2014年09月19日

藤田武夫の謎めいた経歴1

 財政学者、藤田武夫(1905−1988)は、地方財政問題を研究する人々の間ではよく知られた存在であり、その人物の著作をあらためて検証しなおすなどまったくの想定外のことでした。
 では、なぜあらためて調べてみる必要を感じたのかというと…。
 それは今日、1930年代の猪間驥一だけであればともかく、石橋湛山の地方財政問題への関わりがまったく無視されていること、その一つの原因が、藤田のこの問題のとらえ方にあるのではないかと感じはじめたからです。そのとらえ方というのは、藤田が意識的に行ったものか無意識に行なったものかわかりませんが、そのいずれであっても重要な意味を含むものに思えるからです。

 湛山の地租委譲論についての議論が1920年代で止まったままになっているのではないかという疑いについては、以下の鈴木武雄の論文を取上げたときにも多少そのニュアンスを伝えているかと思います(6月13日記事「寄り道:鈴木武雄と地租委譲」参照)。
■1971年9月、鈴木武雄「地租委譲論と石橋さん――『石橋湛山全集』第五巻を読んで――」(『石橋湛山全集』第8巻月報10)
 鈴木には以下のような論文もありますが(未読)、いずれも1920年代の議論であり、彼が1928年以降、京城帝国大学に赴任していることや、1930年代になってヨーロッパに留学し、京城に戻るのが1935年であったことなど鑑みると、致し方ないという気がしないではありません。
■1927年6月、鈴木武雄「政友会内閣の地租委譲論」(『都市問題』第4巻第6号)
■1928年3月、鈴木武雄「各政党の地方財政政策」(『都市問題』第6巻第3号)

 その傾向は、今日の石橋湛山研究者たちにも受け継がれているようで、例えば、湛山の地租委譲の主張について論じた以下の二つの論文にも、湛山の1930年代における議論はまるで存在しなかったかのようにぬけ落ちています。
伝田功「石橋湛山の経済政策思想 : 資金交付行政批判を中心として(森俊治教授退官記念論文集)」(『彦根論叢』 第258・259号),滋賀大学経済学会,1989年9月
■姜克実「石橋湛山の地方分権論――小日本主義的思想の一側面――」(『自由思想』 第56巻),石橋湛山記念財団,1990年8月

 しかも、これらの人々と異なり、藤田は猪間のごく近いところにいた人なのです。どれだけ近いところにいたのかは次回以降、明らかにしますが、はじめはちょっとした確認であったはずのものが、意外な事実が浮かび上がってきました。
 ここでは、猪間が1956年9月、『中央評論』第8巻第6号に書いたエッセーから引用するに止めたいと思います。
 調査会での同僚には、財政学者金融学者として活躍している武蔵大学の鈴木武雄君、地方財政の権威になっている藤田武夫君があり、台湾の日月潭水力発電所を建設した早稲田大学講師の後藤曠二君がある。それらのすぐれた人達と平和な空気の中に過ごし得た壮年の日はなつかしい。(わたくしの東京6「日比谷の思い出」)
 これから明らかになる事実というのは、ある意味で、猪間のこの一文さえ裏切るようなものではなかったかと私は思っています。

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2014年09月13日

内海丁三、石橋湛山との日々(追記)

 『大蔵省百年史』別巻を調べたら、櫛田光男の名前が出ていました。それによると、
1946年2月2日、大蔵省に理財局が再置され(1945年5月19日に廃止されていた)、櫛田光男が局長に就任する。
1947年9月21日、理財局が廃止され、櫛田は大蔵省を去っている。

 この間、以下のことが起こっています。
1946年5月22日、第一次吉田内閣が発足し、石橋湛山が大蔵大臣に就任する。
1946年6月1日、大蔵省管理局が新設される。
1946年9月、大蔵省内に在外財産調査会が設置される。「本調査は大蔵省管理局当時に計画着手されたが、その後、組織の改変に伴い、理財局によって完成されたものである」(『日本人の海外活動に関する歴史的調査』総論「例言」)
1946年11月、猪間驥一、新京より引揚げ、調査会のメンバーとなる。
1947年5月17日、湛山、GHQ令により公職追放となる。
 以後、前述のごとく、猪間・内海丁三の湛山との接触が活発となります。

1947年11月9日、湛山が内海と櫛田を引き合わせる。
1947年12月、猪間他、在外財産調査会報告書『日本人の海外活動に関する歴史的調査』脱稿。
1950年7月、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』印刷製本完成。
1951年6月20日、湛山の公職追放解除。

 櫛田は、湛山が公職追放となった後、大蔵省を去り(事情はともかく)、湛山に会っているのですから、大蔵省内で湛山の腹心の部下であったことは間違いないと思います。
 その櫛田と内海をわざわざ鎌倉に呼んで会わせたのはなぜだったのでしょうか。あくまで私の推測ですが、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』草稿の保管に関する申し合わせがあったような気がしてなりません。
 
 ちなみに、1946年6月1日、大蔵省に管理局が新設されて以来の統括責任者「管理課長」(局長ではない)は、伊東武郎(-1947年8月27日)、前野直定(-9月15日,-1949年5月25日,-6月1日)となっています。
 『大蔵省百年史』は上巻・下巻・別巻からなり、1969年10月に刊行されています。青木得三の編纂によるもので(ただし途中で亡くなっている)、青木が大内兵衛とともに編纂した『昭和財政史』(1965年)の後を受けたものですが、ザッと見たところ、戦争の責任を高橋財政に押し付けるようなこともなく、客観的な記述になっているように思われます。
 そのうち読んでみようと思っています。

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2014年09月07日

内海丁三、石橋湛山との日々

 『名峰湛山:石橋書簡のあとさき』(1957年)に収録された内海丁三の「石橋さんという人」を読みました。
 一
 私が石橋さんにお近づきを得たのは、昭和五年の金解禁の前だったか後だったか、とにかく石橋さんら“街の経済学者”が新平価金解禁を提唱してあられた頃からである。私は当時大阪朝日に勤めており、その前から東洋経済新報の愛読者で、一、二度投書などしたり、その投書が全文雑誌に掲載されたりしたこともあった。そうした縁で、石橋さんの帳面の一角に私の名が留められてあったらしく、石橋さんが講演で下阪されて、大阪ホテルでその歓迎晩餐会のようなものが開かれたとき、わざわざ私を呼んで下さった。然もメーンテーブルの石橋さんの隣席に座らせられた。(……)
 食後の歓談のとき、新平価解禁の正しい理屈は正にお説のとおりだが、実際問題としては不可能であって、政府の実行した――あるいは実行せんとしている――行き方以外には途はないと思うという意味を、生意気にも弁じたところ、大いにやっつけられると思いの外、「いや、しかし評論家としてはネ」と、アッサリ笑って答えられたのには、拍子のぬけた感じがした。(……)
 最初の出会いが、1930年頃であったこと、そして、猪間とは別に独自に出会っていることがわかります。
 二
 終戦の翌年、鳩山内閣が今にも生れるというころ、石井光次郎さんの紹介で、私は、組閣第一声の演説原稿のお手伝いに、当時麻布にあった鳩山さんの仮寓へ、二、三日通ったことがある。ある日、大蔵大臣には誰がよかろうかという話が出た。(……)
 石橋さんは戦後初めての選挙に、ちょうど私の住む東京二区(注=当時)で出馬された。私は家内の票や近所の知り合いを説いた票を献じて陰ながら御当選を祈ったが、遺憾ながら当時まだ石橋湛山の名を知る人は少なく、落選された。(……)
 この二つのエピソードのうち、前者は首相就任を目前にしていた鳩山に大蔵大臣として湛山を推薦した話であり、後者は選挙で湛山を応援した話で、いずれも直接会ってはいません。
 三は、いわば内海による石橋湛山論になっているのでここでは省略します。
 四
 昨年暮れ(1956年)、石橋さんが総裁になられたとき、私は十年余りの溜飲が一時に下がった思いをした。そして、超派閥の体制で石橋内閣が生れたとき、政府の前途に対して、名状し難い玲瓏な明るさを認めた。(……)それだけに、退陣されたことは、何としても遺憾に堪えない。今日では一日も早く往年の精悍さを回復されて、再び政界で重きをなされんことを祈るのみである。
 この四より前、二に相当する時期に、実は「語られない日々」がありました。つまりこの頃、猪間驥一は『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の編纂に携わり、湛山は第一次吉田内閣下で大蔵大臣に就任した後、約4年間公職追放になっていたのです。
 『石橋湛山日記』によれば、内海は少なくとも9回、湛山に会っています。

□1946年12月3日、湛山、引揚者代表(猪間と思われる)に会う。猪間、大蔵省内に極秘設置されていた在外財産調査会のメンバーとなる。
□1947年5月17日、湛山、公職追放となる。
□1947年6月13日「午前十時頃出社。午後一時頃より海運局にて講習学生に向って講演、三時頃まで。猪間氏の依頼による」
1947年11月9日「在鎌。午前内海(丁三)氏来談。櫛田、青木均一、諸井貫一の三氏に内海紹介の名刺を与う」
□1947年11月27日「午後一時より自由思想協会第一回会合。議会関係者は本日議会の関係にて出席せず。東洋経済編輯部首脳者、猪間氏等にて懇談、今後の運営方針等協議、三時半頃終了」
□1947年12月1日「午後一時半頃より自由思想協会第一回研究会を開く。集る者、工藤復金副理事長、横田庶金理事長、安積得也、猪間驥一、その他東洋経済編輯幹部等」
□1948年2月13日「十一時頃事務所に赴く。午後二時より常例研究会、猪間氏より米国の労働法につき報告を受く」
□1948年5月11日「午後一時より生方氏肝入の会合を催す。福泉よりウィスキー及びブランデーの寄贈あり、之を饗す。煙山、本山、村松、杉森、猪間、関、徳川、馬場、生方の諸氏参会、頗る賑かなり」
□1948年10月7日から1949年12月末日まで『湛山日記』の空白期間。この間に自由思想協会の活動に圧力がかかり、湛山の事務所が閉鎖される。
1950年1月1日「年賀客 谷一士 猪間驥一 内海丁三氏」
□1950年7月、『歴史的調査』の印刷製本が完成。
□1950年7月15日「午前猪間驥一氏来談」
1950年11月12日「午後四時より内海丁三、猪間驥一、延島英一、大原万平の四氏を招きて夕食且つ歓談。延島という人は甚だ説に富む人なり」
1951年1月1日「終日在宅。午後谷一士、石澤誠一兄弟、島村一郎及仝秘書、内海時事新報編輯局長、泉山三六及仝秘書等来駕、年酒を供す」
1951年1月29日「午後四時より経倶にて内海、猪間、延島及び大原氏と会食」
1951年3月4日「午後二時内海編輯局長約に依りて来談。別段の話もなけれど雑談して四時ごろに至る」
□1951年3月31日「午後三時経済倶楽部に赴き猪間驥一、渡辺滋氏等と会談」
□1951年5月6日「来客多し。三島市の鈴木栄、猪間驥一氏、石田博英氏等」
□1951年6月20日、湛山の公職追放解除。
□1951年9月4−8日、サンフランシスコ講和会議。
□1951年10月26日「午後三時より猪間氏の依頼により中央大学にて講演一時間余」
1952年1月1日「帰宅すれば島村一郎、浅川栄次郎、片桐良雄の諸氏来賀、酒を出す。宮川氏一家、猪間氏等も亦来。夕刻内海丁三氏、泉山三六氏来、いずれも酒を出す」
1952年3月29日「十時時事新報内海氏外記者一名、対談、不況打開策につき語る」
□1952年4月28日、サンフランシスコ条約発効。GHQが廃止される。
1954年1月1日「午後来客多数五時すぎまで。島村代議士夫妻、片桐元秘書官、坂本警備犬協会理事、河村医博等、賀陽之宮様、内海丁三、猪間驥一(……)」

 この時期は、内海が猪間の亡くなったときに書いた追悼文「猪間驥一という人」の、以下の部分とも重なっています。
 終戦後引揚げてから、君は中央大学で講壇に立ち(1948年〜)、私もちょうど同じ駿河台に新聞研究を志した事務所を設けた。君はよく遊びに来て談論した。猪間君ともう一人N(延島英一)君というやはり話好きの友人がよく訪ねてきて、保守反動の徒が三人集まり、自ら戯れに「駿台学派」と称した。話題は万般の時事問題、中でも当時の社会主義流行の風潮について語った。
 湛山の事務所も実はこの駿河台にありました。
 以前より、内海ら「駿台学派」のメンバーが、公職追放期の湛山の影の協力者であったのではないかと推察していましたが、ここにきて『湛山日記』の「櫛田(光男か)、青木均一、諸井貫一の三氏に内海紹介の名刺を与う」という箇所が気になり始めました。青木、諸井は実業家ですが、櫛田は大蔵省理財局長だったからです。『大蔵省百年史』(1969年)というものが出されているようで、少し調べてみたいと思います。

◎内海丁三の湛山関連評論:
1954年5月8日、「気にかかる『異端者的』」(『東洋経済新報』「石橋氏の経済再建私案批判」特集)
1957年2月、「石橋内閣に望む――国民に夢を抱かせよ 」(『東京だより』)
1957年2月、「石橋内閣の外交的課題 」(『政治経済』)

石橋湛山(1884.9.25‐1973.4.25)
内海丁三(1897.4.3‐1973.3.5)
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2014年09月05日

石橋湛山と自由通商協会

 石橋湛山と自由通商協会の関係を確認するために『上田貞次郎日記』を参照して驚いたのは、1936年2月26日の二・二六事件の翌日、二人が同じ場所にいて、この事件についての議論の輪に加わっていたことです。

1928年1月14日、湛山、工業倶楽部における東京自由通商協会の会合に出席する。
◎『上田日記』1928年:「一月中の事 十四日に自由通商協会発足式をやった後風邪で引籠り、(……)」
1928年1月28日、湛山、『東洋経済新報』に「いかにして自主独立の精神を作興するか――自由通商協会の設立について――」を発表。1838年、コブデン、ブライト両闘士を首領としてマンチェスターに繰り広げられた穀物条例反対同盟の運動を紹介し、自由通商協会を「いわば1928年極東の島帝国に現れた穀物条例反対同盟だ。志立氏は或はコブデンで、上田氏は或はブライトであろう」と評価する。
1929年10月19日、湛山、『東洋経済新報』「時評」に以下の記述。
【自由通商協会の決議】上田貞次郎氏の草案であると言う自由通商協会日本連盟の決議案にこういうのがある。「……金解禁の一時的対策として関税引上を行うことは右の大方針(自由通商の……筆者註)と矛盾するのみならず、一旦引上げられたる関税を減廃するは極めて困難なるを以って断然最初よりこの案を取らざるにしかず」。同感であるがこの反対建議理由には最も重要な問題が無視されていはせぬか。なぜかと言うに、関税引上と平価金解禁とが直接矛盾すると言う点に言及しておらぬからである。されば、「一旦引上げられたる云々」の代りに矛盾の他の理由として、「金解禁そのもののためにも最初より引上げてはならぬ」と言う意味の句に改めて欲しかった。

その後の自由通商協会の活動状態…。
◎『上田日記』1929年:「自由通商協会 同会は、大阪は相当振ておるが、東京は志立氏と自分の他に熱心な人がいないので、一向に盛にならぬ。(……)」
◎『上田日記』1931年:「自由通商協会 この会は存立しているけれども一向に振わない。志立氏と余はやるつもりでも他の発起人は非常に冷淡である。時々研究会などやっても会員外の人ばかり来る。併し、大阪の協会は、平生釟三郎、村田省蔵、田口八郎、岸本彦兵衛等が熱心にやっているばかりでなく、共鳴者が少くない」
◎『上田日記』1933年:「五月中 五月三日大阪へ行き(……)大阪自由通商協会の理事諸氏にも会談した。この時自由通商協会連盟の本部を大阪へ移しては如何との説あり、余は同意した。この会合が動機となって、本部移転は十一月に実行されたのである」
◎『上田日記』1933年:「六月中 東京自由通商協会の財政は、協会連盟の財政と一所になっていたが、連盟を大阪に移すことになれば、その財政を立直さねばならないので、井上貞蔵氏が寄付金(年額百円)の勧誘に巡った処、今の事務所を維持するだけのことは出来るような見込がついた。その上、三井の安川雄之助氏から、海外に向って自由通商を宣伝するなら、その費用を貿易奨励会から出させるとの申出あり。相談の結果九月以後 Liberty of Trading Bulletin を毎年四、五回出すことになった。No.1 は Japanese Population & World Trade だ」
◎『上田日記』1934年:「自由通商協会 英文パンフレット第2号発行。日豪貿易論」
◎『上田日記』1935年:「(一月)十四日 自由通商協会理事幹事会」
◎『上田日記』1935年:「二月一日 東京自由通商協会総会」
◎『上田日記』1935年:「(三月)二十三日 午後三時、大阪自由通商協会総会」

1936年2月3日、湛山、自由通商協会総会に出席。
◎『上田日記』1936年:「二月二十七日 正午、自由通商協会で遣暹(シャム)使節、安川雄之助氏の送別午餐会をやる予定があったから行った。市ヶ谷から日比谷行バスへ乗ったが、新議事堂前に多数自動車が輻輳し、兵卒の姿も見えた。叛軍か、官軍かは判らなかった。兎に角バスは平生の通りに運行した。しかし協会には安川氏は大阪へ行ったなり帰らぬ、というので欠席。志立氏、簗田氏(中外商業新聞社の簗田久[金+久]次郎か)、石橋氏、田口氏等が居て議論まちまちであったが、こうなれば仕方ない故、市街戦でもやって叛徒を平らげる他なし、もし軍隊が皆シンパであるため動かないなら、軍政府を立てるまでだという強硬論が多かった」
<『上田日記』1937年:「経済倶楽部 経済倶楽部は、東洋経済新報を中心とする社交クラブで、創立は数年前になる。余は最初からの会員だが、クラブには時々顔を出す位。常務は元東洋経済主幹、三浦鉄太郎氏が執っている」>
1938年1月28日、湛山、銀行倶楽部における自由通商協会の会合に出席。
◎『上田日記』1938年:「自由通商協会 会の事業は縮小せられ事務も至って少き故、銀座の事務所を閉じ、岸本商店に看板を移すこととした。書記上鶴氏は岸本にて採用す。移転に付ては志立、村田両氏と会談の際、志立氏の宅へ移しては如何と提議したが、志立氏承諾せぬ故、上記の通り田口氏に交渉して承諾を得た。この移転の結果、会は志立氏よりも多く平生氏に近づくことになるかも知れないが、それは悪いことではない。志立氏はあまりに理論的で時勢に対応する智慧が出ない」
◎『上田日記』1939年:「(一月)十六日 同日、自由通商協会の役員会をA.Iに開く。同会は事務所と事務員を岸本商店に托するようになってから、第一回の役員会であった。自由通商は最早実際政策ではなくなったので、役員会も雑談会に外ならぬ」

1940年1月20日、湛山、国際関係研究会の会合に出席、清沢洌、蝋山政道、上田貞次郎らと、新研究題目 International Organization について協議する。
◎『上田日記』1940年:「(一月)二十日 夜、国際関係研究会、東洋経済新報社にて開く。石橋湛山、蝋山政道氏が中心。芦田均、植原悦二郎、笠間(笠間杲雄か)、清沢洌、鮎沢巌、等集まる」
1940年4月29日より、湛山、朝鮮満州視察の旅へ。5月3日、朝鮮経済倶楽部設置。8日、新京着。6月14日、帰京。
◎1940年5月8日、上田貞次郎死去。

追記
・最後の部分は自由通商協会関連のものではありませんが、湛山と上田が1940年初めにも同じ場所にいたことを示すために引用しました。
・猪間と湛山の出会いが1924年末、湛山と上田の出会いが1928年初め(自由通商協会発足式)、猪間と上田の出会いが1932年秋、したがって湛山と上田の関係は、猪間の介在以前に生れていることになります。
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2014年09月02日

上田も農村工業協会に参加!

 本日、調べものをするために一橋大学の図書館へ行ったのですが、復刻版の『一橋新聞』を読んでいて面白い記事を見つけました。
救済策を掲げ
農村工業協会生る
上田(貞)教授も参加
 農村問題が熾辣をきわめこの匡救策が刻下の急務をなしているためこの度従来迄農村救済策としてその工業化を提唱していた理研所長大河内正敏博士を中心に、本学より上田(貞)教授が参加し、工人倶楽部、農林省の援助のもとに去る二日午後五時から学士会館で農村工業協会創立の大会を開催、定款、役員を決定並びに会長に大河内氏を推薦(。)農林省小平更生局長、全購連千石与太郎氏の祝辞挨拶等あり、救済策としての工業化の大綱につき意見が交換され、九時半閉会、同会の意義につき上田(貞)教授は左の如く語る。
 大河内君の提唱する点は科学の進歩によって精密工業の都会集中と熟練工によってのみ行い得た段階は既に過ぎて、農村の不熟練工によっても行い得るから、農村に工業を分散して余剰労力を利用し、これによって農村を救済しようとする案であるが、所謂一升の枡の例えで、これに最初豆を一升入れその隙に米、米と米の間に稗を入れると一升枡に一升五合入れ得る如くこれが農村産業の理想で、定期不定期に余暇の多い農村には副業は絶対必要だ、従ってこの余剰の労力を利用し得るなら商品がもっと理想的な状態に生産し得る、然しこのため唯賃銀低下によって生活状態が現在よりも低下される場合もあり得るからこれに対する対策も必要だ、それは兎も角、この協会の事業はこれから進展するもので、具体的対策は今後の問題である。
 湛山が推奨した農村工業計画に実は上田貞次郎も共鳴し農村工業協会の会員になっていたということです。
 湛山と上田の近さを示す資料になりそう、というより、これは大河内正敏を含め、東洋経済新報社が主催する座談会に参加しているような人々の大半の近さということになるのではないでしょうか。
 大河内はこの計画をアウタルキーを前提に立案し、上田はアウタルキーはダメだといっているので、このあたりのことをどう書いたらいいのかわからず舌足らずないい方をしてしまっていたと思いますが、けっきょく両者とも、湛山や猪間と同じく、農村工業化は農村工業化で必要であり、外国との貿易は貿易で必要だと思っていたということですね。
 うっかりしてこの記事が1934年のものであることは確認できるのですが(復刻版第3巻98頁)、日付を書き取ってくるのを忘れてしまいました。確認できしだいここに記入したいと思います。

【追記】ネットで読める『上田貞次郎日記』の1934年のところに次のような記述がありました。
農村工業化問題の会(技術家中心の会創立)。一月二十日

農村工業協会
大河内正敏子爵等技術家の一群が農村工業化を主唱し、一の財団法人を組織することになったので、理事に加わることを依頼され承諾。五月二日学士会にて会合あり。

十月中の事
農村工業協会理事会。

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2014年08月31日

地方交付税はなぜダメなのか

 1930年代の地方財政問題をめぐる石橋湛山や猪間驥一の議論が、原田泰さんの書かれているものと重なるものがあるように思われたので抜粋してみました。
■原田泰「地方交付税が地方をダメにする―シャウプの理想がアダに―」(『エコノミスト』1992年7月28日号)
「倒錯した地方分権」
 地方の財政力の拡充は良いことだが、よその地域の金を集めて自分の地域のために、本当に自由に、有効に使うことができるであろうか。
 封建時代の領主は、真剣であった。所領経営がうまくいかなければ、自分の責任になるからである。明治時代においても同じであった。ところが、シャウプ税制によって、地方は行政責任の主体ではなくなってしまった。失敗すれば中央からの補助金がくるという状況で、新しい試みをするという気概を失ってしまったのではないか。
■原田泰『都市の魅力学』( 2001年)
「基準財政需要額の増大」
 交付税交付金と補助金を加えた国からの財政移転の額は、地方債などを除いた全収入の半分にも及び、交付税交付金を受けていない都道府県は東京のみ、市町村は全国3,233団体のうち122団体だけである。要するに日本の地方自治体は、働くことができず、財産のない高齢者のような生活をしていることになる。
「課税自主権の消滅」
 地方が独自に課税する財源が小さく、中央からおりてくる交付税交付金と国庫支出金が大きければ、地方における支出は、地域住民への課税によってではなく、地域外の国民への課税によってまかなわれることになる。このような状況では、地域住民の行政支出への監視は甘いものとなろう。公的支出は、その支出のもたらす地域住民へのサービスの内容によってではなく支出すること自体に価値が認められることになる。建設事業においては、建設されたものが住民にとっていかに役立つかではなく、それによって仕事が作られることが目的になりかねない。
■原田泰「財政を圧迫する地方交付税―歪む地方自治―」(『WEDGE』2012年3月号)
「負担のない収入が自治を衰退させる」
 結局のところ、地方交付税という地方住民にとって負担のない税収があり、それを使うことが地方議会と自治体の役割になってしまったことに根本的な問題がある。しかも、交付税にしろ他の補助金にしろ、地方には裁量の余地がほとんどない。これでは、ともかく寄こせの大合唱になるしかない。
 一方の石橋湛山、猪間驥一は…。
■1935年4月27日「今週の経済界」(『東洋経済新報』5月4日号)
「地方財政交付金の問題」
石橋 それと僕は市町村へ金をやるについて困った事だと思うのは、そうなると取らなければ損だ、貰わなければ損だという弊風がある。丁度各省の大臣が予算の分取りをやるように……。
■1935年7月20日「今週の経済界」(『東洋経済新報』7月27日号)
「地方財政交付金の問題」
西野 地方に対する交付金制度の再吟味が必要ですネ。
小川 交付金の必要があっても、長く続くと必要の限度が少なくなる。今日ではヨリ必要のあるものが出て来ているのに、貰っている者は既得権を主張して、放すことを欲しない。此の制度は根本的に再検討をして、整理する必要がありますヨ。
西野 いま交付金が二億五千万円も出ているが、府県が国庫から貰って、これを町村にやっている。補助を受けている者が更に補助を他の者に与えている状態で、或る府県の場合なんか、制限課税の大部分を町村に与えている。また農村自体にも整理の余地があると思う。
大口 私も再検討の余地があると思います。随分弊害もありますからネ。
猪間 貧乏村たることを競争して吹(聴し)ているんじゃありませんか。
石橋 村長を決める標準が補助金の取り方なんだからネ。大臣が予算の分捕りをやるのと同じ様に……。
小川 いわゆる腕なんですヨ。腕のある者がエラい。全体の財政に対する見解なんかよりも(之)に対する考が強い。予算分捕の止まぬ所以だが、世間がエラく見るから、何うしても其の気分で動く。一つ此の見方を変えんといかぬ。
■1935年7月2日「山崎農相縦談」(『東洋経済新報』7月20日号)
石橋 それから地方へやる補助金助成金というものが、どうかすると地方を乞食(ママ)根性にしてしまう。貰わなければ損だということになる様ですネ。
農相 然うです。そこが難しい所なんです。それだから、思切って国の財源を町村にやって豊かにすれば地方は救えるが、現在では何と云っても国の補助がなければやれぬのだからやる。やると又悪い習慣が伴って来るというわけで、その加減が実に難かしい。
 これは戦後に書かれたものですが…。
■猪間驥一「地方交付税、地方補助金、両制度のかみ合わせについて――地方財政上の一問題――」(『商学論纂』1963年7月号)
 中央行政と地方行政とは、本来その事務範囲を豁然と分けて、重複を避けつつ、それぞれ企画から末端の執行までを担当せしめるようにするのが、理想である。しかしわが国では、永い歴史的事情と行政費節約の要請とから、これは至難事であって、中央が企画し地方をして遂行せしめる、という地方自治無視の行政事務が非常に多く、しかも中央、地方、官民ともに、これに多くの疑問を挟まない。ここに問題を解く非常な難点がある。
 鈴木武雄は、『石橋湛山全集』の月報に「地租委譲論と石橋さん」を書いていますが(2014年6月13日「寄り道:鈴木武雄と地租委譲」参照)、鈴木には、こういうところが理解できてなかったのではないかと思います。
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2014年08月27日

志立鉄次郎と東洋経済新報

 石橋湛山による政府要人インタヴューを終わらせてからと思ったのですが、これが思いのほか手間取っていますので、ここに志立鉄次郎(しだちてつじろう)についての話題を一つだけ挿入させていただきます。
 最近、志立鉄次郎、上田貞次郎らが参加した1927年のジュネーヴ国際経済会議が、「史上初の貿易ラウンド」と呼ばれていることを知りました。
 林正徳さんが『農林金融』2012年12月号に発表された「国際貿易――1927年の輸出入禁止制限撤廃条約交渉とその今日的意義――」を読んでのことで、ここには、志立鉄次郎と上田貞次郎が会議の後、自由通商協会を設立したところまでフォローされています。
 おそらく林さんの意向とは違った「今日的意義」ということになるかと思いますが、石橋湛山や上田貞次郎の自由通商に関する共通ヴィジョンについて書くのにこれを利用させていただこうと思っています。
 そして、以前どうしようかと迷った志立へのインタビューですが、ここに取り上げることにしました。『東洋経済新報言論六十年』(1955年)に収められているもので、前回取り上げた町田忠治との関係もよくわかります。
 ちなみに、町田忠治(1863-1946)、志立鉄次郎(1865?1867?-1946)とほぼ同年代、湛山とは20歳以上の歳の開きがあります。
寄書家として
石橋 志立さん、古い寄書家としてお話を願います。
町田 私が御紹介するが、志立君が日本銀行に居られた時に、どちらの議論がよかったか知らぬが、当時の政府が支那の償金が這入ったについて金貨制度にすると云う時に、志立君は私の記憶する所では、東洋全体の形勢から金貨制度に賛成しない、寧ろ銀貨制度論を持って居られたので、日本銀行の内に居られて、堂々と日本銀行の当時の首脳部に反対の意見を天下に公にする。また同志と星ヶ岡に会合せられて銀貨制度を唱えられた事があり、それから中央銀行の金利政策に対して当時から独特の御意見があって、この経済新報にも矢張り志立君の意見が現われて居り、なかなか東洋経済新報としては有力なる同情者であり、有力なる寄書家でありました。この雑誌の現われました当時の経済事情に対しては深く研究されたので、私からもその時代の御感想を一つ承りたいと思います。
石橋 ぜひ一つ・・・・・・。
志立 陳腐な議論で忘れてしまったようで・・・・・・。
石橋 志立さんは今でも相当その風格がおありかと思うが、若い時には、なかなか謀反気が強かったのですね。
銀本位を主張す
志立 誰でも若い時はそうだろう。それじゃ一言申上げます。委しいことは記憶を去って居るので、纏ったことは申上げ兼ねますが、丁度町田君がこの雑誌を創立になります当時、私は日本銀行に居りましたが、時々日本銀行に町田君がお出下さって、お目にかかって、意見の交換をして大いに利益したことを思い出すのであります。これは東洋経済新報のできる直前のことであります。併し、東洋経済の生れる前の経済事情が窺われるから申します。それは丁度金本位制が発布になります以前、すなわち貨幣制度調査会(・・・・・・)が設けられます前後、金本位と銀本位の議論が沸騰いたして居ったのであります。私がイギリスに居りました時に、別に研究も致しませんでしたが、丁度その頃イギリスで金本位と複本位の議論が盛んに闘われた当時でありまして―今でも私はその当時イギリスでできましたパンフレットを可なり持って居りますが―亡くなりましたロード・バルフオァその他名士の複本位に関する意見を書いた右冊子を喜んで読んだものであります。それで大分かぶれたのでありましょう。帰りますと貨幣問題がやかましくなっていたので、渡辺千代三郎君が丁度私と同じ意見を持って居って金本位に反対致しました。当時日本の産業がまだ幼稚であり、貿易も同様であったので、金本位にすることは不得策であろうと思って、大胆ながら意見をしゃべったり、書いたりしたのであります。丁度松方幸次郎君が今の金本位停止について云われたと同じような意見を私は持って居ったのであります。併しあれ程に豪胆なことは云わなかったのでありますが、大体同じ考えを持って居ったのであります。

 志立鉄次郎の略歴を調べてみました。
◆明治-昭和時代前期の銀行家。 慶応3年生まれ。日本銀行,九州鉄道,住友銀行勤務をへて,大正2年日本興業銀行総裁となる。昭和2年ジュネーブでひらかれた国際経済会議に日本代表として参加した。昭和21年3月16日死去。80歳。出雲(島根県)出身。帝国大学卒。(コトバンクより)
◆1889年(明22)帝国大学法科大学を卒業して日本銀行に入り,ついで3か年欧米に留学,帰国して同行西部支店長になったが,総裁山本達雄と意見を異にして,1899年(明32)退職。ついで住友銀行に入って支配人となったが,やがて勝田主計蔵相との対立から1910年(明43)同行を辞職した。その後は大阪朝日新聞社に入って経済部客員となり堂々の論陣を張った。1913年(大2)日本興業銀行の総裁となったが,また勝田蔵相と意見が合わずその椅子を去り,1927年(昭2)5月,ジュネーブで開かれた国際経済会議に首席代表として出席した。(これがどこからの引用なのかわからなくなりました。わかったら書きます)。
 湛山のいう「なかなか謀反気が強かった」というのはこのあたりのことですね。
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湛山の町田商相インタヴュー

 石橋湛山の政界要人インタヴューの中でも私が最も注目したのは、この町田忠治商工大臣に対するものでした。高橋是清の場合は基本的な認識の確認に重きがおかれているのに対して、町田に対するそれは、具体策に踏み込んだ議論をしているように思われたのです。
 高橋是清へのインタヴューでも触れられていますが、東洋経済新報社を設立したのが、この町田であり、日本で初めてインタヴュー形式での取材を行った人物でもありました。

1935年5月11日「町田商相縦談」(東洋経済新報』5月25日号)
 町田に対して用意された質問は、以下の通り。
1. 我が国の経済は、甚だ古い言葉でありますが、所詮所謂商工立国主義によって進む外なきやに考えます。其の商工業を殷盛ならしむるに就て今日我国民の最も努めねばならぬは如何なる点でありましょうか。
2. 近年我国の経済は自由主義と統制経済主義とを繞って彷徨しつつある如く感ぜられます。今後我経済国策の中心は何処に置かるべきでありましょうか。
3. 近年の我輸出貿易の伸張は一面頗る喜ぶべきでありますが、同時に又我国民労力を海外に安売りする弊にも陥っているように思われます。これに就ての御感想乃至御対策を伺い得れば幸です。
4. 経済の目的は国民の生活を豊富にするにありと愚考致します。輸出産業以外の産業の振興によって亦此目的を達する方法は考察されないでありましょうか。
5. 地方に於ける産業組合と中小商業者との対立、及び都市に於ける百貨店と中小商業者との抗争は如何にして之が調整を図るべきでしょうか」。
6. 中小商工業者の最大の悩みは其金融難にあると存じますが、之に関する御高見は如何ですか。

 インタヴューの小見出しと気になった部分を抜き書きします。
工業立国中心主義で進む外なし
・「(湛山の)御説は如何にも尤もだ。我国の様に天然資源に乏しく、人口が多く其の増加率も著しい国柄では自給自足の経済政策は事実上不可能だと思う。だから商工業を盛んにして、外国から原料材料等を輸入し、之を工業化して輸出するという風に進む外なかろう」
・「ただ(……)私は農林行政には二度ばかり当っておりますので其方面から考えると、(……)商工立国主義とか農本主義とか産業の特定の部門に偏するのは、国民を指導する上に誤解を生ずる虞がある」
明瞭でない農商の区別
・「農業の経営も、今日では肥料を始め工業製品の供給に俟たねばならず、其経営方法や技術も工業のやり方を取り入れねばならぬ状態だから、昔の様に農業と商工業の考え方にハッキリした区別がなくなった様だネ」
総合的産業政策の提唱
貿易政策は通商自由を原則に
・「一番心配なのは日本品が海外に進出しているので輸入制限やら輸入割当等をやって日本品を阻止することだ。(……)日本の立場から云えば、自由通商の大旗を振り翳して、良い品物を廉く世界に供給するという主義を貫かねばならない」
・つまり第1問については、町田が、湛山や上田貞次郎同様、商工立国主義を採っていることがわかります。それでは、第2問の統制経済主義は採らないのか? そこは微妙なようです。
一時の対応策は?
・「甚だ面白くない事だが一時の対応策として、日本及満州は勿論、原料の豊富な支那、シャム、案南等の東洋諸国の間に経済的提携を緊密にして、いま欧米から取っている原料を、将来は東洋で賄うというやり方をとるのも仕方あるまい」
・湛山は「日本がそんなアジアブロック政策をとったら、益々外国を刺激しやしませんか」と疑問を差し挟みますが、町田は、「各国がそれをやる以上、また各国をして自由通商の本態に戻らせる意味に於ても、地から或対抗策をとるのはどうも仕方ないネ」と答えます。
・他方で、「(ドイツの例のように)科学の進歩によって、従来其様な原料でなければ製品が出来なかったという考え方を学問の力で変える、外国から仰いだ原料を国内で出来る他の原料に代えるという様に、科学の進歩次第でいくらでも方法はあろうと思う」とも。
日本の経済はまだ自由主義経済
或程度の統制はやむなし
輸出統制は強くやる
産業統制法は修正する
・「あれが出来たのは浜口内閣の時」、「当時非常な不況で何んとかして産業を保護せねばならぬという意味で出来たのです。然しいまでは経済状態もやや好転の方にありますから、あの産業統制の弊害は寧ろ生産者保護に傾き過ぎた嫌があり、それだけ消費者大衆は不利益な立場になっている」、したがって、「来年産業統制法の満期後も之を存続するという事になれば、此目的を以て修正を加えた統制法にしたい」としています。
・第3問については、「このお尋ねは極めて御同感」とし、「労力を安売りすることは、矢張り物的資源を海外に安売りしていることと変りはなく、国民経済上に及ぼす影響は余り宜しくない」としています。
日本の進むべき道は中小工業
・「世界的不景気の中で日本だけやや景気が好いのは、軍需工業の殷盛という事情もありましょうが、我国の工業が概して中小規模のものが多いという事実も其有力な原因でしょう」
日本の動力を廉くせよ
・湛山の「電気をモット廉くすることが非常に必要だと思います」という発言に対し、町田も「どうしても電気が廉くないと駄目だ」としています。
審議会の初の問題は農村問題
・「大蔵大臣などは日本の産業を盛んにし、不景気を挽回するには購買力を増す、農村の購買力を増すということを始終云ておるが、此意味は農家経済が成り立つ程度に農産物の価格を維持しなければならぬことは勿論であるが、同時に多角経営とか副業とかも奨励する。然しこれだけで農村全体の購買力を増すことはなかなか容易でない」
・「それには矢張り一面には負債整理負担軽減、それに例のやかましい交付金問題なども解決する。之を解決するに付ては、或は昔あった地租営業税の委譲という問題も出ましょうが、果たして之だけで足りるかどうかを研究することになりましょう」
今後の農村対策
・「農産物価格の安定」、「農業の多角経営」、とくに「農村の工業化」、「規格の統一」(自転車の部品、蓄音器、ソケット等)。
通商自由が根本的政策
・「日本の人口の増加から見まして、(……)今の農業人口が半分位にならなければ、農村の生活が立って行くことは難しいと思う」
反産運動をどう見るか
中小商工業の金融機関は中央金庫がいい

 ここでもう一つ踏まえておきたいのが、このインタヴューにも同席した吉野信次次官(吉野作造の弟)との二人三脚ぶり(新聞記事参照)。インタヴューにあった産業統制法の改正、また後に中央金庫を実現させています。
神戸新聞 1935.4.25(昭和10)
愈あす開く工業組合大会
五百六十余組合一千名集る
町田商相を迎えて
「町田商相初め吉野次官、恢工務課長、柏村書記官等(が出席)」
大阪毎日新聞 1935.4.26(昭和10)
産業統制法は輿論に聴て改正
紡連対綿布輸組の紛糾は妥協がつく
西下の吉野商工次官談
「24日名古屋発同夜養老に一泊した吉野商工次官は25日大垣駅から燕で西下した町田商相と同車神戸に先行したが車中左の如く語った」
大阪朝日新聞 1935.5.26(昭和10)
重要産業統制法修正の上恒久化
きのう官民懇談会
重要産業統制法の改廃問題について商工省は二十四日商相官邸に官民懇談会を開会
「商工省より町田商相、勝、吉野両次官、高橋参与官以下各局部長、民間側より(……)の諸氏出席」
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湛山の高橋蔵相インタビュー

 1935年4月から7月にかけて、石橋湛山が集中的に行なった5人の政界要人へのインタビューを見ていきます。今回取り上げるのは、高橋是清大蔵大臣。ただし、冒頭の東洋経済新報社で創刊した英文雑誌の紹介や東洋経済創刊当時の思い出は、ここでは省略します。

1935年4月20日「高橋蔵相縦談」(『東洋経済新報』5月4日号)
 高橋是清へのインタビューでは、湛山は、6項目にわたる質問表を用意していました。質問それ自体が政策提言になっていることがわかります。
1. 我国の財政は近年急激に膨張した観がありますが、併し例えば之を英米等の歳出に比するに、もとより未だ少額であります。人口一人割に致して見ても何分の一に過ぎません。然るに軍備を初めとして一切の国際的符合は彼等と同等に行わざるを得ぬ現情勢を考えますと我財政の歳出は今後尚お増加致せばとて、減少の見込はなきように存じます。又減ずることが我国民生活に取って必ずしも善い結果を生むと申せぬように考えます。如何のものでありましょうか。
2. 我財政の歳出が若し今後も減少する見込がないと致しますれば目下の我財政の悩みたる歳入不足も亦之に依って消滅せしめることは不可能に考えられます。私見に依れば、我国民は大に努めて生産を盛んにし、所得を増加し、膨張する国費模負担に耐える力を養う以外に財政処理の途は無きように考えますが、如何でありましょうか。
3. 閣下は先般の議会に於て、将来困難に陥るべき時期の一として、事業資金の需要の激増する場合を挙げられました。私見に依るに、事業資金の需要の激増する場合は、取りも直おさず国民の生産活動が旺盛に赴き、其所得の激増する時期でありますから、之こそ実に我財政の歳入不足を消滅せしめる好機ではないかと考えます。然らば我官民は、一日も早く斯かる時機の到来するよう努力するのが此際最も急務であると存じますが、如何でありましょう。又若し幸にして御高見も同様であるとすれば、此時期を速に齎す方法に就て御教示を仰ぎ度く存じます。
4. 低金利は、屡々閣下の御教示ありし通り、国民の産業活動刺戟増進する最も有力な梃の一をなすものと信じます。然るに今わが国の金利を見るに例えば公債利子に致しても英米に比し未だ遥かに高い位地にあります。私見に依るに我此の公債利子は尚お引下ぐる余地ありと存じますが如何でありましょう。
5. 今日の我国の金利は四分利交際に依って底が入れられたる観あり、最近米穀証券等の売行が云々せられるも、実に公債利子高きにすぐる為めならずやと愚考致します。併し此観察は誤っておりましょうか。
6. 最近一二の地方を旅行致したるに、殆ど到る処に於て小商業者に対する購買組合の圧迫と商工金融の不円滑とに対する苦情を聞かされました。此等に就て亦御高見を承り得れば幸であります。
 1〜3は財政の膨張に関するもので、以下の小見出しが是清の答えになっています(わかりにくいところを是清あるいは湛山の発言で補っています)。

赤字財政の前途―肝要な事は無駄遣いをせぬ事
借金が殖えても富が殖えれば心配はいらぬ
国防は不生産か
・「成る程国防は直接生産はしない。が国防に使う金は大に生産に関係を持っている。国防の為めには、材料も要る、人の労力も使われる。其等の人の生活が之に依って保たれる。だから拵えた軍艦そのものは物を作らぬけれども、軍艦を作る費用は皆生産的に使われる」。この是清の認識は、後に湛山が問題とするところですね。
ルーズヴェルトは理論に走りすぎた
・「例えばアメリカには失業者が沢山にある。之を救済しなければならない。それから農産物の価を高くしなければならない。それには賃金も安くてはいけない。それで何うしたかと云えば、御承知の通り、労働者が今まで六時間働いていたのを五時間に縮めた。そうすれば(……)そこに一人新しく入れることが出来る。即ち失業者をそれだけ減らす計画を立てた。それから賃金は最低賃金法を定めて下げさせない。斯う云う事でやって見た所が、それが人の心に何う云う影響を及ぼしたか。働くと云う気が薄らいで来た。楽をして食おうと云う気になった。其の弊害が、ずっと判って来た。イギリスの失業保険と同じだ」
人を働かせる工夫が真当のやり方
・「そこで今度は、大統領も人を働かせると云う方針に変えて来た」
・ここで湛山は、「不景気の時には、軍備拡張も、考え方に依っては一方法です」と述べ、また「生産の伴わない通貨を出すことになればインフレーションですけれども、生産が伴う限りは、御説の通り無駄さえしないで上手に使って呉れれば財政の膨張も或程度差支えないと思います。国家も経済的には一つの株式会社だと考えれば、赤字公債は資本金と云う事になりましょう」とも述べています。
成金贅沢
・「先年大戦争の時に成金と云う者が出来た。其等がえらい贅沢をやって、一人前百円の料理でご馳走をしたなど云う評判が新聞にも出た。(……)併しそれが全く無駄になったかと云うと、そうばかりも言えないと考えた。例えば芸者に祝儀をやる。それは芸者が何か買う元手になるのだから、つまり生産者を潤すことになる」
 4・5は、低金利を促進する提案です。
長短金利の差
・「それは私も反対ではない。併しそれなら金利は何処まで下げるのが適当か。之は簡単な問題ではない」
公債の四分利は高すぎぬか
・是清はこの問いに対しても、「日本には、まだ英米ほどに大金持がいない。それはつまり、資本の集積が少ないと云う事だ。斯う云う状態で、利息だけを英米の真似をして無理に安くすることは出来ない」といっています。
金利が下りすぎても困る事がある
三井三菱がもう二三十軒もほしい
低金利政策は機会さえ来れば進める
建築費統計が欲しい
満州投資に就ての注意
・これは、この年の初め、是清が「満州投資の抑制」をもち出して世間を驚かせたことについてのものですが、是清の真意は、無駄遣いや無暗に会社を興したりすることを戒めることにあり、「けれども満州に対しては、まだ各国が独立国として認めないと云うわけだから無論二本は出来るだけの世話はしなければならない」と確言しています。
昨年の国際収支
為替の前途は心配がない
日本の為替は磅(ポンド)にリンクするが適当
普通銀行の預金利子
金利が上ると銀行が却って困る
 最後の購買組合に関する質問は、「中小の商業者が購買組合の圧迫に苦しんでおる」状況についてのもの。
購買組合と地方の産業
・是清は、「産業組合というようなものも、少し行き過ぎたやり方をしているかも知れない。そう云う事で小さな商売人を苦しめる事は考えなければならない」と答えていますが、農林省ではこれをもっと進めようとしていたようです。
地方には地方生抜きの銀行が必要
地方救済に国家の負担は辞さぬ
県知事は死ぬまで其の地方に

 以上、私が気になった箇所を抜き書きしてみました。

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2014年08月07日

いくつかの新しい情報7

 最後にもう一つだけ、東洋経済新報社京城支局がどのように設立されたのか、ヒントになる記事をご紹介します。拙稿「経済学者、鈴木武雄の大陸前進兵站基地構想と戦時下、東洋経済新報社京城支局による『大陸東洋経済』の創刊」を読んでいただいた方以外に、関心をもたれる方はないとは思いますが。
今週の経済界」(『東洋経済新報』1935年11月2日号)
台湾工業化の方向と限度
昭和10年10月24日
於大阪・綿業会館
座談会出席者
野村合名調査部長 熊田克郎
金田商店調査部長 後藤一平
東洋経済新報社関西支局長 小倉政太郎
台湾景気はいい
小倉 熊田さんこないだ台湾へ行ってらっしゃった様ですが何か土産話はありませんか。
熊田 台湾景気はやはりいいようです。最近物価が一割も上がるという始末です。
 それから近年内地のように風水害がないことが台湾の農業を具合よくしている。どういうわけか例の名物風が最近一寸も台湾に上陸しないらしい。台湾経済では何といっても農業が重要なのだから、これが気候に恵まれた効果は大きい。内地好景気の反映が大きいのではあるが……。
工業化の条件はあまりよくない
小倉 近頃やかましい工業化の問題はどうですか……。
熊田 朝鮮とは一寸趣きが違っていて、そうたいしたものは期待出来ぬようです。先ず工業発達の条件といえば、労力、土地、資源、市場の如何ですが、何れの点でも特に優れていると言い兼ねる。(……)
台湾工業化の方向
小倉 現在行われつつある工業化は……。
熊田 総督府では「熱帯産業調査会」というものを作って、砂糖、海運関係の実業家等を集めて、台湾及其付近に何をなすべきかを研究しております。もともと台湾電力の電力を消費せしむることが目下の工業化の眼目であり、それに工場誘致には朝鮮総督府程条件をよくしてないようです。
小倉 台湾には朝鮮のようにハッキリとした開発方針がない。
熊田 台湾に於ける植民地経営としては、砂糖の自給が出来たことだけで、まあ成功したと云ってよいでしょう。(……)
小倉 アルコール―砂糖の副産物―を原料として何か工業化が出来ないでしょうかね。
熊田 甘薯から砂糖を搾り取ってしまわずに、アルコールを増産せよと云う計画もあるが、これはどうしても燃料にするほかないらしく、而もガソリン程廉くはならんようです。(……)
 次ぎに満州の塩業に刺激されて、台湾製塩会社などで曹達工業をやり始めています。質は比較的よいようです。(……)
小倉 台湾の石油は有望ですか……。
熊田 石油は歴史的事実としては曾て出たことがない。今迄は金を出し惜しんで深く掘らなかったから、今度日産では深く掘ってるようです。今の所では瓦斯だけが出る様です。
小倉 化学工業はどうです。
熊田 硫安でもアルミニュームでも、何れも台湾電力の電力を消化するために総督府が力瘤を容れているので、他の原料、市場等の条件では取立てて有利なものがないのですから、そこに無理があるわけです。尚天然瓦斯の中に含む水素を利用して硫安製造をやろうとしているが、瓦斯の出るのは他(地)理的に制限があり、混合物が厄介であり、且設備をしてもいつまでつづいて出るか判らぬという難点がある。だがこれの利用には総督府でも力を入れて「天然瓦斯研究所」を作って真面目に研究して居ます。
後藤 繊維工業などは駄目なんでしょうね。
熊田 駄目です。
小倉 僕は植民地の工業化従って朝鮮、台湾への資本移出の増加は、日本の景気条件として小さくないものだろうと考えていたのが、台湾に於てはこの点は大して期待的ではないと云うことになりますね。
 このとき関西にいた小倉政太郎は、台湾の工業化については期待薄という認識をもち、朝鮮への関心を深めていくことになったのでしょうね。
朝鮮経済の実相を語る=統制に関し内地側に要望す=」(『東洋経済新報』1936年10月10日号)
昭和11年9月11日 主催 東洋経済新報社
於 朝鮮京城銀行集会所 後援 朝鮮実業倶楽部
出席者(朝鮮実業倶楽部メンバー21名+根津知好東洋経済外信部長)
挨拶 
朝鮮実業倶楽部会長 韓相龍氏
一言御紹介方々御挨拶申上げます。今回東京の有力なる「東洋経済新報社」が、朝鮮・満州並に支那に於て、産業経済の御視察の為に、社員を派遣されたのであります。(……)只今御紹介申上げますがこの方は外報部長の根津さんでございます。(……)
今朝鮮としましては、躍進の朝鮮でありますが、内地のかくの如き有力なる機関の幹部が、親しく朝鮮においでになり、朝鮮の総ての事情を御研究御調査になりまして、内外に御発表下さいますことは、極めて意義のあることと存じまして、我々は満腔の熱誠を以って敬意を表しておる次第であります。(……)
東洋経済外信部長 根津知好
座談会に入ります前に、どういう趣旨でこの座談会を催したかということを、一言申上げたいと思うのであります。朝鮮は内地との関係が既に古い歴史を持っており、そうして、満州よりも支那よりも、遥に深い関係があり、遥に近い場所にあるのでございますが、それにも拘わらず朝鮮経済に対する認識は、兎もすると薄らぎ勝ちのような傾向が見られるのでございまして、そう申す私自身も、朝鮮経済について甚だ研究の足らないものでございます。(……)
それで本夕は、先ずそういう風に朝鮮の経済についての認識を、内地の者に深めるということが第一の趣旨でありまして、同時に朝鮮の現地におって、色々御活躍なさっておる方々から、御要望が内地に対してあることと存じますが、そういう風な御要望を腹蔵なく述べて頂くことは、内鮮」の関係から見、併せて朝鮮経済の発展を促進する上に是非とも必要ではないかと思うのであります。この趣旨の下に、今回の座談会を催しまして、微力ながら東洋経済新報が、朝鮮経済の発展の為に寄与したいと思っておる次第でございます。
 脱線に脱線を重ねていますが、以後、石橋湛山の1935年政界要人たちへのインタビューをまとめ、「猪間驥一と地方財政問題」のつづきへ戻りたいと思います。
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2014年08月03日

いくつかの新しい情報6

 話が前後してしまって申しわけありませんが、湛山が地方財政問題をどのように考えていたか、よくわかる座談会記事だと思いましたので載せてみました(前回、前々回の記事は1936年のもの、今回の記事は1935年のものですのでご注意ください)。
1935年4月27日、「今週の経済界」(→5月4日号)
座談会出席者
民政党代議士 小川郷太郎
時事新報論説委員 西野喜与作
本誌記者 山田秀雄
読売新聞経済部長 山崎靖純
中外商業編輯局長 小汀利得
東洋経済新報主幹 石橋湛山

地方財政交付金の問題
山崎 小川さん、地方財政はどうなんですか。
小川 地方財政は非常に行詰って居ります。それを救うのが焦眉の急です。
西野 地方財政と云っても都市の財政は良いから、地方財政調整交付金の5,700万円も、市は後回しにして町村だけに交付することにしたら宜いと思う。
小汀 そうするのが尤もだけれども、実際問題として貧弱町村は発言権が無くて、良い町村が発言権がある。
石橋 それと僕は市町村へ金をやるについて困った事だと思うのは、そうなると取らなければ損だ、貰わなければ損だという弊風がある。丁度各省の大臣が予算の分取りをやるように……。
西野 それが非常にある。だからあれをやるとすれば目的なり、限度なりに条件を付けて限定しなければならぬ。

地方の独立税源はないか
石橋 どうしてもうまく行かぬと云うなら、独立の税源を市町村に与えて賄わせるのが一番宜いと思う。例えば地租委譲だけでは貧弱町村はいかぬというなら、教育費だけは国庫でやったらどうだろう。
西野 そうなると教育施設が画一的になる、画一的になると経費が膨張する。
石橋 地租を委譲して地方財政は救われないでしょうか。
小川 今では足りないです。宅地租でも都会の地租は高いが、農村の方は僅かのものですから。
石橋 何か独立の良い税源はありませんか。
小川 国の税と地方の税を選り分けるような制度を採らなければならぬ。今は付加税制度ですが、之を税の種類に依って分けるということになれば、根本的に考え直す必要がある。
石橋 租税の方で理論的にはどういうのが宜いですか。
小川 唯だ日本では地方で税の目標になるものが少い。例えば土地という様なものを目標にする税を国に取ると、農村には残されたものは無いことになり、困ることになる。日本では大体地方税は付加税が中心になって居るが、付加税の課けられないものを国で取って配分したらどうかということを今日まで考えて来て居る。

資本利子税に付加税を掛けよ
小汀 今日の様になれば資本利子税に付加税を掛けて宜いじゃないですか。
小川 東京だけが掛けて田舎の方は資本利子を有って居らぬから付加税は掛けられないことに法律がなっている。
小汀 税務官吏が公証役場へ行って公正証書の内容を調べれば宜いお。
小川 それは税制の根本を改革しないでも税を取調べる為めにもう少し何か相当交渉をつければ相当入ります。

 町田商工大臣へのインタビューでもこうした議論がありましたので、以下に。
1935年5月11日、町田忠治商工大臣「町田商相縦談」(→5月25日号)
町田 大蔵大臣などは日本の産業を盛んにし、不景気を挽回するには購買力を増す、農村の購買力を増すということを始終云っておるが、此意味は農家経済が成り立つ程度に農産物の価格を維持しなければならぬことは勿論であるが、同時に多角経営とか副業とかも奨励する。然しこれだけで農村全体の購買力を増すことはなかなか容易でない。(……)それには矢張り一面には負債整理負担軽減、それに例のやかましい交付金問題なども解決する。之を解決するに付ては、或は昔あった地租営業税の委譲という問題も出ましょうが、果して之だけで足りるかどうかを研究することになりましょう。例えば地租を例にとると今は六千万円位と思いますが、其うち三千万円位が農村の方に行っている。地租の総計を六千万円として、十年毎に賃貸価格によって変えて行くとすれば恐らく農村の賃貸価格は減って都会の方の賃貸価格が殖えて来ます。そうすると昔は地租委譲というものが非常な財源となったようだが、十年毎に段々減って行く処があるから地租委譲で財源を作るということは余程根本的調査をしてからでないと決められない。
石橋 あれによって救われるのは主として都会地ですな。
町田 併しそうなると地方に交付金をやるという考え方は変って来て、別な財源を考えなければならなくなると思うが、これから農村政策を決めるには、余程研究して貰わぬといかぬ。

 この頃、地租委譲だけでは足りないという考え方もあったのですね。

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いくつかの新しい情報5

 前回述べた『東洋経済新報』の「税制改革案の内容検討」特集に含まれる猪間驥一の論文は、この地方税制改革案の解説をも兼ねているので、ほとんどそのまま載せておきたいと思います。
猪間驥一「地方税制改革案の意味と影響」(東洋経済新報』1936年10月10日号)
 改革案の政治的意味
 今回の地方財政改革案は、一言にして之を蔽えば、従来の政友会の主張を半分、民政党の主張を半分、それに官僚独自の創案に係る主張を2倍だけ採って捏ね合して出来たものだ、と云う事が出来ようと思う。
 政友会の主張とは、云う迄も無く、地租、営業収益税の地方委譲だ。両税の税収額が今回の案では、全部地方の財源に与えられている。但し其の課税権は、政友会案の様に地方に与える事をしないで、国が握って離さない、と云うのだから、半分だけ主張が通っていると云うに不思議はあるまい。次に民政党の主張とは、例の小学校教員俸給の全額国庫負担である。之は国庫の全額負担と云う意味では、今回の案に全部実現された。併し民政党案では無論増額交付金が市町村に来る事を予期していたのに、今回の案ではその点は却って従来の教員給国庫交付金を市町村から取上げ、震央付近と共に之を府県に与えて、小学校教員の俸給は府県財政でまかなう事にしている。民政党案も半分採用されたと云う所以である。
 最後に官僚の創案と云うのは、問題の地方財政調整交付金制度を指す。各政党でも類意の案に似寄りの名を付けて、我党多年の主張と銘打って案を出しているが、あれはみんな内務省の当局から印刷物を貰って来て、所々朱筆を入れて改悪し、レッテルを貼りかえて出しただけのもので、主張の本家本元は新進気鋭の官僚の中にある。其の最初の案が昭和7年に提出された時には、交付金額は地方税の一割、5,700万円見当と云う事だったが、今回の案では之が1億1-2,000円見当になる筈であるから、全く文字通り二倍の分量が調合されていると云う次第である。
 税制体系上の重要変化
 では、税制体系の上にどう変動を及ぼすか、と云うと、之は無限の可能性を含んでいるが、国税の側から見て、最も注目すべき点の一つとして、国が収益税財源を完全に地方に委譲した点を挙ぐべきであろうと思う。家屋税が国に移管されたけれど、それは課税標準の評価と課率の決定を移したと云うだけで税収入全額は、地租も同様徴収地たる市町村に与えられるのである。(此の点は堂々たる大新聞が殆ど一様に報道を怠っている。ただ福岡日日が9月23日紙上でスクープした。云う迄もなく之は地方財政関係ではビッグ・ニゥスであり、確実な報道に違いない)。営業収益税は市町村の、資本利子税は府県の夫々財政調整交付金の財源として振り当ててある。収益税財源は斯く全く国費支弁のファンドから除かれるに至った。我国の税制は所得税を主税とし収益税を補完税として組み立てられると云われて来たが、此のことは形式上は依然たりだが、実質的にはそう云えなくなった。財産税が補完税として新に登場して来た理論的根拠はそんな所にあるのであろうか。
 今一つ地方側から見て最も顕著な事実は、誰人も気づく通り、府県は家屋税移管、市町村は戸数制度廃止、地方団体の独立税の喪失である。営業税雑種税の様なコマコマしたものは残っているが、殆んど之は独立税などと云う資格は無い。其他に大して新税が起される余地もない。尤も所得税免税点以下の者に特別所得税が起される間隙はあるが、東京市の例などから見ても大した税源にはならず、課税徴収の摩擦も多く、如何に中央当局でも、地方自治体にこんな火中の栗を拾えと云う事を建前とはしない。すると地方は殆ど全く付加税と国庫交付金で財政を立てて行かねばならぬ。地方の財政的自主権は、全く失われたと云わない迄も、極端な制限内に控制されたと云わねばならない。
 新旧税制の数字的検討
 そこで、地方税の新体系を具体的に示し、又その収入額がどう動いて辻褄合わさって行くかを示すが為に、一つ私の拵えた道府県収入と市町村収入との表をお目にかけよう。(……)
 表で見られる通り、市町村では戸数割と所得税付加税が廃止されるが、其の欠陥は3収益税の交付で丁度埋め合され、小学校教員給の不要額だけが、諸税の減税となる勘定である。又府県では独立税としての家屋税が無くなり外の特別税も減税せられ、その欠陥は到底3収益税の付加税と資本利子税の交付だけでは埋まらない。そこで所得税付加税を特に許すのであろう。其の外に府県は新に小学校教員給1億6,800万円の負担を負わねばならないから、其の一部は現在市町村の貰っている国庫負担金を振り替えれがばよいが、後の半分を何とかせねばならぬ。それが所得税の2割の交付金で賄われる。多少勘定に出入りはあるが、ザッと先ず此の様な計算になると解される。
 改革の地方自治体への影響
 斯様に改革による金額出入の帳尻は、地方財政全体としては一通り合って行く。(……)その個々の影響がまだ明かにならない今は、申請の利害得失を論定する事は早過ぎるであろう。だが誰人も気付く通り改革案は地方に対する中央の統制を強力化すると共に、地方自治体の自身の収入の弾力性を少くするだろうと云う事は、見透される。(……)比較的静的な経済状態にある農村地方などではこの財源でも少少の財政需要増加には堪え所謂弾力性に問題は無いかも知れぬ。けれど弾力性が本当に問題になるのは進歩発達が特に急速な都会地である。小学校設備をどしどし拡張しなければならぬと云う様な地では、今度の案で与えられた財源で間に合って行くか、どうか多くの疑問が残る。歳入の多分を国庫の交付金に仰がなければならぬとすれば、所謂陳情の激増驚くべきものがありはしないかと考えられる。
 改革の租税負担者への影響
 租税負担者の立場から見ればどうなるか。今度の改革は都市と農村の負担の均衡是正が一つの目標となっているが、前の表の税種別の収入額の動きから見て此の点は確かにやり遂げられている。多年の問題たりし戸数割廃止されたのは、市町村当局としては反対も多かろうが、税の負担者から見れば結構な事で、私も、之に双手を挙げて賛成だ。だが之でもって不合理な公費課徴が非常に減ずると結論するのは稍総計であろう。私は地方団体の財政経理が何と云っても窮屈になる結果、そしてやるだけの仕事はやらねばならない結果、表向きの財政の本道を通らない課徴寄付金割高と云う様なものが益々発達する危険が非常に多いと思う。そうなると戸数割の廃止は地方を転々浮草生活をする役人会社員と云う様な者が喜ぶだけで、土地の定住者には一向有難い事ではなくなるかも知れない。謂わんや戸数制の廃止が所得税免税以下の人々の特別所得税負担の重化、繰入を目的とする公益事業の料金の値上と云う事に変形して現われて来るのであったら、事は決して円く治まらぬではないかと思う。
(9月30日)
 私はまったく勘違いしていましたが、この地方税制改革案では、「家屋税が国に移管されたけれど、それは課税標準の評価と課率の決定を移したと云うだけで税収入全額は、地租も同様徴収地たる市町村に与えられる」ということだったのですね。
 また新たに書きたいと思いますが、原田泰さんが、ご著書『都市の魅力学』の中で、地方交付税について持論を展開されているのを知りました。これから1992年に書かれた論文「地方交付税が地方をダメにする―シャウプの理想がアダに」を読むつもりですが、原田さんの書かれたものをもとに、湛山や猪間の主張を検証していくというアイデアにいま夢中になっています。

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いくつかの新しい情報4

 今回ご紹介するのは、A石橋湛山+猪間驥一の地方財政問題に関する情報で、1936年9月に発表された地方税制改革案を受けての『東洋経済新報』誌上における議論です。
1936年9月26日「財界概観」
 増税の影響は良好
 22日政府は中央地方を通ずる税制整理案を発表すると云うので我人ともに何んなものが出るかと待っていた。併し其の発表せられたものを見ると、ほんの大綱を示したにすぎず、之だけでは可否の判断の下しかめる点が甚だ多い。が大蔵省の計算では、此の税制の整理に依り国庫の増収する所は初年度(昭和12年度)約2億円、平年度約3億円の見込みであると云うから、若し此の数字に間違いがなければ、今度の増税なるものは、もとより少しも驚くほどの額ではない。(……)記者は曾って我が国の租税は、大ざっぱに云うて平均5割の増税をすることは寧ろ容易なりと論じたことがあるが、実際に当って立案する大蔵省では、さすがにそこまでの増税も出来なかったものと見える。尤も此の発表された大綱だけでは正確には判らぬが案に記された地方税の軽減と、右国庫の増税額との関係は何うなるか。(……)実際の増税は平年度に於て、もう2億円位い増すのかも知れぬ。けれども其の代りには地方税の大軽減があるのだから、国民全体としての負担増加は矢張3億円程度に止る勘定だ。増税を直接負担する者は一寸苦しいとしても、その結果が地方に於て3億円近い減税となって現れることは、それだけ地方の購買力を増し、間接に数倍の力となって増税負担者をも潤すことになろう。細い点は兎に角として、記者は此の地方税軽減に依って、今度の税制整理案は、全体として経済界に寧ろ好影響を及ぼすべきものと考える。
 問題の所得税改正
 今度の税制改革及び増税計画を立案するに当って、一番厄介だった問題は蓋し所得税の改正及び其の増税であったろう。併し発表せられた大綱に依るに、此の困難も一応頗る巧妙に切抜けた。即ち法人重課の新主張を容れて、第一種所得税を稍や大幅に増税し、大二種所得税は廃して、綜合課税主義を徹底せしめ、同時に国債利子に対する所得税免除の得点を撤去した。併し斯様の理論に従っての改正の結果、現実の経済界に急激な変動を避ける為めには、国債利子および従来源泉課税だった諸所得に対して一定の控除を認め、又『当分の内』国債、預金及び貯金の利子に就ては、納税者の申請に依り源泉徴収を認める等の便法を設けた。過渡的用意としては先ず至れり尽せりとも云い得よう。其の代り不徹底との非難はあろうが、併し実際の処置としては無難の所と評して善いであろう。
 立案は概して親切
 尤も右の所得税に関しては、元来、預貯金及び無記名証券の利子に綜合課税を行うことに、(理論は良いが)技術上の無理がある。発表せられた所では此の無理を何うして取除く計画か判らない。問題は此の辺に尚お相当残るであろう。(……)考え来れば疑問の点はまだまだ多い。併し全体として此の大綱で見る限り、今度の税制改革が、立案者の気持に於て頗る親切を極め、且つ常識に富んだものであることを指摘い得る。之は此の際経済界として最も喜んで善い点だ。同時に又立案者に対して敬意を表して良い点だ。

1936年10月3日「増税と購買力 税制改革は如何に経済界に影響するか」
 今回の税制整理案に就ては、前号の財界概観で不取敢一言して置いた。発表せられた限りに於ては、細目のまだ不明な点が多く、十分の批評はなし難い。併し其の大体の方針は、今日の場合先ず満足の意を表して善い案と考える。其の経済界に与える影響も良好であろう。
 今回の案に依って企図せられる増税額は、衆議院の議員等に其の後蔵相から説明した所に依ると、初年度4億2,000万円、平年度5億8,400万円と云うことだ。相当急激な増税である。況や此の外に関税も3,500万円程度を増徴し、(……)とすると其の合計は平年度に於て蓋し6億6,000万円程度に上ろう。(……)将に非常時大増税たること疑いない。
 併し右の増税は、同時に地方の減税を伴う。(……)
 のみならず此の税制改革に依り6億1,900万円の新負担をする者は、概して云えば、従来比較的余裕を有した都市の住民又は法人である。(……)
 右に反して2億8,900万円の負担を軽減せられる者は、主として地方の地主或は農民である。概して従来余裕無く、購買力の乏しかった人達だ。そこに兎に角三億近い減税が行われることは、取りも直さずそれだけの購買力が彼等に与えられることである。其の結果が彼等の生活を少なからず潤すことは必然だ。而して地方住民の生活が潤うことは、彼等を直接間接に顧客とする都市商工業を亦潤す所以なることも明かだ。(……)
 (中略)
 以上の如く観察するから、記者は今度の増税が経済界に治して無論不良の影響を及ぼす筈はなく、却って必ず良好の結果を生むであろうと確信する。況や一方公債発行に依る国費の支出も増加こそすれ、減少する事は絶対になきに於てをや。(……)
 本案が一層具体化されて、議会に提出せられるまでにはまだ相当の時間がある。官民協力心を虚しくして十分の研究を遂げん事を記者の切望して已まぬ所である。

 そして次の号で、特集が組まれています。
1936年10月10日「税制改革案の内容検討」
汐見三郎「近代的税制の確立」
猪間驥一「地方税制改革案の意味と影響」★
田川大吉郎「馬場氏案よりも大蔵省案」
井藤半弥「税制改革の目標を覆えす事実」
西野喜代作「税制改革の行過ぎを戒む」
高木壽一「負担の均衡を目標とする最後案」
勝田貞次「第二種第三種総合化を断行せよ」
河上丈太郎「免税点引下と下級官吏の生活」
栗栖赳夫「本邦人所有外貨債課税問題」
木村増太郎「増税案の内容と売上税」
飯田清三「有価証券移転税とその影響」
小平三郎「地方債、社債の不利を是正せよ」
高島佐一郎「赤字財政政策の裏付けとしての改革」
神戸正雄「税制改革案の妙味と欠陥」
中村継男「税制改革の社会的意義」
舞田壽三郎「新増税案と中小工業」
渡辺得男「麦酒増税徴は苛酷」
北田内蔵司「売上税の公平を希望す」
徳田昴平「取引所税の引上と其の影響」
岡田幸三郎「砂糖消費税引上に対する私見」

 このうち、★印の猪間の書いたものが、解説としても非常に分かりやすいものなので、次回、詳細に見たいと思います。

posted by wada at 14:53 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

いくつかの新しい情報3

 このままだらだら書き続けて行くと、収拾がつかなくなりそうですので、以下、@石橋湛山+上田貞次郎の自由通商に関する情報と、A石橋湛山+猪間驥一の地方財政問題に関する情報だけまとめます。
 @は、1936年8月のヨセミテ太平洋会議後の情報ですが、9月に書かれた湛山の2編の評論(実際には同じ内容の英文の評論が1編加わって3編です)についてはすでに『猪間驥一評伝』等で述べていますので、ここでは触れません。
 ここで取り上げるのは、翌1937年初めに成立した日米綿布通商協定に関する湛山の評論で、ちなみにこの互恵協定は、上田のヨセミテ太平洋会議での論戦が実を結んだものとされています。
 最後に再度、世界開放主義の訴えをしていますが、私はこれら一連の動きを湛山の上田への援護射撃ととらえています。
 1936年8月15日‐8月29日、ヨセミテ太平洋会議
 1936年9月12日「如何にして国際平和を齎すべきか」
 1936年9月19日「世界開放主義を掲げて 懊悩せる列強を指導せよ」
 1937年1月30日「民間経済外交の成功―日米綿布協定成る―」
 1937年2月6日「財界概観」(日英関係好化予想/貿易の前途は好望)
 1937年2月13日「米国互恵通商政策の発展とその実績(一)」
 1937年2月20日「米国互恵通商政策の発展とその実績(完)」
 1937年3月6日「世界開放主義の提唱 政府は更に積極的に努力せよ」

民間経済外交の成功―日米綿布協定成る―
 米国綿業団が来朝して、わが国の当業者と懇談し、対米綿布輸出に就て交渉しつつあったが、遂に
 昭和12年及び13年の両年度を通じ2億5,500万ポンド(但し、昭和12年度の日本積出量は1億8,000万ポンドを超過する事を得ず)
と云うに決定したと伝えられる。
 紡績当業者に於ては恐らく不満があると想像される。何しろ、米国に対して最近は月2,000万ポンド位の商談が成立しつつある盛況で、既に本年上半期分は1億5‐6,000万ポンド出来て居る、従って、1年3億ポンドと云う位の協定ならば、業者は成功と感じたろうが、2年間で2億5,500万ポンドでは、満足しまいと察せられるのである。
 併し乍ら、記者は大局としてこの民間に於ける経済外交は成功と云うべきだと信ずる。
 若し、安価にして優良なる商品ならば、自由に世界に移動すると云う道理のある世の中ならば、自然的発展に任せて差支えない。けれ共、今日の国際通商は何時如何なる障害が惹起されるか判らぬ。斯様な物騒な世の中に在っては兎に角当分の間でも良いから、安心の出来る通商関係を作って置く必要がある。其の意味に於て、日米間に綿布輸出協定の成立したことを喜ぶものである。
 数量に於ては、当業者の中に聊か不満を感ずる日ともあるらしいが、政府が羊毛不買を実行せしめて尚且つ豪州との間にあの様な少い輸出数量しか取り得なかった失敗に比較すると、大阪に於ける民間綿業外交が談笑の裡にあれ丈を纏めあげたは記者から云えば、寧ろ大成功と評すべきだと思う。
 目先の利益ばかりを追うのは、却って無欲に似たる結果に陥るのを、記者はかねがね心配して居た。米国市場に就ては記者は遠大なる希望を持つものである。従って、変な国際経済関係の続く間は期間を短く切って徐々に増加させる方針、即ち今度の協定に賛意を表し、其の成功を祝福するものだ。

財界概観
日英関係好化予想
 最近日米綿布通商協定が成立して大分明るい色を添えたが、此の綿布協定も決してそれだけに止まるものではなく、日米間の一般的互恵協定の前駆として、それは特に注目するに値するものである。ところが尚お最近種々なる情報を綜合して判断するに、日英間の友好関係が、近く何等かの形で具体化すべきを、十分信ぜしめらるるものがある。
 貿易の前途は好望
 日米、日英関係が良くなれば、日支経済外交の如きにも一層望が嘱せらるることとなるし、貿易にも好影響があるに相違ない。海外諸国の景気情勢が益々良く、物価は世界的に騰貴の傾向を持って居る所へ、斯く外交関係の好転まで加わるとすれば、為替政策に非常なヘマでもやらぬ限り、本年の我が貿易は蓋し大いに楽観してよい。

米国互恵通商政策の発展とその実績(一)
 先頃来朝の米国綿業使節団は、我綿業団体との間に綿業協定を締結したが、その共同コムミュニケに於て日米両国が綿布互恵協定を締結すべきことを慫慂している。同使節団の性質から考え此互恵協定の提唱は恐らく米国政府の意を受けてなされたものと見て誤りはなかろう。蓋し米国は既に10数ヵ国との間に互恵通商協定を結んだが、更に先般渡米したランシマン商相との間に英米互恵協定の方針を議した事実があるからだ。

米国互恵通商政策の発展とその実績(完)
 ローズベルト政府が互恵関税法に基いて締結した最初の協定は、キューバ及ブラジルとの互恵協定である。当時米国政府が発表した如く、この二つの協定はこの種協定の先駆をなすもので多くの類似点を持っているが玖馬との協定が米国との特殊関係から特恵協定にして第3国の均霑を許さざるに反し、ブラジルとの協定が無条件最恵国待遇主義によったことである。爾来締結せられた互恵通商協定は凡てこの無条件最恵国待遇を原則としている。
 米国政府の互恵通商協定は世界15ヵ国と協定を結ぶに至ったが貿易関係に於て米国が有利な出超にある諸国に対し、殊に工業国に対しては互恵協定の締結は積極的でない。
 更にブロック経済を排撃し、通商上の衡平待遇を促進せんとするハル長官の提唱も、上述した如く、実質的には第3国が最恵国約款により関税引下げに均霑することを阻止して居るから2国間ののみの互恵協定でしかない。
 元来この互恵政策はロンドン経済会議に於ける多辺的関税協定の失敗に鑑み、個々の互恵的関税協定によってその国際協調政策を貫かんとしたものであるといわれる。勿論国際協調主義と互恵主義とは一概に範囲の広狭によってのみ差異づけられるものではなく、且つその互恵協定が、現在の如く互恵国以外に対する差別待遇を孕んでいる以上、その声明を額面通り受け取ることは困難であるが、互恵主義を発展せしむることは少くとも国際協調主義に近づかしむることである。従て若し今後幸にして忠実にこの互恵協定が世界各国と締結せられたならば、それはハル長官のいう如く、経済鎖国化の傾向を打破し通商自由の黎明に一歩を進めるものである。今後米国政府が何処まで国内産業部門の反対を押し切ってこの通商政策を進め得るか、その発展如何は世界貿易に於ける最重要な契機をなすものであると同時に、またこの互恵通商政策に対する米国政府の真意を窺い得られるものである。

世界開放主義の提唱 政府は更に積極的に努力せよ
 植民地及原料資源再分配の問題は漸く具体性を帯びて来た。現にドイツ政府と英国外務省との間には、これに関する折衝が行われているし、また国際連盟においては、さきに原料品委員会を設けて、その会議が本月中には開催される筈だ。
 伝うるところによると日本政府は、この問題については積極的な意図を有し、国際連盟の委員会においてもわが国の立場を強調せしむる筈だとのことだ。そしてそのために海外駐在の外交官をして、諸種の事情を報告せしめ、右を具体的に検討しつつありという。
 これは記者に取っては喜ばしい報道である。記者は昨年の秋、本誌並びに姉妹雑誌オリエンタル・エコノミストに於てこの事を提唱し、海外においても相当なる反響を見たのである。
 その外交技術の問題は別にしても、日本政府が本腰になって、この問題をとりあげたことに対して、記者は慶賀の意を表せざるをえない。その節も論じたように世界開放主義は、現在の世界の行詰りを打開するのに、最も根本的且つ有効なる方法だ。世界の閉鎖の結果苦しんで居るのは、単に所謂持たざる国だけではなく、持つ国自身も然るのである。
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2014年07月26日

いくつかの新しい情報2

 ここで、1939年9月30日、『東洋経済新報』誌上に掲載された無署名論文「朝鮮経済の新動向=前進基地的性格と工業化運動=」と社告「京城支局開設記念時局問題大講演会」を見ておきたいと思います。これは社告のタイトルで明らかなように、1939年7月1日の、東洋経済新報社京城支局開設にともなう企画です。
 無署名論文ですが、その文面を見ると、執筆者が鈴木武雄であることは明らかです。以下、目次のみ記しておきます。
朝鮮経済の新動向=前進基地的性格と工業化運動=
目次
はしがき=「農工併進」の展開=
「米の朝鮮」から「工業朝鮮」へ
工業化運動の進展
 工業化運動の奏功
 工業化の行政的促進
資源地の豊富と特異性
工業化の基礎要件・鉱業の発展
内地資本への依存性
対外貿易の活況と戦時再編成
米作農業の方向再転換
 最終ページの下半分に、社告「京城支局開設記念時局問題大講演会」が掲載され、そのおとなりには、朝鮮銀行の写真入りの全面広告が掲載されています。社告の内容は以下の通り。
=社告=京城支局開設記念時局問題大講演会
 弊社は大陸進出の第一歩として、去る7月1日京城に支局を設置し、既に事務を開始しつつあるが、今回諸般の準備が出来上ったので、愈々本格的活動に入ることとなった。その門出に当り、支局開設記念披露会を来る10月4日京城に開き、翌5日には次のプログラムを以て時局問題の大講演会を開催する。今後一層の御支援を乞う次第である。
日時 10月5日午後6時半
場所 京城府府民館 【会場整理費 金十銭】
講師・演題
欧州動乱と今後の世界情勢 
 前特命全権大使 木村鋭市
経済界の前途=内外時局の影響と戦後の見透し=
 本社主幹 石橋湛山
主催 東洋経済新報社 京城支局
 これをふまえると、拙稿「経済学者、鈴木武雄の大陸前進兵站基地構想と戦時下、東洋経済新報社京城支局による『大陸東洋経済』の創刊」の東洋経済新報社の日中戦争後の動きには、以下のような加筆修正が必要となります。
1938年9月28日-10月4日、石橋湛山、朝鮮を旅行する。
1939年5月、高橋亀吉、『東亜経済ブロック論』を著わす。
1939年6月(『東洋経済新報』では7月1日)、小倉政太郎が東洋経済新報社京城支局を開設。
1939年9月30日、『東洋経済新報』誌上に、無署名論文「朝鮮経済の新動向=前進基地的性格と工業化運動=」と社告「京城支局開設記念時局問題大講演会」の掲載。
1939年10月5日、京城支局開設記念時局問題大講演会(このとき湛山が講演のため京城を訪れていれば、湛山と鈴木の初めての接触はこのときだった可能性が強まる)。

1940年11月、小倉政太郎、京城支局より『大陸会社要覧』を発刊。
1940年2月、鈴木武雄、『朝鮮金融論十講』を著わす。
1940年4月29日-6月14日、石橋湛山、朝鮮・満州を旅行する。これは、京城経済倶楽部の設立にともなうもので、湛山が幹事に就任する。ここで湛山と鈴木が初めて接触する

 今さらですが、拙稿「経済学者、鈴木武雄の大陸前進兵站基地構想と戦時下、東洋経済新報社京城支局による『大陸東洋経済』の創刊」を読んでくださる方があったら、お知らせください。

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いくつかの新しい情報1

 先日、久しぶりに一橋大学の図書館へ行きました。私が現在、少しずつ読んでいる復刻版の『東洋経済新報』には、1938年分までしか収録されていないことがわかったからです。
 今回ざっと見たのは、今まで見落としがありそうな年まで含めて、1935年・1936年・1937年・1938年・1939年・1940年(1-3月)の分ですが、ただコピーを取ったのは、1939年以降のものだけ。合本のぐあいで、センターラインの1,2行がどうしても写らないのですね。このあたりは復刻版をコピーするほかないようです。
 いくつかこの段階でわかったことを書いておきます。

 1935年1月12日(掲載は19日)より、湛山の発案によって、金解禁論争の四人組、小汀利得(中外商業編集局長)・高橋亀吉(高橋経済研究所)・山崎靖純(読売新聞経済部長)・石橋湛山(東洋経済新報主幹)らを中心に、毎週一度、昼食をともにしながら語り合う「今週の経済界」がスタートしています。湛山は都合がつかずに(体調不良)で出席できないことがたびたびありましたが、12月14日までこれが続いています。
 ここには非常に興味深い内容のものがあって(猪間驥一が参加した回については、「猪間驥一と地方財政問題4」「猪間驥一と地方財政問題5」に収録している)、それについてはこれから少しずつ読んでいくつもりですが、一つだけ、忘れてしまいそうなので書いておきたいのが、亀吉のこと。この最初の座談会の後、朝鮮へ旅立って、まる一ヵ月の旅から帰国した後、4月21日に『現代朝鮮経済論』を上梓するのですが、その直前までの座談会で、東亜経済ブロックを主張するようすがまったくないのです。この2ヵ月足らずの間ですが、亀吉が何を考えていたのか気になります。
 1935年には、政界・軍部の要人、高橋是清大蔵大臣、町田忠治商工大臣、荒木貞夫陸軍大将、若儀槻礼次郎元首相、山崎達之輔農林大臣へのインタビューを実現させていることはすでに述べています。経済倶楽部の講演会も多く開かれ、講演者の大半が外交等に関わる人々で、それが1ページ分の要約にして掲載されています。
 1935年末に発行された1936年新年特大号には、上田貞次郎が「人口問題と貿易政策」という論文を寄せています。このように1935年という年は、湛山が最も精力的に活動し、上記のような企画が次々にわいてきた年ということができると思います。

 1936年は、二・二六事件をはさんで、厳しい状況が反映された誌面づくりとなっていますが、それでも、ヨセミテ太平洋会議を意識して書かれた(と私が信じている)湛山の数編の論文(その最たるものが「世界開放主義を掲げて」関連のものですが)、その後、つまり9月末以降、地方税制改革問題にも本格的に取り組んでいることがわかります(10月10日号には、「税制改革案の内容検討」の特集が組まれ、ここに猪間驥一の論文も発表されている)。
 ところが1937年に入ると、座談会等の企画も減り、全体に閉塞感のようなものがあって、読むのがつらくなります。上田貞次郎グループが、日中戦争の直前に『日本人口政策』をまとめ、猪間の「人口の都市移住計画」(仮称)をまさに発表しようとしていたのに対して(あるいはその後の国立人口問題研究所設立に向けての動き)、これはという目標を見失っていたように見えなくもないのです。

 それが、こうした流れの中で、1939年分の誌面をたどりながら、「朝鮮経済の新動向=前進基地的性格と工業化運動=」という13ページにわたる論文を発見し、そこに大陸前進兵站基地構想が展開されているのを知って、驚いたのはもちろんですが、一種の活路を見出したような思いもありました。
 これを湛山らの時局協力と見ることはもちろん可能ですが、私はどうしてもこの計画に、制限された状況の中で、植民地の経済的自立を図る工業化プログラムを実現させようという強い意気込みを感じずにはいられないのです。

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2014年07月19日

「猪間、しっかりしろよ!」

 最近、ウーラント同窓会の方にお目にかかって、かつて猪間驥一が「渡し場にて」という「詩(うた)」さがしの過程で広げていった交流の輪についてご教示いただきました。この会の興味深い活動については以下のサイトをごらんください。
http://homepage2.nifty.com/anjintei/
http://homepage2.nifty.com/murasakitei/

 同会の方が探されていた猪間の『折り鶴の旅』が置かれている図書館を調べているうちに、国会図書館でも欠番になっていた「わたくしの東京16」というエッセーが中央大学図書館に保存されていたことがわかりました(『中央評論』第12巻第5号,1960年)。
 せっかくですので、その中身を少しご紹介したいと思います。カッコの中は私のコメントです。
 今回は本郷でえた「友」のことを語ろう。
 よい学校と「友」(略)
 「友」の種類(略)
 腑に落ちぬアドヴァイス第一(略)
 腑に落ちぬアドヴァイス第二(略)
 友を持つよろこび(略)

 旧友との集まり
 わたくしの友だちの間でも、法科政治科経済科方面へ行った者は、職業的にも近いだけに接触が深い。それでも学校を出てから約三十年というものは、部分的には時々集まるようなこともしたが、みんな忙しかったし、ことにその後半は、戦争と戦後の嵐に吹きまくられて、全員で集まろうなどと考える余裕もなかった。ようやく今から約十年前、本郷の寄宿寮を出てから、三十年目に、一度集まろうではないか、ということになって、集会を持ち、爾来毎年数回会合を重ねている。
 出てくる者には、台閣に列し(政務次官になった平山孝か)、大会社の経営者となり(川崎汽船社長の川崎芳熊。KDDの社長になった浜口雄彦もここに入るのかもしれない)、功なり名遂げた者もあれば、わたくしと同じような者もある。大体戦前派の保守的な思想の持ち主だが、極左の驍将として本学へしばしばアジリに来るようなのもある(これは平野義太郎だろう)。経歴も境遇もさまざまだ。たどり来し道のけわしさに、ひたいのしわの深いのもあれば、六十路を過ぎて緑髪なおつややかなのもいる。(……)主な話題はその時その時の新聞種、国連総会の形勢から、安保反対学生デモ、交通事故の頻発から大洋ホエールズの優勝にまで至る、あらゆる問題に対する各人の立場々々からの論評だ。同級の大仏次郎の近作、ベストセラーの品評も出る。ソ連へ行ってきて数年前行った時にくらべると、女の着物が美しくなった、官庁用自動車がへって今年はタクシーがふえていたことを報告する者もあれば(1955年に『対ソ外交の二元性』、1956年に『対ソ復交急ぐべきか』を著わしている内海丁三ではないか)、ブラジルから帰って、入植した日本人が胡椒の世界的景気で大発展していることを伝える者もある(1955年、浜口雄彦は平山孝とともに(財)国際観光協会を設立している。彼らか、もしくは川崎汽船の川崎芳熊ということもありうる)。そして話の落ちつく所は、四十何年か前の寮生活の間の、お互いの失敗。当人はもう忘れている様な事のスッパ抜き合い。何の遠慮もなく、何の利害関係もなく、ただワヤワヤと話し合って、二時間ばかりで、すっかりいい気持になって、また会うことを期して散ってゆく。

 会をつづける心得(略)

 亡き友
 こうしてわたくしは青年時代にえた友を、今日なお百名の余もっており、いつでも会えることを喜んでいるが、しかし悲しいことには、もう会えない友も多くなった。旧室の友、クラスの友、どういうものかわたくしには最も親しかった友から、順々に死んで行った。早くに世を去った友(これが歌人の野上久幸)、戦争で失なった友(おそらく被爆し白血病で亡くなった物理学者の三村剛昴)、思いがけず最近に訃報に接した友(これが加瀬俊一ですね)。
 しかし「真の友」というものは、「死」もその仲を隔てるものではないことを、諸君に知っていただきたい。わたくしは、そうして失った幾人かの友の未亡人と懇親である。それらの婦人は、わたくしに、亡き友を介してまた友となっている。折々たずねて、ありし日を語る時、彼についてわたくしの知らざりし反面を知ることがあり、彼に対する尊敬を新たにして、わたくしは亡き友との交遊がなお続くのを覚えるのだ。
 早くにみまかった、わたくしに最も親しかった友が、詠んだ歌がある――
 ひと杯(つき)の酒あたためて奥山に
  汝(なれ)と語りし夜半を忘れず
 その友が、わたくしの友でもある亡友を偲んで詠んだ歌である。――この思いをわたくしは、新だどの友に対しても持つ。奥山に旅して語ったことばかりではない。ォの寝室で、教室の隅で、校庭の木陰で、本郷の通り、不忍の池畔で、対校野球応援のスタンドで、サークルの席上で、ふとして友の口から聞いた片言隻語が、今も折に」ふれ、時に応じて、わたくしの耳底によみがえってくる。そして、
 「猪間、シッカリしろよ!」
といってくれるようだ。それに勇気づけられなぐさめられることが、実際に少なくない。そう感じる時、わたくしには、死したる友も、なお生きていつも語り合えることを、実感するのである。

 ウーラントの詩
 亡友との交情を語る有名な詩に、ウーラントの「渡し場にて」がある。わたくしがこの原詩を永い間求めて、ようやく探しあてた経緯については拙著「人生の渡し場」に書いておいたが、この小文に書いたことは結局この詩のもつ思想であるから、わずかの余白のあるを幸い、その訳詩だけを掲げておこう。
一、 いく年まえか この川を
  一度わたった ことがある
  いまも堰には 水よどみ
  入り日に城は 影をひく
二、 この小舟には あの時は
  わたしと二人 つれがいた
  お父さんにも 似た友と
  のぞみに燃えた 若いのと
三、 一人は静かに はたらいて
  人に知られず 世を去った
  もう一人のは いさましく
  いくさの庭に 散華した
四、 しあわせだった そのむかし
  偲べば死の手に うばわれた
  だいじな友の 亡いあとの
  さびしい思いが 胸にしむ
五、 だが友だちを 結ぶのは
  たましい同士の ふれあいだ
  あの時むすんだ たましいの
  きずながなんで 解けようぞ
七、 渡し賃だよ 船頭さん
  三人分を とっとくれ
  わたしと一緒に ふたありの
  みたまも川を 超えたのだ

 猪間の生涯を支えてきたものは、この友人たち、その「猪間、しっかりしろよ!」という声だったのですね。
 猪間のことを調べていて、内海丁三が戦後、石橋湛山のことをいろいろ書いていることがわかりました。そのうち読んでみようと思っています。
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2014年07月18日

寄り道:高橋財政期の湛山3

 「2.座談会」に入ろうとして、その合間に1934年の『東洋経済新報』を読んでいて、「まさか!」の発見をしました。うれしい発見です。
 まず、1934年2月10日号に、次のような告知がなされていて「おや?」と思いました。
 第二回経済問題論文募集
 第一回の懸賞論文募集は来る2月末を以て締切りますが、続いて第二回目を募集致します。論題は次の通りでありますが、其他の詳細なる応募規定は第一回同様で、締切りは3月末であります。奮って御応募下さい。
一、 我国人口過剰問題の対策
 論題の趣旨にそうものであればそれが全面的対策であろうと、個別的対策であろうと差支えありません。尚お来る24日号の本誌に発表される上田貞次郎博士の「我国人口の現状及将来」は論題の基礎的知識を得るに良き参考となると思いますから、御一読願います。
二、 応募者の選択する自由問題
 そこで、予告された1934年2月24日号の『東洋経済新報』を当ってみると、何とそこに、上田貞次郎の29ページにわたる長論文が異例の掲載をみていたのです(「猪間驥一氏」の1926年の論文「出産統計の虚偽と死産統計」と、上田編『日本人口問題研究』に収録された「東京市人口増加の性質に就いて」からの引用が何ヵ所かにあります)。
 その要旨・内容についてお伝えするのは不可能ですので、目次だけでも拾っておきます。
我国人口の現状及将来
主要内容
1. 人口問題の重要性
2. 外国人の観測
3. 太平洋会議と日本人口問題
4. 将来人口の推算
5. 人口統計の資料
6. 私の推算
7. 出産率と幼児死亡率
8. 人口の年齢構成
9. 人口の地方別移動
10. 都市人口の年齢構成
11. 人工都市集中の経済的意義
12. 移民と貿易
13. 食糧問題
14. 就業人口と失業人口
15. 外国貿易の展望と人口対策
 ここにも「経済問題論文募集」の告知があって、やはり同様に上田貞次郎の発表した論文を参照するよう要請しています。
 こうして見ると、私が『猪間驥一評伝』の中で書いた「石橋湛山と上田貞次郎の接近」などわざわざもち出すこともなかったと思えてきます。
 それにしても、日本の歴史学者たちの、この両者の切り離しというのは何だったのでしょう。どちらも自由主義経済学者といわれている人物であるのに、石橋湛山研究に上田が登場することはなく、上田貞次郎研究に湛山が登場することがないというのは。

 なお、1934年3月10日号の『東洋経済新報』に、有沢広巳が「経済時評」として「農村は果して弾力性を恢復するか」と題する短文を書いています。その冒頭部分――
 本誌前々号に発表された上田貞次郎博士の論文「我国人口の現状及将来」は近来の大論策」であって、我々後進を刺戟し啓発するところ頗る多かったのであるが、就中、私は博士が人口都市集中の経済的意義を論ぜられている個所において多大の感興を覚えた。博士の研究によれば、農村は実数においても比率においても特に大なる出生数を有し、その出生時を養育し、教育し、少くとも小学校教育を施したる上にて都会へ送る。それがために比較的大なる児童人口を比較的小なる農村父兄が養わなければならない。この都市へ出て働く人口を養育し教育するための費用を農村に居る者が支払わなければならぬということは農村人口にとって重い負担である。農村疲弊の一原因は茲にあるというのである。
 最後の一文の原因・結果は逆だろうと思いますが、ここまではいいとして、問題はその後。
 内容をかいつまんでいうと、「第一次大戦前の日本の農村は弾力性を持っていたが、戦後、工業の発展に利用されてこれを失った、その弾力性を恢復すべしという要求が、教育費国庫負担の増額とか、地租委譲、農村金融の改善、さらには米穀統制法などの形をとって現れたが、これらは農村問題を部分的、一面的にとらえるものでしかなかった、問題の解決は機構的方策、農村に弾力性を取り戻す方向における対策でなければないが、果してそれは可能であろうか」ということになると思われるのですが、上田の研究とどう重なるのかわからず、私にはおよそ中身のありそうな議論には思えません。
 有沢は、湛山にも「インフレーション政策の影響に就て此の頃我学者の一部に甚だ妙な議論が唱えられている」例として上げられていたこと(「インフレと勤労階級」)が思い出されます。

 ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約を議論している座談会は、一つしか見つけることができませんでした。ちょっと意外です。
1934年11月2日「門戸開放問題座談会―日満経済ブロックとの関係―」
出席者:米田實(法学博士)、室伏高信(評論家)、上田貞次郎、山崎靖純、赤松克麿、清沢洌、三浦鉄太郎、森田久(時事新報前編集局長)、杉森孝次郎(早大教授)他。(→11月17日号)
 この座談会には、湛山は都合が悪くなって出席していないのですが、出席者のうち、自由貿易を支持し、軍縮条約に価値を見出していたのは、上田くらいしかいなかった(強いていえば、他に清沢洌が上げられるでしょうか)という事実には愕然とさせられます。

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寄り道:高橋財政期の湛山2

 当初、『石橋湛山全集』第9巻、第3部「不況克服期の財政・経済政策」第1節「高橋財政に対する批判と提言」に含まれる13編の論文を一編ずつ読んでいくということを考えたのですが、たいへんな作業になると判断したのと、大原万平(1906-1989)によるとされる「解説」が、何回か読むうちに、よくまとまっているものであることがわかってきたので、それを使わせてもらおうと思ったのです。ただ、何ヵ所か誤解されかねない記述があるので、そこにコメントをつけました。
 この時期における石橋の論策は、これを一言にしていうならば、「高橋財政」にたいする批判と提言である。(……)昭和6年以来、正味3年9ヵ月の長きにわたり、いわゆる「高橋財政」を展開し、恐慌からの脱出にかなりの成功を示したのである。その特徴は、井上準之助蔵相の金解禁政策を放棄するとともに、緊縮財政・非募債政策をやめて日銀引受による公債発行を基本とする時局匡救対策を行ったことにある。
 高橋蔵相は、軍部の要求する国防の充実と農村救済とを重点として財政を運営したが、とくに農村対策としては、「時局匡救事業費」を計上、農村地帯での土木工事を通じて雇用の増大をはかった。(……)この方式は、公債発行を容易ならしめるとおもに金利水準を低下させ、輸出の増進(対米為替の低落によって日本の国内物価は割安を訂正して上昇、対外物価は割高を訂正して低落)に役立ち、わが国の景気を著しく好転させた。
 しかし、世論は必ずしも、このような考え方を理論的に理解し、全面的に同調したわけではない。昭和八年度予算案にたいし、(1)財政規模の膨張、(2)公債・借入金依存、(3)軍事費の膨張、などをあげて批判するものがあり、大多数は「時局の現状」からしてやむをえないという消極的賛成論者であった。石橋は、赤字財政の積極的意義をこれに対置しつつ、軍事費の膨張は理想からいえばむろん好ましいものではないが、理論的にみて失業・操短の著しい今日の非常事態においては、経済的意義をもっていると反論している(「昭和八年度予算の経済的意味」)。
 湛山が、どのように説明しているかというと、「1.昭和8年一般会計予算を見るに、歳出は約23億1,000万円に上るに対して約13億5,000万円に過ぎぬ。したがって其歳入不足額は公債借入及前年度剰余金合計9億6,000万円を以て補填するの余儀なきに至った。常軌を以て律すれば、もとより非常に不健全な財政と云わねばならぬ。」、「2.併しながら我国の現在の実情より考えれば、此財政を俄に常軌に従って批判し、歳出を普通歳入金額の限度に削減するが如きは、第一に不可能であり、第二には又決して望ましき事ではない。(……)取りも直おさずデフレーション政策に転向することであり、国民経済上絶対に避けねばならぬ不利益な処置であるからだ。」
 高橋蔵相に会見して陳述した内容をまとめたという「財政整理私案」は、もっともよく昭和八年ごろの石橋の財政観をあらわしている。石橋は、そこで、赤字財政が常態を越えて悪性インフレに転嫁する時期を昭和10-11年と見通し(実際に、石橋が増税論を主張しだしたのは11年からである)、それまでは、積極政策をつづけるべきだと述べている。さらに、財政難を補うため、(1)公債利子の引下げ、(2)小学校義務教育費国庫負担その他の地方交付金の削減(石橋はかわって地方税制強化を提案)、(3)満州事変費の削減、(4)軍備費の削減等をすすめつつ、赤字公債発行による財源をもって「公益事業院」を設け、港湾、水路、鉄道、道路、上下水道、住宅、其の外の社会投資を行うよう提案している。
 ここで確認しておかなければならないのは、「さらに、財政難を補うため」以下に述べられた4項目の提言(テキストでは、(1)公債利子の引下、(2)小学校教員俸給負担金はじめ、地方事業他に対する補助及び奨励金類の大削減、(3)大学及学校図書館費の削減、(4)満州事件費の削減、(5)陸海軍兵備改善費の削減、の5項目になっている)が、1933年の時点で高橋蔵相に対して行われたものであり(つまり後述の1935年5月末の高橋蔵相談話の発表より前のことだということ)、しかもポイントは(1)(2)(3)にあった(これにかわるものとして地租委譲という主張があった)ということです。
 この高橋蔵相の談話が、「健全緊縮財政乃至デフレーション政策への転向」とされていることから、「軍備費の削減等をすすめつつ」というような記述が誤解を招かないように書いておきました。
 公債発行高は、昭和6年度47億1,500万円(内国際)から、昭和10年度初めになると、85億2.200万円に達し、高橋蔵相は、悪性インフレーションへの危険を意識しはじめ、五月ごろ、次年度の予算について「赤字公債の発行を濫りにしてはならぬ」との発言を行ない、軍部と財界に恐怖感をいだかせ、物議をかもした。
 石橋は「財政膨張の上限と収縮の下限」という注目すべき論文においてこれをとりあげ、「資本主義を廃止さえすれば、或いは統制経済にしさえすれ幾らでも財政は膨張せしめ、軍備拡張も自由であるかの如く云う者」をいましめながらも、「最近の無計画なる財政緊縮、公債発行制限論に対して、寧ろ無計画なる財政膨張、公債増発論に対するより以上に、今日の場合大局を誤まる危険を多く感ずる」と述べ、高橋蔵相の真意は、不生産的な軍事費のみの増大に警告を発しているのであって、財政膨張そのものに反対しているのではないと呼びかけている。
 ここで確認すべきことは、1935年になって軍事費の削減をもち出したのは高橋是清であり、湛山はこれを批判したのであって、この時期に大幅な削減などありえないと主張したのです。湛山は、高橋蔵相の真意をはかりかねていたようです。
 しかし、前述の高橋談話に対し、陸軍が憤懣を爆発させ、激越な調子で反駁声明を出したため、昭和11年度予算編成をめぐって蔵相と軍部大臣との間で激しい争いが演じられたことが明らかとなった。高橋蔵相の公債漸減=健全財政主義への転換方針と、「非常時」をふりかざして軍備費(とくに製艦費)の無制限膨張を要求する軍部とが真正面から対立したのである。石橋は、高橋蔵相の考え方を支持する立場に立ちながらも、このたびの11年度の予算案決定は一つのしっかりした指導原理にしたがって編成されたものではなく、財政にもっとはっきりした指導を打ち出すべきだと蔵相に要望している。高橋蔵相は、この予算編成において軍部とたたかったため、翌年、二・二六事件で倒された。この時期の石橋の議論からも、その危険を予感することができるであろう。
 「石橋は、高橋蔵相の考え方を支持する立場に立ちながらも」というのも誤解を呼ぶところですが、「高橋蔵相の公債漸減=健全財政主義への転換方針」を、湛山が支持していなかったことは、ここで確認しておく必要があると思います。
 湛山は「高橋蔵相の公債政策 自ら排撃せる公債無限発行論に堕す」において、「今日真に攻究せねばならぬのは、公債を止め度なしに出して財政を膨張させることが善いか悪いかなどと云う抽象論ではない。そんな事は、いつの世に於て議論の余地なく悪いにきまっている。問題は然うでなくして、具体的に昭和11年度には、幾何の公債を出し得るか、出すを適当とするかと云うことだ」と指摘し、「然らば蔵相は何うして斯様な自己矛盾に陥ったか。それは蔵相が、昭和七年度の公債発行が、其の初め多くの者の予想した所に反して悪性インフレを起さず、今日まで成功して来た理由を全く理解しないからである」と批判しています。
 なぜ軍事費を削ってはならないのか。そこが湛山の主張の核心であったわけですが、結論からいえば、日本を軍国主義化させないためには、経済を一気に活性化させないといけないと考えたのだと思います。削減するのは、1936年以降、日本の景気がよくなってから。時局匡救事業との関連でいえば、軍事費はそのままにして、土木事業費を増やすべきということになります。いたずらに軍部を刺激するようなことを避ける意味もあったと思います。
 この主張が「十五年戦争下」にあったとするなら、ずいぶんすわりの悪いものになりはしないでしょうか。
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2014年07月13日

寄り道:高橋財政期の湛山1

 1930年代の湛山の活動を知ろうと、『石橋湛山全集』第9巻、『東洋経済新報』復刻版から座談会、同じく復刻版から政府要人のインタビューと読み重ねて行くうちに、改めて、湛山のもっていた広範にわたるネットワーク、あらゆる可能性を求めての超人的フットワークに圧倒されています。これらを整理するために、これからさらに何回か寄り道をさせていただくことにしました。
 この間、私が読んでいたものを以下に列挙します。

.『石橋湛山全集』第9巻の「高橋財政に対する批判と提言」に収められた以下の13編の評論とその「解説」(大原万平による)。
1933年2月「最期の場合の我が経済 何うなるか、何うすべきか」
1933年4月「昭和八年度予算の経済的意味」
1933年8月「財政整理私案」
1933年8月・9月「米穀専売と台鮮米移入管理」
1934年1月「歳出縮少と増税の時期」
1934年4月「教育、思想、及び農村対策 斉藤内閣には如何なる具体方針ありや」
1934年4月・5月「如何にして農村の収入を増加するか」
1934年11月「主義に於て誤れる臨時利得税の計画」
1934年12月「金本位制停止下の満三年」
1935年1月「昭和十年の経済界の予想と資本主義」
1935年6月・7月「財政膨張の上限と下限」
1935年8月「高橋蔵相の公債政策」
1935年12月「昭和十一年度予算の編成」

.『東洋経済新報』に収められた1932年から1933年にかけて行われた「座談会」のうち、自由通商や関税改正、世界経済会議をテーマとしたもの(この時期の重要な事件等を少し補いました)。
1932年5月5日、石橋湛山講演「関税が貿易及産業に及ぼす影響」+座談会「関税改正問題座談会」(出席者:上田貞次郎、大河内正敏、小島精一、武藤山治他、司会:湛山)(→5月21日号)
1932年5月15日、五・一五事件
1932年7月21日‐8月20日、オタワ会議(オタワ協定)
1933年3月、米・ルーズベルト大統領、ニューディール政策(-1936年)
1933年3月27日、日本が国際連盟脱退表明
1933年4月19日、座談会「世界経済会議に対し吾々は何を要望するか」(出席者:湛山、小汀利得、高橋亀吉、山崎覚次郎、山崎靖純、深井英五、三浦鉄太郎他)(→4月29日号)
(世界経済会議に日本代表として主席する、日銀副総裁・深井英五を招いての座談会)
1933年6月15日、座談会「日米親善問題座談会」(出席者:蝋山政道、長谷川如是閑、田川大吉郎、鶴見祐輔、上田貞次郎、芦田均、清沢洌、茂木惣兵衛他、司会:湛山)
1933年6月・7月、ロンドン世界経済会議(日本代表、日銀副総裁・深井英五)
1933年6月24日、湛山「為替比率協定の失敗説と世界経済会議」
1933年7月、上田貞次郎編『日本人口問題研究』刊行(この中に「近き将来に於ける日本人口の予測」)。
1933年8月、バンフ太平洋会議(上田の日本の将来人口予測が「要職人口一千万」という主張として世界に紹介される)。
★実は、1934年の『東洋経済新報』誌上座談会はまだチェックしていないのですが、ここに1935年12月開催予定の第2次ロンドン海軍軍縮会議に向けての議論が展開されていると思われます。3の「若槻男爵縦談」で触れるつもりではいましたが、興味深いものがあれれば、ここに載せたいと思います(追記)。

.同じく『東洋経済新報』収録の、1935年4月-7月に集中的に行われた、湛山による5人の政界要人へのインタビュー。
1935年4月20日、高橋是清大蔵大臣「高橋蔵相縦談」(→5月4日号)
1935年5月11日、町田忠治商工大臣「町田商相縦談」(→5月25日号)
1935年5月13日、荒木貞夫陸軍大将「荒木大将国策縦談」(→6月1日号)
1935年6月21日、若儀槻礼次郎元首相「若槻男爵縦談」(→7月6日号)
1935年7月2日、山崎達之輔農林大臣「山崎農相縦談」(→7月20日号)

 以上から、次のことが明らかにできるのではないかと考えています。
 1では、湛山の、「軍費が多過ぎるんじゃない、財政全体の支出が小さ過ぎるのである」という、この時期の一貫した主張(その「十五年戦争」史観との矛盾)、2では、一見対立した主張をもっているように見える人々の間にどれだけ共通認識が広がっていたか、3では、湛山の行っていた精力的な活動の一端、政界の要人たちをどのように巻き込んでいたか、そして、これら全体を通して、湛山がこの時期、日本の経済を活性化するためにあらゆる手段をつくそうとしていたこと。
 次回より、1、2、3の順で書いていく中でまた述べるつもりですが、例えば、地方財政問題において「地租委譲」を強く主張していた湛山が、その実現が遠のくと、さっさと「地方交付金制度」の中での可能性を探るという方向に頭を切りかえ、「教育費の国庫負担」さえ考えはじめたということ、湛山がそのような側面をもつ人物であったということはもっと注目されてもいいのではないかと思います。
 昨今、NHKの歴史番組など観ると、「十五年戦争」ということばが当たり前のように使われていて危惧の念を覚えています。

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