2015年07月17日

猪間驥一と森戸事件の真実D

 先日、猪間驥一の森戸事件に関連する資料を見ていたら、有沢広巳の『学問と思想と人生と』(毎日新聞社、1957年)が紛れ込んでいて、私がコピーを取った「糸井靖之」の前の項が、「森戸事件」であることがわかりました。
 暑い中、しかも有沢のことを調べるために。国会図書館へ行くことになるのかと少々憂鬱だったのですが、ひらめくものがあって、コピーの裏面を見ると、これが、『エコノミスト』に連載されたものであり、この雑誌がわが図書館にも置かれていること、しかも、1956年4月7日号〜8月18日号という、わずか4ヵ月分の誌面を見ればよいことがわかりました。
 「わが思い出の記」に書かれた、有沢の見た森戸事件をまとめると・・・。
・1919年12月、経済学部の機関誌『経済学研究』が、発売されたとたん、発禁になる。
・それは掲載された森戸助教授の「クロポトキンの社会思想の研究」という論文が、当局から“朝憲を紊乱”すると認定されたためであった。
・雑誌が発売禁止になったのみならず、筆者の森戸助教授は起訴され、雑誌の発行署名人であった大内助教授も、責任があるというので同様に起訴される。
・起訴された大内、森戸が、一審では無罪であったのが、検事の控訴で、有罪という判決が出て、森戸が三月の禁錮、罰金70円、大内が一月の禁錮、罰金20円で執行猶予になる。
・1920年1月半ば、上杉教授の息のかかった、東大の右翼団体、興国同志会が森戸事件に関する報告会を催し、論文が国体に反すると検察当局に告発したのが、この団体だとわかる。
・一人の学生が壇上に駆け上がり、報告会を、この団体の責任を問う学生大会に切り替えるという動議を提出する。
・興国同志会の一人の学生が、泣きながら自分の非を認める。
・学生大会は、引き続き、教授会が辞職をやむ得ないものとした態度をどう考えるかという議題を取り上げる。
・蝋山政道や鈴木義男が立って、教授会の軟弱な態度を非難し、学生たちは興奮して、「経済学部教授会の責任を問う」という決議案を学生大会で採決しょうということになる。
・しかし、いよいよ採決に入る段になると、学生の中に慎重な者がでてきて、そのまま押し切れば「責任を問う」に決まったのに、翌日に持ち越すことになる。
・翌日は、前日の興奮はもはやおさまって、教授会の責任を問うというかわりに、反省を促すということになる。
・実行委員が選ばれて、決議文を山川総長のところへもっていくが、“バカッ”とどなられ、何の反省もない。

 学生の興奮が冷めるというのは有沢にとってよくないことなのですね。
 大内が「森戸論文は不穏当と思った」、「自分は国家主義の方面からの社会改良論者である事を明かにして置く」と申し立てたことなど、どこにも書かれておらず、したがって、学生の出した「吾人は学問の独立を期す」という宣言についても言及がありません。
 これを読んでいると、有沢の「手口」というものがだんだんわかってきて、気分が悪くなります。
 要するに、自分たちの悪行をかくすために、矛先を他に向けるというやり方で、これが、大内グループのお家芸だったことも確認できます。
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猪間驥一と森戸事件の真実C

 森戸事件について、猪間が触れているのは、1952年に『統計』に書いた次の一節があるのみです(1957年、『人生の渡し場』に収録)。しかも、これは、河合栄治郎が東大に赴任することになった経緯を説明するための導入として語られたものでした。
 大正8年(1919年)9月経済学部の発足と共に、私たちは東大に入学したのだが、その翌年早々に、日本の社会思想史上に残る、いわゆる森戸事件が起こった。経済学部がその研究発表機関として華々しく発刊した雑誌「経済学研究」第一号に載せられた森戸辰男助教授(現広島大学長)の論文「クロポトキンの社会思想」が当局の忌憚に触れて、森戸先生は起訴、休職となり、裁判の結果ついに下獄され、外国留学の途に就かれるばかりになっていた矢先に、東大教授としての前途を失われたのである。
 したがって、もちろん、自分が何を行ったかなどどこにも書いてありません。
 ただ、『人生の渡し場』を上梓した翌年、「わたくしの東京(11)本郷の思い出」(『中央評論』1958年1月号)を書いていますが、その中に、猪間の意思が示されている(と私が感じた)部分がありますので、そこを取り上げておきたいと思います。
 猪間は、自分や同世代の者たちには、東大を母校と思う意識が希薄であるとした上で、東大のマスプロ教育と東京商大のゼミナール教育の優劣を問う際、次のように述べています。
 日本の学校には、学校騒動というものが多い。大ていの大学その他の学校で、教授と学生と先輩とが混みになっての紛擾を、その歴史に持たないものはないと云っていい。教授間の対立がこれの原因になるのも多いし、全部が一緒になって、例えば文部省に当るというようなものも少なくない。最初はいずれ(も)学内のゴタゴタなのだが、それが先輩の介入を見て、ストライキとか学校閉鎖とかいう点にまであおられるというケースが多く見られるのだ。
 ところが、東大にはこういう事暦が全然ない。もちろん、学生運動が過激にわたって、新聞紙面をにぎわすようなことはしばしばあるが、これはいわゆる学校騒動とは意味が違う。教授の軋轢がひどくて、学部が鼎の軽重を問われるというような事は、事実あったしそれはまったくここでいう学校騒動の一種に違いない。しかし、その際には、学生は傍観者になって、騒ぎにまき込まれることはない。先輩に至っては、タッチしようという者は決して出て来ない。よく云えば冷静だが、悪く云えば冷淡で、学校の運命などというものに何らかの関心を払わないのである。その冷淡さはチョッとほかの学校に見られない。
 最初のパラグラフに上げられた学園騒動の例は、東京商科大学のもので、1931年の籠城事件と1935年の白票事件を指していることは明らかです。とくに白票事件は、猪間が背広ゼミナールに参加して人口問題研究を進めている頃に起こり、上田貞次郎も巻き込まれたので、猪間は身近にあってこれを見ていたことになります。
 つまり、多くの点において、東京商大のゼミナール教育は、東大のマスプロ教育より優れているが、距離のある師弟関係、先輩後輩関係によって、学園騒動に巻き込まれないで済むという点では、マスプロ教育のほうがよいというのです。
 猪間は、東大のマスプロ教育が、森戸事件を騒動にいたらしめるのを防いだと考えていたのだと思います。
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2015年07月12日

猪間驥一と森戸事件の真実B

 森戸辰男の『思想の遍歴(上):クロポトキン事件前後』を読めば読むほど、森戸への疑問がわいてきますので、ほんとうはここまで範囲を広げたくないのですが、思いきって書いておきます。
 私が一番ひっかかっているのは、森戸が、猪間たちの出した決議について、「もう一つ高い次元で」などといっておきながら、自分たち、つまり助教授のレベルでは、決議も宣言も出してないということです。
 森戸は、教授会に助教授が出席できないことに文句をいっています。
 それなら、そのことを含め決議を出したらよかったのではないでしょうか。
 当時、助教授は、土方成美、舞出長五郎、糸井靖之、大内兵衛、森戸辰男の5人で、土方は留学中でも、舞出は留学の直前であれば、出発を少し延ばせたかもしれません。
 残りは、糸井、大内、森戸の3人で、糸井は、そうでなくとも大学に嫌気がさして辞めようとしていたわけです(止められて残りますが、やっぱり嫌気がさして、すぐに留学してしまいます)。
 大内は関係者ですから、彼を説得して3人の連名で、「学問の独立」をうたい、「吾人は経済学部教授会の責任を問う」という決議を出せばよかったのです。この時代、学生が動くより、助教授が声明を出すほうが、よほど社会に与えるインパクトは強かったはずです。
 ところが、森戸は、“大学に戻りたい”大内を説得できなかったのです。
 もちろん、自分が大内に対しては「加害者」の立場にあるという負い目もあったと思います。でも、それなら、学生たちの間には、「被害者」を増やしてもかまわないというのでしょうか。ここで騒動を大きくしたら、退学処分を受ける学生も出たかもしれないのです。
 ダメだったのは教授会ではなく(少なくとも渡辺鉄蔵と森荘三郎は「学問の自由」では動いている)、助教授だったということではないでしょうか。
 大内が、日和らずに、これを「学問の独立」をまもる闘いと位置づけ、師としての模範を示していれば、弟子たちが後に、猪間の東大追放など、汚い事件に手を染めることもなかったかもしれません。
 森戸のいい方であれば、次元が高い運動を組まなければならなかったのは、まず森戸と大内だったのではないでしょうか。
 これまで、とくに大原社会問題研究所の関係者の方々など、この森戸の著書を読むチャンスが多かったものと思われますが、その中の誰一人として、森戸や大内の態度に疑問を感じなかったのでしょうか。
 そうだったとすれば、それこそ、日本のアカデミズムの驚愕の事実ではないでしょうか。
 いずれにしても、こうした保身に走る人たちの中にあって、自分たちの意思を、民主主義のルールにのっとって表明した、猪間たちの見識の高さを改めて思います。
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2015年07月11日

猪間驥一と森戸事件の真実A

◆渡辺鉄蔵への驚き
 渡辺は、森戸辰男のクロポトキン論文が、論理も学術的価値もないと批判し、反共主義者でもあるので、黎明会の一員として、どのように折り合いをつけたのか、知りたいと思っていました。
 それに、これも私は知らなかったのですが、森戸も黎明会の一員だったのですね。
 森戸の主張では、「(1月)10日午後、経済学部教授会は、総長出席のもとに森戸助教授処分について評議した結果、6対1の票決をもって森戸休職を決定することになり」、この反対1名は上野道輔教授であるとのこと。そして、「このときの教授会のメンバーは金井延、山崎覚次郎、矢作栄蔵、河津暹、渡辺鉄蔵、上野道輔、森荘三郎の7先生で(新渡戸稲造は不在、松岡均平は休職中)」であり、助教授(糸井靖之、大内兵衛、森戸辰男)は教授会に出席できない(土方成美、舞出長五郎は留学中)と書いているのです。
 ところが、1月14日付『大正日日新聞』では、森戸の休職(1月10日付)を決定する前に開かれた教授会で、「山川総長、山崎覚次郎博士、金井延博士などの老骨派が勢力を占め、森荘三郎、渡辺鉄蔵両博士の如き少壮派は『学問の自由』の為めに極力反対を称えたが少数の為め敗れたものである。」とあるのです。
その後の渡辺の態度を見ていると、どうもこちらのほうが正しそうです。
 1月15日付『読売新聞』には、渡辺が、『大内君の辞職に就ては私は何も知りません、今日私は大学に午後の4時頃まで居て、大内君にも会いましたが、そういう話も聞きませんでした、けれどもそんな事になりはしないかと私等も心配しているのです』と話したと書かれています。
 立場は違っても「学問の自由」は守らなければならないと考えていたのではないでしょうか。
 ただ、法学部学生大会の席上、経済学部教授会への批判は間違っている、助教授を出席させろ、といわれたことに対しては、学生に一言たりとも嘴を入れる権利ない、と怒っています。
 1月30日、森戸事件第1回公判の後、黎明会では、2月1日に大会を開いて、同問題に対する態度を決定することにします。ここには「大島正徳、大山郁夫、渡辺鉄蔵、高橋誠一郎、滝田哲太郎、占部百太郎、姉崎正治、朝永三十郎、左右田喜一郎、木村久一、三宅雄二郎、森戸辰男らがいた」とあります(1月31日付『時事新報』)。
 しかし、2月7日、森戸事件第2回公判の当日の午後6時より、黎明会の他、社会政策学会等19団体による大演説会の開催が予定され(2月6日付『中外商業新報』)、2月10日、黎明会主催による福田徳三らによる公演会が開かれますが(2月11日付『大正日日新聞』・2月12日付『報知新聞』)、渡辺の名前は見当たらなくなります。
 いずれにしても、黎明会の一員として筋を通したということではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

・近代デジタルライブラリーで、猪間が編集していた(糸井靖之も関わっていた)『経友』が残ってないか、探していたところ、1924年4月発行の『東京帝国大学経済学部便覧』が出てきました。この月は、猪間が助手から講師に昇格して、統計学の演習を担当し始めた、その月です。
・終わりから何ページかわかりませんがばっさり切り取られているので、正確な日付はわかりませんが、帝国図書館に進呈されたという書き込みがあり、受領印の日付が4月28日となっているので、それ以前に発行されたことはわかります。
・その終わり部分は、「宿所」になっており、これは教員の住所付き名簿のことなのですが(1924年3月現在とある)、ここにもし、4月初めに猪間の講師就任の辞令が出ていれば、その旨が記されてもおかしくないページ以降が、奥付も残さずに切り取られているのです。
・『東京帝国大学一覧』、『東京帝国大学要覧』にも、同じような箇所に欠落ページがあったことを考えると、大内グループによって、猪間追放の事実を隠す工作が、この時期、集中的に行われたと考えてもおかしくないような気がします。
・探していた『経友』ですが、1920年5月から発行されていることがわかり、デジタルライブラリーにも、国会図書館にもありませんでしたが、東京大学経済学部の図書館に初期のものが保存されていることがわかりました。いつか見に行きたいと思っています。
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猪間驥一と森戸事件の真実@

 森戸辰男の『思想の遍歴(上):クロポトキン事件前後』(春秋社、1972年)を読んでみたのですが、意外なことがいろいろあって驚きました。
◆森戸辰男への驚き
 この書には、森戸事件関連の新聞記事すべて集めたのではないかと思うくらい、たくさんの記事が収録されているのですが、不思議なことに、猪間(あるいは経友会)という名前が載った、例の3編の記事が出てこないのです。
 実は、森戸の関心は、右翼団体、興国同志会と対立している左派の新人会の動きにあるのですね。興味深いのは次のような見方。「経済学部学生大会、法学部学生大会で、興国同志会は容易に回復しがたい指弾を受け、会そのものも分裂してしまうが、他方、特に森戸の休職を承認し、また外部からの圧力に対してこれといった抵抗を示さなかった経済学部教授会への学生の批判が急速に高まって行くのが、新しい側面であります。(……) その中で学生団体としては東大新人会がかなり重要な役割を演じたことは、いくつかのサイン分岐時からも推測がつくのです。」
 そこで、「1月16、17日とつづいて開かれた東大経済学部学生大会、法学部学生大会は、学問の独立の要求と森戸事件に対する山川総長および経済学部教授会への問責を公然と表明して、この長期にわたった思想闘争における一つのピークを形づくったのです」としながら、「森戸助教授休職問題をきっかけに急速な盛り上りをみせた東大内部の学生運動が、前述の法学部学生大会の経過からもうかがわれるように、早くも一歩後退の兆しを示したのは、運動の自然発生性そのものに伴う弱さということのほかに、教授や大学当局からの陰陽さまざまの工作があったからです。「森戸を守れ」という要求を越えて大学の改革・学問の独立・研究の自由の確保というもう一つ高い次元で運動を組み直すには、経験も展望もあまりに不足していた当時の学生運動は、この時点でいったん足踏み状態とならざるを得ません」ということになってしまうのです。
 森戸は、何が気に入らなかったのかというと、学生大会の宣言文案「吾人は学問の独立を期す」は満場一致で可決してよかったのですが、決議の原案「吾人は経済学部教授会の責任を問う」が、修正案「吾人は経済学部教授会の反省を促す」に7名の僅差で負けてしまったからなのですね。
 もう一つ上の次元の運動って何なのでしょう。私には、マルクス主義者以上にマルクス主義者的な、上から目線に見えて仕方ありません。
◆大内兵衛への驚き
 森戸事件の第1回公判は、当初1月23日に開かれることになっていたものが、弁護人側が公判延期を申し立て、1月30日に変更されます。
 公判を前にして、同裁判所検事廷で、大内は次のように申し立てます。「森戸氏の書いたクロポトキン研究と云う一論文は、自分が編輯して居る雑誌の締切期日11月18日頃に、氏自身が直接雑誌発行所たる有斐閣へ送ったもので、自分は原稿も校正も更に見なかったが、然しあの問題に就いて森戸氏が論文を書くと云う事は兼ねてから聞いて居た、其の論文は雑誌発行後に初めて読んで見たが、其時自分も不穏当とは思った、然し学術的研究の立場からでは差支えあるまいかと、先輩や友人に聞くと、矢張りあの種の論文を雑誌に掲げるのは、有害だろうと云う人が多かった、兎に角編輯上の自分の失態は認める、そして自分は国家主義の方面からの社会改良論者である事を明かにして置く」(1月25日付『時事新報』)。
 つまり、裁判で「自分は関係ないよ」と主張したのです。
 公判は公開禁止となりましたが、1月31日付『東京日日新聞』は、次のように伝えています。「その物々しき光景の中に森戸、大内両氏は何れえも背広服にて出廷し、被告席に控えて居た、大内氏は恰も他人事のように袱紗包みを小脇にしてニコニコし、森戸氏は責任者だけあって常に伏目勝で何処となく沈欝の色が眉間に漂うて居た」。
 大内は、もともと「論文を書いたのでなく雑誌の発行名義人として罪に問われたので、いわば完全な被害者」であり、「できるだけ早い機会に東大に復帰する可能性を残す、という条件のもとで、東大を一応辞職することに」なったようですから、こういう態度をとるしかなかったのかもしれませんが…。

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2015年07月07日

戦争証言アーカイブスD

(つづき)
1947年4月15日「政界の大物ぞくぞく追放」
選挙を前に、4月4日、公職追放者の第一次発表が行なわれました。この日の民主党本部。
《民主党副幹事長 田中伊三次氏》
「公職追放のね、それが今ちょうど内閣で発令しました。主だった顔ぶれを言うとね、最高委員楢橋渡君、これは該当と決定をして発表しました。犬養最高委員、河合厚生大臣、石黒幹事長は大丈夫」
ところが、政府は中央審査委員会の決定によってさらに次々と該当者を発表。その打撃がいちばん大きい民主党では、今、大丈夫と言われたばかりの最高委員犬養健氏をはじめ、幹事長石黒武重氏、電話をかけていたご本人の田中伊三次氏も追放。極端な国家主義者と決定された楢橋渡氏追放の感想。
《楢橋渡》
「いやしくも私のごとく前国務大臣をなし内閣書記官長をなした者に対して、一回の弁明の機会も与えることなくして突如として処断したことは、あたかもヒットラーのときにおけるナチの裁判よりも暴虐なものであると私は信ずるのであります」
なお、さらに追放をうわさされる人のうちには、石橋大蔵大臣、河合厚生大臣、平塚前運輸大臣があり、社会党・中村高一氏も問題になっています。
一方この嵐をよそに、追放決定の責任者吉田首相は、今ご自身の選挙戦におおわらわという形です。
 湛山が公職追放になるのは、5月ですが、4月の時点でそのうわさがニュースとして流れていたのですね。
1947年5月6日「“社会”か“自由”か 注目されるインフレ対策」
インフレはどうなるか。第一党の社会党・鈴木茂三郎氏の見解。
《社会党 鈴木茂三郎氏》
「インフレを防ぐには新円と物価と国民生活の安定を図ること、第2には勤労階級の協力を得て生産の増強を図ること、これはすでに失敗した石橋財政ではだめであって、勤労階級の信頼を得られる社会党首班の内閣でなければできないことであります」
これに対し第二党になった自由党石橋蔵相。
《石橋蔵相》
「社会党の今まで言っていることと変わってることは、例の新円の問題だけだけど、これはもう社会党であってもなくても、何党であってもこれは絶対やれることで、別段今までやったこととたいして変わりないと」
その石橋財政は5月から700円の枠をはずしましたが、こうしている間にも店先の日常品はうなぎ登り、竹の子生活者は手をつかねて傍観のていです。
しかし、シーズンともなれば府中の東京競馬は新円階級でこの混雑。さてインフレと内閣はこれから先どうなるのでしょうか。

 以下は、第一次吉田内閣の総辞職と湛山の公職追放との前後関係…。
1947年5月13日「新内閣はどうなる?」
吉田内閣は5月6日、総辞職を延期しました。(……)
 1947年5月17日、湛山が公職追放されます。
1947年5月27日「第一回国会早くも難航」
5月20日、第1回国会召集。この日、吉田内閣総理大臣は新憲法の規定に従い宮城に参内して辞表を提出。ここに吉田内閣は総辞職しました。(……)

 私自身はまだ観ていないのですが、この時期は、東京裁判が進行中で、その関連のニュースがたくさんあります。GHQ占領期というのがどのような時代だったのかを知るのに、これほど適した資料は他にないかもしれません。
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2015年07月04日

戦争証言アーカイブスC

 そして、1946年の秋以降もしくは1947年初め頃から、石橋湛山の公職追放が取りざたされるようになるわけです。
1946年11月19日「新地方民主化 新公職追放」
地方選挙を前にして11月8日、政府はついに公職追放の拡大を発表しました。
《林書記官長》
「今回とりあえず地方公共団体の公職についても、いわゆる公職追放令を適用し、地方の公職より軍国主義的ないし極端な国家主義的色彩を一掃し、あわせて地方自治の民主化を促進するところがなければならない」
今度追放されるこれらの地方政界のボスたちは、戦時中どんなことをしていたでしょうか。彼らは警察と手を組んで、あらゆる国民の不満を抑えつけたばかりでなく、半ば脅かしながら家庭から引きずりだした若い女性を、十分な設備一つない作業場に送り込み、ここで体をこわすばかりの無理な労働を押しつけました。あるいはまた、義勇隊の名ですべての男子を軍閥のいけにえにしようとした在郷軍人の幹部たち、すべてこれらの追放によって、今さらに大きい民主化の道が開かれようとしています。
1947年1月28日「二・一ゼネスト迫る」
《全官公労働者代表》
全官公庁260万の労働者は、18日ついに2月1日より大ゼネストに突入することを宣言しました。このストに参加する全日本医療組合では、21日、看護婦さんまで出動して議会にデモ。逓信従業員は靴磨きまでして闘争資金の獲得に活躍しています。30万の学校の先生たちも、放課後資金稼ぎに靴下や手袋編み。しかし、ゼネストまでは最後まで職場を守り抜こうと、中央郵便局では全員発送する郵便物と死に物狂いに闘っています。真夜中、中央電話局では若い交換手たちが寒さに震えながら頑張っています。午前2時、鉄道機関区では12時間交替の労働者が、いてつく夜空にきょうの列車を動かし始めました。こうして刻々に近づくゼネストを前にして政府は22日ついに妥協案を発表。
《石橋蔵相》
「給与の支払いの期限の問題とか、あるいは所得税の問題とか、そういうものは今後に残されている問題だから。けれども、第一のだね、給与の暫定処置についてはこれが最後の問題だ」
《労働者側》
「500円の枠にしろ、枠をはずせとか、あるいは勤労所得税の問題、これはわれわれはもう全面的撤廃を要求しているのであって」
《石橋蔵相》
「それは僕は・・・」
労働者側はあくまでこれを不満としており、前途はいよいよ予測を許さないものがあります。
1947年2月25日「第九十二議会再開」
再開された議会3日目、2月18日の論戦です。
《水谷長三郎(社会)》
「日本経済の再建はインフレーションによって行なわるべきものである。すなわち、大衆の負担において行うが、資本家的立場からはその道しかないというのが石橋インフレ策でございます」
《石橋蔵相》
「経済再建には、インフレで行なうとか、これを大衆の負担によって行うということは、かつて考えたこともないし、申したこともありません。
だいたいこれらの点についての水谷君のきょうのご主張は、材料はなはだ不確実であります」
1947年4月8日「選挙戦いまたけなわ」
4月1日、東京日比谷音楽堂では各政党立会演説会が開かれ、選挙を前におのおの熱弁を振るいました。
《石橋湛山氏(自由党)》
「社会党や共産党の主張する中のものでも今日の日本に必要であり、今日の日本に有利であると思うものを採用することに、あえて、やぶさかではない。これがすなわち自由主義の立場であります」
《中村高一氏(社会党)》
「生産の増強をするのには、不当な搾取を認めるような経済制度では断じて増強はできないのだ」
《三木武夫氏(国民協同党)》
「このどん底に落ちた日本が、この裸になった国民どうしが焼け野原に立って階級闘争をして日本の解決はできるか。私は断じてできぬと思う」
《犬養健氏(民主党)》
「敗戦後の日本におきましては、政治においても、経済においても、こういった大掃除をしなければなりません」
《徳田球一氏(共産党)》
「今、欠配をうけているわれわれが生きていくためには、われわれはなんといっても改革にいかざるをえないのである。さらにこういう小さいものを・・・」
かくて投票日が近づくにつれ選挙戦はいよいよ白熱化してきました。

【お詫びと訂正】
「戦争証言アーカイブスC」は、見落としていた湛山に関するいくつかのニュースがあったため、あらたに「戦争証言アーカイブスD」を設け、ニュースの入れ替えをしました。ご了承ください。

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戦争証言アーカイブスB

 それとは対照的な、幣原内閣・吉田内閣への怒りと反発。
1946年1月24日「遂に居据った幣原内閣」
侵略戦争協力者追放のマッカーサー司令部旋風に吹きまくられて、瓦解に瀕した幣原内閣は、13日、一部閣僚の入れ替えだけ居据りを強行。その顔ぶれは旧態依然というよりも、むしろ時代に逆行するものとして、轟々たる人民の非難はさらに高まりました。
一方、幣原首相は世田谷の私邸で内閣同様一歩も動かず、ガラス戸の外を吹く嵐をよそにひなたぼっこを続けておりました。

1946年4月18日「幣原内閣打倒 人民大会開く」
早慶戦と同じ7日の午後1時、東京付近の労働者、農民、一般勤労者7万は、むしろの旗を押し立て、日比谷の幣原内閣打倒国民大会へ続々詰めかけました。主催は民主主義諸団体、後援・民主人民連盟、荒畑寒村氏・司会。各代表は働く国民を苦しめる幣原内閣を即時打倒すべきだと主張。
(・・・・・・)
大会ののち、首相官邸へ大デモを敢行。
官邸の開門を迫りましたが、かんぬきをかけて応ぜず、激怒した群衆は門を押し破ってなだれ込みました。このとき警官はピストルを放ち、群衆を威嚇せんとしたため、激怒した群衆は官邸の玄関に迫りました。
翌8日午後4時、各代表は首相に会見しました。代表徳田[球一]氏は決議文を読み上げ、首相に迫りましたが、首相は「答えられん」の一点張りで押し通し、(・・・・・・)一方的に会見を打ち切りました。これが民主主義日本の政治家のとるべき態度かと、代表側は猛烈に非難しております。

1946年5月23日「特報“食わせろ!”の叫び 人民大衆の力に 吉田内閣動揺」
飢え死にの危険は目の前に迫っている。それなのに反動勢力は見て見ぬふりをしていると、飢えた帝都市民25万は、19日宮城前広場を再び赤旗の波をもって埋め尽くしました。各代表が、食糧人民管理、反動政府打倒を叫んだ後、世田谷区民の婦人代表は、天皇への願いは区民の本当の声ですと訴えました。
(・・・・・・)
かくて25万の大衆は、秩序整然と潮のような街頭行進に移りました。
子ども、おかみさん、学生、労働者などあらゆる層の市民は、金にあかし、権力によってたらふく食っているという一部特権階級への怒りを込めて「赤旗の歌」を合唱し、人民大衆団結の力をまざまざと示しました。
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戦争証言アーカイブスA

 まず、共産党員(釈放された徳田球一、延安から帰国した野坂参三ら)への歓迎ぶりがすごいのでそのニュースをまとめて。
1945年11月7日「政治犯釈放」
東京都豊多摩刑務所。(・・・・・・)国を憂え、民族の幸福を図って、かえって不当なる封建中世史的官憲の暴圧により、聞くに堪えざる虐待を受けつつ、重い鉄鎖につながれていた社会主義、自由主義の党首たちは連合国軍司令部よりの命により、10月10日までに全国刑務所より解放されました。
≪徳田球一氏≫
(Q:…いろんなつらい思いもされましたんでしょうな。)
「つらい思いも何も、死の牢獄ですから。だから、ぶたれる、けるはもちろんのこと、栄養失調で死んでいくのもたくさんあります。三木くんの死んだのも、そのひとつです。今度は連合軍と、人民大衆の同情と絶大なる援助のもとに、解放されるようになったんです。それで私たちは非常にその人たちに対して感謝をしているわけです。」
1946年1月1日「公職追放令」
連合軍最高司令部は、昭和21年1月4日、軍国主義主導者の官公職よりの追放、および右翼団体結社禁止の画期的指令を発し、新春の政界朝野を一大旋風の中に巻き込みました。閣僚中に該当者を含む政府では、総辞職か改造かの岐路に立ち、4日に引き続き5日も協議を続行しました。
(・・・・・・)
この無血民主革命をもたらす重大指令に対し、共産党の宮本氏および劇団の山本さんは次のごとく語りました。
《共産党 宮本顕治氏》
「今回、日本が侵略戦争をやるうえに積極的な役割を務めた反動分子の、公職からの追放と、反動団体の解散が指令された。わが日本共産党は、この指令が日本の民主化に非常に役立つものとして全面的に支持する。今日、中央と言わず、地方と言わず、反動分子は盛んに日本の民主化を妨害している。大元帥としての天皇も、この戦争の最高の責任者として、その責任をこの際、公にすべきである。またこの指令を厳格に実行するためには、現在の反動的な幣原内閣は打倒されなくてはならない。そして、従来一貫して侵略戦争に反対してきた真の民主主義的な勢力を中心として、新政府が樹立されなくてはならない。この方向こそ日本の民衆を解放する、真に正しい方法である。」
1946年1月24日「人民注視の人野坂参三帰る」
延安にあって日本軍国主義と戦ってきた野坂参三氏が、16年ぶりに、1月13日、東京駅に到着。
「延安から来た日本人民解放連盟。この先発隊として、私以下3名の者が、今日、諸君の援助のもとに、無事にこの東京の町に到着した。私個人が日本を去ってからすでに16年になる。この間に、世界も変わり、日本も変わったし、またこれから急速な勢いで変わらなければならんし、変わりつつある。(そうだ!)現在、日本の国、われわれの民族、われわれの勤労人民は、新しい日本を求めておる。それは何か。すなわち、民主主義革命の完成を要望しておる。人民の利益と意思を代表するところの真実の民主主義政治、真実の民主主義制度、これを完成しなければならない。」
翌14日、東京代々木の共産党本部において、野坂氏の帰朝歓迎会が催されました。
「新しい内容、形、これを持ったところの共産党でなきゃならない。これはどういう意味かというと、前の共産党と今の共産党で何か主義が違うかという、そんな意味ではない。実は最近までのこの共産党というものは、これは宣伝的な団体だった。こう言うことができる。小さい。大衆にはある思想的な影響を与えることはできるけど、この当時、真にだね、日本の政治をどうする、ということのような仕事はできないような共産党だった。率直に言えば宣伝団体的な性質だった。ところが今はこれが根本的に変わってきた。共産党はもう宣伝団体の時期を終えて、もう青年や子どもの時代を終えて大人になって、そしていよいよ日本の政治を動かす政党だ、これは。われわれは政権をとって日本の政治を行うことのできる政党だ。これに今、発展しつつあるし、またそうしなければならんと思う。」
1946年2月7日「野坂参三氏歓迎国民大会」
人民解放のために戦う野坂参三氏を、今、嵐の祖国に迎える民衆大会が、1月26日、日比谷公園広場において開催されました。かつて軍国主義者たちが、いくたびか天下りの国民大会を催したこの広場。この日、ここで民主主義革命への最も輝かしい出発がなされたのであります。
詰めかけた民衆、実に3万。政党政治を超えた全国民の支持を物語っております。大会はインターナショナルなコーラスとともに始められました。熱狂する民衆の拍手と歓呼に迎えられて、野坂氏登壇。歓迎の花輪を受けました。
同氏は、祖国再建の道は民主戦線の結成にある旨の決意を諄々と披瀝。民衆に大きな感動を与えました。大会委員長、山川均氏、荒畑寒村氏、黒木重徳氏、片山哲氏、室伏高信氏、神近市子女史、水谷長三郎氏、徳田球一氏と交々登壇。熱弁をふるいます。
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戦争証言アーカイブス@

 「NHK戦争証言アーカイブス」というサイトがあって、日本映画社が制作した日本ニュース(映画館にて上映)の1940年から1948年までのものをネットで見ることができます(戦前戦中のものを別にすると、GHQ占領下に製作されたものということは頭に入れておく必要があると思います)。
 私はこれを、大内兵衛や有沢広巳のことを調べていて知ったのですが、衝撃的だったのがこのニュースです。
日本ニュース第262号:1945年11月30日「大内教授ら 東大に復帰」
長い間教壇を追われていた教授たちが、終戦とともに続々学園に帰ります。全国大学教授の復職のさきがけ、東大の経済学部。統計学担当の有沢広巳教授、農業政策担当の山田盛太郎教授、日本経済史の土屋喬雄教授、7年ぶりで登校した財政学の大内兵衛教授。久しくゆがめられてきた学園にも自由の息吹と学徒の喜びがあふれます。
 ああ、戦後はこうして始まったのかと、愕然とする思いです。
 この中に、石橋湛山の公職追放に関連するニュースがないか調べたところ、興味深いものが見つかりましたので、何回かに分けて取り上げます(なお、猪間驥一の引揚げに関連するものも調べたのですが、引揚げのニュースはたくさんあったものの、猪間の時期のものはありませんでした)。
 いずれにしても、こうした時期に、湛山の公職追放、猪間の『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の編纂はあったわけです。
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2015年07月01日

大内兵衛グループの犯罪史2

 やっぱりもう少し書いておきます。
 前回書いたのは、大内兵衛グループのうちの、いわば大内・有沢コンビによる、石橋湛山の排除を目的とした吉田茂を利用した策略といっていいものだと思うのですが、今回付け加えようとしているのは、大内・藤田コンビによる、やや間接的な自由主義者排除の策略です(念のため「藤田武夫の謎めいた経歴4」(2014.09.22)を確認すると、そこにほぼ書き尽くしていることがわかりましたので、詳細はそちらをご参照ください)。
 1949年、藤田は、『日本地方財政発展史』を発表、「世界大戦以後すでに高度の独占段階に入っていた日本経済が要請するものは」、「中央集権的統制主義的」な地方財政政策であって、「自由主義的な地方分権的地方財政政策」ではありえないという、マルクス主義に特有な歴史観から(さらには、このグループの無為無策を隠蔽するためも)、1930年代の地方財政問題における石橋湛山・猪間驥一らの議論を封じ込めようとしていたものと思われます。
 大内・藤田コンビはその後、東京都政調査会(どのような意味においても「リベラル」ではなかった彼らが、戦前の東京市政調査会の「リベラル」な立場・業績をいわば掠め取るネーミング)を誕生させ、こうした地固めをした上で、大内はあの『昭和財政史』を著し、その後に美濃部都政を誕生させるわけです。
 美濃部都政が行ったことで、猪間に関係するものには、特別区長の公選制の復活があります(1947年の地方自治法施行により、都の区は新たに特別区となり、原則として市に関する規定が適用され、区長も公選によるものとされます。しかし、1952年の地方自治法改正では、猪間たちの参議院地方行政委員会公聴会における提言により、区長は公選制から都知事の同意を得て区議会が選任する議会選任制に改められます。それが、美濃部都政下、1974年に地方自治法が改正され、1975年、区長は再び公選制となるのです。⇒「旧東京市の一体性」(2009.07.19)参照)。
 大内・藤田コンビの及ぼした知られざる影響としては、東京市政調査会の研究機関としての質の問題があると思います。戦前の弓家・猪間体制下では、ロイヤル・コミッションにも比肩するようなすばらしい研究レポートを発表していた東京市政調査会のレベルが、戦後になって、いわば大原社会問題研究所のレベルまで落ちたことは、このコンビの動静と無関係ではないと思います。
 なお、ここで一言しておきたいのは、大内兵衛グループのメンバーである鈴木武雄が、このような犯罪に意識的に手を染めなかったのではないかということです。鈴木は、大陸前進兵站基地構想を立ち上げるとき、湛山や『大陸東洋経済』の世話になっていますし、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』朝鮮篇には2編の署名論文を残しています。さらに、鈴木武雄『経済学の五十年』等を読んでも、湛山(あるいは後藤新平、高橋亀吉)をほめるものはあっても、大内をほめるものは見当たらないのです。
 私が気になっているのは、東大に残った有沢の、当時の門下生たちのことです。中村隆英さんなんか、自分の師が何をやっていたのか、ほんとうにご存じなかったのか。一抹の疑念を禁じえないのにはこのような事情があります。
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2015年06月29日

大内兵衛グループの犯罪史

 増田弘さんの石橋湛山の公職追放関連の本を何冊か読んで、この追放に共産党が関わっていること、また有沢広巳の言動が、大きな役割を果たしていた可能性があることを知りました。これに私が調べていたことを重ねあわせると、ある企みがあぶりだされてきます。
 ただ、増田さんの書かれたものは、湛山と吉田首相あるいは共産党との間に何が起こっていたかという観点からのものですが、私の関心は、湛山と大内兵衛グループとの関係にありますので、そこを中心に見ていきたいと思います。
 そもそも吉田の有沢引き出し工作は、内閣成立直後の5月に石黒武重を介して、また経済安定本部の設置が本決まりとなった6月から7月には、和田博雄を介して行われた。しかし有沢は大内兵衛の意見に基づき、安本の総務長官を二度にわたり固辞した。(……)それでも吉田は学者を追い求めた。その結果、和田農相の仲介により、有沢のほか、中山伊知郎、東畑精一(……)などが参加した円卓会議、いわゆる昼食会がつくられ、毎週一回外務省官邸で吉田を囲んで諸問題を論議することになった。(……)有沢らはこの私設委員会を通じて吉田のブレーン的役割を果たすことになった。とくに石炭増産問題では有沢委員会は吉田の信頼を確実なものにした。すなわち、有沢を委員長とする私設の石炭特別小委員会(……)は、12月12日に「石炭対策中間報告」をまとめ、その中で石炭最優先の「傾斜生産方式」を提起したのである。(『公職追放 三大政治パージの研究』)
 吉田は有沢を安本長官として入閣させることを諦めなかった。以下は有沢の弁である。
 中山伊知郎君や東畑精一君がだいぶ麻生太賀吉さんや白洲次郎さんなんかとしめし合わせて、僕をどうしても安本本部の長官にまつりこもうと動きはじめました。22年2月の半ばごろだと思いますが、中山君が僕のところへきて、君の入閣を全部総理は了承した。だから安本本部長官になれというのです。それで中山君と二人で大内兵衛先生を訪ねて、その晩、徹夜で話しあった。……翌日、早朝に中山君とつれだって白金の外務省の官邸に吉田総理を訪ねた。……三人きりで話をしました。僕がかねてからもち出していた三つの条件のうち二つまでは、承知しました。その通りにしますといってくれました。しかしあと一つの問題点、これは人事の問題だから話せないんだけれども、これについては3月末まで待ってくれという。僕はある閣僚の更迭を条件としてもち出していたのです。(同上)
 増田さんは、有沢が提起した「ある閣僚の更迭」とは、湛山を意味したことは間違いないといわれています。
 吉田は、湛山の力と人気を恐れており、辞任を望んでいたようです。ただ公職追放については、湛山自身、「あとから考えても僕の追放を吉田や白州がやったというような説は信じない。ただあまり熱心に食いとめ運動をやってくれなかったことはあったかもしれない。やってもダメだと初めからあきらめたのかもしれない」といっていることからも、吉田らが意図的にやったと考えるのには無理がありそうです。
 私が注目したのはむしろ、吉田が、湛山の公職追放に関して、助かる可能性があったのにもかかわらず、GHQと直接折衝した様子がなかった点です。
 なぜ動かなかったのか。増田さんは、「@動いても無駄だと思ったためか、A吉田の物臭さの性格によるものか、B石橋が追放となっても構わないと考えたためであるのか」という3つの仮説の中で、Bの可能性が強いといわれます。
 これはやはり、増田さんが指摘されるように、有沢の意向を汲んでのことだったのでしょう。
 大内グループは、戦前から、自由主義者を最強の敵と考え、その排除を最大の課題と考えていたのですね。その実動部隊を一身に担っていた有沢は、猪間を東大から追放しただけでは足りず、湛山を政権の座から引き摺り下ろそうとしたわけです。そして前面には出ませんが裏で指示を出していたのが大内だったのです。
 考えてみると、『東京大学経済学部五十年史』というのは、「大内兵衛グループ犯罪50年史」というべき歴史だったのですね。2019年の『東京大学経済学部百年史』ではどうなるのでしょうか。

戦前:
◆1924年12月、有沢広巳、講師の猪間驥一を東大より追放する。
◆1925年12月、1924年度『東京帝国大学要覧』編纂における改竄(講師であった猪間の名前と肩書きが消されている)。
戦後:
◆1946年5月、第一次吉田内閣成立、石橋湛山、大蔵大臣に就任する。
◆1946年9月、大蔵省内に極秘に在外財産調査会が設置される。
◆1947年2月、有沢、吉田の安本本部長官就任依頼に対して、大内兵衛に相談の上、安本本部長官就任の条件として湛山の更迭を要求する。
◆1947年5月、吉田内閣総辞職、湛山の公職追放。
◆1947年6月、大蔵省の愛知揆一より、大内に、『昭和財政史』の企画が持ち込まれる。
◆1947年6月、在外財産調査会の編集会議が開かれ、日本の在外財産形成の過程を日本資本主義の発達史から説明する猪間の案が採用される。
◆1947年12月、猪間ら、在外財産調査会の報告書『日本人の海外活動に関する歴史的調査』脱稿。総論に、日本人の海外活動はいわるるような帝国主義的発展の過程ではないという主張が盛り込まれる。
◆1950年7月、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の印刷製本が完成
◆1951年6月、湛山の公職追放解除
◆1954年12月、第1次鳩山内閣が成立し、湛山が通商産業大臣に就任する。第2次鳩山内閣、第3次鳩山内閣でも引き続き通産大臣を務める。(←追加)
◆1955年、大内グループ、東京都政調査会を設立(ここに東京市政調査会の名前を利用)。
◆1956年、石橋湛山内閣が成立し、湛山は総理大臣に就任する。しかし翌1957年1月、湛山は病に倒れ、2月、石橋内閣は総辞職する。(←追加)
◆1965年、大内、『昭和財政史』刊行、昭和財政史を失敗の歴史と規定し、その責任が高橋財政にあるとした。この歴史観は、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』とは対立するもので、高橋に政策提言を行った湛山らへの巧妙な責任転嫁であった。
◆1967年、東京都政調査会を母体に、美濃部都知事誕生へ。
◆1976年、大内グループの『東京大学経済学部五十年史』編纂における改竄(猪間が講師であった事実、その猪間を追放しようとした事実を抹消)。

【追記】湛山に関する重要な情報が抜けていました。申しわけありません。
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2015年06月06日

森戸事件と猪間驥一の意志2

森戸事件:
1919年 12月東京大学経済学部の学術機関誌『経済学研究』創刊号に,経済学部助教授森戸辰男が発表した論文『クロポトキンの社会思想の研究』をめぐる筆禍事件。学内右翼団体興国同志会の上杉慎吉教授らの働きかけにより,20年1月森戸は発行人の大内兵衛助教授とともに新聞紙法違反,朝憲紊乱条項の適用により起訴され,教授会により休職を命じられた。(コトバンク「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」)
 この説明が、私にとっても、前述(2015.4.24)の三つの新聞記事を読むまでの森戸事件への理解のほぼすべてだったのですが、実は記事を読んで、「おや?」と思うことがいくつかあって、調べていたら真相がわかってきたので書いておきます。

1. 大内兵衛への大きな誤解
 大内兵衛は、森戸をかばったために休職を命じられ、教授会に反発して洋行したのかと思っていたら、新聞記事では、辞表(進退伺い)を提出しただけなのですね。
 Wikipediaでは、この点についてもっとちゃんとした説明をしていました。
10月2日、大審院は上告を棄却して有罪が確定。「社会理想としての無政府主義」と「実行方針としての無政府主義」は峻別すべきと主張した森戸は結果的に禁錮刑だったのに対して大内は「森戸論文は不穏当と思った」「自分は国家主義の方面からの社会改良論者である事を明かにして置く」と釈明して罰金刑のみとなった。両名は失職し、同じ頃ILO日本代表派遣問題をめぐって東大を辞職した師の高野岩三郎とともに大原社会問題研究所に参加、同所の中核メンバーとなった。(Wikipedia)

2. 渡辺鉄蔵への小さな誤解(一部修正)
同じ経済学部の教授である渡辺銕蔵などは、森戸の論文は論理も学術的価値もない、と批判した。(Wikipedia)
 『反戦反共の四十年』の中で、渡辺は自らこのようにいっていますが、これは1919年、論文掲載直後のコメントですね。
 森戸事件の新聞記事では、森戸の論文への言及はなく、法学部の学生大会で経済学部教授会および山川総長の態度を批判したことに対して、学生が出すぎたまねをするなといっているのであり、教授会を擁護し、森戸というより猪間ら学生たちを批判していたことがわかります。
 この前年、渡辺は、吉野作造、福田徳三とともに黎明会を結成しているのですが、吉野が森戸の弁護士を雇うのに奔走したのに対して、渡辺は教授会を擁護する側についたというのは、個人的には興味深い事実です。

3.「学問の独立」を主張したのは?
 教授会は文部省の命令に従い、大内兵衛もそれに対して何をしたわけでもなく、けっきょく森戸事件を森戸事件たらしめているのは、「学問の独立」を掲げた猪間たちの行動あってこそということになるのですね。

4.森戸事件の余波(社会政策学会の分裂)
 Wikipediaでは、森戸事件の後で、森戸、大内、高野が社会政策学会に加わったというニュアンスになっていますが、おそらくこれは間違いで、彼らはすでに有力会員で、高野ら旧幹事が、大内ら新幹事に改選された直後に森戸事件が起こっているようです。
 社会政策学会の内紛については、とてもまとめきれませんので、詳細は、神戸大学付属図書館新聞記事文庫の以下の記事を読んでいただければ幸いです(個人的には、この内紛への憤りで糸井靖之が脱会したことを知ってなるほどと思いました)。
◆東京日日新聞1920.6.18「二つの流れに争う思想界の権威者 社会政策学会分裂せんか 森戸事件に其の源を発して 資本主義と社会主義の衝突 興味ある今後の態度」
◆読売新聞1920.12.21「社会政策学会仲間割れ新旧人の大衝突 社会主義者の入会を拒絶し乍ら河上博士を筆頭に数名が入会」
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2015年05月27日

経済図表の見方画き方・・・3

 4つの記事とともに、『経済図表の見方画き方使ひ方』の広告にも面白い発見がありました。見たのは1926年のものだけですが・・・。
◎3月27日号/4月10日号・・・A:対数方眼紙の「形見本」
◎4月17日号/4月24日号/5月1日号/5月15日号・・・B:「5月中旬発行」と記入されたもの(本文は前回記事「経済図表の見方画き方使ひ方」中のものに同じ。◆×5)
◎5月22日号・・・C:「最新刊」と記入されたもの(本文は前回記事「経済図表の見方画き方使ひ方」中のものに同じ。◆×5)
◎6月19日号/6月26日号/7月24日号・・・D:「最新刊」+以下の「著者曰く・・・」が入ったもの(本文は前回記事「経済図表の見方画き方使ひ方」中の終わりの二つ。◆×2)
著者曰く、最近統計図表の応用が非常に盛になって来ました。難解な統計数字を簡単に了解せしめる此の方法の便利は云うを俟ちません。単り統計のみならず、系統、組織、記録、計画、計算等にも図表法の応用は広うございます。
既に若槻首相も去る6月1日付で、法律や手続の難解な点は適宜図解及び図表を用うべきであると云う訓令を諸官庁に向け発して居られます。米国のハスケル氏は図表法を簿記法と同じく事務家の必修科目とすべしと云っています。本書は著者が、此の将来必要なるべき問題を、主として実用的見地から、半ばは学問的統一の要求から論じた労作であります。この書を通じて同じ問題を考え同じ方法を用いる友を得る事が出来るならば、著者の幸福之に過ぎたるはありませぬ。・・・・・・
 これも湛山が書いたのではないかと思うのですが、興味深いのは、猪間の肩書きが「前東京帝国大学経済学部講師・現東京市政調査会副参事」となっていることです。これはわかる方にはわかるのですが、大内兵衛グループは猪間が講師にまでなっていた事実を消そうとするのですね(有沢広巳は、猪間が大病をして辞めたというようなストーリーを作った)。
 1927年以降の広告で、例のキャッチコピーが入りますが、ここでは再び、「前東京帝国大学経済学部講師」の肩書きが消えます。
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経済図表の見方画き方・・・2

 ということで、1926年の『東洋経済新報』を調べてみたら、猪間がいくつかの記事を書いていることがわかりました。
◆1926年3月27日号「東洋経済半対数方眼紙発売に際して」
◆1926年11月27日号「半対数方眼紙と数列の微少変動記入に就いて(一)」
◆1926年12月4日号「半対数方眼紙と数列の微少変動記入に就いて(二)」
◆1926年12月11日号「半対数方眼紙と数列の微少変動記入に就いて(三)」
 最初の記事は、タイトル通りの内容ですが、面白いのは、猪間自身が誌上連載でもっとも力を入れたのは対数図表に関するものだったのに、すぐに一般にこれが利用されるようになるとは思いもよらず、まず3,4年先のことと思っていたこと。ところが記事掲載の後、まもなく、対数方眼紙を使いたいという大口小口の注文が、続々と東洋経済新報社に届いて面食らったということです。「時世の進歩と云うものは学問をする者が机上で理屈を捏ね回す程愚図愚図しているものではない事を、つくづく感じた」とも書いていますが、これは猪間が東大を追われて間もない時期であるだけに、彼の気概というようなものを感じさせます。追われるとき、やっとの思いで原版を持ち出し、それがすぐに自分を迎えに来てくれた湛山の役に立ったのですから、うれしさもひとしおだったと思います。
 いずれにしても湛山の企画が大当たりしたということですね。
 その後も対数方眼紙の注文が山のように届き、売れ行きのよさを見ると、支障なく使いこなしている人が多いように思われる一方で、「あの版では統計数列を曲線で表わそうとしても、微細な変化が十分明瞭に表われず、まるで一本の直線に終って、なんらの判断の下し様も無くて困る、斯う云う場合にはどうしたらよかろうか」と質問する人も多かったようです。
 そこで、11月から12月にかけての記事は、「微少変動を明瞭に半対数曲線として見たい方に」補足説明を試みたもので、三つの方法が順次述べられています。
 それでもわからない人には、東京市政調査会まで手紙、電話、または来訪くださいとまで書いてあって、ほんとうに律儀な人ですね。
 私が前回、連載中の「図表と其の応用」の記事と勘違いしたのは、終わりの二つの記事だったということになります。
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2015年05月26日

「物価の地位高く」の由来

 やはり1920年代終わりの『東洋経済新報』を見ていて、1927年1月1日号に掲載された石橋湛山の論説「物価下落を希望する謬想」と添付されたグラフのタイトル「見よ、我物価の国際的位地!」が目に留まりました(念のため、1月15日号にはこの続編が掲載されています)。
 猪間驥一が書いた『日本人の海外活動に関する歴史的調査』総論に、「日本は1917年には、米国に追随して金の輸出を禁止したが、その後米国の金解禁に際しては、これにならわず金本位制を離脱したまま経過した。このため金準備が比較的豊富な結果、通貨は収縮せず、物価の地位高く、為替の低落、貿易の逆調は容易に訂正されなかった」というくだりがあり、その「通貨は収縮せず、物価の地位高く」というフレーズがわかりやすくて好きだというようなことを私はどこかに書いていると思いますが、それが、この「見よ、我物価の国際的位地!」から来ているものであるということに、私は確信をもってしまいました。
 この報告書は日本が武力的な大陸政策へ向かいそうになったとき何度も小日本主義へ引き戻してきた湛山へのオマージュという側面をもつというのが私の考え方で、湛山の主張をわかりやすく伝えようとして猪間が工夫したことばだと思っていたのですが、もっと直接的に湛山の表現をいただいたということですね。
 もう一つ。
 1927年6月25日号の『東洋経済新報』に、「安価にして健全なる牛乳の供給方法」というおそらく湛山が書いた記事があって、これが同じ1927年7月号『都市問題』に猪間が書いた「東京市の牛乳問題」と同じ趣旨のものだったことが私には興味深くて、ここに付け加えておきます。
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経済図表の見方画き方使ひ方

 1920年代終わりの『東洋経済新報』を見ていたら、猪間驥一の『経済図表の見方画き方使ひ方』の広告が見つかりました。1927年頃のものだと思いますが、石橋湛山が書いたのではないかと思われるコピーが面白いので、書き写しておきます。
東京市政調査会副参事・経済学士 猪間驥一著
『経済図表の見方画き方使ひ方』
統計図表の作成だけで一の職業が成立し
図表を簿記と同じく事務家の必修科目とすべき時代が来た!
◆会社や官庁で統計数字を矢鱈に列べられたり、組織傾倒をゴタゴタ述べられるのは、話を聴く時でも、なかなかわからないし、寔(まこと)に以て厄介千万なものである。
◆その困難に打ち克つものとして、最近、図表の応用が盛んになって来たのは、実に当然の事と云わねばならぬ。これならば厄介な統計など一目見て直ちに理解が出来る。
◆ところが、其の図表を書くには定まった方式がある。ただ滅茶苦茶に書いたのでは、判断を迷わす基である。否、恐るべき事には、人の判断を迷わさんが為めに書かれた図表が、時々出て来るのである。これを看破する為めにも図表に関する正しい知識が必要である。
◆本書は此等図表中、事業の経営、事務の管理、経済現象の研究等に関係あるものに就て、斯界の権威者たる著者が通俗的に簡潔平明な筆を以て説明したもの。曾て東洋経済新報誌上に連載して読者より多大の歓迎を博した「図表と其の応用」と題した講話に、修正増補を施して一冊に纏めた書である。
◆類書も他になき折柄、敢て事務家及び研究家諸子に一読をお勧めする。
 いまふと気づいたのですが、湛山が農業問題について書いたものを調べていて、1926年12月にも3編の論説があったので、それを見ていたのですが、そこに図表とともに猪間の書いた記事が載っていたのですね。私は「図表と其の応用」の最後のものだと思ったので読まなかったのですが、この連載が終ったのは、1925年の12月でした。となると、猪間は何か別のものを書いていたのですね。近いうちに確認したいと思います。
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2015年05月07日

町田忠治と志立鉄次郎

以前、「志立鉄次郎と東洋経済新報社」(2014年8月27日)という記事を書いて、その追加情報ということになるので、「志立鉄次郎と東洋経済新報社2」としたほうがわかりやすいかと思いますが、今回のテーマは、町田忠治と志立鉄次郎の接点に関するもので、ここには石橋湛山が登場しないので、このように変えました。
・町田は1887年、帝国大学法科選科卒業、志立は1889年、帝国大学法科大学卒業なので、在学中にお互いを知っていた可能性はゼロとはいえません。
・また、町田は1893年5月から約1年間イギリスに外遊とあり、志立は1889年、日本銀行に入り、ついで3ヵ年欧米に留学とあるので、その時期によっては、接触できた可能性もなかったとはいえません。
・しかし、「志立鉄次郎と東洋経済新報社」における両者の会話を見る限り、そこまでは出会っていなかったと考えるほうが自然な気がします。ただし、その後においては、会話の中にはなかった強いきずなが生れていたことが判明しました。
・1895年11月、町田は『東洋経済新報』を創刊。このとき、志立は日銀にいて、首脳部と対立して金本位制に反対の意見を述べていたわけですが、この前後に、町田が日銀に志立をときどき訪れ意見交換していたことから、志立が『東洋経済新報』のシンパサイザー&寄稿家となったのでしょう(このあたりのことまでは、前の記事の会話中にありますね)。
・1896年12月、町田は『東洋経済新報』を友人の天野為之に譲り、これと前後して日本銀行に調査役として入り、1898年1月、日銀総裁、岩崎弥之助の特命を帯びて大阪支店監査役となって体質改善に乗り出すわけですね(ここで両者とも日銀の人になるわけです)。
・ところが1899年3月、両者は日銀騒動(日銀幹部ストライキ事件)に連座して辞職しているので、つまり同志として闘ったということになりますね(志立はこのとき門司支店長)。このあたりのことは、若気の至りと思っているのか、二人ともあまりいいたくなかったのでしょうか。
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2015年05月02日

猪間驥一の写真を見たい方へ

 近代デジタルライブラリーで、『日本統計学会年報』を検索すると、日本統計学会の設立総会から第4回総会までの記念写真を見ることができます。猪間驥一(いのまきいち)の活躍ぶりも垣間見ることができます。他に、当時どのような人々がこれに参加し、どのようなことが議論されているかもわかって専門家の方には興味深いのではないかと思います。
 猪間を東大から追い出したあの人物も毎回いっしょに写っているのが気になるところですが、この方は、名前を連ねているだけで、一度たりとも報告者になったことはなく、討論者になったこともありません。
◆日本統計学会創立総会(1931年4月、於:京都帝国大学):会員117名/出席者36名
⇒『日本統計学会年報』第1年(1932年)
◆日本統計学会第2回総会(1932年4月、於:一橋学士会館/東京帝国大学):会員125名/出席者33名
⇒『日本統計学会年報』第2年(1933年)
・猪間(研究報告)「価格の年次的統計と物価水準の推移を簡単に示すべき通俗的図表法に就て」
・猪間「統計学学用外国語訳語調査委員報告」
・宗藤圭三「物価指数における構成的抽象性と相対的歴史性との吟味」の討論に参加。
◆日本統計学会第3回総会(1933年5月、於:日本生命保険会社本社/大阪毎日新聞社大講堂):会員138名/出席者36名
⇒『日本統計学会年報』第3年(1934年)
・猪間(研究報告)「物価の下落と労働者の家計――大阪市に於ける事実の考察――」
・猪間「統計学用語統一調査委員報告」
◆日本統計学会第4回総会(1934年4月、於:如水会館/一橋講堂):会員143名/出席者47名
⇒『日本統計学会年報』第4年(1935年)
・上田貞次郎の放送講演「統計より見たる我が国の国民経済」(原稿が収録されている)に森田優三とともに付添う。
・柴田銀次郎「我国に於ける綿糸布の需給状態」の討論に参加。
・山口正「物価と失業」の討論に参加。
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2015年04月24日

森戸事件と猪間驥一の意思

 1919年9月、猪間驥一(いのまきいち)は東京帝国大学に新設された経済学部の第一回生として入学しますが、翌1920年の初頭、森戸事件に遭遇します。
 まさか彼がこの事件に深く関わっていたとは思わなかったのですが、ネットで読める神戸大学附属図書館新聞記事文庫を調べていたとき、もののはずみで「猪間」を検索したところ、次の3つの記事がヒットしました。
東京日日新聞 1920.1.16
学生大会の宣言=学問の独立
森戸助教授問題進む
一昨日東大経済部学生大会総長と教授に反省を促す決議
時事新報 1920.1.18
森戸助教授の言論は朝憲紊乱と認め予審を経ずして直ちに東京地方裁判所公判部に廻さる
大正日日新聞 1920.1.21
京大側と呼応して新人会の運動
森戸氏事件と学生大会
経済学部の決議案は握潰か
 直接読んでいただくのがいいのですが、要するに、経済学部学生団体の経友会が、学生大会を開き、「吾人は学問の独立を期す」という宣言、「経済学部教授会及び総長の反省を促す」という決議を発表するのですが、その500余名の学生の代表10名中の一人が猪間だったということです。
 意見の異なる人物を排除しないという態度は、自由主義者、河合栄治郎が身をもって示したことであると(そしてそれが大森義太郎によって裏切られた経緯を)、猪間は書いていますが、もっと早くに自分自身が身をもって示し、その何年か後には、大内兵衛グループの有沢広巳の企みによって東大を追われることになるのですね(大内・有沢・大森はマルクス主義者)。
 念のため、有沢と大森は同じ経済学部の学生でありながら、ここに名前はありません。
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