことがわかります(年齢の差から大学院は入れ違いになったと思っていました)。
 『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の編集委員の3人、猪間驥一、鈴木武雄、北山富久二郎は大学時代からかなり近いところにいたのですね(鈴木と北山は大学院で同級生)。
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猪間驥一の助教授昇格問題

 今回は、飛び込みの情報ですが、ご興味がある方もあるかと思い…。 
 以前から、河合栄治郎の日記の原本がないのか、いつか時間ができたら確かめてみようと思ってきました。河合がヨーロッパ留学から帰国して、有沢広巳・大森義太郎、また猪間驥一に会ったときのこと、後にクーデターを起こすくらいですから、何か書いているはずなのです。
 先日、少し時間ができたので、何冊かの本を読んでみました。
 『河合栄治郎全集』第22巻「日記T」(社会思想社、1969年5月20日)
 江上照彦『河合栄治郎全集』第21巻「河合栄治郎伝」(社会思想社、1970年12月30日)
 松井慎一郎『河合栄治郎:戦闘的自由主義者の真実』(中公新書、2009年)

 いずれも猪間に触れた部分があるのですが、それらはすべて、『河合栄治郎全集』刊行に際しての猪間と吉田忠雄の対談「計算外の人生」(『社会思想研究』第19巻第5号、1967年)、『日記』または『全集月報』に基づくもので、猪間の『人生の渡し場』(三芽書房、1957年)さえ用いられていないのです。
 ですので、猪間を調べている者にとっては、ちょっと期待はずれでした。
 江上・松井両氏は、河合の長男武氏と親交があったようですが、「日記」に関する話は出てこないので、あるいは、『河合栄治郎日記』を出版した時点で、武氏が処分してしまわれたのかもしれません。
 その一方で、江上氏が書かれた『伝記』には、土方成美の『事件は遠くなりにけり』に触れた部分があって、土方は日記もエッセーも書いてないとばかり思っていたので、読むだけは読んでおこうと思って読んだものでしたが、これは大収穫でした。
 土方成美『事件は遠くなりにけり』(経済往来社、1965年)
 1923年の関東大震災以降の、東大の人事に関して、次のようにあります。
 最初に問題になったのは猪間驥一君の助教授への昇格問題であった。これは大内、河合両君の熱心な反対、この反対をバックされたのが、矢作教授であった。これに対して私は積極論であって、長時間論議したが、結局否決された。次いで大森義太郎君、有沢広巳君、山田盛太郎君というような、後年のマルクシストが相次いで助教授に任命された。何れも、高野グループの熱心なバックアップによるものであった。
 東大で、猪間の助教授昇格問題が話し合われたというのは初耳でした。
 1924年の3月頃、猪間の処女論文が評価されて、助教授に昇格させようという話がもち上がり、土方は賛成するが、大内兵衛だけでなく河合の反対で実現せず、その妥協案として、4月に講師に就任するが、6月には、大内らの肩入れで、大森・有沢が一足飛びに助教授に就任し、挙句の果ては猪間が東大を追い出されてしまうということですね。
 ただその後、平賀粛学があったためか、ここには河合について明らかに間違った記述があります。「大内、河合両君の熱心な反対」というところです。
 簡単にいうと、森戸事件の後、大内がヨーロッパに出立してから、翌年、河合もイギリス留学に旅立ち、関東大震災後、大内が帰国し、1925年の夏に河合が帰国するまで、土方、河合、大内が同時に日本にいたことはなかったのです。この時期、河合が、大学の命を受け、シュンペータ獲得、図書の購入、糸井の見舞い等でヨーロッパを飛び回っていたことについてはすでに何度か書いていると思います。
 河合の留学で猪間は土方ゼミに入ることになりますが、このとき河合と土方の間で、猪間を次期助教授候補とする話がもち上がり、河合が時期尚早といったことなら考えられます。あるいは、何度か伝えられた糸井危篤の報を受けて、手紙のやり取りがあった中で、猪間が糸井の後を受けて昇格する問題が話し合われていたことであれば考えられます。ただ、大内と河合がこぞって反対したということは考えられないのです。
 大内一人が反対したということではなかったでしょうか。
 1926年3月2日、河合と二人で起こしたクーデターについてもここでは触れられていません。興味深いのは、土方が、平賀粛学は大内に図られた、河合には悪いことをしたというニュアンスのことをいっていることです。
 以下、他に興味深かった部分を引用します。
 有沢広巳君は、もともと統計学にそれほど興味を持っているように見受けられなかったが、統計学以外の科目では教授になる望みが薄かった。それかあらぬか、統計学を専攻するようになったが、今日に至るも、統計学に関する著書、論文は多くは見当たらないようである。
 有沢の門下生、中村隆英も同様のことを書かれていましたね。
 土方は、自分のことについても次のように書いています。
 私が1923年に、逸早く学位論文を提出したのも、高野グループによる身辺の危険を感じたからである。東大を放り出された場合、矢張り学位があった方が、飯を食うのに何かと都合がよかろう。素裸で放り出されたのでは、いよいよもって、衣食に困るだろうと考えたからである。(……)審査は長老教授の厚意によってパスしたが、いよいよ決定の教授会になって半畳を入れたのが大内君であった。
 このため、論文通過は数ヶ月のびた。しかし、とにかく1924年秋には私の論文も通過し、私は日本で4人目の経済学博士の学位を得た。大内君はその後、学位などを問題にしないというのか、長く学位論文を提出しなかった。ところが、終戦後、ご自身の天下となるや、仲間が相寄って、あっという間にお互いの論文を通して学位を得た。
 (土方は1924年 10月6日、『財政学の基礎概念』で経済学博士となっている)
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2016年01月30日

ご報告

すっかりご無沙汰しています。
書きづらいこともいろいろあったのですが
2月になったらまとめて書いてしまうつもりです。
どうぞよろしくお願いします。

【追記】
「2月になったら」と書きましたが、
いろいろな制約があって、2月中に書くことは難しいかもしれません。
準備だけは進めているのですが。
シリーズのタイトルは次のように決めています。
「ある大学院での出来事」
読んでいただければ幸いです。
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2015年11月21日

『経友』から新たな事実5

 大内兵衛の書いた「糸井君を憶う」に関して気になっていることは、大内が、終戦直後に上梓した『旧師旧友』(岩波書店、1948年)に、「彼のこと――糸井君を憶う――」として収録したこの追悼文は、内容は同じでも、文章はあちこち手が入れられていること、にもかかわらず、擱筆した日付だけは「大正13.12.24」とそのまま残されていることです。しかも、私が『経友』を新聞と思い込み、1924年12月24日号を探そうとした理由でもあるのですが、『経友』第6号の出版は、翌1925年の3月であるのに、その情報は、追悼文にも、『旧師旧友』にも載っていないのです。
 なぜこんなことをしたのかということですが、一つには、糸井が亡くなった直後に書いたものであることを強調しようとする意図があったことが考えられます。つまり、自分は、糸井の唯一無二の親友であり、心から糸井のことを思っていたのであり、だからこそ誰よりも早く追悼文を書くことができたのだということを示そうとしたのではないか、と。
 あるいは、もっとしたたかに、人々が真実はどうだったのか探ろうとする前に、死人に口なしということになった今、早く公式見解として定着させたいという狙いがあったのかもしれません。
 さらに一つ、猪間東大追放事件との関連で、思い切った推論を書いておくと、この日付が、東大追放が決まる直前のものであることからして、自分が直接的な関係者ではないことを示そうとするものではなかったかということです。
 ただここで、穿った見方をするなら、真相はそれらの逆だったのではないかということです。
 当時の大内には、二つ隠したいことがあったと思われます。
 その一つが、糸井が亡くなる前の1年間の没交渉、もう一つが、森戸事件の公判で、教授職に復帰するために、自らの罪を認めたことです。
 糸井が亡くなる前の空白の1年ですが、私は、大内と糸井がフランスを旅した後(1923年8月頃)、二人は仲違いしたのではないかと考えています。その結果、大内は、糸井が体の不調を訴えていたにもかかわらず、ドイツに戻って糸井を見舞うことをせず、イギリスにとどまることもせず、アメリカに向かい、それも、到着して間もなく、日本で関東大震災が起こったというニュースを聞くと、直ちに帰国するわけです。
 糸井はその後、危篤と小康状態をくり返しているのですから、当地を訪ねることはかなわなくても、手紙を書いたり、ベルリンにいた向坂逸郎に見舞いを頼んだり、できることはあったはずです。ところが、けっきょく大学関係者で見舞いに訪れたのは、河合栄治郎だけだったのです。大内は、糸井を見捨てたも同然だったのです。
 何がこれほど決定的な別れをもたらしたのか。ここでもう一つ大胆な推論を行うと、その原因となったものは、森戸事件における大内の日和見主義的な態度にあったのではないかということです。糸井は、教授会による両助教授休職処分決定に憤り、一度は自らも大学を辞めようとしており、森戸・大内の公判に通いつめ、最後は二人を迎えにまで行っています。大学への復帰に執着している大内の態度に、煮え切らないものを感じていたとしてもおかしくありません。
 追悼文には、この事件の際、糸井の態度が立派であったと書かれているのですが、そこには、「森戸事件」ということばはありません。そうでなくとも、人々の記憶にいまだ鮮やかな事件をわざわざ掘り起こしたくないという気持ちがあったのでしょうか。一方、戦後に書き直したものには、はっきり「森戸事件」と記載されています。このときGHQ占領下、この事件が、国家権力による学問の自由の弾圧事件であり、森戸と大内はあくまでそれに抗して裁判闘争をたたかったというとらえ方が定着しつつあったためであることも十分に考えられます。

 以上、記事としてかなりまとまりの悪いもので申し訳ありません。『経友』からわかった事実というのもほとんどなくて、推論ばかりですね。ただ、大内の批判はこれまでほとんどなされてこなかったし、これからあまり時間もなさそうなので、今、私がもっている疑念をメモにだけでもしておこうと思って書いてみました。

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2015年11月20日

『経友』から新たな事実4

 猪間の「糸井先生の思出」にある『経友』は、どのような誌面に仕上がっていたのか、今回はそのことについて書きます。
 「『経友』の雑誌委員として、先生と私はいつも一所だった」のは、第2号の編集のときですね。
 誰も書いてくれない原稿を、「あっちこっち友達に頭を下げて頼み回り、河津先生には、論文と雑録と二つもお願いした」のに足りず、「自分も二つ三つ書いた」のに、「どうしても頁が足りない」。そこで、「糸井先生、よし俺が引受けてやろうと云って、たった一晩の中に、ポアンカレの「空間の相対性」と云う難しい20頁からの論文を翻訳して来て下さった」のです。
 これを一つ一つ確認していきます。なお、このときの経友会雑誌部の委員は、教師2人(河津暹・糸井靖之)、学生6人(3年生:稲垣善次郎・向坂逸郎、2年生:田中省三郎・猪間、1年生:野村恵一郎・景山準吉)。
 論文を寄稿してくれた先生は、山崎覚次郎(アダムスミス遺愛の書)、河津暹(経済学研究資料としての新聞記事)。河津先生は委員でもあったのですから当然といえば当然です。時友文之助(英国経済史上に於けるノルマン征服の影響)は猪間と同期生。田中三吉(講義に抗議)は、よくわからない人物ですが、15年前、ウェブ夫妻が来日したときの話など書いているので猪間でないことは確かですね。
 そして、糸井が「無名氏」というペンネーム(これは、猪間がつけたものかもしれませんね)で訳出したのが、ポアンカレの「空間の相対性」(もし糸井について調べておられる方がおられれば、彼の残した貴重な「もう1編」です)。
 となると、猪間が書いたのは何かという話になるのですが、可能性として残っているのが、「一路生」というペンネームで書かれた「おみよの死」という短編小説、猪間は文芸作品まで書いていたということです。歯切れのいい会話文と、「そうして世の中は馬鹿景気で物価がむやみとあがり貨幣の購買力はずんずん減って了った。貯金の利子も下がるばかりである」というようなくだりに、猪間らしさがあるといえばあるのですが……。1月8日に擱筆しているので、かなり早くから準備していたことになります。この後に、ゴーリキーの翻訳が続きますが、これも猪間ではありませんね。
 もう一つ、「茶目吉」というペンネームで、ほんの数行ですが、「口癖しらべ」という記事も書いていて、先生方をからかっているのが面白いので、機会があったら載せます。
 猪間は、最後に次のような編集後記とおぼしきものをつづっています。
 漸く校正を了えました。もう出来上って来るのを待つばかり。任を果したのを衷心喜ぶと共に、また一種の満足の哀愁を感ぜずにはいられません。
 ただ、我等委員鈍根にして十分に諸君の意に副い得なかったのは申訳ありません。来年度には希くは更に有能なる委員を迎えて本誌の発展を見たいものです。
 終りに諸先生及学友諸兄の健康を祈ります。さようなら。
 ――委員の一人――
 これを書いた後、糸井が食事を奢って、いろんな話をして慰労してくれたのですね。

 第3号の編集のとき、糸井はすでに留学に出発しているのですが、ここに一編、興味深い翻訳が掲載されています。「アダムスミスからスタンレイジェボンスまで」というのがそれで、「隘徑生」のペンネームで書かれています。
 「演習の報告の為文献を渉猟中1892年のシュモラー年報の中にヴェー、ポエーメルトの「ウィリアム、スタンレイ、ジェボンスと其の英国経済学上に於ける地位」と云う論文に出会し」、その第1章を訳述したものですが、「演習報告」というところで、河合栄治郎のゼミで、猪間の研究題目が、「スタンレイ、ジェボンスに就て」であったことも確認でき、これが猪間のものであることは間違いないでしょう。
 ところでこの翻訳は、糸井のまねをしたのではないでしょうか。少なくとも小説よりは得意そうですし。なお、河合のゼミには、内海丁三の名前も見えています。
 奥付のところに、猪間の編集後記様のものがあります。
 ◇プライス先生がなくなられて1週間経たないうちに、我々はまた雑誌部委員なりし田中省三郎君を失いました。(……)
 ◇委員怠慢で諸君のご希望に十分副う様なものを作り得なかった事は深く謝します。殊にこの様な雑誌の中心たるべき雑報欄が余り振わなかったのは遺憾ですが、投稿して下さった方が割合多かったのは喜ばしい事でした。志方君の『工場生活』の如きは特に感謝に値すると存じます。今後斯様な観察や其他紀行の様なものが盛に投稿される様にと希望します。(……)
 ◇これで、兎も角委員の任務を果しました。在任中諸君の御厚意を深く感謝致します。来年は私ももう学校には居りません――でしょう。2ヶ年間関係した『経友』に離れるには、矢張り一種の感慨無きを得ません。本誌の末永き発展を祈りつつ擱筆致します。
 ――大正10年12月12日――
 同じ大変な編集をするのでも、糸井のような人物がそばにいるのといないのとでは違った思いがあったようです。
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2015年11月19日

『経友』から新たな事実3

 有沢広巳が『経友』第6号に発表した「糸井先生と私」という追悼文は、基本的には、糸井靖之のどこかに憂鬱の影がつきまとっていたことに自分だけが気づいていたこと、その憂鬱は、森戸事件に際して現れたような、大学のあり方を問う深い憂鬱だったというようなことを書いたものですが、その中に、猪間の東大追放に関連して意図的に書かれているのではないかと思われる部分があるので書き出しておきます。
 それにしても、統計の演習に就ては、先生はもっとも熱心にまた根気よく、恰も魂を打ち込んでかかっている風にみうけられた。元気でもあった。動もすると過多の材料に材料まけして、持ちあぐみがちに滅入り込んでいる私達6人の演習参加者を勇気づけてくれるものは、常に先生であった。(……)
 春に入ると共に私達の演習も終りを告げた。だが演習を通じて先生と私達との間に結ばれた交りは、最早演習と共に終りを告ぐるには余りに深入りしすぎていたものとみえて、私たちは再び先生を中心として名もなき研究会といったものを拵えた。互に熟読した書物とか論文とかを隔週に皆が集っては、紹介及び批評し合うことになっていた。先ず先生が最初にフィッシャーの物価指数の議論を紹介及び批評せられた。これからの経済学上の仕事は完全なる物価指数作成法の発見にあると、よく話していられたから、先生のこの方面に於ける研究は先生にとって相当の点まで進んでいたことと思われる。フィッシャーに就いての批評にしても、難しい数学の分りっこのない私達にも十分に納得のゆくほど鮮かなものであった。先生の物の考え方にも事物の急所をしっかりと掴んでいる力強さがあった。
 これが書かれたのは1925年初めのことであり、「紹介と批評」ということばが反復されて、この背景にあるもの、つまり有沢による猪間驥一東大追放事件を知るものにとっては、1年前の1924年2月、『経済学論集』に発表された猪間の「物価指数の理論及実際―Fisher教授著の紹介、批評並に我国に於ける物価指数調査の実状―」を思い起こさせるに十分なものがあります。
 さらにこの追悼文と戦後に同じ時期のことを書いたエッセーとを注意深く比較してみると、興味深い事実に行き当たります。
 先生の発案で、われわれ6人の学生と一緒に、先生が出発されるまでの間、読書会をやろうということになった。(……)そして先生は、ミッチェルの『ビジネス・サイクルス』とかツガン・バラノヴスキーの『イギリス恐慌史論』とか、アーヴィング・フィッシャーの『貨幣の購買力』などをあげて、それぞれ各自で分担して、それを読んで報告することにきまった。
 つまり、追悼文では、フィッシャーの名前しか登場しなかったものが、戦後のエッセーでは、他の二人の書物の後ろに回され、しかもフィッシャーの物価指数の議論であったはずのものが、『貨幣の購買力』("The Purchasing Power of Money", 1911)の話になっているのです。
 フィッシャーが物価指数を論じた有名な著書は、猪間が取り上げた『物価指数の作成』("The Making of Index Numbers", 1922)ですから、これってひょっとして、有沢が、この二つの書物を取り違えたってことではないでしょうか。
 糸井が6人の学生たちと勉強会を開いていたのは、1921年の4月頃のことです。フィッシャーはまだ『物価指数の作成』を発表していなかったのです。したがって、「フィッシャーの物価指数の議論を紹介及び批評せられ」るようなことはできるはずがないのです。
 有沢は、1924年12月の猪間追放の時点でも、この追悼文を書いた時点でも、そのことに気づかず、その後、早い時期に誰かに指摘されて、戦後になってエッセーを書くとき、巧妙にこの二冊を差し替えたことが考えられます。
 おそらく猪間追放の根拠とされたものは、猪間の盗作疑惑でしょう(追記:ただし糸井は論文は発表していません)。しかしその疑惑は冤罪も冤罪、成立不可能なものだったのです。
 しかも、猪間の論文は、1924年2月に発表されていたものなのです。もし疑わしいのであれば、このとき糸井に問い合わせてみることは十分にできたはずなのです。直接、猪間に詰問することだってできたでしょうし、それができないのであれば、いつものように大内兵衛に訴えることだってできたのです。どう考えても、糸井の近い将来の死を待ち、死人に口なしという状態になって、一気に猪間の追い落としを図ったとしか思えないのです。
 そのたくらみが露見したことをもって、河合栄治郎たちが、大内グループが「しくじった」といっているのだとしたら、とてもよくつじつまが合います。
posted by wada at 20:33 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする