2014年11月29日

「経済倶楽部だより」よりB

経済倶楽部だより」(『東洋経済新報』1933年10月28日号)
◇18日臨時午餐会は米国産業復興法に関する小島精一君の第五回目の御講演で、その総括的批判と米国財界の前途観をお伺い致しました。
◇21日は世界経済会議帝国全権深井英五君の歓迎晩餐会を催しました。感想談をたっぷり伺いたいと言う三浦幹事の挨拶に対し、御馳走は雖有(ありがたく)頂戴するけれども話をする方は御礼の付けたい(り)程度に願いたいと応酬し併乍ら会議に於ける各国の懸引やら、種々の提案、それから骨抜きにされた案の決議など、一時間もお話され、非常に有益にして愉快な晩餐会でありました。
◇来る27日午餐会は社債の問題で板橋菊松君、30日には臨時午餐会を催し、田川大吉郎君から『独逸の連盟脱退と国際政局に及ぼす影響』に就いてお話を願う事になって居ます。
経済倶楽部だより」(『東洋経済新報』1933年11月4日号)
◇30日の臨時午餐会には予定の如く田川大吉郎君より『独逸の連盟脱退と其の国際政局に及ぼす影響』に就てお話を伺いました。同君は独逸の連盟脱退の影響を小いさく見ると云う立場から、独逸の脱退せる経緯及英米の態度を詳説せられ、独逸には対仏戦争の準備なく、戦争の輪を握れる仏国民には、戦争に訴うるの意志がないと見られるから、戦争はなしと断じ、ヒットラーの人物観を述べて、ヒットラーは不渡手形を濫発しているけれども、但し一事の成功せるものあり、それはドイツの統一組織の努力であり、資本家もヒ氏を後援していることを指摘し国際連盟を独逸の脱退に依て傷痍を受けたに相違なかろうが、米国の支持的態度に変りなく、依然として生存を続けておりまた続けて行くこと、日本の脱退せる後の場合と何等異る所なしと説き、連盟は事実上死滅したとの見解もあるが、自分はそう見ないと結ばれ、頗る有益な講演でありました。
 ロンドン世界経済会議に日本全権として出席した日銀副総裁の深井英五が、経済倶楽部の歓迎晩餐会において何を話したのか興味のあるところですが、『経済倶楽部講演』には収録されていません。ただし、近代デジタルライブラリーで、深井英五『回顧七十年』(1941年11月、岩波書店)を読むことができ、ここにはこの晩餐会でも話されたのではないかと思われるような内輪話があって、会議のようすもある程度わかります。
 ロンドン世界経済会議関連の報告書は、近代デジタルライブラリーで様々なものを読むことができます。
 国際聯盟事務局東京支局『国際経済会議と世界経済の現情勢』(1933年5月⇒6月)
 東京政治経済研究所『世界と日本 : 対恐慌工作裡の政治経済「年誌」』(1933年10月、岩波書店)
 三田同学会『国際経済戦略』(1934年1月、千倉書房)
 外務省調査部『最恵国約款適用ノ除外例ニ関スル調査』(1936年)
 東京銀行集会所『銀行叢書. 第29編』(1936年)
 小島精一、板橋菊松、田川大吉郎の講演は、『経済倶楽部講演』に収録されています(ただし近代デジタルライブラリーでは今のところ読めません)。
 小島精一「米国産業復興法と米国経済界の推移に就て」(『経済倶楽部講演 第38輯』)
 田川大吉郎「独逸の国際聯盟脱退と其国際政局に及ぼす影響」・板橋菊松「企業金融の上より観たる新社債制度五題」(『経済倶楽部講演 第41輯』)
 主要なものが近代デジタルライブラリーで読めるというのが、個人的にはとてもうれしいです。いずれもそのうち読もうと思っているものばかりです。

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「経済倶楽部だより」よりA

経済倶楽部だより」(『東洋経済新報』1933年10月7日号)
◇9月29日定例午餐会、当日の講演者は明大教授中瀬勝太郎君、演題は『江戸時代の会計組織と勘定奉行』、徳川の治世が三百年も続いた重要な原因としてその会計組織が巧みに作られ、財政の基礎が強固であったことを特に注意すべきであると指摘し、幕府会計組織の変遷と歴代勘定奉行の財政政策の推移とを幾多の面白い挿話を交えて説明されました。
◇財政是非の喧ましい今日、徳川時代の財政是非成敗の跡を明にする事は、井上財政、高橋財政を論ずるよりも一層面白かったと『続講』の希望が出ています。
経済倶楽部だより」(『東洋経済新報』1933年10月14日号)
◇2日午餐会は、世界経済会議に報知新聞特派員として出かけられた青木得三君から、『世界経済会議に表れた二大思潮』に就いて御講演を伺いました。
◇ジャーナリストとしてではなく通貨問題研究者としての立場からと前提し、会議に表れた各種の提案や決議に対する批判を述べ、一般的にはエコノミック・ナショナリズムとインタナショナリズムの衝突であったと説明されるけれども要するに、インフレとデフレの二大思潮が対立抗争したものと見るのが当っていると喝破されました。
◇仏国や伊太利には苦がい経験がある。何か知ら二度と再び左様な事はしたくないと言う特種の立場があるのだと思われたと、寧ろ金ブロックの言い分に同情ある口調で結ばれました。
◇13日の午餐会は「社会不安に関する一考察」で清沢洌君、20日午餐会は「米国農業と生糸の前途」で石橋治郎八君からお話を伺う予定です。尚お21日には世界経済会議帝国全権深井日銀副総裁の歓迎晩餐会、23日には太平洋会議から御帰朝の上田貞次郎君、同じく佐藤安之助君の歓迎晩餐会があります。
経済倶楽部だより」(『東洋経済新報』1933年10月21日号)
◇10月に入ってから、倶楽部では殆ど隔日に午餐会と晩餐会が催され、この先にも四回の午餐会晩餐会が予定されています。
◇一ヵ月に10台回とあっては、会員も呆れたであろうが幹事の方でも「チト勉強が過ぎたかな」と首を捻っています。併し、いずくも同じ非常時ばやり、忙しいとてこぼせるものかは。
◇13日午餐会は清沢洌君、講演は「社会不安に関する一考察」非常時の解剖で、同君の卓見をお伺いしました。
◇日本国民は、その右たる左たるとを問わず、共通の不満を持つ、それは、当然得べきものを当てられて居ないと云う対外的の不満で、遡れば現状維持を内容とする米国の太平洋政策に対する不満であるというのです。
◇この不満が内に発して五・一五事件となり、外に表われて満州事件となった、然もこうした爆発の根源は、要するに農民運動である。農民は現在の文化乃至営利主義的経済にアジャストする事が出来なかった。殊に近年の農村の惨めな状態は、伝統と歴史とをバックとする所謂日本精神となって爆発したというのです。
◇尚同君は元来農民というものは、世界いずれの国でもオルガニゼーションを持たないものであるが、徴兵制度あるがために日本では軍隊を通じて農民の団体的意思表示がある云々と農民と軍隊との関連、原価の社会不安の文化的由来を詳説せられ満場を首肯せしめる処がありました。
 1933年10月には、隔日で講演会を開催していたというのですから、驚きですね。これらの多くが『経済倶楽部講演』として出版されています(以下、★印は、近代デジタルライブラリーで読むことができるもの)。
 青木得三「世界經濟會議に表れたる二大經濟思潮」(『経済倶楽部講演 第35輯』)
 石橋治郎八「現時の蚕糸界 」(『経済倶楽部講演 第36輯』)★
 清沢洌「吾国社会不安に関する一考察」・中瀬勝太郎「徳川幕府の会計組織と勘定奉行」・上田貞次郎「太平洋会議に就て」・佐藤安之助「太平洋会議に就て」(『経済倶楽部講演 第37輯 』)★。

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「経済倶楽部だより」より@

 最近、1930年代の『東洋経済新報』を読んでいるのですが、その中からこぼれ情報をいくつか。
 1933年2月、日本が国際連盟からの脱退を表明した後、自由主義経済学者たちは国際会議への参加によって諸外国とのつながりを保つというのが立場を超えた共通認識になっていたように思われます。その主要なものとして次の会議があげられます。
 ジュネーブILO総会(1933年6月8日〜30日)・・・(渡辺鉄蔵)
 ロンドン国際経済会議(1933年6月12日〜7月27日)・・・(深井英五)
 バンフ太平洋会議(1933年8月14日〜26日)・・・(上田貞次郎)
 湛山も国際会議を重要視していたことはすでに述べていますが、それが『東洋経済新報』の「経済倶楽部だより」にもよく表われています。そこで、1933年の9月末から11月初めの記事をご紹介したいと思います。
経済倶楽部だより」(『東洋経済新報』1933年9月30日号)
◇18日は寔(まこと)に国際労働会議に資本家代表として出席された渡辺鉄蔵君の御帰朝歓迎午餐会後「欧米経済漫談」の題下で有益なご講演を伺いました。
◇ユダヤ人排斥を中心とするナチスの政策に就いては大いに問題の存する点、又、ナチスの存在は生死の境に立てる独逸国民の止むを得ざる消極的容認に過ぎない事情等を説明し、日本でも対米取引先の75%がユダヤ系米人である点に留意を要するのではないかと指摘されました。
◇欧米では、日本人の生活水準が低いと屡々非難されたが、之れに対し、日本の労働者の状態は悪くない、戦前を100とすれば、英国の労銀は186、米国のそれは135に過ぎぬ、然るに日本のそれは268に騰貴し、生活の改善は顕著である、況んやナショナル・レソースを欧米各国が独占している事を忘れて日本を非難するは当を得ないと逆襲し、日本経済界の向上を力説されたとのお話は、再禁止反対論者であるだけに、特に興味深いものがありました。
◇22日の午餐会には日比野少将の「日米海軍の情勢」に関する緊張した御講演を伺いました。
◇米国対日政策の最近の推移、之れに対する日本海軍の用意の具体的状態、日米海軍力の比較、補充計画の軍事的経済的意義、軍縮会議に対する軍備平等論の根拠等に亘って、詳細に且つ赤裸々な御説明がありました。
◇時節柄、速記をとることを差控えたことは遺憾に存じます。
 前半の渡辺鉄蔵は、このとき日本商工会議所の理事で、使用者代表として国際労働総会に参加しています。その自らの演説も含む報告書を近代デジタルライブラリーで読むことができます。
 渡辺銕蔵報告『第十七回国際労働総会経過概要』(1933年7月、日本商工会議所)
 他にも公的機関から出された次のような報告書が収録されています。
 外務省社会局『国際労働総会報告書. 第17回』(1934年3月)
 国際労働局東京支局『千九百三十三年第十七回国際労働総会ニ於テ採択セラレタル条約案及勧告』(1935年9月)
 ついでながら、近代デジタルライブラリーでは、渡辺の次のような著書も読むことができます。
 『都市計畫及住宅政策』(1923年10月)・・・関東大震災の直後に書かれたもの。
 『大正震災所感』(1924年5月)
 『ユダヤ人の世界的分布状態 : 日本とユダヤ人問題』(1938年10月)
 『ナチス統制下のドイツ国民経済』(1939年2月)
 渡辺は、浜口内閣の蔵相、井上準之助のブレーンを務めていた黎明会系リベラリストであり、金解禁論争では、湛山ら東洋経済系リベラリストと対立していました。「経済倶楽部だより」前半の末尾にちょっぴり皮肉が込められているのはそのためですね。

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2014年10月21日

猪間驥一の地方財政研究F

A.猪間驥一「地方財税制改革案要綱の数字的検討」
 (『都市問題』1936年11月号・「地方財税制改革案の検討」特集)
B.猪間驥一「地方税制改革案の意味と影響」
 (『東洋経済新報』1936年10月10日号・「税制改革案の内容検討」特集)

 「猪間驥一の地方財政研究F」としては本来ならAを載せるべきだと思いますが、実はこの論文は、この前の月、『東洋経済新報』誌上に発表したBの「数字的検討」を進めたもので、しかもBに比べてややこみいった内容を含みますので、ここではわかりやすいBで置き換えることにします。
 この内容については、2014年8月3日の記事「いくつかの新しい情報5」にてご紹介ずみですので、それをそっくりそのまま「猪間驥一の地方財政研究F」として用いたいと思います。
 ということで、いよいよ、猪間と湛山の地方財政問題に関する論文のまとめにかかろうと思うのですが、次のようなタイトル(仮称)と構成を考えています。

いかにして日本の農村は自立しうるか
――石橋湛山と猪間驥一の1930年代地方財政問題への視点――
はじめに
第1章 鈴木武雄の「地租委譲論と石橋さん」
第2章 政友会の爆弾動議と地租委譲論の行方
第3章 『東洋経済新報』と『都市問題』の共同企画
第4章 「地方財政調整交付金制度案」の採択と発案者
第5章 「臨時町村財政補給金案」の配分標準への疑問
第6章 「地方税制改革要綱案」の公表と数字的検討
第7章 農村工業や外国貿易をめぐる情勢を視野に入れて
おわりに

(追記:その後、章立てを多少修正しています)

 当初の計画とやや異なり、ここで取り扱うのは、1935年春から1936年11月までの、実質1年半、この間に展開された地方財政問題に関する議論を取り上げます。
 第1章から第6章までは、猪間驥一の論文を中心に、『東洋経済新報』誌上に現れた湛山の社説や政界要人へインタビュー、座談会等の記事、また『都市問題』誌上における特集記事等について論じるつもりです。
 第7章は、今回とくに力を入れようと思っているものです。
 猪間は6番目の論文「臨時町村財政補給金案の配分標準に関する疑問(続)」の「むすび」で、「臨時町村財政補給金案は、単行則率の制度案として語ることを許さないものがある」として、「それは現に進行しつつある自由主義財政経済から統制的財政経済への変革の過程に現れた、一連の諸対策の重要部分を為すもので、重要産業統制、外国貿易統制、金融統制、公益企業統制等の、既に行われている対策、或は今後行われんとする対策と其の根柢を同じくする」といい、「重要産業に於ける企業者間の生産の割当、生産品価格労働賃銀の公定、或は外国貿易に於ける当業者間の輸出入数量の決定、或は公益企業統制に於ける料率、利益金処分の統制等、問題は直に被統制当事者間の利害に関連する数量の具体的な問題に引掛って来る」と説明します。
 ここでいう統制というのは、1932年、オタワ協定を締結した英連邦の自由主義貿易の放棄・経済ブロックの形成への動き等により日本が強いられたものですが(←この部分少し書き直しています)、非常に興味深いのは、猪間の、『世界経済図表』(1931年12月)における次のような指摘です。
 すなわち、「併し驚くべき事は、あの自由貿易主義の伝統に立ち、この頃保護貿易に転向すると伝えられる英吉利が、既に疾の昔(=第一次世界大戦後)から日本以上の関税重課国なる事」、「少くも形式上現れたところでは、日本は自由貿易国英吉利よりも輸入品の関税負担低く、恐らくは今日世界で最も低い国の一群に属すると思われる」こと。そして総貿易額に関して、「世界各地に物を売る事に依て経済を立てている英吉利が、大戦後ただの一箇年も、戦前と同じ水準の実質的輸出をした事は無く、反対に自国が消費する輸入品は、1924年以来常に戦前の水準以上に出でて下らないと云う有様である」ことです。
 猪間は、上田貞次郎の人口問題研究グループにあって、ヨセミテ太平洋会議に向けての準備をすすめながら、「自由通商、工業立国」を実現するための結論、上田のことばでは「国内移住」の具体的計画の立案に入ろうとしていました。
 また湛山は、『東洋経済新報』誌上において、この上田の人口問題研究やバンフ・ヨセミテ両太平洋会議における活動の一つ一つに対応して、最後までサポートしていたことが確認できます。
 1927年、上田が参加したジュネーヴ国際経済会議を今日のTPPやGATTウルグアイ・ラウンドに先行する最初の貿易会議とする見方がありますが、1933年のロンドン世界経済会議失敗後、彼らが、バンフ・ヨセミテ両太平洋会議を貿易交渉の場と位置づけていたことは間違いないでしょう。日本の論壇にあって、彼らは最後まで自由通商を唱えていました。
 さらに、農村工業計画の考え方についても、湛山らは際立っていました。
 当時、都市と農村の利益は対立するものとして、農村工業には批判的な立場の者が多く、農民運動家の中澤弁次郎も諸手を挙げて賛成しているわけではありませんでしたが、湛山は、農村の人口を3分の1に減らすべしと主張しながら同時に農村工業を推奨していました。
 上田は、「国内移住」によって都市が農村の人口を吸収することを日本の取るべき政策としながら、大河内正敏の農村工業協会のメンバーでもありました。
 猪間は、上田と同じ主張をもち、それを都市計画として実現しつつありながら、農村における副業の必要など早くから訴えており、また『都市問題』誌上に、この問題をめぐって多くの論客を登場させていました。
 つまり彼らは、日本が工業立国・貿易立国できること、また日本の農村が自立できることを、同じ地平の上に考えていたということです。
 「おわりに」では、なぜこうした議論が後世に伝わらなかったかという点について、私見を述べるつもりです。
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2014年10月09日

猪間驥一の地方財政研究E’

1936年4月「臨時町村財政補給金案の配分標準に関する疑問(続)」(2/2)
第二 異る府県間での問題
 次に第二の問題である。道府県税は各道府県の間で課率を異にし、且独立税に於ては、課目及課税の方法をも異にしているから、直接国税の場合の如くに、直ちに以て配分標準とは為し難い。だが、為し難いとは云っても、之を直ちに棄てる訳に行かないとすれば、各道府県間の異同を補整して、公平な全国標準に引直さねばならぬ。之が為に採用すべき方法如何?
 補整率の観念 内務当局は、地方財政調整交付金案の立案当時から此の点を考究して、町村に於ける現実道府県税額に一定の補整率を乗ずる、と云う方法を案出した。其の補整率は、今回の要項にも記された如く、「各道府県に於ける直接国税額に対する道府県税額の割合と、全国に於ける直接国税額に対する道府県税額の割合との比」である。今、各道府県に於ける直接国税額を、道府県税額を、全国に於ける直接国税額を、道府県税額をとすれば、補整率は
 a/b:A/B=aB/bA
であって、之を或る町村の道府県税額Cに乗じたものが、当該町村の補整された道府県税額となり、補整金配分標準の一部となるのである。
 此の補整率なるものは、卒然と之を見ただけでは、如何なる意味を有するか、一寸理解し難いであろう。之を理解する為には、次の如き方法に依るがよい。
 一 先ず全国の道府県税対直接国税の割合B/Aを取り、之を道府県税に関する一種の理想的負担状態と見る。
 二 次に或る府県の直接国税額を取り、之にB/Aを乗ずれば、当該府県の云わば理想的な府県税額が得られる。之をb’を以て表すとしよう。
 三 次に理想的府県税額と現実府県税額との比を取れば、現実税額が理想税額より多いか少いかが、逆比的に示される。
 四 右b’/bを或る町村の府県税に乗ずれば、当該町村の府県税額を全国並みにしたもの、云い変えれば理想化したものが得られる。
 右は全体の操作をC×〔(a×B/A)÷b〕なる順序で理解したものであるが、又之はB×a/A×C/bの順序で理解することも出来る。(……)
 いずれにしても或る町村の道府県税額を、当該府県の特殊事情から脱却させて、全国並みに引直そうとするものであって、此の方法を用いれば、府県税負担が全国並みの所には何等変化はないが、其の比較的少い所は税額が膨張せしめられ、其の比較的多い所は、税額が縮小せしめられる様になるのである。
 補整率適用の実際計算 斯く補整率を適用するに依て生ずる変化に、実際にどんなものがあるかを見る為に、私は主税局年報、地方財政概要、府県統計等の各昭和八年一ヶ年度の数字を利用して、若干の計算を行って見た。勿論(……)得られる結果は正確ではない。が、兎も角計算の方法は示され得るし、種々の積極消極要素を考慮して見ると、結果の数字にも莫大な差違は来さない様に思われるのである。
 先ず補整率の計算をして見ると、全国の道府県税額(昭和八年度決算額)228,747,081円、直接国税額249,149,633円、両者の割合B/Aであって、各府県の率の計算は左の如くである。(……)
 この補整率を各府県下町村の府県税額に適用するのであるが、一私人の手で町村に就て計算することは統計材料の関係上不可能なので、私は仮に補給金が郡に与えられるとして、郡に就て道府県税が汲ん補正額を計算し、又直接国税額との輪を計算して、補給金配分の大小に対する推算を試みて見た。(……)
 叙上の方法が、各府県に於ける府県税の不整一を調整して、以て府県税負担の重い府県の町村が、その重きが故に補給金配分上に蒙る不利を軽減し、府県税負担の軽い府県の町村が、その軽きが故に補給金配分上に享ける不当利得を制限する上に、極めてよく働く巧みな工夫であることは、何人も認めざるを得ないであろう。これ以上に良い方法を考えようとしても、そうそう手易く考え付けるものではないかもしれない。併し、之が果して完全無欠の方法であるか、と云えば、未だ相当疑問の残る余地はあるようである。例えば次の如き点は、考慮すべき問題であろう。
 補整率に関する一疑問点 補整率の適用に依て、補給金配分に関する貧富程度の認定上、上記東京府西多摩郡と山口県豊浦郡或は大阪府南河内郡と熊本県玉名郡との間に、地位の転倒が起り、西多摩郡、南河内郡の配分標準税額はウンと引上げられた所以を補整式C×aB/bAに就て検すれば、要するに東京府大阪府に於てa/bの値が大なるが故と云うに帰する。然らば両府では何故にa/bの値が大であるか? 云う迄もなく、そこに東京市大阪市があって、府の直接国税納税額が非常に大なるが故である。而して此の故を以てのの値の非常に大なることは、西多摩南河内郡の富力に直接関係のあることではない。つまり両郡は夫自身貧弱な郡であっても、東京市大阪市と云う様な富裕な大都市と同一地方団体に属するが故に、配分標準に就て不利な訂正を蒙るのである。尤も、不利な訂正を蒙るとしても、根本に於て、富裕な東京市大阪市の存在が、西多摩郡南河内郡に府税を安からしめる様に働いているならば、もともとが過小になっているのであるから、訂正はジャスチファイされるのである。併し若しも、が大都市の存在の為に特に引下げられてる、と云う訳でもないのに、或はが西多摩郡南河内郡の富力を可なり正確に表しているのに、之に特に東京市或は大阪市の存在によって増殖せられたa/bを乗ずることをするならば、それは両郡に取って不当の損失を掛けることとなろう。(……)
 叙上の説明方法は、公式の援用や妙な実例の引用や何かで、稍ゴタゴタした観があるが、私の云わんと欲する所は、要するに此の補整方法の採用が、全体として裕福な府県の貧弱な町村に不利を与え、全体として貧弱な府県の比較的裕福な町村に有利に働いて、異府県間の町村の比較に際し、公平を失するの懸念なきや、の点にあるのである。(……)当局としては、他の諸町村に関する調査の場合、十分考慮を払われたいと思う。
五 むすび
 臨時町村財政補給金案は、単行特立の制度案として語ることを許さないものがある。それは現に進行しつつある自由主義財政経済から統制的財政経済への変革の過程に現れた、一連の諸対策の重要部分を為すもので、重要産業統制、外国貿易統制、金融統制、公益企業統制等の、既に行われている対策、或は今後行われんとする対策と其の根柢を同じくする。しかして此種の統制が実施せられ或は実施を目論まれる際には、其の根本に、国家全体の利益がこの統制によって齎され、又統制さるべき社会的インスチチューションに関係ある国民各個の利益が公平に考慮あれる事を予想し、又この予想が現実に一定の技術方法で到達される事を予定するものである。併し此の予想予定を現実に齎さんが為には、非常に困難な問題が多いものである。重要産業に於ける企業者間の生産の割当、生産品価格労働賃銀の公定、或は外国貿易に於ける当業者間の輸出入数量の決定、或は公益企業統制に於ける料率、利益金処分の統制等、問題は直に被統制当事者間の利害に関連する数量の具体的な問題に引掛って来る。そうして斯く引掛った問題は、何等かの標準を探求するに依って解決するの外無い。又現に統制が、或る事実を標準として行われているならば、其の標準が、統制の予定せる国家全体の利益、関係者の利益に対する公平、を実現するに十分なものであるか、否か、の問題は常に検討さるべくある。爰に社会現象を取扱う研究者に、新時代によって課せられた新らしい課題が、極めて広汎な未墾地として横わっているのである。(……)

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猪間驥一の地方財政研究E

1936年4月「臨時町村財政補給金案の配分標準に関する疑問(続)」(1/2)
 今回は前稿に引続き、税額に関する問題の内、道府県税関係の問題を取上げることとする。而して此の場合にも、論は前掲の乙式を基本として進められるのであって、Tが比較的多い町村は損する、Tが比較的少い町村は得する、と云う基本的規定は何処迄行っても変わらないのである。
四 税額Tに関して
(B)配分標準たる道府県税の問題
 臨時町村財政補給金案は、町村に対する補給金の配分標準として、各町村に於ける直接国税の外に、道府県税額をも加えている。何故に斯く道府県税額をも加えねばなるまいか、が問題であるが、之に対しては、曾て当局が地方財政調整交付金案を立案した際、其の配分法に就て説明した中に
 「市町村中には地租以外の直接国税は極めて少額なる為、直接国税又は其の付加税のみを以て資力又は課税力測定の標準と為すことの不適当なるもの少からざるを以て、道府県の税をも標準に加うる必要あり」
と云って居る。文義必ずしも明確ではないが、当局の意のある所は、略々察するに足りる。即ち直接国税だけを標準にするのでは心許ない、或は配分額が一義的に地租額だけで決せられる惧れもある。故に国税付加税、家屋税営業税雑種税等を含む道府県税をも加えて、綜合的に資力を測定しようと云うのであって、標準が過少或は偏せるより起る資力算定の脱漏を防ごうとする用意の程は、何人も賛意を表するに躊躇しないであろう。
 併し斯く概論的に承認せられる道府県税の標準採用も、更に進んで、此等の税が全国町村に如何に分布するかを考慮して論ずる各論的段階に入ると、相当厄介なことになる。その厄介な中で最も問題になるのは、次の二点である。
1 一府県内でも、町村により府県税の税種税源の分布は一様ではない。この点から起る各町村間の不公平を如何するか?
2 各府県の間では、同種の府県税でも課率を異にして居り、又独立税に関しては課目及課税方法を異にしている。この点から起る各町村間の不公平を如何するか?
第一 同一府県内での問題
 先ず第一の点から論じよう。同一府県税の税種の分布を考える時、先ず考うべきは、所得税付加税営業収益税付加税と農地地租付加税及之と性質を同じくする特別地税との分布状態である。直接国税たる農地地租が、所得税営業収益税に比べて負担重く、従って之を補給金配分標準とする場合、税収額中農地地租の割合の多い町村が不利を蒙ることは、既に前稿に述べた通りである。斯様な税に付加税が加えられるのであるが、付加税が本税の不均衡に対して作用する態様は、次の三箇の場合がある事を思わねばならぬ。
 一 付加税相互間の関係が、本税の不均衡其の儘を維持し、全体としての税負担の不均衡に、本税のみの場合と差違無き場合
 二 付加税相互間の不均衡が本税の不均衡に輪を掛けて、全体としての税負担に一層不均衡を生ぜしめる場合
 三 付加税相互間の不均衡が、本税の不均衡と丁度逆比例的に行って、全体としての税負担に均衡を得せしめる場合
 付加税が右に挙げた第三の場合を実現する様な率で課税されるならば、負担が公平となると共に補給金の配分も公平に行われ、問題は解決するのであるが、恐らく現実に斯様の事の行われる場合は、極めて稀であろうと思われる。よく行って第一、多くは第二の場合が現れて、本税に就て論じた補給金配分の不公平が、ここに訂正を見ないのみでなく、一層激化するのではあるまいか。
 但付加税を標準とする補給金配分の不公平も、営業税、雑種税、家屋税等が配分標準に加えられにより訂正せられる、と云う事が考えられなくはない。営業税雑種税の負担が地域的に如何なっているか、を正確に知る事は困難であるが、達観的に云って、農村よりは、多少とも繁華な町に於て、多く支払われているものとかんがえられその限り、地租負担の多きに依て補給金に関し農村の蒙る不利を、緩和すると云えるであろう。併し家屋税に関しても、同様のことが考えられるであろうか? 家屋税に就ては、現実の家賃収入が無いのに仮定的な賃貸価格を標準として課税せられること、其の課税標準が、農家では作業場蚕室等が付随するとか、粗笨な経済を行っていた時代からの伝来の型であるとか、構造上の関係から商工業地の家屋に比し不利に見積られること、等々が農村から喧しく訴えられている。斯様に家屋税の負担が農村地方に特に重いと云うことが、事実であるならば、営業税雑種税によって他税の不均衡が僅かばかり補整されたとしても、忽ち之を元へ戻してしまうであろう。
 要するに、同一府県の町村間には、私が前稿に於て指摘した、直接国税を標準とする補給金配分の不公平が存し、其の標準に道府県税を加える事によって、この不公平が十分閑話せられると云うことは、疑問とせねばならぬ様である。補整金配分を掌る中央当局としては、配分標準の機械的適用を慎み、地方当局の実施の観察経験を充分に尊重して、配分額を決定する必要があるであろう。

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2014年10月08日

猪間驥一の地方財政研究D”

1936年2月「臨時町村財政補給金案の配分標準に関する疑問」(3/3)
四 税額Tに関して
 臨時町村財政補給金案要項は、従来の書案の伝統に沿うて、直接国税と道府県税とを配分標準として採り、両者の合計を以て標準としている。そこで問題は更に分れて、直接国税が各町村に如何に分布しているか、道府県税が各町村に如何に分布しているか、の二つになる。(……)今回は専ら前者だけを論じよう。(……)
(A)配分標準たる直接国税の問題
 配分標準として採用される直接国税は、地租(自作の農地免租額を含む)所得税(第二種を除く)営業収益税資本利子税(甲種を除く)鉱業税砂鉱区税取引所営業税であって、地租は一定日の現在額、資本利子税は調定済額の三年平均、其他の国税は調定済付加税基本額の三年間の平均を算定すると云う事になっている。(……)
 上記各種税の全国各町村に於ける分布は、決して一様ではない。或る町村では地租が絶対多額であるのに、他の町村では営業中益税が相当多額納められて地租の割合が少い、と云う様な事が起る。(……)
 租税の中に、比較的景気の変動に応じて税下区が変化するものと、景気の変動に拘らず税額が固定するものとがある事は、人の知る所である。所得税、営業収益税等は前者に属し、地租は後者に属して、其の間に著しい対照を為す。(……)
 之に対して田畑山林地租は、大分趣を異にする。其の税額は、昭和五年地租法が定められ、大正十五年四月一日現在の賃貸価格を以て定まって以来、一定して動かない。(……)表に示したように、当時に比べて米価其他農産物価格が著しく低落した今もなお、古い標準を以て田畑税は納められるのであって、その税額は景気の悪化に比し多額になって居り、之を標準とすることは、現在の実状からすれば、可なり割増しされた計算になる訳である。
 同じく符号で表すけれども、地租ばかり納めている村は、此の値が比較的に大きくなり、専ら所得税営業種益税を納めている村は、此の値が比較的少くなる。(……)地租の割合が多い所ほどの値は比較的多く、所得税、営業収益税の多い地ほどの値は小である。補償金を貰うに就ては、が出来るだけ小さいのが得であることは、既に述べた通りであるが、然らば、如何なる所に所得税営業収益税が多く、如何なる町村に地租が圧倒的多額を占めるであろうか? 一町一村をとって具体的に考える事は到底出来ないが、抽象的に考えれば、純農村には地租以外に税は殆どない。所得税や営業収益税を納めている所は、町村でも比較的商工業が繁栄している地である。筆者は、原案の配分標準が、純農村以外の地に、多少共資本主義的に発達した地に、余計に補給金が与えられるようなものになっているのではないか、と云う疑問を懐く。
 以上の疑問を実証的に検討する事は、(……)到底出来ることではないが、幾分かの目安を得るが為に、筆者は最近の各税務監督局の税務統計書から、臨時町村財政補給金案に配分標準として用いられた諸税の、郡部だけの税額を摘出して、各府県郡部に於ける田畑山林地租の占むる割合を計算し、次の様な表を作成した。
(2)道府県郡部に於ける直接国税額中、田畑山林地租割合
 右の表は、田畑山林地租と自作農地の免税額とを合せた農山村的租税の、配分標準として挙げられた諸税総額中に占める割合が、各府県で非常に異る事を示している。パーセンテーヂの大小で等級別に分けて見ると、
 70%以上 沖縄
 60%以上 青森、山形、鳥取、徳島、高知
 55%以上 福島、茨城、山梨、長野、岐阜、島根、広島、佐賀、宮崎、鹿児島
 50%以上 宮城、秋田、栃木、埼玉、千葉、新潟、石川、岡山、香川、熊本、大分
 45%以上 岩手*、富山、福井、静岡、三重、滋賀、京都、奈良、和歌山、山口、愛媛、長崎
 40%以上 群馬、愛知、福岡、
 40%未満 東京、神奈川、大阪、兵庫、北海道
と云う順になって、六大都市所在府県並に福岡県等の七大府県は下位の方に来、沖縄を始め、鳥取、高知、東北六県と云う様な我々が常識的に貧弱地方と考えるものは、下方に位するのである。
 尤も斯様にして得た結果が、果して信頼し得るか、如何なる限界でそれが利用し得るかは十分に注意せねばならぬ。(……)欠陥の多い事は筆者自身よくよく心得ているから、この様な資料を提げて、当局の配分標準案に対し、可否の論断を下そうとする程の勇気は持ち合わせていない。ただ政府当局以外にあって多少共数字的検討を試みようとすれば、右の表以上の数字を自らこしらえる事は到底出来ないので、兎も角成し得る限りを為して、そこに現れた数字の矛盾から、臨時町村財政補給金制度にも、斯る矛盾に陥る危険が無いか、どうか、の疑問を述べようとするのである。右の表は、その限りでの資料、それ以上の意義は何等主張し得ないのであるが、それでも、相当多くの事を語ってはいまいか?
 六大都市のある様な府県、東海道近畿地方、九州北部等の比較的富裕地方は、郡部でも相当地租以外の税金が多くて、地租の割合は少くなっている。乍然そこでは、(……)配分標準式のの値が比較的少くなり、それだけ配分金額は殖える。逆に東北六県、鳥取、高知、沖縄等の諸県の軍部では、富力貧弱なだけに、税金は専ら地租に依り、地租の割合が多いが、その為は増して、それだけ配分金額が減ずる、と云う惧れがありはしまいか? 税務統計書に拠らない、町村役場での統計が、果して之を如何なる程度に正誤するか? 景気の好い町村を除き、一定の標準の下に特に貧弱町村と指定される町村だけを取ると云う事が、此の統計を如何なる程度に修正するか? その点を筆者は刮目して注意したいと思う。
 以上筆者は、専ら地租殊に田畑山林地租の分布と云う点から、此の問題を考察したが、其他にも考慮を要する点は少くない。鉱区税の如きは、所によっては不在地主の地租と同じ性質を有つ税であるから、之は税金の中から省いて計算せねばならぬ。国有林が存在する為に農林省から交付金が与えられる様な町村の、交付金収入の意義は山林地租に異らぬが故に、之を地租並に扱う必要がある。等々々等々々種々な問題があり、(……)ただ地租の総税額中の構成割合が全国的に異り、地租の課税標準が他の税の課税標準と意義を異にする点は、重要なる点であると共に、一地方局部の問題に止らないから、当局に於ても特に慎重な調整を行い深き考慮を払われたいと思う。
 若し上表の如きDiscrepancyが、町村別に見ても存在するならば、思い切って、補給金相分標準として採る地租税額を、現実額を採らず、農産物林産物の価格下落率だけ切り下げた仮定額を採る、と云う様な方策を採ってはどうかと思う。それによって、総税額中地租割合の多い町村のを相当引下げる事が出来ようからである。
 内閣調査局案と伝えられたものには、人口に関して既述の如く仮定標準を設けて、現実数を修正する場合のある事が想定せられていた。今回の案に斯様な事項は包含されているか否か知らないが、若し斯様な考え方が人口に関して成立つものとすれば、地租額に関しても仮定標準を考える事は、十分許さるべきであろう。且つ今回の臨時町村財政補給金案は、臨時的の施設であるが、その「臨時」と云うには、昭和十三年度から土地賃貸価格が改訂され、地租負担額に変化の来る事が予想されるので、之によって現在の租税負担の不公平が是正される迄の間の「臨時」的施設である、との意見が含まれていると聞く。果して然りとすれば、この臨時施設には、地租と他の税との間の課税標準の不均衡と云う事が、制度創設の前提として認識されているのである。その認識に基く対策であるからには、不均衡そのものを標準として、補給金を配分すると云う事は、許され得ないものと思う。(未完)

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猪間驥一の地方財政研究D’

1936年2月「臨時町村財政補給金案の配分標準に関する疑問」(2/3)
三 人口Pに関して
 補給金を多く貰おうと云うには、町村の人口の多い方が――他の事情にして等しき限り――都合が好い。然らば、如何なる町村に、人口は余計集められるか? 面積の広い町村などと云う事も考えられるが、最も重視すべきは、大規模経営の工場鉱山があると、そこに人口が集中して来ることであろう。この集中する人口が、税金を余計に払うのであれば、問題は大して起らぬ。の多い事がの少い事と差引して、補給金額を減ずるからである。ところが今度設けられる制度に於て、税金として計算に取入れられるのは、(……)消費税や町村税戸数割などを含まず、計算の基礎になるのは直接国税である。工場がある為に集って来る様な人口の大部分は、賃銀労働者であって、彼等は殆ど直接国税を納めない。彼等は専ら人口を殖やすと云う作用ばかりして呉れるのであるから、補給金を多く貰おうと思う町村当局にとっては、まことに難有い(有難い)存在であろう。殊にその工場が福利施設をして呉れれば、町村としては、人口増加に因する社会施設等をしないでも済む訳である。尤も此の工場鉱山が、其の町村に於て所得税営業収益税等を多額に納めれば別であるが、大企業に於ては、工場は村に置いても本社を市に置いているのが多いから、所得税は戸数割をかけている町村には関係が無く、又営業収益税は、町村制第九十九条の町村税付加税分別徴収の規定に依って、当該町村分の税額を配分標準の中に加えることになろうから、多少斯る町村のを多くすることとは思われるが、大体斯様な分別徴収額は比較的少く見積られると思われるので、人口の増加を減却する程度にには達しないであろう。
 要するに、純然たる農村よりは資本主義的企業の存在する町村の方が、補給金に恵まれる機会が多い様に思われるのである。曾て臨時町村財政補給金案が定まる以前、内閣調査局が窮乏町村財政援助の応急施設に就て考究中と云われた時に、外間に洩れた同局の具体案中には「軍需工業の殷盛其他特殊の事情に依て人口の集中を来し、延いて一人当り負担額の少い町村では、一人当り負担額の算定に当って、仮定標準の下に人口数を減少すること」と云う一項が設けられ、広島県広村、秋田県小坂町、熊本県水俣町等が例として挙げられていたが、之は上記の事情に応ずる対策なのであろう。今回の案の要項にも「人口産業その他特殊の事情により、補給金算出額が過多となりと認めらるる町村に対しては、之を交付せず又は減額す」と云う条が見えている。余り例外的取扱が多くなるような標準を用いるよりは、初めから例外が出ぬような標準を探すがよい、と云う議論は残るが、兎に角叙上の点に相当考慮が費され、当局も用意していると見えるのは、結構である。
 なおの動きに付て考察を続けるに、税金だけは自町村で納められるのに、之に関係する人口が自町村にいない、と云う様な所が損すると云う事実に気付く。中小工業鉱山があって、国税を其地で納めているが、其の従業員は近隣の町村から通勤していると云う様な所は、甚だ不利である。殊に問題となるのは、不在地主である。地租は村で納める。併し自分は市に住んでいると云う様な際には、彼の一家は、其の村のばかり殖やしてを減ずる作用をしているのであるから、其の村にとって洵に迷惑な存在である。之を更に実質的に考えれば、小作料だけの購買力は其の村から運び去り、其の上に補給金の来る事を邪魔すると云うのであるから、問題は一層深刻たらざるを得ない。
 不在地主による町村財政への影響に就ては、臨時町村財政補給金制度案要項も相当考慮を払い「人口又は其の密度の小なる為経費嵩み、災害により著しき損害を被り、町村債の元利償還額多額に上る」等の町村と共に「不在地主の存する為税源乏しき等の事由に依り、財政特に窮乏し町村税負担過重なる町村」に対し「具体的に窮乏の事由及程度を調査して配分金額を算出す」として、此の配分金額を、前述の最低八割五分を除いた最高一割五分の中から蹴出すことに定めている。如何なる標準に基いて、具体的調査が行われ配分額が算定されるかは、未だ知る由もないが、余りそれが恣意的にならぬが為には、最初から配分標準に於て、例えば不在地主の納める地租は当該地の国税額中に算入しないとか、或は不在地主の一家の人口は或るウエイトを付して当該町村の人口に算入するとかの用意が必要ではあるまいか?
 最後に、配分標準中に用いられる人口の種類に就て考慮を要する。それには、人口の産業別職業別によって多少取扱を異にする、例えば農業人口は特にウエイトを重くして計算すると云う様な方法も、考えられないではないが、之は統計の不備、実際計算上の煩雑、厳密な標準選定の困難を考えると、到底問題にはなるまい。また年齢別構成に重きを置いて、幼児、学齢児童数或は老廃者人口を重く見るがよい、との主張も存在し得る。之は正確な統計もあるのだから、相当有力な説たり得るが、今度の制度では、補給金の範囲が町村に限られ、市を含まないから、年齢別人口分布は比較的均斉を保つが故に、説の有力さは減ぜざるを得ない。(……)大体に於て、幼児学齢児童老廃者等は、其の居住地に於て、税金を納めないで人口を増す作用をしているのだから、補給金の関する限り、経済的不利を緩和している訳で、益々この説の有力さを減ずるのである。
 採用すべき人口の種類に就て最も注意を要するのは、特別に人口を集中せしめる様な要素を除去すべきことである。兵営、軍艦、刑務所等の存在が不当に該地の人口を増すことは、何人も直ぐに気付く点であろう。臨時町村財政補給金案要項が、人口の算定に国勢調査人口を用い、且つその特別調査区域たる部隊、艦船、刑務所内人口を除外するとしたのは、まことに当然である。併し此の点は今一歩考慮を進めては如何であろうか?
 上に述べた様な大規模工場が、女工を沢山集めて寄宿舎に入れて置く場合、学校の生徒の寄宿舎が設けられている場合、船着場があって相当の客船が入港している場合、旅館があって投宿者の多い場合等々は、町村にあっても事例決して少くない。それらの場合は、大抵土地に落ちる金を多くする場合なのであるが、補給金算定の際には、人口を増大せしめて其の地に有利な影響を齎すのである。筆者は斯る見地から、算定標準として採用すべき人口は単り部隊、艦船、刑務所等の特別調査区域人口を除くのみならず、準世帯人口を総て除いて、所謂普通世帯人口のみとする事が、妥当だと信ずる。

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猪間驥一の地方財政研究D

1936年2月「臨時町村財政補給金案の配分標準に関する疑問」(1/3)
 地方財政問題の沿革的研究を終え、また新しい地方財政調整交付金制度案の採択を受けて、猪間驥一はいよいよ、補給金の配分標準に関する研究に入っていきます。
 ごく大雑把ないい方をすれば、1935年の4つの論文で、地租営業収益税の両税委譲が恩恵を与えるのは都市に厚く郡部に薄いこと、また義務教育費の国庫負担の増額も多く農村をうるおさず都市方面に流れて行くことを見出し、さらに義務教育費国庫負担金の分配方法の中に、地方財政調整交付金の公平な配分の鍵となるものがあると考えたのです。
 こうした認識を元に、1936年の研究が開始されるのですが、ここにおいて猪間の本領が遺憾なく発揮されます。
一 はしがき
 久しく「地方財政調整交付金」の名の下に朝野で論議せられ来った制度案が、去る十月内閣審議会の政府諮問に対する答申中に「窮乏町村財政援助に関する応急施設」として一部採択せられたことは、簡単な沿革的考案を付して前稿に記して置いた。其の後政府は、此の答申に基き案の具体的内容を練り、愈々「臨時町村財政補給金制度」なる名称を付して、昭和十一年度から実施する事に決し、之に要する経費二千万円を内務省新規事業費として容認し、明年度総予算案中に組み込んだ。(……)
 要綱は、相当詳細なものであるから、之を従来公表されて来た、内務省の原案たる地方財政調整交付金案要綱、或は各政党から提出された同一系統の思想に属する諸法案要綱と比較論評し、且つそこに現われた内容や意義の変遷等を考慮することは、興味もあり必要であると思われる。而して其の論議は、既に此の制度が根本に於て未だ問題を残しながらも、大勢に促されて、実現の段階に達した以上、第二議会的に、調整方法の技術的方面の細かい点に集中さるべきことは、筆者が前稿に於て既に指摘したところである。
 併し今日の所では、例えば此の制度を法案化して議会に提出するか否かに関しても、政府部内の意見が纏まらぬ模様であり、其他未決定の事項も少からぬ様であるから、そう云う仕事は今少し先へ延ばし、爰では、ただ補給金の配分標準に関する若干の疑問を述べるに止めようと思う。筆者としては、種々な比較検討の後に出て来る筈の結論的事項を、先ず本稿に示して、細かい比較研究は後の稿に譲りたいと思うのである。
二 配分標準の基本形式
 地方財政調整交付金制度案が提唱されて以来、今回の臨時町村財政補給金案に至る迄、現われた幾多の案は、夫々に政府からの交付金を地方団体に配分すべき標準に関する、或る程度の具体案を携えていた。夫等諸標準の内には、今回の臨時町村財政補給金案の成立に際して、制度の目的並に包括範囲の変化の為に、当然に却けられたものもあり、不適当として葬り去られたものもあるが、最初の原案の時から既に其の姿を現していた左の一項だけは、終始各案に於ける重要なる配分基準として中心的地位を占め、遂に今回の案にも、原則的配分率として採用されるに至った。それは
 或る地方団体内に於ける税の住民一人当平均額が、全国平均に達せざる場合、其の不足額に当該団体の人口を乗じて得る額に応じて一定額の国庫支出金と、按分比例的に配分しようと云う案である。(……)
 を税の全国人口一人当平均額、を当該地方団体の税額、を同じく人口数とすれば、上の標準は次の式で表される。
 (A−T/P)P     (甲)
 此の式を簡単にすれば
 AP−T        (乙)
になることは、中学校の二年生ならば誰でも判る。但之を文句に翻訳すると「税の全国一人当平均額に、当該地方団体の人口を乗じた額から、当該地方団体の税額を減じた額」と云う事にな(る)。
 臨時町村財政補給金案に於ては、補給金総額の八割五分を下らない額を、右の標準によって按分比例で配分すると云う。八割五分以上になるかもしれないし、又細目の規定では、予算二千万円の中から事務費等は除くのかも知れないが、今仮に計算基本額を予算総額、此の標準に依る配分額を八割五分とすれば、補給金を与えられる各町村の受領額は、次の如き式で表される。
 1,700万円×(TP−T)/煤iAP−T)   (丙)
此の式の価が、如何なる町村で多くなり、如何なる町村に於て少く現れるかが、爰に筆者の考察遷都する問題である。換言すれば、原案の標準に依る時、如何なる町村が得をし、如何なる町村が損をするかを、この式から読み取ろうと云うのが、筆者の自らに課する課題なのである。
 上記丙式の値を論ずるには、之を組織する各項に分析して考えねばならない。
 先ず、第一項は定数である。(……)第一項は補給金を受ける町村を共通して支配する額で、町村によって異なることはない。
 次に第二項の分母は、補給金を受ける資格のある町村の配分標準額を、全国的に総計し多額である。資格範囲に入る町村が定まって終えば、この項も定数となって、町村毎に異ることはない。
 最後に第二項の分子は、町村毎に異る値を有つ。而して他の二項が定数なのだから、式全体の値は、専ら此の分子の値の大小に比例することとなる。
 ところで、更に此の分子の各項に就て考えて見ると
 は全国的に定まる定数で、各村で異ることは無い。とは各町村毎に異る。しかして此の式の値を大きくするが為には、を出来るだけ大きく、を出来るだけ少くすれば好い。逆に、が小さくが比較的大きい場合には、この式の値は小さくなる。
 斯様にして、の大小によって決定せられた分子の値は、全体の式の値の大小を決定するのである。
 之を文句に翻訳して平たく云えば、人口が多く、税額が少い町村、そう云う所が補給金を余計に貰う。二つの町村を比較して、一方が人口も二倍税額も二倍と云うなら、補給金受領額は全く等しい。人口は二倍税額は一倍半と云うなら、人口二倍の村の方が得をする。逆に人口は二倍税額は三倍と云うなら、人口の多い町の方が損をする、と云うことが出来るのである。
 斯様にして、問題の基本形式は極めて簡単化せられた。我々は注意を、上の式のとに専ら集中すればよいのである。そこで更に一歩進んで、如何なる町村にが多く、如何なる町村にが少いか、と云う問題を考察して見ることにしよう。(……)
 便宜上問題を、人口に関する事項と、税額に関する事項と、二つに分って論じて行こう。(……)

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猪間驥一の地方財政研究C’

1935年11月「地方財政調整交付金制度の生誕−地方財政改善方策に関する沿革的研究(続)」(2/2)
三 地方財政調整交付金制度案の出現
若槻内閣下の三制審議会
・昭和六年(1931)春議会の終了と共に、前年凶弾を受けて激職に鞅掌する能わざるに至った浜口首相は桂冠し、若槻氏が新首相の印綬を帯びたが、新内閣は金解禁後発生し来った情勢に適応した行政財政税制の改革を図るべく、新に調査委員会を設けた。普通之を三制審議会と呼んだ。地方制度に関しても、改革の調査は無論重要な問題であったから、之に対する基礎案の調査が、当時内務省地方局にあった新進の事務官に委せられた。
・此の人々によって企画せられた地方財政制度改革の案として、まず外部に示されたのは、家屋税の国税移管及びガソリン税の新設であった。
・上述の税制整理案を作ると同時に、改革基礎案に鞅掌する人々の間に於ては、地方財政調整交付金の案が練られつつあった。而して昭和六(1931)年秋、満州事変が突発し、次いで英国の金本位制停止を発端とする金融恐慌が我国にも押し寄せ来って物情騒然たる内に、極秘裡に計画せられた案を中心として、内務当局と大蔵当局との間に交渉の行われた事もあったようであるが、それは遂に外間には洩れないですんだ。
地方財政調整交付金制度案要綱
・その後、若槻内閣は倒れ、犬養内閣成り、更に昭和七(1932)年五月十五日の変によって斉藤内閣が出現した。(……)昭和七(1932)年夏には農村の不安を匡救する為の臨時議会が開かれる事となった。爰に於て時局匡救政策の一として、予て内務当局に秘められていた案は、堂々地方財政調整交付金の名乗りを上げて、世人の前に現れて来たのである。
地方財政調整交付金制度要綱案
一 交付金の総額
二 交付金の財源
三 交付金の道府県と市町村との配分
四 道府県に対する配分標準
五 市町村に対する配分標準
六 交付金の使途
この制度の発案者
・最後に地方財政調整交付金制度の創設に就て、力を致された当局者に就て、一言触れて置きたい。本誌八月号地方財政改善策特輯の巻頭汐見博士の論文「地方財政改革の焦点」にはこの制度は「三好重夫氏大村清一氏安井英二氏等により唱えられ」とある。此等の方々の論策が世の視聴を惹いて、同問題今日の発展を来したことは疑い無いが、此の中に今一人、永安百治氏の名を加えることを要する。同氏は「地方財政調整交付金なる名称は、実は私が命名したものである」と云われる程此の制度立案に関係深く、其後も幾多の論文を公表して問題の性質の理解を拡めるに努めて居られる。
・併し恐らく此等の方々が、発案者の如何に就て彼れ是れされると云う事は無いであろう。又実際から云っても特定の個人がこの案を案出したと云う事は信ぜられない。昭和六七(1931-32)年頃に内務省地方局にあって、地方財政改革に熱情を持った人達の間に温醸せられた空気が、自ら之を生み出したものと思う。しかして此の空気が如何なるものであったかを、最もリア(リ)ステックな観察眼を以て、而も一段高い立場から描き出したものを、私は蝋山教授の公表された極めて短かい文章の中に見出す。それは永安百治氏の「地方財政調整論」及三好重夫氏の「地方財政改革論」を紹介批評したものであるが、その初めに置かれた一節程に優れて、地方財政調整交付金制度の発生を論じたものを私は他に知らない。
 「立法改革のイニシアティブが帝国議会に無くて、寧ろ行政官の側にあることは、独り我国ばかりの現象では無くて、議員内閣制度をとれる国家に一般に通じて見られるところである。帝国議会は最早行政の批評や改革に眼を向けること無く、その多数党の支持する政府の施設を利用して党利党略の実現獲得にのみに狂奔するに至っている。政党は将来の国策や国政の創造者ではなくて、現存秩序と国家権力の利用のみにその勢力を費して来た。(……)
 而して、議会にその望み無しとせば、我々は行政官庁に之を求めねばならぬ。殊に近時の行政官庁には、欧州戦後の社会的変遷と思想的推移に触れたる少壮有為の、新らしき官僚とも云うべき行政官吏が多い。(……)今や行政官吏は、(……)国民の為に指導者となりつつあると言ってよい。(……)
 最近この根本的重要性を有する地方制度の改革が、(……)内務行政の実際に鞅掌しつつある少壮官吏の頭脳を通して、具体的に立案せられるようになった。「地方財政調整国庫交付金制度」なるものがその一例である。」

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猪間驥一の地方財政研究C

1935年11月「地方財政調整交付金制度の生誕−地方財政改善方策に関する沿革的研究(続)」(1/2)
◎1935年10月、地方財政調整交付金制度案が採択されます(1936年度より実施)。
一 新制度案採択さる
内閣審議会の答申
新制度の具体的内容
・答申には、制度の細かい内容は示されていない。(しかし)其の具体案らしいものが、十月二十三日の東京日日、大阪毎日紙上に現れた。まことに珍らしいスクープである。
窮乏町村財政援助に関する応急施設
・調査局基礎案の大要は左の如くであるが、その眼目として苦心の存するところは、(一)応急施設と雖も将来実行さるべき根本対策殊に中央地方を通ずる行政、財政、税制の整理改革と矛盾せざること、(二)高橋蔵相の極力排斥しているいわゆる総花的分配を排し全国各町村の個別的実地調査の結果と合致すうように努めたことの二点である。
一、 政府は毎年総額二千万円を限度として財政窮乏せる町村に対し財政調整交付金を交付すること
二、 交付金を受くる町村の選定は、原則として町村の資力を標準として之を行うこと。即ち全国町村の直接国税及府県税の人口一人当り平均負担額を算出してこれを標準とし(以下標準負担額と称す)各町村における平均負担額がこの標準に達せざる場合当該町村を被交付町村とすること
三、 各町村に対する配分額は前記の標準負担額と当該町村の平均負担額の差に当該町村の人口数を乗じたる数を算出し、二千万円を比例的に各被交付町村に割当てること
四、 前記の如き原則のみによって配分するときは人口の緻密または過少なる町村その他特殊の町村につき公平を失する処があるから、斯る場合には一定標準によって補正手段を講ずること(……)
五、 交付金を受けたる町村はこれを財源として町村税主として戸数割負担軽減に充つること、即ち(……)他の積極施設に流用せざるよう被交付町村に対し厳重なる監督を加うること、若し違反する町村に対しては交付金の交付を廃絶または停止せしむるよう立法すること
六、 本施設運用のため特別会計を設けて経理すること
七、 本施設の実施は当分の内とすること(……)
・採用せらるべき新制度は、当初内務省案として公にされた地方財政交付金案よりは範囲も余程狭く、金額も少く、調整方法に於ても可なり相違があり、又何よりも応急的対策或は経過的対策に限っている所に、姑息の感を免れないものがあるが、併し斯様に採用された以上、将来益々発達成長を見て、重要さを加え来ることは疑いを容れない。而して今日迄この制度に関する論議が、多く制度の根本主義にのみ集中されて来たのが、今後調整方法の技術的方面、並に地方に対する他の国庫補助金制度との間の調整に関するものに、多くの論議の展開を見るであろうことが、予期せられる。
二 地方財政救済新対策出現の素地
・今、我々にとって特に興味深いのは、この制度案の発生が昭和六(1931)年にあった事である。そこで昭和六年が如何なる年であったかを考えて見よう。
旧対策の行詰り
・此前年の昭和五(1930)年度夏には民政党内閣下の臨時議会で義務教育費国庫負担金が八千五百万円に増額を見た。又昭和六(1931)年春の議会には、地租法が成立して、大正十五(1926)年地方税制確立以来の整理が完了した。而して地租営業収益税の地方委譲案は既に昭和四(1929)年政友会内閣下の議会で葬り去られて、昭和六(1931)年にはわずかに其の余韻が残っていたに過ぎない。この際に、従来二大政党によって対立的に昌道されて来た地方財政救済対策が、なお続けて主張さるべきであったろうか?
・試みに、地租営業収益税を地方に移譲するとして、それが都市と農村とに夫々如何なる影響を与うべきであったかを、見ると、次の如き数字が現れる。
〔地租営業収益税の収入と地方税収入〕
・此の統計にある市部と郡部との区別を以て、直ちに都市と農村との区別とすることは、必ずしも正確と云えないし、又営業収益税は、委譲されるとすれば、一ヶ所で納められているものを地方団体間に分別されるものが現れ、それは多少市部の収納額を減じて郡部のを増す結果を生ぜしめるであろうから、この数字は、必ずしも全部的に信頼する訳には行かないが、併し相当の程度迄、両税委譲が恩恵を与えるのは都市に厚く郡部に薄いことを示すに足るであろう。
・次に義務教育費の国庫負担の増額はどうか?(……)町村の中でも資力貧弱又は事情により必要と認められる特別町村への配当額は特に多い。(……)その事は、今後義務教育費国庫負担金が増しても貧弱町村の之から期待し得る恩恵が比較的少いことを示す。無論之は増額さるべき金額による。が、山は既に見えた。況や其の後昭和七(1932)年尋常小学校臨時国庫補助法が千二百万円の国庫補助増額を行い、特別町村派の交付金は特に手厚くされ、極端な所では教員給の九八%を交付されているものが生じたに於てをや。今後の増額は多く農村を霑(うるお)さずして、都市方面に流れて行く事が察せられるのである。
学界に於ける準備
・斯様な情勢下に在て、時勢は地方財政救済に関して新な対策を求めていた。而して学会に於ては、この転換に対する準備が為されつつあった。
・例えば蝋山教授の、昭和四(1929)年政友会の税制改革案を評して説かれたつ所の如きは、この意義深きものがあった。
・又新政策への学会に於ける準備として有意義なりしものは、中川与之助氏の外国殊に独逸に於ける財政調整制度の紹介である。
英国の地方制度改革
・次いで看過することの出来ないのは、一九二九年英国に於ける地方制度の改革が与えた示唆である。この改革は英国地方行政情野多年の問題たりし救貧制度の改正、道路行政の統一、行政区画の整理、農工業に対する地方税の減免を行うと共に、従来の政府の地方補助金制度を改正したものであった(弓家七郎「イギリスの補助金制度」)
義務教育費国庫負担金の分配方法
・斯うした外国の事例が、我が当局者を刺激したことは、蓋し少なからざるものがあったと思われる。併し之と同時に、我国の現制への反省も亦、有力な示唆の種を有っていた。我国の制度の中を探ると、地方団体の資力を顧慮しつつ、事務の必要に応じて与えられる国庫の補助制度が、既にそこに萌芽を発していることに気付く。それは義務教育費国庫負担金の分配方法である。この分配方法は、当初大正七(1918)年に制度が出来た時、国庫負担金の十分の一を資力薄弱町村に交付し、他は半額を尋常小学校正教員及準教員数に比例し、半額を就学児童数に比例して各市町村に交付すると云うことに決められ、其の時既に地方団体の個別的事情を参酌し、市よりも町村に多く補助金が行くと云う精紳が打ち樹てられたのであるが、更に大正十二(1923)年に至り、国庫負担金の四千万円増額と共に、その分配方法は一層精緻化し且一層町村に厚くする途が講ぜられたのである。
・今や、義務教育費国庫負担金の増額が地方財政の窮乏を救うことに大して期待を持ち得ないのは、既に述べた如くである。併し此制度の根本に横る地方財政救済の精神――貧弱なる地に多く、富裕の地に少く国庫の補助を与えて、重要なる事務を執行せしめ、一面住民の負担を軽くするという精神には、なお発展性を見出すことが出来る。その発展性を阻むものは何か? 畢竟それは、補助金交付が義務教育の経費補助と云う小範囲に限局されていることではないか?

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2014年10月07日

猪間驥一の地方財政研究B”

1935年9月「地方財政整理論の種々相――地方財政改善方策に関する沿革的研究(続)」(3/3)
三 各税に関する改正論
(一)家屋税及同付加税
・家屋税は大正十五(1926)年の税制整理により、一般府県税として創設せられたものである。其の以前に於ても家屋税及其付加税は、府県税又は市町村税として戸数割(当時府県税)或は戸数割付加税の大滞税として認められ、原則として択一的に賦課せられていた。併しその施行の区域は狭く、整理の直前に全国で三十四市百五十一村に於て行われたに過ぎなかったと云う。
・家屋税は云う迄もなく収益税の一であるが、その収益税としての地位は非常に問題の多いものである。
・併し各地方間の負担の均衡が甚しく破れて来れば、此の議論は成立ち難くなり、また事実一税を国税として他税を地方税として置いて両者の負担に均衡を保たせようとする如きは、不可能の問題である。(……)斯様な点から、家屋税の国税移管論が起って来る。(……)又国税移管論と共に起って来るのは、反対に他の収益税(技術的に不可能な資本利子税を除く)の地方委譲論である(……)。
・家屋税に関してはなお非難の声が絶えない。其の最も有力なのは、家屋税が農村の実状に添わぬとの非難である。都市に於ては大々多数賃貸の事実無き自己居住の家屋に課せらることととなり、而も家屋の構造は都市の住宅に比して大なるが為に、課税額は比較的多くなるのである。これ農村住民の常識に反し且其の経済を重圧すること甚しきものがある、と云うのが其の論点である。之に対しては、自己所有の家屋に居住する者は消極的利益を享受していると云う点からの弁護論もあるが、実際問題として種々な欠陥の多い事は事実であろう。其の多くの欠陥を十分救い得るかどうかなお問題が残るであろうが、小林博士は立法当時に此の点の紛糾を予想して、家屋税を市町村税とし、市では現実又は推定の賃貸価格に依り、町村では概して現建築価格に依り賦課すべしと提唱されている。尤も博士の論は戸数割廃止論に立脚している事を忘れてはならぬ。
・家屋税に対する今一つの非難は、其の貸借価格調査組織の複雑なることである。(……)賃貸価格を当初毎年調査すべく規定したものを後に五年間据置と改めたのも、全く此の理由に基くものである。この改正により非難も大分納まっては来たが、欠点が全然除去されたとは云い難い。
(二)特別地税及同付加税
・特別地税は、大正十五(1926)年税制整理の際、自作農に限り其の住所市町村及隣接市町村内に於ける(同居家族を合せての)所有田畑が地価(後に賃貸価格)二百円未満なる時地租を免税する、と云うことになった為に、免税地の地租付加税の代り税源として府県税中に創設せられたものである。当初政府の原案では、自作の制限は無く又隣接市町村内の所有地を含まなかったのであるが、自作農地免税を主張していた政友本党との妥協の結果、斯様なことになったのである。
・此の税制には当初から反対の声がある。第一は「均しく地価二百円未満の小地でありながら、自作に国税を免じて小作に課税するには、地租を小作人に転嫁させる結果、有産の地主に免税して無産の小作人に課税すると云う不公正否な非社会的結果を現出する」自作農振興には他に有効なる方策あるべし、と云う主として国税免税規定に関する反対である。
・第二に特別地税其のものに関して、規定が如何にも錯雑不体裁であるとの非難がある。「同じ地価二百円未満の土地でありながら自作田畑には府県税特別地税を課するに、小作田畑其他には之を課せないで府県の国税地租付加税を課することになるから、其間の混雑と不権衡とは驚くべきものがあろう」と云う様なのは其の一例であるが、更に税務の第一線に立つ当局者にも実際の処理場の不便が少くないらしい。
(三)営業税及雑種税
・営業税及雑種税も、戸数割同様明治初期以来の因習の累積したもので、非難の一焦点となっているのであるが、大正十五(1926)年税制整理に際して、両者間の系統を整正し、細民税を廃止し、種目の大整理を行った。
・一般的な制度の問題としては、凡そ左の如きものが重要になるであろうし、又実際屡々論ぜられたところである。
 一 税額が多く課税が普及している課目に就ては、其の内容をよく分類比較して、課税客体課税標準税率等に関して整理をせねばならない。
 二 税額が少いもの殊に法廷雑種税に就ては、其の廃止を考慮せねばならない。
 三 税額が少く課税府県も少くても、将来性のあるものは、之を法廷雑種税に組入るる事を考慮すべきである。
 四 但市町村の特別税として発達しつつあるものを無暗に府県税雑種税とせぬように注意すべきである。
 五 細民課税に流るるものは、之が廃減税を考慮せねばならない。
 六 奢侈税敵のものは、之が増額を考慮して可なり。
(四)戸数割
改正沿革 
・戸数割は明治以来の永き沿革を以て府県税として発達し来ったのであるが、其の課税標準の無秩序乱雑と賦課方法の不適当とによる負担分賦の不公平とは多年の問題であった。それが大正十(1921)年、地方選挙制度の改正と云う謂わば偶然的原因から早急に解決を促された事情は前章に述べた通りである。
・大正十五(1926)年の改正は戸数割を府県税から市町村税に委譲すると共に、課税標準たる資力の算定方法をも変更した。即ち一方に府県税家屋税が創設せられたので旧規則の住家坪数と云う標準を全然削除し、その代りに例外的に認められていた資産状況を資力算定に用いることを、初めから本則的に容認し、資力は納税義務者の所得額及資産の状況に依り算定すとした。
・戸数割は最も優れた法曹の頭脳を以てするも「法制上の難物」と叫ばざるを得ない性質のもので、従って之に対する疑義論難批評百出の有様である。併し其の中で現在税制改正に関連して考察さるべき主要の点は、課税標準の問題と、不在地主課税の問題との二つにあると思われる。
資産状況算定の問題 
(……)
不在地主課税の問題
・「不在地主」に対しては、現行法の解釈では、戸数割を賦課し得ずと云うのが有権的解釈となっているが、近来数多き地主離村の現象に照し合せて、この財源に対し賦課が可能なる途を開かんとする論は随分盛である。美濃部博士は戸数制の本質が人税物税行為税を包括せるものなりとし、其の物税的性質に着目して不在地主への戸数割賦課可能の解釈を下していられるが、通説となってはいない。神戸博士は此の点の救済策として、不在地主の其地に於ける所得の半額度のものを標準として準戸数制を課する事とすべしと云う意見を出された事がある。又田中氏は不在地主(又は家主)に対し戸数割を課すべしと云う様な法律に基礎を置かない茫漠たる議論を排し、且戸数割賦課に代えて不在地主所有の土地(又は家主)に地租付加税又は家屋税付加税の不均一賦課による重課を為すべしと云う論にも合理性を認めずとし、ただ不在地主が市町村内に於て有する土地(又は家主)の収入に対し所得税的の特別税を賦課するの途を開くを以て最も合理的なりとして居られる。
・不在地主の所有土地(家屋)と云う様なものがある場合の解決方法は、(……)まだしも容易であるが、そうでない複数構戸の如き場合になると問題は一層厄介である。例えば、住所以外の市町村に構戸して勤務している銀行会社官庁等の勤務者の給料俸給等の所得に対し、其の第二構戸地で戸数制を賦課したしとする場合の如き、又家族をして自己の構戸地以外に別居構戸せしめ、該市町村の施設の恩恵に浴している時、其の指向損の負担に分任せしめたき場合の如きである。前の場合は此種所得は住所地に於て綜合され他の構戸地では税源として興る事が出来ないのが現行法の規定となって居り、後の場合は家族の構戸が所有土地家屋税と結び付いている時は好いが、そうでもなければ負担の課しようが無い。
・要するに此問題は、人税として納税義務者の能力に応ずる統一的課税の要求を持っている戸数制の収入に、種々な事実を通じて当該義務者と関係ある市町村が参加しようとするのを、如何に調整するかの問題であるが、其の収入を各市町村間に分割しようとする瞬間に、人税的要求が破壊せられると云う矛盾を露呈するのである。而して種々方法を工夫して見ても、此の矛盾を調整する事は、到底不可能の問題たるを免れない。
・此の不可能の問題に(……)、一挙に問題の消滅を図らんとするものが、戸数制全廃、人税の国税統一論であり、問題は依然残して置きながら、他の財源の給与により、戸数制に関して余り世知辛い事を云わせまいとするのが、現在の地方財政調整交付金論の狙い所と云っても良かろう。

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猪間驥一の地方財政研究B’

1935年9月「地方財政整理論の種々相――地方財政改善方策に関する沿革的研究(続)」(2/3)
二 各税間の均衡是正論
・次に問題となるのは、現在の制度でも認められている諸税そのものの存在には大体手を触れず、又余り大きな新説を起せと云うのでもなく、ただ現在地方自治体に許されている課徴の程度及範囲が、その収入源を偏らせ、又地方民の負担に不均衡を来している事実を指摘して、之を修整しようと云う議論である。
・斯う云う議論は如何なる形態で現れて来るかと云えば、論者が負担の均衡を保たしむべしとして対置する、対象の種類に応じて出て来ると云う事が出来る。論者が貧者と富者を対象として考察すれば、地方税の累進課税が問題となろう。府県と府県、市町村と市町村とを相互間に比較するならば、同一税の課率の相違が眼に付いて来る。都市と農村とを目の中に置けば、住民の各種地方税総合負担の軽重を如何にするかが考察を要求する。又論者が税源豊富な地方と欠乏の地方とを対置するならば、地方財政調整交付金の財源漁りとしての税制改正論も生じて来るであろう。地方財政調整交付金制は、必ずしも国家的制度としてのみでなく、斯る貧富傾斜の度の激しい両地域を含む府県の財政制度としても、考えられないではないから、筆者の所謂税制小体系論に於ても、論ぜらるべき地位を有ち得るのである。
物税と人税並に物税内部の均衡 
・税種間の均衡と云う問題になると、先ず考えられるのは、久しき間地方税制制度の殆ど公理的原則となって居り、且今日の我が地方税制もその信条の上に立っているところの、人税と物税との均衡の問題である。次いで、種々な税目を含むところの、物税内部での各税関の釣合いの問題である。永安百治氏は今日問題となっている此種の論を、左の数箇条に要約していられる。
 一 人税と物税との負担を調和するため、所得税付加税の制限を引上ぐること
 二 他の物税との負担の不均衡を是正するため、営業収益税付加税の制限を引上ぐること(……)
 三 他の物税との負担の不均衡を是正するために、道府県に於ける地租付加税の制限を引下ぐること
・此の種の論は税の賦課を受ける側の人々のことを、無論考慮に置かないではないが、多くの場合、地方税収入者の側に立って、収入の金額と税率又は税額の制限とを睨み合わして、立てられるようである。此の場合の「均衡」は、主として各種地方税収入の総勢収入に対するパーセンテーヂを問題としているのである。
人税の均衡 
・人税の問題になると、叙上の意味での「均衡」は問題でなくなる。人税には現行制度上、物税に於けるが如き、或は人税物税の関係に於けるが如き、同一自治団体で課税し得る複数の併立的な税目が無いからである。其の代りに、市町村の主税たる戸数制と、其の代税たる所得税付加税並に家屋税付加税との、税質或は課税方法の異る所から来る齟齬が中心論点となって、「均衡」の問題が発生する。此の点からする税制論の若干を挙げれば、次の様なものがある。
 一「所得税付加税では一部の所得(第二種)を源泉課税として第三種の綜合人的課税から除外し、而も其の源泉課税部に地方付加税を禁止した為、人税としては不完全なものとなり、戸数割には斯る除外無く、凡ての所得の綜合課税となるのは、人税として結構であるが、かくて綜合課税をしながらも、累進率とせず比例率を適用するのは大いに不満である。」
 二 戸数割は構戸者に課するものであって、法人に対し課することが出来ない為に、戸数割を課する市町村では、所得税付加税を課する市町村より不利な場合がある。之を防ぐ為に戸数割賦課市町村に対し法人所得税付加税を認めることとすべきである。
 三 戸数制を賦課し難き市町村に於ける
 (1)戸数割代税(……)を特別所得税(……)と法人所得税とに改めるか
 (2)又は第三種所得税付加税の範囲を変更して(……)
・以上はいずれも、所得税不課税と戸数割と双方人税たる税の間に於ける均衡を図らんとする案であるが、次に戸数割を賦課し難き市町村に於ける戸数割代税として数えられたる家屋税付加税の増率は、物税を以て人税に代えようとするものであるから、そこに非常に複雑な問題が起る。(……)
景気変動と税種間の均衡 
・爰に新らしい見地から分けられた分類にして時務に極めて重要なものがある。大村清一氏の名くる所によれば、据置課税性の税と自動的変動制の税と云う。前者は景気の変動と税収入の伸縮が相応じない種類の税であって、地租付加税、特別地税及同付加税、家屋税及同付加税、雑種税及同付加税等を含み、後者は景気の消長に伴い自動的に税額が動くものを指し所得税付加税、営業収益税及同付加税、営業税及同付加税等が包括される。戸数割は、其の税質上両者のいずれにも分類し得ない。蓋し戸数割は、市町村民の負担力の如何を考える余裕無く、他の税其他の収入を以て市町村の所要経費を支弁し得ざる場合に、其の不足を埋合わす為に、之を課するものだからである。
・此の分類による地方税の均衡は景気の消長と共に年々変化する訳であるが、其の変化と、各税が収納される地域の分布とを照し合せて考察する時、ここに新たな問題が起って来る。所謂自動的変動課税制の税は大体都市に多く、農村には比較的少い。「農村に於ては据置課税制を採っている税が多いのであります。従って不景気に応じて都会地には自動的に税金が減って来ているに拘らず、地方に於ては据置課税制の税が多いから、税金は一向減らぬと云う関係にあります。そう致しますと、不景気が襲来致しました時分に、地方税制上に負担の不均衡が必然的に生じて来るのであります。是れは今日地方税制を改正致します場合に於て、大に注目しなければならぬ点であると私は深く感じているのであります」と大村氏は説いている。
・問題は可なり複雑である。景気になった場合のことばかりでなく、好景気に向った際の影響も考えねばならない。又単に納税者の負担の難易と云う事ばかりでなく、所謂自動的変動課税制の税の収入額の変動が、自治体の事業執行の継続性安固性と、如何に関連するかをも、考慮せねばならないであろう。而して其の考慮を深め行く時、問題は遂に地方税制の小体系論の範囲から脱し、根本的な改革論に及ばずには居られないであろう。

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猪間驥一の地方財政研究B

1935年9月「地方財政整理論の種々相――地方財政改善方策に関する沿革的研究(続)」(1/3)
 猪間驥一が地方財政問題の沿革的研究として次に取り組んだのが、「地方財政整理論の種々相」、つまり地方税体系改革をめぐる議論の紹介でした。猪間は、地方税整理或は地方税制改革に関する議論を論の立て方から、地方税体系改革論、各税関の均衡是正論、各税に関する改正論の三つに分類し、それぞれの詳細を検討し解説を試みています。
 一、 地方税体系改革論(臨時財政調査会の整理案・小林丑三郎博士の整理案・神戸正雄博士の整理案・国税地方税及地方費分配を総合する案)
 二、 各税間の均衡是正論(物税と人税並に物税内部の均衡・人税の均衡・景気変動と税種間の均衡)
 三、 各税に関する改正論(一)家屋税及同付加税(二)特別地税及同付加税(三)営業税及雑種税(四)戸数割
 各税に関する改正論の中でも戸数割は「法制上の難物」であり、その中でも不在地主の問題は難題であったことがわかります。

一 地方税体系改革論
臨時財政調査会の整理案
 第一案、一般所得税を中櫃とし、別に一般財産税を創設して之が補完税たらしめ、現行地租、営業税は之を地方税に移譲すること
 第二案、一般所得税を中櫃とし、別に土地営業税等に対する特別所得税を創設して之が補完税たらしめ、現行地租営業税は之を地方税に委譲すること
 第三案、一般所得税を中櫃とし、之に配するに現行地租営業税を修正して存続せしめ、尚地租営業税との権衡上建物税及資本利子税を創設すること
・大正十五(1926)年の改革による現行制度は、右の第三案を多少変形して出来ている。
・第一案即ち臨時財政経済調査会特別委員会の見て以て可なりとした案の内容を次に紹介しよう。(……)此の案は、収益税(資本利子税以外の)を悉く地方税とし、所謂応益原則による課税主義を徹底さそうとして居り、また府県並に市長村を通じて、特別税と付加税とによる人税と物税との配合にも注意が払われてある。三収益税を府県に与え市町村に其の付加税を収めしめんとするのは、寧ろ之を市町村税とし、府県に分賦制度を採らしめるに如かないとの批評も下し得るが、兎も角首尾一貫した税制案になることは確かである。然るに大正十五(1926)年の税制整理に於ては、憲政会の党議と財政難とに束縛せられて、地租及営業税の委譲は実現せず、根本に於て所謂第三案が採用され、ただ部分的に第一案の府県税家屋税の創設と、戸数制の市町村委譲とが実現したのである。
・第二案は、地租営業税の地方委譲を先決条件として居り、其の点で政友会実業同志会の政策決定に合致し而も不人気な財産税創設は割けることが出来るので、田中政友会内閣によって提出された地方税法案の基礎となったのである。而してこの法案では、(……)地租営業税の外に家屋税まで地方税となって居り、府県と市町村とを通ずる人税と物税との配合に注意の払われていることも、彼の第一案と同様である。ただ異なるところは、第一案が三収益税を悉く府県に与えたに大して、営業税のみを府県税とし、地租と家屋税とは市町村税に与え、市町村に前者の付加税、府県に後者に応ずる分賦を許したことである。
・近年現れた地方税制改革論は、意識的にか無意識的にか、多く上記三案の外に出でないのであるが、ただ学者から出た意見の中に、些か趣の異るのがある。地方税は一切物税を以て体系を樹て、人税は総て国税に吸収せしめよとの意見であって、神戸博士及び故小林博士等の提案である。
小林丑三郎博士の整理案 
・小林博士の意見は、国税として、個別所得税を主税とし総合所得を副税とする直接税体系を樹て、営業収益税及び地租は地方委譲することを骨子とする。尤もそれだけでは、彼の臨時財政経済調査会の第二条及び昭和四(1929)年の政友会内閣案と異らないが(……)
・収益税体系を組織すべしと主張すると共に、博士は戸数割全廃を主張される。而して此の地方税体系は、固有の自治体たる市町村の独立税とし、府県の本税とはしない。府県の租税は、市町村に対する分賦と、国税に対する付加税とによって之を構成せしめる。府県が国税所得税に対し付加税を課する限りに於て人税は地方税にも存し得るが、固有の地方税からは之を排除すると云うのが博士の主張である。
神戸正雄博士の整理案 
・神戸博士は、旧時に於ては、地方税にも人税を存すべきを説いて居られた。例えば大正五(1916)年(……)の批評には「地方税の重要なるものは本来一般人的給付能力を捕捉する所得税でなければならぬからである。地方税には夫の収益原則の加味ということがあり、之よりして土地家屋営業の三のものに多少特別の負担を課することを至当とするが、其は飽迄も加味で、二次的であって所得税の足らざる所を補うに止まるべきである」と論じて、付注に於て小林丑三郎本多精一両博士の家屋税を地方税の主税とすべしとの論に明白に反対され、結論として、地方の財源は主として国税所得税の付加税とすべく、免税点以下の者に戸数割戸別割を累進率を以て課すべし、と主張して居られたのである。
・併し(……)昭和六(1931)年末に著された「最近地方税問題」に於て次の様な点に到達している。「地方税には又特別税と付加税とあり得るが、道府県には国税の付加税のみにても差支がないけれども、市町村には別に付加税もあっても良いが、地方自治に相当の重さを認める以上は、特に特別税なかるべからずで、此にて付加税ばかりを多くして、其税威収入を主として付加税に求めるが如きは望ましからぬ事としなければならぬ。(……)」即ち税制の観点のみからすれば、地方税を物税中心とすることは説を改められたのである。
国税地方税及地方費分配を総合する案 
・単純な地方税政論でなく、国税体系と国庫交付金とを同時に関連せしめた、(……)第二の種類の税制整理論としては、最近の地方財政調整交付金制度創設論が最も整備したものであるが、神戸博士の上掲の所論は、之と略々時を同じくして同じラインに沿う案として提出されているものである。
・併し、斯う云う国庫からの交付金の分配率の考慮迄を包括した案ではなく、ただ地方税徴収の煩瑣と不公平とを避けて、地方税として取るべきものを国税として一旦徴収し之を各地方に分配すると云う、思想的な動きを見せた論ならば、これより以前にも既に幾つか姿を現している。(……)田川大吉郎氏「中央税地方税を共に国税としたし」岡野文之助氏「財政調整」(……)高橋亀吉氏「徴税方法の改革」等はいずれも其の例として挙げ得るであろう。又実際問題として現れたのは、昭和六(1931)年若槻内閣の下に於ける税制整理調査に当り、家屋税の国税移管及び国税ガソリン税の新設が、政府部内の議に上ったことである。家屋税の国税移管の目的は国税の体系を整備すると共に、一般地方税の調整の資の一部に充てるに在り、ガソリン税の新設案は地方税たる自動車税の調整にあった。即ちいずれも地方税たるものを国税として召集し、之を地方に分配せんとする所の案であって、其の決定に至らざる間に、内閣の更迭があり、案は日の目を見ずに終ったが、併し現在の地方財政調整交付金制度案は、この変に発生の核子を有っていると云って差支え無かろう。
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2014年10月06日

猪間驥一の地方財政研究A’

1935年8月「歴代内閣の地方財政対策−地方財政改善方策の沿革的研究」(2/2)
犬養内閣時代(1931.12-1932.5) 
・若槻内閣の後を襲った犬養政友会内閣は組閣怱々金の輸出を再禁止し、依て起った市況回復に乗じて又々伝統的の積極政策に出づるかに考えられ(……)たが、所謂五・一五事件の突発するあり、首相の薨去と共に土崩瓦解し、短期怱忙の間、地方財政制度に関しては何等為す所無かった。
斎藤内閣時代(1932.5-1934.6) 
・斉藤内閣は五・一五事件によって挙世惑乱せる中に誕生し、(……)農村救済策の樹立を急ぎ、(……)時局匡救事業の名の下に多くの法案と予算とを提出した。
・爾後斉藤内閣は第六十四、第六十五両回の議会を切り抜けたが、そこで議せられた地方関係立法には、金融産業の部面を通じて都市農民に影響を及ぼすものは多かったが、直接地方財政制度に関するものは無かったと云って好い。ただ此の間に所謂インフレーション政策が行われ、地方に於ける事業が拡張されると共に、その政府融資が増し又起債に就て手続が簡略にされて、地方債膨張の勢が寧ろ放任さるる傾向を馴致したことは、近き将来に於ける地方財政の大整理を必然たらしむるものである。(……)併し斯る変化の間に地方財政救済策の具体案として、従来のより著しい異色のあるものが飛び出して来た事は、斉藤内閣治下の出来事として看過することが出来ない。地方財政調整交付金制度案の出現が即ち之である。
・従来種々な地方財政救済案中、最も有力な案として二大分野を劃して相対峙して来たものは、地租営業税の地方委譲論と義務教育費の国庫負担論とであった。前者は云う迄も無く政友会の主張する所、地方分権の思想を背景として、地方に確実な独立財源を与えるによって地方財政の自主的改革を庶幾せんとするもの、後者は之また云う迄もなく民政党の政策で、中央集権の思想の上に立ち、中央の裁量に依る経費の分配によって地方財政を安固ならしめんとするものである。併しながら、従来此の両論共に、地方に与えられる財源を一体として観察し、それが都鄙各地に如何に分配されるかに就て深い考慮を払わざるを憾(うら)み無しとしなかった。地租営業収益税の委譲により最も恩恵を蒙るのは大都市であって、僻遠の農村では霑(うるお)う所極めて少い。また教員給の全国国庫負担を図っても、特別町村に数えられる貧弱な農村では、現在既に全額に近き交付金を受けて居るのであって、この上増額の余地殆ど無く、今日以上の増額は多く富裕年に注ぎ込まれるのである。斯様な両案の矛盾を批判し、両案の対立を止揚して、地方財政調整交付金案は出て来た。(……)要するに国庫から一定の標準に基き貧弱せる市町村へ一般的な交付金を与えんとするものである。
・内務省案によって多大の示唆を受けた政党は之を取って自家の案とし、昭和九(1934)年第六十五議会に互に相競って大同小異の案を提出した。政友会の地方財政補整交付金法案、民政党の地方財政調整法案、国民同盟の農村救済負担均衡法案が之である。
岡田内閣時代(1934.7-)
・岡田内閣は組閣と同時に昭和十年(1935)度の予算を組まねばならぬ事になった。然るに従来地方を霑(うるお)し来った時局匡救継続事業は昭和九(1934)年度限りで打切られる筈であり、又国の所謂健全財政の建前から云えば打切るのが当然であるが、斯て十(1935)年度から地方へ放出する資金の急減する事は、一層の苦境に地方を陥れる事となる。岡田内閣は此の板挟みの苦境に陥ったが、此の年東北の冷害関西の風水害等相継いで起り、幸か不幸か之に対し巨額の災害対策費支出を余儀無くされたので、其の形式で時局匡救事業的の事業を継続又は起興する事が出来、経費支出の激減を幾分緩和する事が出来た。併しそれにしても、地方に振り撒かれる経費は余程減ずる事となったので、之に対し政府を牽制すべく威嚇的に提出されたのが、九年十二月災害対策を議すべく召集された第六十六臨時議会に於ける政友会の所謂爆弾動議である。
・昭和十(1935)年六十七議会の前半期は、この爆弾動議の跡始末に費やされたと云ってよい。其の間に地方財政調整交付金制度の問題は屡々姿を現したが、右の政争の一段落と共に、愈々本筋に入って、民政党からは前年通りの地方財政調整法案、政国両党からは臨時地方財政補整金法案が衆議院へ提出せられた。前者は少数で否決、後者は可決せられて貴族院へ送られたが、又々審議未了に止った。
・議会の閉会後、政府は予定通り内閣審議会を設け、次で内閣調査会を解説し、六月十七日審議会の第一回総会に、「現下の国情特に国民経済振興の必要に鑑み中央地方を通ずる財政改善の根本方針如何」なる諮問を発した。(……)諮問の文書中にも説明書の中にも地方財政調整交付金と云う文字は見当らないが、議会以来温醸せられて来た空気、並に差当り具体的な原案として他に纏ったものが無いと云う事情に促されて、地方財政調整交付金制度が最初の問題になり、内閣調査局は其の調査研究を開始したと伝えられる。(……)今後の地方財政の整理問題は、殆ど総て、内閣審議会の答申を待って、新な展開を見ることになると思われるのである。

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猪間驥一の地方財政研究A

1935年8月「歴代内閣の地方財政対策−地方財政改善方策の沿革的研究」(1/2)
 猪間驥一が地方財政問題の沿革的研究として最初に取り組んだのが、「歴代内閣の地方財政対策」でした。というのは「最近朝野の注目の焦点となっている地方財政調整交付金問題」を理解しようとすれば、「少くも欧州大戦直後頃迄は遡る必要がある。その時に初めて設けられた義務教育費国庫負担の制度と、戦後の状勢に対応すべく立案せられた臨時財政経済調査会の税制整理案こそは、爾後起伏消長する諸改革案の淵源を為すものと云うべきだからである」。
 これ自体が歴史的な読み物として面白く、文献としてもすぐれたもので、ぜひ直接読んでいただければと思うのですが、ここでは、私の注意を惹いた箇所を抜粋するに止めます。
 表記の面で気になったのが、寺内内閣から浜口内閣・若槻内閣までは「時代」という字句を使用せず(→前半)、犬養内閣・斉藤内閣・岡田内閣については、「犬養内閣時代」というように「時代」をつけていること(→後半)です。私には、猪間が焦点を当てようとしている時代が、「高橋財政期」というくくりで表されるものであったことを示唆するものに思えます。
 なお藤田武夫はこうした議論を、単なる政党間の争いとして片づけている印象があります。

寺内内閣(1916.10-1918.9)
原内閣(1918.9-1921.11)
・同内閣は大戦後の世界の局面に応ずる軍備充実、就中海軍軍備拡張と、教育制度の改善、交通施設の整備、産業の振興、通商貿易の開導等所謂政友会多年の主張たる積極政策の遂行を使命として立ったのであるが、当時経済界が大戦後の好景気の絶頂にあったことは、此の政策の実効を可能ならしめたのである。併し此の政策を地方自治体に迄浸潤せしめた結果は、物価の騰貴と相共に地方政費の膨張、地方債の激増を見るに至って、地方財政の整理は著しく困難を加うることとなった。殊に同内閣の在任中大正九(1920)年を以て景気挫折し、経済界は不況に陥り、地方農村の打撃が特に著しきに及んで、地方財政の整理は愈々深刻な問題となり、後年の政界に永き争点を残すに至ったのである。
・叙上の軍備拡張と積極政策の遂行は多く公債の増発に財源を求めたが、同時に租税財源も探究され、遂に大正九年八月第四十三臨時議会に於て所得税制度の改革を中心とする大増税が行われた。之に付随して地方税にも改正があった。即ち地方税制限に関する法律を改めて所得税付加税(当時市町村税)の制限率を引下げ、地租及営業税の付加税には制限率を三倍余の引上げを行ったのである。
加藤友三郎内閣(1922.6-1923.8)
・この内閣の使命としたところは、この春成立した華盛頓(ワシントン)海軍軍備制限条約――その前の年、当時海相たりし加藤首相自ら首席全権として華盛頓に乗込み、英米仏伊四ヶ国代表と折衝して締結して来れるところの――の結果に基く軍備縮少の実行、行政財政の整理にあった。(……)海軍軍備費の向後の激増を防いだのみならず、逆に幾分の余裕財源を生ぜしめたので、これにより同内閣は義務教育費国庫負担に三千万円の増額を行うことが出来たのである。又政府は同じ議会に於て所得税、営業税、石油消費税、印紙税、売薬営業税等の改正を行った。右の内所得税を除く外はすべて減税である。併し営業税の減税は付加税収入の減少となり、地方自治体を痛めるので、之に応ずるだけの制限率の引上げを行った。
・この大正十二(1923)年第四十六議会に、後年政友会の基本政策となったところの地租委譲論が初めて姿を現した。(……)政友会の建議案は多数党の威力を以て衆議院を通過し、政府も建議の趣旨に賛意を表明せざるを得なかった。そこで議会終了後内閣は、改めて税制整理に関する調査を行うこととし、大蔵省内に委員会を設けて地租委譲に関する準備調査を進めつつあった。
山本内閣(1923.9-1924.12)
・山本内閣は関東大震災の真っ最中に成立し、震災の善後を講ずるを以て其の使命とした。(……)一般的な地方財政制度改正等に関する仕事は何等手を染めなかったが、十二月臨時議会を召集して、内閣に多く好意を寄せざる政友会の強硬な反対に遭遇しつつ、曲りなりにも成立せしめた帝都復興計画は特殊な地方財政関係事項として永い影響を持った事業と云い得る。
清浦内閣(1924.1-1924.6)
第一次加藤高明内閣(1924.6-1925.7)
第二次加藤内閣(1925.8-1926.1)若槻内閣(1926.1-1927.4)
田中内閣(1927.4-1929.7)
浜口内閣(1929.7-1931.4)若槻内閣(1931.4-1931.12)
・浜口内閣の最重要なる使命は、財界多年の懸案たる金輸出問題の解決に在り、従って其の財政経済政策は所謂デフレーション政策を基調とし、徹底的な緊縮方針に終始した。地方財政も其の方針の下に、規定事業の打切繰延、新規事業の中止、起債の抑圧等緊縮を厳命され、又実際デフレーション政策強行の結果財界不況が深刻化するに連れ、税収入も減じて消極的方針を採ることを余儀なくされ、ただ不況深化の結果重大化した失業問題の対策として、若干の土木事業の起興等が行われたに過ぎない。
・地租の課税標準の改正は大正十五年の税制整理で決せられ土地賃貸価格調査も既に終了したのであるが、田中内閣では地租委譲問題に引っ掛って、この課税標準改正を延期して終った。浜口内閣はこれを解決する為昭和六年第五十九議会に地租法案を提出し、其の中に減租案を盛り込んだのである。然るにこの案は減租と称してはいるものの、実質的に課税の減ずるのは農地に於てであって、都市の宅地は却って増税を見る始末であり、且之に、国税の減収に伴って生ずる地方税の減収を防がんが為に付加税制限率を引上げる結果が重加して、宅地の負担の増加は著しいものがあったので、都市及之に利益関係ある方面の反対喧しく、特に貴族院に於て激しい論議が行われた。併し政府は遂に原案を押し通して終ったのである。

◎9/20の記事のタイトルを「1935年の地方財政問題@」から「猪間驥一の地方財政研究@」に改めました。
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2014年09月22日

藤田武夫の謎めいた経歴4

 藤田の戦前の地方財政問題のとらえ方は、私がざっと見た限りでは、戦後間もない1949年12月に上梓された、『日本地方財政發展史』(河出書房)によく表われているように思います。
第六章 昭和二年金融恐慌以後における地方財政
第六節 結語

 昭和二(1927)年の金融恐慌によって再び恐慌状態に入った日本経済は、四(1929)年の世界恐慌、五(1930)年の農村恐慌によって夥しい企業の倒壊と恐るべき農民の分解を伴った。年毎に深刻化する経済恐慌は、上述の如く地方団体の行財政に種々の影響を与えたが、それとともに地方財政制度上に大きな変化をもたらした。
 金融恐慌後間もなく始められた地方団体の失業救済その他の救済事業は、昭和七(1932)年以後の政府の時局匡救事業に促された膨大な規模のものとなり、財政の所謂労働振興政策的機能をも担うことになった。(……)
 右の如くして昭和二年(1927)金融恐慌以後、農村その他の壊滅的な疲弊と国民生活の窮乏化によって、地方団体の経済的社会的機能は著しく拡充されたが、同じ原因が地方住民の担税力の甚だしい低下を招来した、かくて、すでにその運営に多大の困難を来たしつつあった地方団体の財政は、愈々極度の窮乏状態に陥った。
 地方財政の窮状打開のために、昭和四(1929)年田中政友会内閣はその最高政策の一つ地租収益営業税委譲案を第五十六議会に上程した。上税案は、農村救済、社会政策的減税を唱え、また両税の地方委譲によって地方分権的独立税主義的地方税制を樹立せんとした。そして一時は、これによって地方財政制度における制度創設時より刻印された強大な官治制と独立税源の涸渇と言う日本的特徴の解消が期待された。しかるに、深刻な不況と国費の膨張は、両税の委譲を許さず、右の理想は地方分権的税制への単なる思慕に終った。その上譲税案の実現が、地方団体の貧富の懸隔を一層著しくし、遂に最も救済を必要とする貧弱町村を救い得ないことが指摘された。事実当時すでに富裕団体と貧弱団体の経済力の懸隔は、地方分権的独立税主義的な譲税案によっては、地方財政の窮乏を救い得ないまでに大なるものになっていたのである。
 その後昭和六(1931)年の地租改正、七(1932)年以後の時局匡救事業と諸社会法の公布、さらに満州事変以後の一部都市の繁栄は、地方団体間の財政力及び負担の不均衡をいよいよ激化し、農村の極端な負担過重は、到底これを放置することを許さざるに至った。この際独逸財政調整法その他の経験に倣って財政調整交付金案が提唱されたが、財政調整交付金は、その必然性を認められながらも、財源捻出その他に阻まれ、漸く昭和十一(1936)年臨時町村財政補給金二千万円の成立を見た。これは翌十二(1937)年臨時地方財政補給金に拡大され、瞬く間に一億四千八百万円に増額され、地方財政運営上の重要な支柱となった。尤も臨時地方財政補給金は全く一時的なものであり、窮乏団体の歳入補填のための一種の補給金であって、地方財政制度の恒久的な一環としての地方財政調整交付金とはその性格を異にする。しかし、(……)国の収入の一部を交付することによって地方財政の窮迫を救済せんとすることにおいては、財政調整交付金と相違するところなく、強度の中央集権的官治的性格を持ち、地方財政制度の新しい方向への発足を示すものである。
 世界大戦(注:第一次)以後すでに高度の独占段階に入っていた日本経済が要請するものは、決して自由主義的な地方分権的地方財政政策ではなく、それはむしろ中央集権的統制主義的な財政方策によって国政委任事務の完遂と画一的な国内行政の充実を確保するものでなければならなかった。かくて、臨時地方財政補給金の生誕を契機として、日本地方財政制度は急速に従来よりもはるかに中央集権的官治的な体制に突入して行ったのである。右の意味において、この時代は、日本地方財政制度の発展上一大転換期をなしたものと言い得る。
 いかにもマルクス主義者の分析といえると思いますが、それはさておき、ここで注目すべきは、この書の執筆・出版がちょうどGHQ占領下、猪間驥一が編纂した『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(高橋財政期の経済成長を評価する)に対して、大内兵衛の『昭和財政史』(戦前の財政を失敗と見なし高橋財政が戦争をもたらしたとする)による「歴史」のすげ替えが始まった時期に当るということです。石橋湛山が公職追放されていた時期に相当するといういい方もできます。
 1955年10月、大内兵衛・高橋正雄らによって、東京都政調査会が設立されます。その名称からも明らかなように東京市政調査会をモデルにしたもので、後に美濃部都政を実現させることになるのですが、ここに主要なメンバーとして鈴木武雄・藤田武夫が加わっていることには注意が必要かと思われます。
 いかにも戦前の東京市政調査会の遺産を受け継いだ団体のようであって、実は、東京市政調査会の研究員だったのはこの両名だけであり、1930年代、鈴木は京城にいたので、ここから何かを引き継いだということができるのは藤田だけということになります。
 ここで前述の、藤田の経歴になぜ、1943年に東京市政調査会の調査課長になる以前の、研究員時代のことが書かれていないのか、という点を絡めて、推論を試みたいと思います。
 ここに非常に興味深い事実があります。『都市問題』掲載論文を見ると、1935年から1937年までの藤田は寡筆で、しかもその半数は保健衛生等に関するものでした。1938年以降、地方財政問題に特化した論文を執筆するようになり、1939年以降はその内容も体系的になって、太平洋戦争中も研究に没頭していたことがわかります。その間、それらをまとめた3冊の本も上梓しているわけです。
 その分岐点ともいうべき1938年に、猪間は東京市政調査会を去り、1939年夏、日中戦争によって一旦、挫折しながら発表の機会をうかがっていた「人口の都市移住計画」(仮称)をあきらめ、東京市政調査会とのつながりも途切れてしまいます。
 こうしたことを鑑みると、藤田にとって、猪間というのはうっとうしい存在で、湛山ら『東洋経済新報』周辺で展開されていた議論の“リベラルな”香りともども、表に出てきてほしくないものだったのではないでしょうか。
 それが、東京市政調査会における研究員時代を捨象してしまうという行為に及んだ(たとえそれが自分で行ったものではないにしろ訂正することがなかった)理由ではないかと、現在の時点で私は推察しています。

【追記】わかりやすくするため、引用文中の元号に西暦を併記し、また湛山・猪間が地方財政について議論していた時期に相当する部分を太字で示しました。

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藤田武夫の謎めいた経歴3

 ここでは、1935年9月に藤田武夫が発表した、「人口別に見たる我国都市財政の不均衡」(『都市問題』第21巻第3号)を取上げます。
 まず冒頭部分から。
 昭和七年の内務省の地方財政調整交付金案を契機として、爾後同交付金を繞って、政府、諸政党、其他諸団体等の間に各種の提案対策が凝議された。其結果昭和九年第六十五議会に政友会、民政党及び国民同盟は相競って之に関し大同小異の案を提出したが、結局之等三派の妥協に成る地方財政補整交付金案も、議会に於いて決定せらるべく予定されている。今後此問題は内閣審議会に於いて決定せらるべく予定されている。(……)
 地方財政の均衡不均衡を取扱う観点には、(一)各種財政主体間の均衡問題、(二)地域別に見たる衡平問題、(三)都市農村の財政上に於ける衡平問題及び(四)一地方財政主体の財政の内部に於ける衡平問題等が考えられ、之等の観点に拠って経費、租税、公債等の所財政事実に於ける均衡不均衡を取扱うことが考察上適当且つ便宜である。(……)
 藤田はこのうち、(四)の一部(都市)について、経費、租税、公債が各都市間でバランスが取れているかをこの論文では見ています。
1.人口階段別都市人口数並千分比
2.人口階段別都市経済力表
3.各都市経済力分布千分比表
 以上の3つの表を示して、藤田は「全国市民の経済力の実に半ば近くが東京と大阪とに集中している」こと、「大都市市民の負担の其経済力に対する割合は、此状態とは反対に中小都市よりも遥に小さい」ことを指摘します。さらに、
4.人口階段別都市財政状況
5.各都市財政状況千分比表
6.各都市歳出及市税の所得に対する千分比
7.各都市一人当り所得、歳出及市税表
 以上4つの表を示して、以下の結論を導きます。
 一見恰も各都市の貧富の程度に応じて経営されて居るが如き我国都市の財政は、(……)甚だしく不均衡な状態に在るものと断ぜざるを得ない。地方財政の不均衡は、農村と都市との間に、亦各地域の間に存すると同時に、都市相互間にも亦見出されるのである。(……)主要な原因と考えらるるものを大別すれば、其一は大都市への人口、富及び産業の集中と言う現在の社会経済組織的原因、其二は一の如き事情あるには拘らず行政上全国組織的原因並に其三は財政的諸原因である。(……)此財政的要因には、(一)大都市に於ける公費事業の隆盛、(二)大都市の巨額の市債発行、(三)大都市に於ける都市計画事業並に受益者負担の普及、(四)各都市の国政委任事務に関する画一的制度の採用等が、主なるものとして挙げ得られるであろう。
 この小論では、「我国都市財政不均衡の現状を提示するに止め」ながら、藤田が、「不均衡緩和乃至除去の適当な方策が講ぜらるべき」という立場を取っていることは明らかです。
 後に藤田は、『市政の基礎知識・第9輯:地方税制の沿革』(1940年)、『日本地方財政制度の成立』(1941年)、『日本地方財政論』(1943年)等を発表しますが、この財政上のアンバランスが都市と農村の間にも存在しているとしています(冒頭の問題提起のうち(三)に相当する)。
 猪間驥一は、第六十五議会における議論を評して「直接地方制度或は地方問題を対象としたものではないが、産業立法の中に蔵された利害関係の交錯が、都市と農村との対立と云う形で意識され、激しい論争の主題となり、院外にも猛烈な運動の継起を来した著しい事例を、今期議会は見たのである」と書いていますが、藤田も、これらの議員たちと同様、この問題を都市と農村との対立という枠組みでとらえているわけです。
 つまり、都市が豊かになることが農村の貧しさをもたらすという考え方がその根底にはあったわけです。
 石橋湛山や上田貞次郎や猪間驥一ら自由主義経済学者の、都市と農村が対立するものと見なさない立場、あるいは農村問題の解決のためにも都市のさらなる工業化が必要とする立場を、身近にいた藤田が嫌っていたことは間違いないでしょう。
 ただそれでも、研究者としてフェアな態度をとるなら、猪間はともかく、湛山ら『東洋経済新報』における大キャンペーンをなかったものとする(抹消する)ことはできなかったのではないでしょうか。
 それを意識的にやったのかどうかはわかりませんが、藤田が、戦後の日本地方財政史研究の基礎を作った人物であったことから、その影響が今日まで及ぶことになったのですね。

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2014年09月20日

猪間驥一の地方財政研究@

 ここで、猪間驥一と藤田武夫の地方財政問題のとらえ方の違いを明白なものにするために、猪間が、第67議会における議論を受けて、1935年5月、地方財政問題に関する本格的な研究を開始する記念碑的な論文「第六十七議会に於ける都市及地方問題」の内容の概略を紹介しておきたいと思います(解説としてもすぐれたものです)。
 以後、便宜上、猪間の地方財政問題論文を、1935年・1936年に分けて論じることを考えていますが、念のために、1935年の論文には、以下の4編があります。
 1935年5月「第六十七議会に於ける都市及地方問題」
 1935年8月「歴代内閣の地方財政対策−地方財政改善方策の沿革的研究」
 1935年9月「地方財政整理論の種々相−地方財政改善方策に関する沿革的研究(続)」
 1935年11月「地方財政調整交付金制度の生誕−地方財政改善方策に関する沿革的研究(続)」
 一方の藤田は、この1935年5月の論文がきっかけとなって、1935年9月、同じ『都市問題』に最初の論文「人口別に見たる我国都市財政の不均衡」を発表することになったと思われます。

「第六十七議会に於ける都市及地方問題」
 はしがき

 地方に関連する財政問題としては、政友会の所謂爆弾動議の跡始末が会期前半の最主要題目たる観を呈し、其の解決を見るや、政友会・国民同盟並に民政党から競争の形で提出された地方税制調整交付金に関する法案をめぐっての論議が注目の的となった。政府提出の法案では、政府貸付金処理に関する法律案・市町村立尋常小学校費臨時国庫補助中改正法律案等がある。(……)
 最後に直接地方制度或は地方問題を対象としたものではないが、産業立法の中に蔵された利害関係の交錯が、都市と農村との対立と云う形で意識され、激しい論争の主題となり、院外にも猛烈な運動の継起を来した著しい事例を、今期議会は見たのである。上に揚げた米穀関係三法案、蚕糸業三法案は、その問題の焦点であった。果して之が「都市対農村」の問題であるか否かは更に考究を要し、寧ろ端的に産業組合の発展に対する大資本に中小商業者の攻撃乃至防御運動と見るを妥当とすると思われるが、賛否の分野から見て、農村議員と都市選出議員との間に、対立状態が現われた事は、事実である。(……)

三 地方財政関係の問題
 所謂政友会爆弾動議の跡始末

 我々はただ此の所謂爆弾動議が如何なる見地に於て地方問題に関連しているかを観察すれば事足る。(……)即ち予算に於ける軍事費の膨張と、地方殊に農村匡救施設費とが相伴わず、動もすれば国費の分配が前者に厚くして後者に薄からんとする事に対する批評が根本に横っている事を看取し得るのである。(……)
 内務農林両省予算の縮小は、昭和7年度以来3ヶ年継続の時局匡救事業費の打切が最も大きな原因であるが、それが残存事業の普通経費組換えや、又折柄幸か不幸か発生した所の災害対策に要する経費によって、幾分減縮程度を少くしたにしても、尚巨額な支出減として現われ、その事が更に市町村への補助の減少、農民及都市労働者の現金収入の減少を結果して来る事に対する不満が論議の根柢に横っているのである。(……)
 地方財政調整交付金
 斯く爆弾動議跡始末中にも片影を現しているのであるが、これとは別糸の運動が右政争一段落を告げると共に進展した。それは地方財政調整交付金の趣意を汲む法律案が、各党から衆議院へ提出され議題に上ったことである。(……)法案の大体の構成並に地方財政の窮乏を救い負担の不均衡に匡正を試みんとする趣旨に至っては、両案共全く相違を見ない。併し3月14日衆議院は其の議員頭数に応じて民政案を葬り去り、両党案を可決した。而して法案は貴族院に送られたが、審議未了に止った。
 なお翻案と直接関係したことではないが、2月15日貴族院の予算総会に於て、高橋蔵相が内田重成氏の地租営業収益税の委譲に関して質問したるに対して「現在は事情が変化した、現在に於て地租委譲などはこれを簡単に行うことは出来ない」と答えたのは、可なり人の耳目を聳てしめた。この案の創唱者であり永らくの固持者であった老蔵相の改論は、地方財政改革案としての地租営業収益税委譲の終焉を意味し、それが地方財政調整交付金に地位を譲る一道標とも考えられるのである。
 以上を踏まえ、次回は「藤田武夫の謎めいた経歴3」へと進みます。

◎10月以降の記事との関連で、この記事のタイトルを「1935年の地方財政問題@」から「猪間驥一の地方財政研究@」に改めました。
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2014年09月19日

藤田武夫の謎めいた経歴2

 藤田武夫について、「コトバンク」には、以下のように記されています。
藤田武夫 昭和時代の財政学者。東京市政調査会調査課長を経て昭和21年立大教授。48年大阪学院大教授。地方自治の問題点を財政面から論じた。昭和63年10月6日死去。83歳。京都出身。九州帝大卒。…

 また藤田の東京市政調査会時代の主な論文・著作をまとめると次のようになります(煩雑になるので、「保健衛生」に関する論文は省略しました)。
@ 1935年9月、「人口別に見たる我国都市財政の不均衡」(『都市問題』第21巻第3号)
A 1936年1月、「明治最初の地方税法案と其財政史的意義−明治十一年「地方公費賦課法」案に就て」(第22巻第1号)
B 1936年3月、「明治十一年の地方税規則に就て」(第22巻第3号)
C 1936年9月、「我市町村税制の本来的性格に就て−明治二十一年に於ける市町村税制度の確立」(第23巻第3号)
D 1937年10月、「日本地方税制に於ける自治性−制度史的観点より」(第25巻第4号)
E 1938年9月、「地方財政調整交付金と國政事務 」『全国都市問題会議総会文献. 第6回 第3 都市の経費問題』=F
F 1938年10月、『都市問題』第27巻第4号「地方財政調整交付金と国政事務/都市の経費問題に就て」=E
G 1940年1月、『市政の基礎知識 第9輯 地方税制の沿革』
H 1941年(11月)12月、『日本地方財政制度の成立』(岩波書店)
I 1943年(9月)12月、『日本地方財政論』(霞ヶ関書房)
J 1943年12月、「新税制下の都市財政力」『全国都市問題会議総会文献. 第8回 総会要録』

 九大をいつ出たのか、また出てから東京市政調査会に入るまでの過程がわかりにくいですね。
 そこで、『九州帝国大学一覧』で調べて、「1925年入学‐1928年卒業」を確認しました。
 1925年度、法文学部学生に「藤田武雄」(山口)の名前があり、法文学部に第一回生として入学したことがわかります。
 1926年度に「藤田武雄」、1927年度「藤田武夫」、また1928年3月の卒業生に「藤田武夫」(経済学士)の名前があります。
 1925年度、1926年度の「藤田武雄」というのは、表記ミスでしょうか(戦後、『都市問題』に書いた論文でも「藤田武雄」名になっているものがあります)。
 教授陣には、美濃部達吉、向坂逸郎等。同期に具島兼三郎(法学士)の名前があり、経済学を教えていたのが向坂ですので、おそらく向坂ゼミに所属していたのでしょう。
 となると、1928年に卒業した後、1935年9月、『都市問題』に最初の論文を発表するまでの数年間、何をしていたのかという疑問が生じます。

 そこで、『昭和人名録V 東京編』を調べて出てきたのが以下の事実です。
藤田武夫 立教大学経済学部教授 東京大学 早稲田大学各講師
杉並区阿佐ヶ谷(…)【電】(…)
明治38年2月27日生 京都府宮津市出身
昭和5年九大経済学科卒
同9年迄京大大学院に研究 其の間立命館大講師を務め
同18年東京市政調査会調査課長となり 明大中大各講師を経て
同21年立大教授に就任 早大講師を兼ね 同24年学位を受く
尚地方行政調査委員会専門調査委員を兼務
著書「日本地方財政」「地方財政論」「日本資本主義と財政」「日本地方自治論」「日本地方財政発展史」「日本地方財政制度の成立」
【宗】(…)【趣】(…)【家】(…)

 九大卒業後、京大大学院に進んだことがわかります。ところが、『京都帝国大学一覧』を調べて見ても、「藤田武夫」「藤田武雄」の名前はどこにも見当らないのです。
 けれども、1935年9月の「人口別に見たる我国都市財政の不均衡」を読んで合点がいきました。この注に藤田が「拙稿」としている論文「我国の都市行政費と都市人口」(『都市問題』第20巻第3号、1935年3月)の執筆者が「伊藤武夫」となっていたからです。藤田には別名があったのです。この数年間、養子縁組でもして、またそれを解消するというようなことがあったのでしょうか。

 そこであらためて、『京都帝国大学一覧』を参照すると、確かに「伊藤武夫」という名前がありました。
 1930年度に、経済学士、伊藤武夫(京都)の名前があり財政学を専攻していたことがわかります。
 1931年度にも、経済学士、伊藤武夫の名前があり、1932年度は法学士となっていましたが、やはり財政学専攻で、伊藤武夫の名前があります。
 教授陣に汐見三郎、神戸正雄ら。河上肇は1928年、京大教授の職を辞して、1930年、東京へ移って実践活動を開始しているので、藤田とはすれ違いの形になっています。
 ここで、九大では山口出身だったのが、京都になっているのが気になりますが、京都で生れ、山口に移り住み、九大を出た後、京都へ移って、その後京大大学院に入学したということであれば辻褄が合うでしょうか。
 いずれにしても、鳴海正泰「戦時中革新と戦後革新自治体の連続性をめぐって―都政調査会の設立から美濃部都政の誕生まで―」(『自治総研』通巻402号,2012年4月号)にある「鈴木武雄と藤田武夫はともに東京帝国大学で大内ゼミの卒業生」というのは間違いですね。

 実は私には、ここまで書いてきたこと以上にひっかかっていることがあります。それは、藤田が戦後、東京市政調査会の研究員であったことを伏せているように思えることです。
 彼が1935年以降、研究員であったことは、1935年9月の『都市問題』第21巻第3号「執筆者紹介」に「東京市政調査会研究員」とあること。1941年に上梓した『日本地方財政制度の成立』に「私が地方財政史の研究を志したのは、昭和十年秋のことであった。爾来六年の星霜が流れた」とあること。1943年に上梓した『日本地方財政論』にも同様の記述があること。また『日本都市年鑑』第1(1931年用)〜第12(1943年用)において、第5(1936年用)以降、毎号執筆を分担していることからも確認できます。
 ところが、「コトバンク」でも、『人名録』でも、彼の東京市政調査会でのキャリアは、1943年、調査課長になったところから始まっているのです。
 彼がまとまった著作を発表するのは、1940年以降ですが、このとき猪間がすでに(1938年)東京市政調査会を去っているのです。

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