2017年06月30日

悪夢のような記事

昨日、私にはめずらしく、原田泰さんの講演会があるのを事前に察知し、
終了時間を推定し、1時間後には日銀のホームページでその内容をチェックし、
本日プリントアウトしてゆっくり味わおうと楽しみにしていました。
ところが今朝目覚めてパソコンを開くと、ニューズウィーク日本版に
「日銀の原田審議委員「ヒトラーが正しい財政・金融政策をして悲劇起きた」」
という記事が載ったという情報が飛び込んできて、
あまりの驚きに悪夢を見ているかのような思いにとらわれました。
とりあえず思いついたのは、ニューズウィークの問い合わせフォームを利用して、
抗議のメールを出すことだけでした。

先程帰宅して、田中秀臣さんが同誌に反論を投稿されているのを知りました。
「日銀の原田泰審議委員はヒトラーを賞賛してはいない。ロイターの記事は誤解を招く」
http://www.newsweekjapan.jp/tanaka/2017/06/post-11.php
もっともわかりやすい解説記事だと思いますので、ぜひお読みください。

元の記事の海外版の見出しは、
Bank of Japan policymaker Yutaka Harada praises Hitler's economic policies…
「原田泰日銀政策委員がヒトラーの経済政策を賞賛した」
となっているそうです。
どこをどう読んで、こんな解釈が成り立ち、これだけ悪意に満ちたことがやれるのか。
念のため、記事を編集した田巻一彦という人のことを調べてみると、
ここには書きませんが、昔の左翼の活動家にありがちなタイプの人でした。
最近の報道番組を見ていると、こういうジャーナリストの発言ばかり目立って、
辟易させられます。

どうか皆様、来る7月2日の東京都議会議員選挙では、
この田巻一彦のお仲間が応援しているような政党にだけは投票されませんように。

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2016年05月24日

2012年度博論提出後の経過

 経過だけをかんたんに記します。

 ●2012年10月、博論を提出する。
 ●11月に予定されていた審査会は、キャンセルになる(事前の連絡はなく、直前にこちらから連絡して判明する)
 ●2013年1月初めに審査会が開かれる。
 ●主査の先生に、2月の期日までに修正が可能かを問われ、「やります」と答える。
 ●提出日の前日、指導教官に前もって原稿を渡そうとすると、中を見ないで、「あの話(提出)は、なしになりました」といわれる。主査の先生との約束はどうなるかと問うと「自分が話すからいい」といわれる。私は博士号の取得ではなく、指導を受けるために大学院に来ているので、「こんな状態が続くのでは困ります」というと、怒って、「じゃ読みます」といって、原稿をもって自分の研究室へ行かれる。帰宅すると、電子データも送るようにというメールと、全体の1/2に対するコメントが届いている(残りの1/2についてはその後もコメントはないまま)。
 ●その後、つじつま合わせのためか、博士論文取り下げを強要される(一度も入ったことのない教官の研究室で、教官のパソコンを用いて、取下げ願いの書類を作成させられる)。事務室より、取り下げをすると特別研究生になれないという通知がありいったん取り下げを中止するが、その後、この教官が事務室にねじ込んで、取り下げと特別研究生になることを認めさせる。
 ●私は賞をいただいた出版社で猪間驥一の『評伝』を出す予定があったが(入学後、博論を書き上げるまで延期するようこの教官にいわれ、出版社にもその交渉させられていた)、副査の先生がこの出版社の事情に詳しいということで、先生方の共同研究室で、二人で私を囲むようにして、いかにこの出版社の経営状態が悪いかを繰り返し語り、他の出版社での出版を示唆され、連絡を取らないよう忠告される。出版社は猪間家からたくさんの写真を預かっており、その返却のために連絡を取る必要があると訴えたが、二人は「それはまずいですね」と繰り返すばかりであった。
 ●博論取り下げにより、私の2012年度の業績がないことになり、奨励金の返還を申し渡されるが、教官からは「その点は気づきませんでした」というメールがあったのみ。私は2012年度の『紀要』に小論文の発表を予定していたが、これを、「博論と重なるのはまずい」と止めたのはこの教官であった。

 その後、間に入ってくださる先生があって、スケジュールを立て、主査・副査の先生を代えてくださり、外部審査委員の人選についても私の希望を聞いてくださったので、この大学院での博論提出を決めました。
 博論提出以降の連絡等も、この先生がすべてやってくださったのでとてもスムーズでした。
 指導教官に関しては、第1回目の審査会は大遅刻(1時間前から主査・副査の先生方が全館を捜されていたのですが)、外部審査委員を迎えての第2回目の審査会は欠席(連絡もつかない)という状況だったことを付け加えておきます。
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2016年03月25日

ご報告A

3.アカデミック・ハラスメントの報告
 私がこの大学院で指導教官より受けたアカデミック・ハラスメントの報告書をまとめ、大学当局に提出しました。それがどのように起こり、どれほどつらいものであったかを伝えるために、残っていたメールや添付ファイル等を用いて状況の再構築につとめたものです。
 報告書は20数ページに及ぶもので、これを少しずつブログに載せていくことも考えていますが、ここではとりあえず、その中に用いた指導教官の矛盾だらけの「主張」をいくつか公開することにしました。私からの反論も交えています。
 シリーズのタイトルは「指導教官が求めたこと」とします。
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2016年01月30日

ご報告

すっかりご無沙汰しています。
書きづらいこともいろいろあったのですが
2月になったらまとめて書いてしまうつもりです。
どうぞよろしくお願いします。

【追記】
「2月になったら」と書きましたが、
いろいろな制約があって、2月中に書くことは難しいかもしれません。
準備だけは進めているのですが。
シリーズのタイトルは次のように決めています。
「ある大学院での出来事」
読んでいただければ幸いです。
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2015年03月11日

近況のご報告

長い間、ブログの更新をしないままで申し訳ありません。
パソコンの容量の問題を生じていて、機械に弱い上、もう少しこのパソコンを使い続けたいという事情もあって、今しばらくお休み状態が続くと思います。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
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2014年09月26日

「渡し」とウーラント同窓会

 大事なことを書くのを忘れていました。
 ウーラント同窓会の会員であられる「按針亭(管理人)」さんが、そのサイト上で、拙著『猪間驥一評伝』をご紹介くださり、「目次」・「はじめに」・「おわりに」を掲載してくださいました。ほんとうにありがとうございました。
 按針亭 http://homepage2.nifty.com/anjintei/
 本日、ウーラント同窓会のことを調べておこうと、この「按針亭」のサイトを読ませていただいて気づいたのですが、声楽家の佐藤征一郎さんが「渡し」(渡し場/渡し場にて/渡し場で)を歌われているCDが発売されているのですね。以前、2006年5月に四谷の紀尾井ホールで「カール・レーヴェ全歌曲連続演奏会」が開催され、そこで「渡し」が日本初演されたことをうかがって、聴き逃したことが悔しくてたまらなかったのですが、CDのことを確認していなかったのはうかつでした(演奏会とは別のものかもしれませんが…)。
 しかもピアノは高橋アキさん。
 1970年代のある時期、私は東京周辺で開催される高橋悠治さん&高橋アキさん兄妹のコンサートをほとんど欠かさず聴きに行っていたことがありました。エリック・サティの初演とか、現代音楽の様々な作品とか。
 いまやっていることが片づいたら、このCDをじっくり聴いてみようと思っています。
 念のため、CDのタイトルは「カール・レーヴェ:バラードと歌曲の世界」、詳しくは上記の「按針亭」のサイトをごらんください。

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2014年01月15日

いただいたお手紙のご紹介2

●石橋湛山が好きになった叔父
 私事にわたり恐縮ですが、今回の『猪間驥一評伝』の出版でうれしかったのは、母の5人の弟妹たちが皆この本を読んでくれたことです。そして私のいわんとすることをよく理解してくれたことです。
 一人の叔父は、これまで石橋湛山に対して左翼的な思想の持ち主という偏見があったのが、これを読んで好きになったといってくれました。
 猪間家の方々もそうですが、何かこの世代(つまり1920年代後半から1940年代初め生れ)の人々には、歴史を見る上での土地勘というようなものが確実にあるように思いました。

●吉瀬俊助(1901.1.28-1994.12.7)の日記
 そして今回もう一つうれしかったのが、その母たちの従妹で、吉瀬俊助の末子にあたる方からいただいたお手紙の中にあった情報です。
 何と吉瀬俊助の大正6年(1917年)からの日記が段ボール2,3箱分残っており、昨年12月の20回忌を機にこれらを整理しようと思っていると書かれていたのでした。
 これを聞いて私が楽しみにしていることというのは……。
@ 吉瀬俊助は、東京商科大学(現、一橋大学)で福田徳三の門下生であり(1930年、福田が亡くなったとき、『一橋新聞』に追悼記事「福田博士の長逝と経済学の将来」を書いている)、福田の周辺のことがいろいろわかるのではないか。
A 小泉信三(1888-1912)と親しかったのも福田徳三との関係からか。
B 1925年、東京商科大学卒業後、第一銀行に入行した折、渋沢栄一に議論を吹っかけたというが、何をめぐっての議論だったかがわかるのではないか。
C 1928年、「最近日本に於ける綿業の発展」という論文を発表しているが、大学から離れた後、なぜこのような論文を書いたのかわかるのではないか。
D 大正14年(1925年)卒業の同期生から、杉本栄一、森田優三、山中篤太郎の3人が上田貞次郎の背広ゼミナール(1932年設立)に参加している(この「十四日会」の名簿を吉瀬俊助は亡くなるまで手元においていたという)。したがって、背広ゼミナールのことは知っていたはずで、これに関する記述があるのではないか。
E 第一銀行(後に三井銀行と合併して帝国銀行となる)入行以降、「名古屋、東京、大連、京城の各支店に勤め、釜山支店長となり、終戦を迎える」(『春雷句集』略歴より)。京城支店に赴任したのが、ちょうど太平洋戦争が開始する1941年12月であり、終戦の翌1946年7月、釜山より引揚げ。この間、京城で、鈴木武雄に接触した可能性、東洋経済新報社の経済倶楽部に参加した可能性もあるのではないか。
 この日記が出版されるといいなと思っているのは私だけでしょうか。
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2013年12月20日

いただいたお手紙のご紹介

 『猪間驥一評伝』を送らせていただいた方から、おたよりが届いています。その一部をピックアップしてご紹介させていただきたいと思います。

 一つは、東京市政調査会(現在は後藤・安田記念東京都市研究所)の理事であられる西尾勝さんに『猪間驥一評伝』をお送りした直後にいただいたもので、「本財団の元研究者についての評伝故、通読後に本財団の市政専門図書館に寄贈し、永く大切に保存するとともに広く研究者の利用に供したい」と書かれていました。猪間がその中によくこもって仕事をしていたという図書館の中に、猪間の名前を冠した拙著が収められるというのは、身に余る光栄で恥ずかしくもあるのですが、一方で、猪間にとっては本来いるべきところに戻ったのだという思いもわいてきて、感慨深いものがあります。
 以前、『都市問題』に「1926年の「産めよ殖えよ」と1939年の「産めよ殖やせよ」――猪間驥一の調査研究はなぜミスリードされるのか――」を書いたときも、西尾さんは拙稿を読まれて、「(このミスリードした)研究員の論考への厳しい批判と受けとめました」というおたよりをくださいました。あのときも、ただ書いただけの理解を得られない論文だったと落ち込んでいたのが、その一言で、ほんとうに書いてよかったと思えるようになりました。

 もう一つは、猪間家の方々。猪間驥一の四女に当る方に何度も応対していただいたのですが、いろいろご迷惑をおかけしているのに、この本の出版を一緒に喜んでいただいたのがありがたくて、申しわけなくもあって…。ご姉妹や従兄弟にあたる猪間明俊さんにまでお声をかけてくださったようです。
 その猪間明俊さんからも、心のこもったお手紙をいただいて、感激しています。
 「猪間家の家長として威厳があり、父を含む3人の弟妹から煙たがられた伯父とは生前に時たま顔を合わせるくらいで口を聞いた機会も少なく…」とあって、猪間驥一の意外な側面も知りましたが(引揚げ後の数年間、猪間は『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の編纂、石橋湛山の公職追放への対応等に忙殺され、家族にもそのことを明かせなかったので、このような印象を与えたことも考えられますが…)、地質学を学ばれるようになった明俊さんは、猪間から地学者(地質学者)収三郎のかたみだったハンマーを手渡されたのだそうです。
 猪間の師、上田貞次郎は、収三郎に進化論を学んで経済学者を志すようになったのですから、猪間にとって、当時博物学者を意味した地学者というのは特別な意味をもっていたはずです。甥である明俊さんがその地学者を目指すと聞いて、喜びも格別なものがあったのに違いありません。
 明俊さんは、赴任してきた教授に「猪間という苗字は珍しいが、私は驥一という人を知っている」といわれ、それが縁となって、その先生に師事されることになったそうですが(いただいたご著書によれば、この先生に授かった知恵で、アマゾン源流地質調査の際、命拾いされています)、このお話も、猪間が上田貞次郎の背広ゼミナールの門をたたくときのエピソードに重なるものがあります(実は、明俊さんはかつて私の弟の上司であったのですが、それを「縁」といってくださるやさしさをもちあわせておいでです)。

 このようなお手紙をいただいて、不完全な形でも、とにかく評伝を出版できてほんとうによかったと思いました。私の一生の財産です。
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2013年12月15日

『猪間驥一評伝』刊行のお知らせ

お知らせが遅れましたが
このたび『猪間驥一評伝 日本人口問題研究の知られざるパイオニア』を刊行いたしました。
多くの方に猪間驥一という戦前活躍した経済・統計学者のことを知っていただければ幸いです。

猪間驥一評伝 日本人口問題研究の知られざるパイオニア
和田みき子(著)
出版社:原人舎
税込価格:1995円
http://honto.jp/netstore/pd-book_25957803.html
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2013年06月18日

いつまでも白紙のサイン帳

本日(すでに昨日)は、数学の授業を20分だけ早退させてもらって、東京河上会・公開シンポジウム「今後の日本経済のゆくえ」に出かけました。私は4名のパネリストの先生方(原田泰氏・高橋洋一氏・片岡剛士氏・田中秀臣氏)すべてのファンなので、楽しく、勉強になり、ほんとうに有意義な時間をすごすことができました。
田中先生が、昭和恐慌期・高橋財政期との比較をしてくださって、猪間驥一研究をしている私としては、逆に現在のことが見えてくるということもありました。
ただ一つだけ目論見が外れたのは、もう4年半越しの計画だった、昭和恐慌研究会(あるいはリフレ派)の経済学者の方々のサインをお一人お一人いただいてサイン帳を作るという夢が今回もかなわなかったこと。
今日こそは、受付のところにパネリストの先生方の本が並び(よく見なかったのですが、おそらく置かれていたのは『環』だけだったような気がします)、シンポジウム終了後、サインを求める人々の行列ができて…という状況を思い描いていたのですが。そんな浮ついた聴衆は、だれ一人いなかったようです。とても、サインしてくださいといいだせるような雰囲気ではありませんでした。
白い日銀から黒い日銀になったというのに、私のサイン帳は白紙のままです。でも、黒い日銀が実現したのですから、サイン帳などどうでもいいですね(白紙のままでもいいやと思うことにしました)。
この時間になっても興奮が冷めやらず、いただいたレジュメなど見直しているところです。

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2013年06月07日

本日のちょっとした出来事

最近行きはじめた理髪店(兼美容院)の理容師さんが(この方は、髪が跳ねるのは、髪を梳くのが原因として、鋏だけで跳ねない髪を仕上げるという天才肌の理容師さんなのですが)、大学で経済学を学ぼうとしていたことがあり、高橋洋一さんのファンと聞いて、私は自分でも信じられないくらい饒舌になってしまい、ひとしきり猪間驥一のことをしゃべっていました。
帰り道、自分の子供じみた衝動を少し恥ずかしく思いながらも、一方で、自分のこれからの仕事は、けっきょくこういうことではないのかという思いを強くしました。つまり、これが私の意図する猪間を「売り込む」方法ではないかと思ったのです。
私が猪間驥一のことを知ったのは、京都の大学院へ行っていた2003年春に、神戸史の編纂に関わられていた先生から巡回産婆事業のことをうかがったことがきっかけでした。
秋になって、金融論を教わっていた先生が、マンキュー経済学のミクロ編・マクロ編とともに紹介してくださったのが、『クルーグマン教授の経済入門』で、そのときひと言、「翻訳者がすごく面白い人だと学生がいってましたよ」と付け加えられたのです。それが、山形浩生さんが、山本義隆の『重力の発見』の書評を書かれたまさにその時期だったのです。
これが、いわゆる「掲示板」を知り、リフレ派といわれる経済学者の存在を知り、後藤新平が設立した東京市政調査会に連なる猪間驥一から、経済学者、猪間驥一へと私の興味を変化させることになりました。
実は、この頃の私は、大学院生や卒論を準備している学生さんに出会うと、猪間驥一の研究をしてもらえないか、積極的な「売り込み」をしていたものでした。
ところがいつも、猪間に興味をもってもらうところまではうまくいくのに、研究をお願いしたとたん、ことばを濁されてしまうのです。数名にアタックしたのですが、けっきょくのところ誰にも引き受けてもらえませんでした。
あれはなぜだったのだろうと省みるに、研究者であるだけに、こうした研究のたいへんさがわかっていたということかもしれませんが、敗退の原因はやはり、私が猪間を十分に理解しておらず、「売り込み」のツボを心得ていなかったことにあったと思われます。
「猪間驥一の何がすごいのか」を明らかにする、例の「販促ツール」には、まだ手を付けていないのですが、できるだけ早く仕上げて(仕上がったら、このブログにアップロードします)、動き出したいと思います。
蛇足ながら、上記の理容師さんは、お店が嘉悦大学の近くにあって、高橋洋一さんの歩く姿を何度も見られているとか。見かけるときは何日も続けて見かけるといわれていたので、集中講義とかそういうものがあったのでしょうか。
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2013年02月22日

岩田規久男氏を日銀総裁に!

1930年、昭和恐慌の真っただ中で、猪間驥一は、ケインズ主義的な政策提言等、デフレ不況からの脱却のためにあらゆる手段を講じようとしていました。
景気が上向くことは、様々な可能性を生み出します。
新内閣設立直後に高橋是清蔵相が開始したリフレ政策の下で、猪間は、人口問題・失業問題の解決を目指して、農村から都市への人口の移動を前提とした、戦後の高度経済成長期を思わせるような都市計画を構想しました。
これは浜口前内閣が実施したデフレ政策の下では、ありえない構想でした。
今日、長いデフレ不況からの脱却を可能にする千載一遇のチャンスが訪れています。
そのために今、必要なこと、それが、
岩田規久男日本銀行総裁を実現せよ です。

当ブログは、読んでくださる方は少ないのですが、お産関係の検索で急にアクセスが増えることがあります。そんな方の中に議員さんなどひょっとして混じっていらっしゃらないかと思い、この記事を書きました。
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2011年07月06日

近況報告:大学院の中間発表

このところブログの更新が滞っています。その事情をいくつかご説明しておきたいと思います。
まずは、先日開かれた大学院の中間発表ですが、今回は、「経済学者、猪間驥一のたどった道とその人口問題・植民地問題認識」というタイトルで、猪間の生涯について一度きちんと話しておきたいと思ったことと、そこに私の研究がどこまで進んでいるかを付け加えれば、まとまったものになるのではないかと考えたためでした。
猪間の書いた『経済図表の見方描き方使い方』(1926年)、『日本経済図表』(1930年)、『世界経済図表』(1931年)、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(1950年)等の著書(これらは皆、明学の図書館にあるものですが)、また、巡回産婆の研究を始めて間もない頃つくった、1920年代の産婆養成所、産婆のいでたち、産院、民間の小児保健所、哺乳瓶、日本初の粉ミルク、出産育児関連の広告、雑誌等の写真・イラストの他に図表等を収めたファイル集を用意して、これで何とかなるかなと期待していたのですが…。
発表の出来栄えからすると、散々な結果に終わったということになりますが(人前で話すのが、自分でも情けなくなるほど下手だということを再確認させられ、こうなるともう、そういう機会を極力避けるしかないのかとまで考えました…)、ただこの日、10名を少し超えるぐらいだったのか、聞いてくださった方々の中に何名か、猪間にとても興味を持ってくださった方があり、いろいろな質問をしてくださったのが、私にはとても励みになりました。
さらに、もう一つ成果がありました。「猪間のたどった道」というは、「猪間の評伝」を要約したものですが、この作業に意外に時間がかかり、そのたいへんさというのが、10数万字あるものを数千字に省略しなければならないというたいへんさなのですね。作業の途中から考えていたことなのですが、これを2万字くらいにするのであれば、簡単なことではないかと思えてきたのです。
いま書かなければならない論文があって(これについては次回書きます)、そのあとになると思いますが、「猪間評伝抄」というものをブログにシリーズ化して書いていくことを計画中です。
自分自身が細かな年号とか名前とか参照するのにも便利ですし、以前、書いたことの訂正も兼ねられるので、私にとっては一石二鳥(のはず)です。
ラベル:猪間驥一 評伝
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2009年10月27日

ご無沙汰しています

たいへんご無沙汰していて申しわけありません。
◆現在、猪間驥一の評伝に取り組んでいるのですが、一章ごとに新しい事実が現れてくるという状況で、難航しています。希望的観測では、10月いっぱいで山場を越えるつもりですが、どうなりますことやら。
◆河上肇賞奨励賞をいただいた論文を短くまとめた「猪間驥一と1920年代の巡回産婆事業」が、ある大学の経済学論集に載りました。
もし読んでくださる方があれば送りますのでお知らせください。
このブログの「猪間驥一という人」に書いたものと同じような内容です(というより、その小論文を書くために、ブログのほうをメモ書きに利用したというのが実際のところです)。
◆もう一つは、とてもうれしいニュースです。
あるところの、ある企画で、猪間驥一が取り上げられるようです。取り上げられるのは、東京市政調査会のときの研究だそうですが、彼の再評価が進むのはうれしいです。
時期がきたら、詳細をお知らせします。今年度末、つまり来年3月のことのようですが。
ラベル:猪間驥一
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2009年03月12日

フィリピンの家族構成B

80年代、私は、フィリピンにおける家族計画の実施について、あまり積極的になれないでいました。その理由として、以下の2点を上げていたと思います。
一つには、10人以上子供がいても、そのうち何人かが必ず亡くなるということが常態化していると、その喪失感から、また一人子供が欲しくなるのは自然な成り行きに思われたこと。
もう一つは、貧しい家庭にとって、大家族というのは、意外な合理性を内包しているということ。つまり、親にとって、上の子供たちは、家計を助ける働き手であるということです。フィリピンでは、上の子供たちより下の子供たちのほうが、学歴が高かったり、例えば看護婦の資格をもっていたりすることが多かったのですが、それは、上の子供たちが先に働いて、学費の援助を行ったりすることによるものでした。そして、下の子供たちが、学業を終えて仕事を得れば(海外に出る例も多く見られましたが)、今度は、彼らが家族を経済的に支える番になるのです。 
90年代になって、JICA(国際協力機構)のアフリカが専門で避妊教育など担当されている方、またJOICFP(ジョイセフ:家族計画国際協力財団)で人材の育成、研修の実施等に携われている方とたまたまご一緒する機会があり、こうしたことをお話したことがありました。「それでも家族計画は必要でしょう」とあきれられてしまいましたが・・・。
ただ、今になって考えても、80年代のミンダナオではやはり、家族計画、バースコントロールは根づかなかったのではないかということです。
その前にやらなければならないことがあったと思います。衛生状態をよくしなければならなかったし、人々の栄養状態、健康状態を改善するのが先決だったと思います。
それは、CBHP(地域に根ざした保健プログラム)の枠組みでこそやれた活動だったと思います。
(これで、寄り道はおしまいです)
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2009年03月11日

フィリピンの家族構成A

思いついて、フィリピンの乳児死亡率を検索してみたのですが、驚いたことに、フィリピンではいまだに人口動態の統計が整備されていないのです。1920年代に、猪間驥一が日本の統計の不備を嘆いたより、もっとお粗末な状況が続いているということです。
仕方がないので、国連、ユニセフ、アジア開発銀行、フィリピン保健省等のサイトから、バラバラに拾い集めた数値が以下のものです。
1950〜55(134.2)、1960(80)、1970(60)
1993(34)、1995〜2000(35.5)1995(18.93)、1996(19)、1998(35)、1999(31)
2000〜05(28.1)、2000(15.7/30)、2001(29)、2003(13.7/24.98)、2004(26.0/23.51)、2005(23.51)、2006(21.81)、2007(26.0)、2008(21.0)
70年代、80年代の統計がまったく欠落していますが(マルコス政権下、戒厳令の布告から退陣、さらにアキノ政権までの時期に相当)、大まかに言って、50年代に3桁だった乳児死亡率が、60年代、70年代で、2桁台後半に下がり、約20年間の空白を経て、1990年代、2000年代はそれぞれ30台、20台(10台は地方のデータを除いたものか)で経過しているということが言えると思います。
実は、CBHPが誕生したのは、ちょうどその空白部分、1979年のことでした。
CBHPのプログラムを思いつくままに上げると、栄養指導に始まって、水の浄化法、薬草作り(下痢のときの補液、風邪のときの生姜湯他)、ココナツを利用した石けん作りのセミナーも開かれていました。助産師のグループによる出産の介助もこの枠組みの中で行なわれていたのです。
こうした活動によって、衛生状態が大幅に改善したのは間違いないと思いますが、さらに、乳児死亡率を下げ、少産化を進めた可能性があるようにも思えてきました。
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フィリピンの家族構成@

日本の戦前のことを調べていると、ぼんやり浮んでくるのが、フィリピンでの経験。そこで、ちょっと寄り道をします。
1980年代の前半、私は、ミンダナオ島で、地域に根ざした保健プログラム(CBHP)に参加したり、日本の伝統的な上総掘りの技術を利用した井戸掘りのプログラムを実施するというようなことを行なっていました。
その後、同地を訪問するのは、1994年になってからですが、この二つの時期を比べるとき、気になって仕方のないことがありました。
それは、フィリピンの家族構成が大きく変わっていたことです。80年代前半は、子供は5,6人というのが一般的で、10人以上という家庭も珍しくありませんでした。ところが、1994年頃には、とても主観的な見方ではありますが、2,3人の家庭が平均的という状況になっていたのです。この間、とくに家族計画のプログラムが大々的に実施されたというようなことはないのにもかかわらずです。
他にも、私の目に映ったいくつかの変化がありました。
その一つが、野菜をたくさん取るようになっていたことです。80年代には、ごはんに塩辛か塩魚が中心の食事で、空心菜とかサツマイモの葉とか、そこいらじゅうにある野菜も食べられることが少なかったのが、バスターミナルの簡易食堂やマニラのファーストフード店でも、野菜をたっぷり使った料理が並べられていました。
もう一つは、住血吸虫病でお腹を膨らませている子供を見かけなくなったことです。この病気に感染すると、15,6歳になる前に亡くなるとCBHPの活動家に説明されたことがありました。そうしたこともあってか、以前には、子供のお葬式もよく見られる光景だったのですが・・・。
90年代になっても、相変わらずの貧しさという文脈で語られることの多かったフィリピンですが、その中でも、何かが確実に変化していることが感じ取られました。
この10数年の間に、いったい何が起こったのでしょうか。
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2009年02月10日

聞こえてきた会話

私の所属する団体の、ある委員会で、病院勤務の助産師Aが、代替療法の使い手である、開業助産師Bと交していた会話。
A「けっきょく病院のスタッフが何10人もインフルエンザに罹ってしまって・・・それにしても、インフルエンザのワクチンって効かないですね・・・そういえば、Bさん、インフルエンザに万能の(予防にも治療にもなる)レメディーってありましたよね、それ、呑もうかしら・・・」
B「そうよ、それを呑めば?私は、それを呑んでインフルエンザには罹らないわよ」
A「万能だからいいですよね。これから、それだけにしようかしら。タミフルは効かないし・・・最近医者は、タミフルともう一つの薬(リレンザ)と、患者さんに選ばせるんですってね。お母さん、どっちにしますかって聞くんですって・・・」
もう一人の病院勤務助産師Cが加わって・・・
C「タミフルを呑んで、レメディーを呑んでもいいんですか?」
B「いいわよ。ちゃんと試験すれば、どちらが効いたのかわかるのだけど・・・」
C「レメディーだけにしたくても、病院に勤務していて、予防接種せずに、インフルエンザに罹ると責任問題になってしまうんですよね・・・」
・・・すみません。本日はコメントなしです。
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2009年02月01日

ご報告とブログの再開

ご無沙汰しています。
更新をサボっていたのは、お産と前後して、小論文の訂正作業をしていたことと、河上肇賞の授賞式で、急にスピーチが必要だと言われてあせってしまったことなどが原因です。
さて、本日(すでに昨日になりました)は、その授賞式だったのですが、選評をうかがっていると、審査員の先生方、編集者の方々が、論文を深く読み込んでくださったことがよくわかり、かたちの整わないまま提出してしまったことに反省しきりです(とくにタイトルから外れた論文の構成が批判を受けているので、これはさっそく直しに入りたいと思います)。
スピーチは、練習したにもかかわらず、けっきょく原稿を読み上げることになってしまいました。
あこがれの経済学者の方々にも、せっかくお目にかかれたのに、お顔をきちんと確認できないほど舞い上がっていました。
うれしいハプニングは、中央大学の大学院で、猪間驥一に教わったという方がいらしていたこと。猪間を知らないのに、共通の友人のような気がしてしまうのが不思議でした。
よしだみどりさんが、「おめでとう」と言いにきてくださいました。よしださんが吉田松陰とスティーヴンスンのつながりを描いた『烈々たる日本人』は、私が孤独な作業をしていたとき、もっとも励まされた書物だったので、とてもうれしく思いました。
2月からブログを再開する予定です。よろしくお願いします。
ラベル:河上肇賞 授賞式
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2008年09月30日

明治時代の避妊法A

『妊娠自在法』が紹介する、実効性のある方法とはどのようなものだったのか。
そこでは、これらを、避妊法と区別して「妊娠制限法」と呼んでいることが、当時、ヨーロッパで盛んになっていた産児制限とのつながりを感じさせます。3つの方法というのは、以下のものです。
@ 溶解圧定器(一名、妻君の友)(”The wife’s friend” soluble pessary)
A ゴム圧定器(India rubber check pessary)
B 海綿(The sponge)
@は、ペッサリーとは言っても、溶ける挿入薬であり、イギリスの社会運動家、ビサント夫人(Annie Besant)が最も無害で効果があると推奨していたもの。日本でも、医者に尋ねれば、比較的安価にて手に入ったようです。
Aは、いわゆるゴム製のペッサリーですが、イギリスから取り寄せる他、方法がなく高価なものと説明されています。ただし、取り寄せ先の住所は、@と同じレンデル(W. J. Rendell)の店です。Bはタンポン法で、海綿はどこにでもあるものだったようですが、くるみ大の清潔なものを選び、これを溶かしたミョウバン等に浸して、ごく細いヒモでしばって用いたようです。
ABには、キニーネ水を用いてもよいとされています。万全を期するためには、ペッサリーを取り出す前に、キニーネ水入りの水銃で洗浄するように書かれています。この時代は、避妊にキニーネを用いていたのですね(ココナツバターを加える例もあったようです)。
ビサント夫人の書いたものの中に、レンデルの開発した、この3つの商品を紹介したものがあり、同じ住所が示されているので、ここから採録したものとみて間違いないでしょう。イギリスの製品は、優れた品質で知られており、海外からの注文が集中していたようで、そうした流れの中に、日本での紹介もあったと想像されます。
ただ、どういうわけか、馬島|は、1920年代の日本で、こうした情報を得てなかったようです。
posted by wada at 00:28 | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする