2015年09月16日

有沢広巳と森戸事件の空白

 有沢広巳「わが思い出の記:森戸事件のあとさき(二)」(『エコノミスト』1956年4月号)を読み直して、改めて気づいたことがありました。
【教授会の責任を問う】
 森戸事件のさなかに、ちょうど大正9年1月半ばころでしたが、当時東大の中に「興国同志会」というのがありました。これはどちらかというと、右翼的な学生のつくった団体ですね。それが“森戸事件”に関する報告会という会を突然催したのです。そこで明らかにされたことは(……)驚いたことに森戸事件を摘発したというか、その論文を国体に反すると告発したのは興国同志会だということだったんです。
 泣いた興国同志会
 この興国同志会というのは、当時上杉慎吉先生の息のかかった団体といわれていた。(……)森戸先生のような論文は、国体を晦渋ならしめるかたいけないということで、それが検察当局に伝えられ、そして検察当局の発動ということになった。(……)そこでこの報告会が終った途端に、一人の学生が壇上にかけ上りましてね、「(……)われわれはこの興国同志会の責任を問うため、ここにただちに、この報告会を学生大会に切り替える」という動議を出したんです。
 するとこれが圧倒的な支持を受けて、(……)興国同志会の連中のやったことを痛烈に非難した。とうとう興国同志会の一人の学生は泣きながら壇上に立って「自分のやったことは間違っていた、この罪亡ぼしに自分は坊主になる」と、いったものです。(……)
 興奮した学生大会
 こうして興国同志会の方はひとまず済んだですが、(……)学生大会はこの経済学部教授会の態度をどう考えるかということを引続いて議題として取り上げることになった。
 まだ学生であった蝋山政道さんや、当時法学部の助手であった鈴木義男さんらが立って、鋭く経済学部教授会の軟弱な態度を非難しました。(……)経済学部の学生も、いくたりも壇上から教授会の不当な決定を攻撃しましたっけ。
 結局落着いたのが「経済学部教授会の責任を問う」という議決案になってこれを学生大会で採決しようということになったのです。(……)
 (……)
 そこでいよいよ採決に入る段になると、学生の中にも慎重なものが出てきて、学生が教授会の責任を問うというのは、少しひど過ぎやせんか、という議論も出て来た。そして夜になっても決らない。とうとうこんどは正式に学生大会を一ぺん開くということで散会になったんです。
 一喝した山川学長
 (……)
 そこで翌日やったわけですが、前日の興奮はもはやおさまっているから、教授会の責任を問うというかわりに、反省を促すということになったんです。そしてその決議文を教授会に提出したんです。むろん、なんの反省もありませんでした。
 (……)
 森戸事件はそういうふうな結末になったけれども、われわれ学生には非常に深刻な影響を与えたということはいえますね。
 興国同志会の報告会というのは、渡辺鉄蔵が乗り込んだものですね(渡辺には触れられていませんが)。1月15日のことでした。
 次の「学生大会」、これが驚くべきことに、16日に開かれた経済学部の学生大会ではなく、17日に開かれた法学部の学生大会を指しているのですね。法学部の学生大会には、有沢も書いているように経済学部の学生も参加してはいましたが、有沢自身は、経済学部の学生だったわけですからね。
 森戸も、大内も、有沢も、消したいものは何でも消してしまうんですね。
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2015年09月10日

“10日間限り”の森戸事件

 森戸事件に関する新聞記事ですが、猪間驥一にスポットライトを当てて、時系列に並べると、実に興味深い事実が浮かび上がってきました。今書いている論文に収録するためにまとめてみましたので、ご覧いただければと思います(今回の内容は、前回、前々回の記事に重複するものであることはあらかじめご了承ください)。

 この時期の一般紙には、猪間の名前が散見される。実は、森戸事件において、彼は大きな役割を果たしていたのである。
 事件は、1月1日、森戸のクロポトキン論文を掲載した東大経済学部の機関誌『経済学研究』創刊号が店頭に並んだことから始まる。上杉慎吉教授の影響下にあった東大右派学生の団体、興国同志会は、これを無政府共産主義を宣伝するものとして、南文部次官や山川総長に陳情して、森戸の排斥運動を行った。
 1月10日付で、森戸が休職を命じられる。休職決定前の教授会では、「学問の自由」のために極力反対を唱えた森荘三郎、渡辺鉄蔵ら若手教授もいた。
 1月14日、森戸と編輯人の大内兵衛助教授が東京地方裁判所検事局から起訴される。翌日、大内は辞表を提出する。
 1月15日、渡辺は、森とともに、皇国同志会の「森戸問題報告会」の会場に乗り込んで、「同志会の諸君は何故に経済学部教授に諮らずして自ら大学の自由を失うの処置に出でたか、諸君は教授会議を侮辱している、学生として相当の処分があるべき」と訴える。
 1月16日、経済学部の学生団体、経友会が学生大会を開き、猪間・東ら学生委員が提出した「吾人は学問の独立を期す」という宣言と、「経済学部教授会および総長の反省を促す」という決議案が満場一致で可決される。これを教授会に提出するため、猪間・東を含む実行委員10名が選出される。
 1月17日、法学部でも学生大会が開かれるが、左派学生団体、新人会から提出された、「吾人は経済学部教授会の責任を問う」という問責を含む決議案に異論が出て紛糾する。採決の結果、原案支持が多数に及ぶが、僅差であったため異議が起り、19日に協議を続行することになった。
 1月19日、法学部の第2回学生大会が開かれ、原案「吾人は経済学部教授会の責任を問う」と修正案「教授会の反省を促す」とをめぐって争われたが、採決の結果、一転して修正派が勝利する。「ここに経済学部と同一態度になった訳である。」敗れた新人会系の急進論者は、散会後、対策の協議に入る。渡辺は、こうした動きを警戒して、「学生の容喙を許さぬ」と論難する。
 同日、猪間ら経友会の実行委員10名は、決議案を山川総長、金井部長に提出したが、何らの回答がえられなかった。多くの学生はこれを握りつぶしと見ており、委員内の硬派学生は第2回学生大会に向けて会合を開いた。これを見て、法学部新人会の学生は、京大の新人会と呼応してあくまでも初志を貫徹しようとする。
 1月23日、新聞に、文部省が、世論の紛糾を気づかい、大内の辞表は握りつぶして、目下、形勢を見守っているという、すっぱ抜き記事が掲載される。気づかっているのは、「帝大経済学部法学部の学生及一部教授連を中心とし学問の独立を叫んで総長以下の反省を促すの外、実行委員を挙げて或種の運動に着手し(ている)」、つまり猪間たちの動きであった。
 1月24日、経済学部委員10名と法学部委員15名は協議会を開き、森戸問題に関する運動をひとまず打ち切りとすることを決めた。また学生間で主張されていた上杉教授排斥問題についてはこれを現在の委員の権限外のものとして散会した。文部省による大内の辞表の握りつぶしを、一定程度の運動の成果と見なしたためと推察される。
 教授会による、森戸の休職決定を受けて、宣言・決議案を準備してから、活動を停止するまで、わずか10日余り。こうした事件を、政争の具として長く引きずるのではなく、必要があれば直ちに動き、必要がなくなれば打ち切りとする。それが、猪間が考えていた運動の形態であった。
 ところが森戸は、経友会の決議はほとんど無視し、法学部の新人会が推していた「教授会の責任を問う」という決議案が、「反省を促す」に変ったことを、東大内の学生運動の「早くも一歩後退の兆し」あるいは、「足踏み状態」と位置づけるのである 。
 森戸事件のもう一人の当事者、大内について、猪間のエッセーには言及がない。実は、書きようがなかったのではないかと推察される。
 大内は、「森戸氏の書いたクロポトキン研究という論文は、自分も不穏当とは思った」、「自分は国家主義の方面からの社会改良論者である事を明かにして置く」と釈明して罰金刑のみとなった。しかも、本人は仕事を失ったことを強調するが、森戸によれば、「公判がはじまって2週間経つか経たぬうちに、事件落着後の森戸・大内の身のふり方に関する動きが出てき(て)」、大内については、「本人の希望もあって、大学復帰が進められていました」とある。別のところには、「できるだけ早い機会に東大に復帰する可能性を残す、という条件のもとで、東大を一応辞職することになりました」とあって 、本気でこの公判に臨もうとしていたのかどうかさえ疑わしくなる。

 猪間は最初から猪間であり、大内は最初から大内であったことを確認して、感慨深いものがあります。
 なお、法学部の新人会には、蝋山政道、平野義太郎がおり、学生大会では強硬派でがんばっていたことを付け加えておきます。

【追記】
 17日の学生大会では、原案136:修正案133。19日の学生大会では、原案49:修正案56。法学部の学生は、大学院生を合わせて1,690名いたのに、何か投票者が少ないですね。しかも19日の投票者は半数以下に減るのですね。他学部の学生や京大新人会からの応援が大勢いたということですね。経済学部の学生大会では、大半の学生が出席していたことを考えると(新聞には500名とあるもの370名余りとあるものがあるが、大学院生を合わせて464名のうちこれだけが参加)、この差は気になります(在籍者数は『東京帝国大学一覧』による)。
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2015年09月07日

森戸事件と大内兵衛の欺瞞2

 ところが、左派の学生団体、新人会が動き始めて様相が変わってきます。
 一たびこの事件が起るや、一般ジャーナリズム、特に新聞は実にやかましくなってきた。また雑誌『我等』は火蓋を切ってこの問題を扱い、森戸君を休職にするという経済学部教授会の決定が間違いであること、また森戸君の論文は、何ら暴力革命を論じているものでないと痛烈に弁護した。けれどもその論調があまりきびしかったので、渡辺鉄蔵、森荘三郎の諸君は、最初はわれわれを支持しようと思っていたらしいが、びっくりして退却した。そんなことで学生運動も分裂した。
 1月17日、経済学部に引きつづき、法学部でも学生大会が開かれ、以下の宣言及び決議案を掲げる。
 宣言:吾人は大学の独立を得、学問の自由を確保し大学本来の使命を完うせん事を期す
 決議案:1.吾人は経済学部教授会の責任を問う、2.吾人は法学部教授会が本大会の態度に賛成せられん事を希望す、3.吾人は興国同志会の行動を不当と認め其反省を促す
 この第2条、第3条については満場一致で決議されたが、第1条議案に対し異論が出たため、採決の結果、原案支持が多数に及んだが、採決に対して異議が起り、19日に協議を続行することになった(大正日日新聞1920.1.18)(大阪朝日新聞1920.1.18)(東京日日新聞1920.1.19)。
 渡辺鉄蔵はこれに対して、「教授会の態度が大学の独立、学問の自由を破壊するとは実にけしからんことをいう。穏便一点張りと見るのも間違っている。われわれは行政官のいうなりになったのではなく、自らの意見に従って断行したのである。我々の決議の正当なることは確信して疑わない。教授会に助教授を出世喫せずに独断的に行ったのは官僚的だ?助教授を出席させるかどうかについて学生たちに口を挟む権利はない」と論難した(国民新聞1920.1.19)。
 一方、同じ黎明会の吉野作造は、「大学内の運動であればどんな運動をしても異存はない。総長なり教授の態度にあきたらぬ点があれば辞職を勧告するも問責するもそれを容認するか否かは各自の自由意志であるからだ」と語っており、新人会側の主張に肩入れしていることがわかる(大正日日新聞1920.1.19)。
 1月19日、法学部の第2回学生大会が開かれ、前会未決の決議案、原案「吾人は経済学部教授会の責任を問う」か、修正案「教授会の反省を促す」か、経済学部教授会に対する態度を決定する、記名投票で採決が行われた。その結果、原案賛成49名、修正案賛成56名で、修正派の勝利、つまり法学部も経済学部と同じ態度を選択したわけである(時事新報1920.1.21)。採決に負けた急進論者は、散会後、会合して対策の協議に入った(大正日日新聞1920.1.20)。
 大内は、『我等』の論調があまりにきびしかったから、渡辺や森が支持を取りやめたと書いていますが、これはもっとはっきり、1月17日に開かれた法学部の学生大会で、教授会を問責するようになった新人会系の動きを憂慮してのものと思われます。
 大内は「学生運動の分裂」といういい方をしていますが、これはもちろん皇国同志会と新人会の分裂ではなく、経友会と新人会の分裂ですね。
 1月19日、猪間ら実行委員10名は、「決議案を山川総長、金井部長に提出したが未だ何等の回答が無い。学生の多数は握り潰しと観測しているが、その場合は当然、第2学生大会を開かなければならぬので、20日、委員内の硬派学生会合があった。この有様を見て法学部新人会の学生は遥に京大の新人会と呼応してあくまでも初志を貫徹せんとししきりに機運の醸成に努めている」(大正日日新聞1920.1.21)。
 なお、1月24日、経済学部委員10名と法学部委員15名は協議会を開き、森戸問題に関する運動をひとまず打ち切りとすることを決めた。また学生間で主張されていた上杉教授排斥問題についてはこれを現在の委員の権限外のものとして散会した(大正日日新聞1920.1.25)。
 こうした猪間たちや渡辺の動きを、森戸が批判するのならともかく、まったく言及していないことも、私には異様に思えてなりません。歴史のもみ消しとでもいうのでしょうか。
 森戸が書いていることを、もう一度確認しておきたいと思います。
 森戸助教授休職問題をきっかけに急速な盛り上りをみせた東大内部の学生運動が、前述の法学部学生大会の経過からもうかがわれるように、早くも一歩後退の兆しを示したのは、運動の自然発生性そのものに伴う弱さということのほかに、教授や大学当局からの陰陽さまざまの工作があったからです。「森戸を守れ」という要求を越えて大学の改革・学問の独立・研究の自由の確保というもう一つ高い次元で運動を組み直すには、経験も展望もあまりに不足していた当時の学生運動は、この時点でいったん足踏み状態とならざるを得ません。
 大内は「学生運動の分裂」といい、森戸は「学生運動の後退」というのです。新人会の敗北とはいわずに。

【お詫びと訂正】
 渡辺鉄蔵の、1月15日興国同志会「森戸問題報告会」における発言については、新聞記事が収録されていました。斜線にて訂正しています。
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森戸事件と大内兵衛の欺瞞1

 前回取り上げた大内兵衛の3冊の本のうち、『私の履歴書』には森戸事件の概要がまとめられており、これを当時の新聞記事と照合すると、大内のごまかしがはっきり見えてきます。
 それでいよいよ森戸君と僕は起訴されたんだ。罪名は出版法による朝憲紊乱。それから問題がやかましくなって、新聞は毎日々々この事件を大々的に報道する。また学内の弾圧反対の学生運動も活発に展開された。向坂逸郎君とか中西寅雄君とかが、経友会の委員で、また政治科の方では『学問の自由・危機を守れ』というスローガンで学内に演説会がもたれた。その演説会には、今日では右翼になっている渡辺鉄蔵君なんかも、森荘三郎君たちと一緒になって学生をアジった。司法省が大学に入ってくるのに屈してはならんというので、非常に学生は熱狂した。しかし、学生の中にはやはり上杉派(七生会)の人も出て、これに対抗した。もちろん新人会の方が活発であり、学生の人気もこの方に集まったが、反対派もまた演説会なんかやって気勢をあげた。
 このあたりの経過を、新聞記事からまとめると次のようになります。
 事件の起こりは。1920年1月1日発行の東大経済学部機関誌『経済学研究』創刊号に、森戸辰男が「クロポトキンの社会思想研究」を発表したのが原因で、この雑誌が東京市内各書店に出まわるや、東大右派学生で組織された興国同志会は、この論文を無政府共産主義を宣伝するものとして、南文部次官や山川総長に陳情して、森戸の排斥運動を続けていた(大阪朝日新聞1920.1.14)。
 1月10日付で、森戸助教授が休職を命じられる。休職決定前の教授会では、山川総長、山崎覚次郎、金井延ら長老派が勢力をもち、「学問の自由」のために極力反対を唱えた森荘三郎、渡辺鉄蔵の少壮派は、少数のため敗れている(大正日日新聞1920.1.14)。
 1月14日、森戸が大内とともに東京地方裁判所検事局から起訴される。大内は、1月15日、辞表を提出する(読売新聞1920.1.15)。
 1月15日、渡辺は、皇国同志会の「森戸問題報告会」の会場に乗り込んで、「同志会の諸君は何故に経済学部教授に諮らずして自ら大学の自由を失うの処置に出でたか、諸君は教授会議を侮辱している、学生として相当の処分があるべき」と訴える。このとき、深く反省した同志会員の一人が、「自ら処決します」と会場を出ていく(東京日日新聞1920.1.17)。
 1月16日、経友会は、経済学部学生大会を開催。猪間・東ら学生委員が提出した「吾人は学問の独立を期す」という宣言を朗読し、決議案「経済学部教授会及び総長の反省を促す」について提案理由を説明し、中には「宣言決議手ぬるし」として「教授会の問責」「宣言の実行」を叫ぶ者もあったが、けっきょく満場一致で通過。実行委員10名(東・佐々木・大山・倉橋・中村・諸井・高橋・猪間・粟屋・井上)を投票にて選定し、17日改めて協議を開き、今後の方針を定めることとした。森戸問題には一切触れず、今後は専ら学問の独立を掲げて邁進する方針である(東京日日新聞1920.1.16)(大正日日新聞1920.1.17)(大阪朝日新聞1920.1.17)(大阪毎日新聞1920.1.17)(中外商業新報1920.1.17)(時事新報1920.1.18)。
 1月16日に開かれた教授会では渡辺鉄蔵、吉野作造両教授はじめ新進の教授たちが山川総長や当局の処置を、テーブルをたたいて憤慨した(大阪朝日新聞1920.1.17)。
 渡辺のことを、これまで私はおさえきれていなかったのですが、教授会の中でも、渡辺や森は、「学問の自由」を訴えていたのですね。
 そして、これは以前にも書いたことですが、1月16日、森戸と大内が起訴されたのを受けて、すばやく準備会をもち、学生大会を開いて、宣言と決議を発表したのが、猪間たち経友会の学生委員だったというわけです。
 経友会は、東京帝大経済学部のすべての学生が参加する団体であるので、右派(皇国同志会)や左派(新人会)の学生もいるわけですが、ここで取り上げる新聞記事に登場する委員や発言があった学生の中に、「向坂逸郎君とか中西寅雄君とか」の名前は見つけることはできません(それにしても有沢・大森はこのときどうしていたのでしょう)。
 新人会の人気も、次回書きますが、上杉派には勝っていたかもしれませんが、経友会の中では負けていたわけです。

【お詫びと訂正】
 1月14日に開かれたという学生大会は、1月16日のものとまったく同じものでした。学生大会が2回開かれたと勘違いしていたのですが、1月14日は、1月16日学生大会の開催告知とあらかじめ宣言・決議案を記した掲示が出されたというだけでした(これを出したのが猪間と東)。句読点がなく読み誤ってしまいました。申し訳ありません。
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2015年09月05日

大内兵衛と糸井靖之の死

 ずっと気になっていた大内兵衛と糸井靖之の関係ですが、次の3冊を読んで、新たにわかったことがありました。
 ◆大内兵衛『旧師旧友』(岩波書店、1948年)
 ◆大内兵衛『私の履歴書』(黄土社書店、1951年)
 ◆大内兵衛『経済学五十年』(東京大学出版会、1960年)
 『旧師旧友』に収録された大内の「彼のこと――糸井君を憶う――」は、『経友』1924年12月24日号に掲載されたもの(おそらく糸井の追悼号だったのでしょう)。おわかりいただけるでしょうか、糸井が12月13日に亡くなった直後に書かれたものです。
 東京帝大経済学部の機関誌『経済学論集』第3巻第3号も、糸井の遺影が掲げられた追悼号ともなっています。発行の日付はなぜか見当たらないのですが、猪間驥一がここに発表した論文にそえられた擱筆の日付が12月18日となっていることから、『経友』と『経済学論集』はほぼ同時に出版されたと考えられます。
 彼のこと――糸井君を憶う――
 とうとう彼も死んだと聞いて、私は胸がせまるのを覚えた。無論一年余も病褥にあり、度々危篤が伝えられたことであるから、私もよくよくあきらめてはいたが『死』と聞いてはさすがに胸がせまるのを覚えざるを得なかった。(……)
 彼はハイデルベルクの病院で病との戦を一年余つづけて遂にその病気に勝つことが出来ず、とうとう死んでしまった。彼の病気はことの外悪性で彼はそのために苦しみぬいたとは、彼を看護する人から来る手紙によく見えたが、この苦しみにもかかわらず、而して青年32才ほんとに雄志をいだいて空しく異郷に逝かざるを得なかった悲運にかかわらず、彼は、自分の薄き運命を冷眼に見て晏如(あんじょ)として死んで行ったことであろう。彼は思い切りのいい男で、もう早くから自己の運命をよく知っていた。そしていろいろの後事を人に託して来たが、それはすべてあっさりとしたものであって、泣言一句をも言わす女々しい言葉一句をも吐かなかった。如何に彼と雖もはげしい肉体の苦しみには歯をくいしばったであろうが、世にも不幸なる運命に対しては彼のみは大胆に率直にそれに直面し得て、平然として大往生をとげたのであろうと私は信じている。
 思い返して見ると、もうかれこれ6年前である。私が役人をやめて大学の研究室に来たとき、(……)どことなくお坊ちゃん育ちのような男がいた。(……)
 その年の暮、吾々の間に一大事件――森戸事件が起った。吾国の思想界の闘争史の中に大きく印されている出来事であった。この事件に際して、始めて私は彼の真骨頂を見たのである。彼は本来この事件には何の関係もなかった。従ってこの際如何ようにもこの問題を回避する余地は彼には残されていたのであり、現に、彼の同僚の賢明な人々はそういう態度をとったのであるが、この事件が拡大して彼をして沈黙を許さざるに至ったとき、彼は如何に力強く見事に自己の態度を決し、その態度を鮮明にしたことであったか。(……)
 私がハイデルベルクでのさばっていたとき、彼はパリのシュミアン先生のところで演習をやっていた。毎週のように手紙をやりとりしても彼は中々にハイデルベルクへ来ようとはいわなかった。それだのに1922年4月私がイタリーの旅から帰って来ると、彼はもうハイデルに来ていて、顔を見るなり彼は『ハイデル見物はもうすんだ、早速本を読もう』と云った。(……)その後彼と一緒にドイツ国内を歩きまわった。(……)
 その年の秋、私は彼とポーランド、チェコ・スロバキヤ、オーストリア、ハンガリーへの一ヶ月間余りの旅をした。(……)
 私がロンドンへ去ってから、彼は4月にパリへ来いと云って来た。パリへ来れば俺がパリを案内してやると云って来た。(……)そこで私もパリへ行った。(……)しばらく同宿してパリを見て歩いた。(……)その内にまた二人でフランスの田舎の旅に出た。(……)この旅も約20日。彼は私一人パリに残して置いて、(……)ハイデルベルクに去った。(……)
 私は(……)ロンドンに帰った。その後暫くしてから、彼から『一寸病気をやったが、もう多分いいだろう』という意の手紙を受けとった。私は多少不安をもったが、そのままにして日本へ帰って来た。帰って見るともう彼が危篤だとの電報が来ていた。(……)私はなぜ今一度ロンドンから彼を見に行ってやらなかったか、今になってそれが残念でたまらない。(……)
 まずおさえておかなければならないのは、大内と糸井の親密さです。
 森戸事件の翌年、大内は、森戸辰男とともにドイツへ飛び立ち、糸井はフランスへ飛び立ちます。『私の履歴書』には、1923年、糸井がハイデルベルクへ移って来てから二人ですごした日々のことが記されていますが、二人は議論に明け暮れ、ドイツをまわり、1ヵ月間のヨーロッパ旅行にも出ているのです。さらに1923年初め、大内がロンドンに渡ってからも、糸井から呼び出しがかかり、フランス旅行を楽しんでいるのです。
 私が問題にしようとしているのは、これだけ親密に過ごした二人の「その後」です。
 『経済学五十年』(1960年)には、大内が糸井とともに過ごした年月が次のように端的に記されています。
 糸井君はその後大正11年フランスに留学し、大正12年ハイデルベルグに留学し、ここでぼくと旧交を温めた。不幸にして彼は大正13年、ここで客死した。(……)大正8年から大正13年までの間、ぼくはこの男と一番親しくし、とくに勉強を一緒にやった。
 大正11年というのは10年の間違いで、大正12年というのは11年の間違いです。これらは単なる思い違いかもしれませんが、「大正8年から大正13年までの間」といういい方には、恣意的なものを感じます。というのは、大内は、1923年(大正12年)の7月末から1年余り、糸井とは、まったくの没交渉だったからです。
 7月末、大内はフランスを去り、アメリカに渡り、9月の関東大震災で、そのまま日本に帰国します。一方の糸井は、この年の11月、最初の危篤が伝えられ、その後も何度か危篤が伝えられながら、1年余りを生き延びて、1924年12月13日、その生涯を閉じるのです。
 この間、大内は東大内での地歩固めに汲々としていて、糸井のお見舞いや、亡くなった後の遺族への挨拶、入院費用の支払い等は、河合栄治郎が一手に引き受けたわけです。
 ベルリンには、向坂逸郎などがいたはずですが、大内は、彼らに声をかけて、糸井を見舞わせることさえしていません。糸井はマルクス主義者でもなく、自分にとってすでに無用の人物と見なしていたのでしょうか。
 苦しんでいたのに、「平然として大往生をとげたのであろう」などといえる神経が私には理解できません。
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2015年09月02日

森田優三と大内兵衛グループ

 森田優三が、水谷一雄、中山伊知郎とともに、1931年に設立された日本統計学会の発起人であり、この計画は、彼ら3人が有沢広巳宅を訪問して、「大いにやりましょう」と盛り上がったところから動き出したことは、前々回、書いています。
 森田は、このとき有沢の知己を得たことから、1940年頃、秋丸機関で経済戦力研究グループに属し、太平洋戦争中、中央物価統制協力会議で、戦時家計調査や闇物価の調査の仕事を手伝い、終戦直後は、1946年の日本統計研究所の設立にかかわり、統計制度改善に関する委員会に参加し、1947年の内閣統計局長就任(大内からの要請による)へとつながっていくものと思われます。
 ただこの中で気になるのが、石橋湛山との関係です。森田は次のように書いています。
 物価統制協力会議の仕事を手伝っていたおかげで、戦時中の闇物価の実情にもいくらか接近することができた。その部内限りの報告書を問うよう経済新報社の石橋湛山社長にみせたら石橋氏がそれを『東洋経済新報』に発表してしまったので、文句を言って石橋氏から詫び証文を取ったこともある。もちろん戦争中のことで後の石橋総理もまだ在野の人、どちらかといえば当事は当局からにらまれている人であった。
 詳細はわかりませんが、森田は湛山にあまりいい印象をもっていなかったようです(ここ以外には湛山の名前は出てきません)。
 その一方で気になるのが、森田の理想とする師弟関係についてのものです。
 高野先生と大内先生
 昭和18年8月27日といえば、太平洋戦争も一転して、南方ではガダルカナル島をすでに撤収し、北方ではアッツ島の守備隊全員玉砕の報が伝えられて、銃後一般の国民もようやく戦局の前途に不安を感じはじめていた頃である。(……)連絡線のうす暗くむし暑い畳敷きの船室の一隅に、大内先生は恩師の高野岩三郎先生に寄り添うようにして座っておられたのである。(……)その年の8月28日から30日まで、日本統計学会の戦時中の最後の年会が、小樽高等商業学校の主催で小樽で開かれたのであって、それに出席される先生たちの北海道旅行であった。(……)何よりも強く印象に残っているのは、(……)狭い船室の中で、初老の孝行息子とも思えるような親身な態度で高野先生にかしずいておられた大内先生の姿である。
 大内先生が恩師の高野先生にどのように徹底した孝養を尽くされたかは周知のことであるが、この師弟関係のこまやかさは、高野・大内一系の確固たる伝統といってよい。(……)戦前の1938年の秋、チェコの首都プラハでの国際統計会議に高野先生が日本代表として出席されたとき、(……)たまたまその頃、まだ若き日の大原総一郎氏が婦人を同伴してヨーロッパを漫遊しておられ、ちょうどプラハで偶然先生と出逢われたのである。先生は先生が総一郎氏の厳父の大原孫三郎翁からうけられた知遇を私に事細かに語られて、総一郎氏との異郷での邂逅をことのほか喜ばれた様子であった。(……)総一郎夫妻を愛児のように優しく見守っておられる高野先生の眼なざしに、私は後年青函連絡船の中でかしずいておられたときの大内先生の眼なざしにみた同じ親愛の情を羨ましく感じとったことであった。
 高野・大内量先生の間に流れていた師弟間の親愛は、大内先生から愛弟子の美濃部前東京都知事に受け継がれている。1949年というとまだ戦後日本の被占領時代である。大内先生は当時政府の統計委員会の会長をしておられたが、占領軍司令部のはからいで、委員会の事務局長だった美濃部君と、統計局長をしていた私とを連れて、スイスのベルンで開かれた国際統計会議に出席された。(……)美濃部君と話し合われるときの先生はいかにも楽しそうであった。そして美濃部君もまた嬉しそうだった。羨しく思ったのはそうしたときの二人の意気が一分のすきもないほど投合して感じられたことである。大内先生が愛弟子の美濃部都知事にどのように大きな期待を寄せておられたかは、知事選挙のときから美濃部都知事の在任中を通じての先生の支援振りによってもよく知られているとおりであるが、美濃部君もまたそれに敗けないくらい恩師大内先生に対して献身的であった。
 大内グループって、こんな感じだったんですね。
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2015年08月31日

猪間驥一と日本統計学会2

 猪間驥一は、日本統計学会における最後の仕事、そして1942年、満州に新京商工会議所へ常務理事として赴任する前の日本での最後の仕事として、次のことを行っています。
 学会の事業として最後にもう一つ、官立統計図書館設立の政府建議の件を書き落としてはならない。日本の戦時色は昭和10年代から次第に濃厚になり、それと同時に統計資料の公表も国家機密という理由で制限されるようになった。たとえば昭和15年の国政調査結果は簡単な概要数字の一部分を除いては一般に公表されなかったし、唯一の官庁統計集である『帝国統計年鑑』も昭和15年度は印刷はされたが「極秘」と銘打って一般には頒布されず、16年以降は編集すら中止されてしまった。(……)
 高野岩三郎先生はこのことを心配されたのである。戦時下一般の公表をひかえるのは防諜上やむを得ないかも知れない。しかし国家的見地から必要な場合には、有資格者には利用させねばならない。一歩譲って部外者には公開できないとしても後日のために保存の方法を講じることは最小限度必要である。これが高野先生の御意見であった。そして昭和16年4月(太平洋戦争の開戦前である)慶応大学での第11回総会の席で、官立統計図書館設立の建議を熱心に提議されたのである。総会はこの提案を満場一致で採択し、直ちに左記のとおり実行委員を指名した。
 高野岩三郎 藤本孝太郎 汐見三郎 猪間驥一 森田優三
 委員会は同年4月から6月に至る間5回に亘って会合を重ね、決議文の起草を終って6月17日、森田を除く4名の委員は打ち揃って総理官邸、法制局、企画院を歴訪し、内閣総理大臣、内閣書記官長、法制局長官、企画院総裁宛に建議文を提出し、るる陳情した。この建議文は高野先生(実際には大内兵衛先生)が起草され、委員の合意によって若干の加筆を行ったものである。統計の資料センターあるいはデータバンクの構想は現在もまったく別の発想から存在していることは周知のとおりである。発想はまったく別であるが、時代の環境と相対的に考えるとその意図に相通じるものがある。高野先生の統計学者としての学問的情熱と時代にさきがけた炯眼に改めて敬意を表したい。この建議が戦争の遂行に狂奔していた軍国政府の一顧もするとこころとならなかったことはやむを得ない。
 何と猪間は、官立統計図書館設立の建議の実行委員の一人だったのですね。 
 実は、『猪間驥一評伝』の猪間の6人の師の内の高野岩三郎のところに次のように書いたのですが、それが、このことだったんですね(自分で腑に落ちるというのもヘンですが)。
 ところで、高野は第二次世界大戦の直前、「政治上、学術研究上、常にアップ・ツー・デートな参考資料を提供する」ことを旨とした、一大統計図書館の設立を建議している。この建議書を作るために、謄写版を刷ったり、袋とじをしたり、挙句の果ては、総理官邸まで高野のお供をしたのが猪間だった。間もなく戦争となって、この計画はうやむやになってしまうが、戦後になって、国立国会図書館の創設、あるいは内閣統計局図書室の付設として、日の目を見ている。
 高野もそうですが、猪間も図書館の大切さがよくわかっている人で、東京市政調査会の資料室の整備を手がけた体験から、1928年4月、『経済研究』第5巻第2号に「経済研究室の設備と作業に就て」を発表しているくらいです。
 こうしたことも猪間の業績に加えなければなりませんね。

 実は、森田の大内・有沢評、石橋湛山評で気になっているところもあるのですが、またの機会に書くことにします。
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猪間驥一と日本統計学会1

 「社会統計学・論文ARCHIVES(人生という森の探索)」というサイトで、森田優三『統計遍歴私記』(日本評論社、1980年)が紹介されており、そこに猪間驥一の名前が出ていたので、さっそく読んでみました。
 日本統計学会における猪間驥一の活躍ぶりがよくわかりますので、ここに書き写しておきます。
 1931年に日本統計学会が設立される前、森田の目に、猪間はどのように映っていたのか。
 東京帝大では高野先生の退任後、統計学講座は空席のまま、そしてその後任に予定されていた糸井先生は留学中に客死ということで、記録によると大正14年8月21日付で有沢広巳助教授が統計学講座担任に決定しているが、有沢助教授は統計学の講座を開講することなく、その年の暮に独逸留学に旅立ち、統計学の講義は従来に引き続き竹下清松先生が講師として担当しておられた。東京帝大からはその頃有沢助教授のほかに猪間驥一氏と中川友長氏が若き統計学者として巣立っていたが、猪間氏は経済学部の助手から後に市政調査会に転出され、中川氏も内閣統計局に入ってしまわれた。
 森田は、東京商科大学を1925年に卒業しているので、有沢による猪間の東大追放事件のことはまったく知らないようで、猪間が助手のまま東大を辞めて、東京市政調査会に入ったと思っていることがわかります。
 物価指数論でも当時の花形はやはり、蜷川、郡の両氏であった。(……)歴史の古い人口統計学の論文の数は必ずしも多くはなかったが、その中で岡崎文規氏と猪間驥一氏の研究が注目された。猪間氏はまたその頃から統計図表のエキスパートとしてユニークな存在であった。
 専門家の間では、猪間はとても評価されていたんですね。
 統計学会を創ろうという話がいつ頃どういうふうに始まったかは、いまほとんど記憶にないが、最初にそれを言い出した人は神戸商大の水谷一雄だったと思う。(……)先輩格の中山氏を中心に、水谷氏と私の3人の間で学会組織がほしいということを話し合ったのは、昭和5年の国際統計会議後いくらも経たない頃だったと思う。そしてこのことについての私のはっきりとした記憶は、中山伊知郎氏と同道で東京帝大の有沢広巳氏を笹塚の私宅に訪問したことからはじまっている。(……)中山、水谷と私の3人はみな一ツ橋出身だが、東大や京大の人たちにも動いてもらわないとということでこの訪問となったのである。
 したがって、東大を追放されていた猪間は、1931年1月の関西・関東で開かれた協議会のいずれにも参加しておらず、日本統計学会創立趣意書の発起人(13名)には、猪間の名前はありません。
 猪間が登場するのは、1931年4月の創立総会からです。こあたりのことは、2015年5月2日の「猪間驥一の写真を見たい方へ」等に少し書いていますが、36人の出席者の中に猪間の名前があり、記念写真の中に猪間の姿もあります。
 なおこの時の総会の決定事項で一つ書き落としてならないことは、統計学の学術用語の統一について調査に着手する計画を立てたことである。これは多分猪間驥一氏あたりの提案ではなかったかと思う。事実この仕事はその後同氏が中心になって進められた。そして調査委員として猪間氏の外に水谷、森田の二人が指名された。
 このあたりのことにもふれていると思いますが、ただ私自身、訳語の統一の大切さはよくわかりますが、先進的な猪間の一提案であって、これほど会員の総意に基づいた試みであったとは思っていませんでした。
 日本統計学会の推進力の中心は当時の若い統計学者たちであって、発起人13名中の9名、すなわち3分の2は当時まだ30歳代の若さであった。(……)
 この第2回総会での報告者の顔振れとその題目は、当時もっとも活発に活動していた若い学者たちがどのような問題にとり組んでいたかを示して(いた)。
 ちなみに、1932年4月に開かれた総会の、報告者の一番バッターが猪間であり、その演題は「価格の年次的統計と物価水準の推移を簡単に示すべき通俗的図表法に就いて」でした。
 東京では講演会を開いても入りが悪いので、第4回(昭和9年)のとき(……)JOAK(現在のNHK)にわたりをつけて講演会の代わりに講演を放送することになった。(……)第1回目の講師は上田貞次郎先生にお願いしたが、先生も恐らく最初の放送ではなかったろうか。私といっしょに愛宕山にお伴をしていった猪間驥一氏が放送室に入られる先生を見送って思わず「先生もさすがに緊張しておられる」と洩らしたのを今もはっきり記憶している。
 このエピソードも、どこかに書いているのではないかと思いますが、このとき猪間は、すでに上田の背広ゼミナールに参加していました。
 敗戦に至るまでの10余年間、日本統計学会の会合の場で日本の統計学がどのような歩みを進めてきたか。(……)資料の大部分は年報の中に残されており、(……)ここでは会員個別の研究以外で学会が学会としてやって来た仕事のいくつかを回顧しておこう。(……)
 その第一は(……)統計学用語統一のための調査委員会の活動である。この委員会は昭和6年の創立総会当時の決議で際遺書「統計学学用外国語訳語調査委員会」といういささか冗長な名称で設けられ、猪間驥一氏を委員長として水谷一雄氏と私の3名が委員に委嘱され、後に「統計学用語統一調査委員会」と改めて、厚東常照、田村市郎、中川友長の3氏が委員として追加され、最後の報告書は昭和12年発行の第6年報の付録として提出されている。上記のように6名の委員が委嘱されたがだいぶ文の仕事は委員長の猪間氏の苦心によるものであって、その成果についてはいろいろの見方はあろうが、とにかくいちおうまとめをつけることができたのはひとえにこのような根気のいる仕事に独特の才能をもっておられた猪間氏の努力のおかげであった。
  日本の統計学への貢献ですね。この『年報』は、近代デジタルライブラリーでも読むことができます。
 猪間驥一氏は統計用語の調査委員としてだけでなく、多方面に亘って学会の中枢メンバーとして活躍されていたが、戦争の後半、満州国の新京商工会議所の常務理事として赴任され、同地で敗戦を迎えて苦労された。帰還後は長く中央大学で統計学を講義しておられたが、戦後の統計学会に顔を出される機会は多くなかった。

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2015年08月22日

河合栄治郎クーデター事件

 猪間驥一の東大追放事件から1年余り後に起った「河合栄治郎のクーデター」、このことについてはすでに書いているのですが、正確さに欠けるところがあったので、あらためて整理しておきます。
 1922年11月、河合がイギリス留学へ出発してから、1925年に帰国するまでに起った、いくつかの出来事を確認しておくと、
 ◎1923年9月、関東大震災が起こる。10月、大内兵衛、帰国。河合には焼け落ちた図書館を復旧すべく、ヨーロッパで蔵書購入の命が下る。11月、糸井靖之の病状が悪化し、河合が見舞う。糸井はその後、もち直す。
 ◎1924年4月、猪間が講師に就任し、6月、有沢広巳と大森義太郎が、助手からいきなり助教授に就任する。このうち、有沢に関しては大内の推薦によることが確認されている。
 ◎同年12月、糸井が亡くなる。シュンペーター獲得の命をになってドイツに来ていた河合が、その後処理を行う。年末に有沢による猪間東大追放事件が起る。

 1925年8月初め、河合が、イギリス留学を終えて帰国します。
 8月19日、大森が来て、大学内部のことを話します。
 11月19日、だいぶ時間がたっていますが、河合は、山崎覚次郎を訪ね、「パルタイ」(大内兵衛らマルクス主義者のグループ)の動きを知らされます。このとき、猪間追放事件の真相を知ったという可能性もあります。
 11月30日、大森と有沢と午餐をともにしたとあるので、このとき何か聞き出そうとしたのかもしれません。
 12月12日、猪間が、河合を訪ねますが、これはその日に予定された、再び留学する川崎芳熊の送別会に誘うためだったかもしれません。

 そして、明けて1926年3月2日、そのクーデターは起こります。
 『河合栄治郎日記』と『東京大学経済学部五十年史』からその経緯を追うと、この日の教授会で、河合が、「(大内が)研究室主任として重要な人事を矢作先生と一緒になって独断専行したということ」で攻撃し、大内は任期なかばにして研究室主任を辞めさせられることになり、代って渡辺鉄蔵が、新しくできあがった研究室に主任として「乗り込む」ことになったことがわかります。河合が、「渡辺さんということに異論はないが、余り早く定め過ぎはしまいか、延期するようにしたいものと思う」と考えていたこともわかります。
 ここでいう「重要な人事」というのが、大森と有沢の助教授就任を指していることはもちろんですが、ここにはさらに重要なものとして、猪間の東大追放が含まれていたことが推察できます。
 日記には、「教授会を終えてから、土方(成美)と二人で安田講堂を巡り、それから上野の森を夕方暗くなるまで話をした。話題は多岐に亙ったが、頭に残るのは助教授の中に大したものがいないこと、グルッぺが大失敗をやったこと、これから主なる潮流を作って置かなくてはならないこと、それに僕を推したことなどであった。(……)唯物史観、暴力革命反対の運動を大学内に於て起こすことに付いては非常に共鳴したようである。彼は大学新聞に反感を持っているようである。11時近くまで更に神田を歩いて別れた。随分話をした。ともかく今日の話でグルッペの気勢は挫かれた。これからは我々の方がどう結束するかということである。と同時にこの傾向に対して僕が如何なる腹で進むかが、いよいよ決定されねばならぬ時に来た」とあり、河合と土方が意気投合して、新たな動きを作っていこうとしていたことがわかります。
 つまり、「パルタイ」とも「グルッペ」とも呼ばれる、大内グループの企みに一矢報いたということができると思います。

 1927年、渡辺は東大を辞めますが、その後も、大内グループの動きをチェックするために通いつづけました。
 1928年3月の三・一五事件(治安維持法違反容疑により社会主義者、共産主義者が一斉検挙された)を受けて、4月17日、東大評議会において、左派学生グループ「新人会」の解散が決定され、このとき大森義太郎の進退問題も協議されますが、大森は先手を打って辞表を提出します。
 おそらく、この頃までに、渡辺鉄蔵は商工会議所の所長に就任し、東大から手を引いたと思われます。

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2015年07月29日

湛山の荒木大将インタビュー

 「湛山の高橋蔵相インタビュー」、「湛山の町田商相インタビュー」ときて、一年近く過ぎて、今回、「湛山の荒木大将インタビュー」です。
 1935年5月13日、荒木貞夫陸軍大将「荒木大将国策縦談」(→『東洋経済新報』6月1日号)
 なぜ、この記事を取り上げたのかというと、高橋財政期の、湛山の軍事費に対する考え方がもっともわかりやすく説明されているように思えるからです。
 日本の生産力は今の軍費でマキシマムか
 石橋 理論的に私はこう思うのです。日本の財政が膨張したと云いますけれども、例えば英国とか米国とかいうような国に比すれば、国民一人当りの支出にしても、元の10円1ポンドで勘定しても英国に比すれば5分の1位でしょう。今の為替で比較すれば10分の1にもなる。そこに元来無理があると思うのです。軍備が多すぎるんじゃない、財政全体の支出が小さ過ぎるんだから、そこで世界にお付合をするのには足りない。随て軍費以外の必要の経費が大変乏しくなる。斯ういう事であるから、どうしてもこれは財政全体をモット膨張し得るように、それだけに国民の経済力が殖えるようにしなければならぬ。これが大方針だと自分では思って居るのですが、併しそれは急にそこまで伸び得ない。そこで国民の経済力を養って英米等と等しく財政支出を負担し得るのには順序を経、時を与えなければならぬ。随てその間は出来るだけ軍事に使う部分を経済力を伸ばす方へ持って行く以外にはないだろう、斯う思って居るのです。(大意)
 湛山は反軍国主義者で、軍事費の増大には反対していると思われがちですが、高橋財政期、彼は軍事費の削減をしないよう高橋蔵相に提言し続けているのです。不況というものがそれほど怖いものであるという認識があったわけですね(ところが、政友会の爆弾動議で、高橋蔵相が弱気になって、削減するとかいいはじめ、軍部の怒りを買ってしまったということだと思います)。
 ところが、これに対する荒木大将の返答はというと、「私は会議に於て高橋さん(蔵相)に言った。国策がそうと決れば竹槍三百万本を持ても国防の任に当ります」というものだったのですね。
 湛山は、軍事費は削減すべきでないといい、荒木は、軍事費がなくとも、いざとなれば竹槍三百万本で勝てるといい、世間話を交えながらのおだやかな会談でありながら、両者の主張は平行線のままなのです。
 このインタビューの中で、荒木は数回、「竹槍三百万本」ということばをもちだしています。
 武器がなくとも戦えるという精神主義こそ、湛山がもっとも恐れているものであることが、行間からも読み取れます。そのためかどうかわかりませんが、湛山はこの後も、荒木大将に面会を続けるのです。
 1934年12月19日、荒木貞夫大将と会談。
 1935年5月13日、荒木貞夫大将と会談。
 1937年12月3日、荒木貞夫大将を訪問し話し合う。
 1941年7月7日、荒木貞夫大将を訪問。防諜問題について意見交換。

 どこかで読んだと思っていたのですが、湛山は、『大陸東洋経済』1944年7月15日号「東京だより」に「遊撃戦と竹槍三百本論」を書いているのですね(ただし、このタイトルは、『石橋湛山全集』への収録に際してつけられたもの)。
 満州事変が起って間もない頃、当時陸相であった荒木大将が、竹槍三百万本論なるものを唱えたことがあった。之は世間から稍や誤解を受けた説であった。私は近頃其頼まれもせぬ弁明を折々行っているのだが、竹槍三百万本さえあれば、他の武器は無用だと云うのではない。只だ万已むを得ざれば、竹槍でも戦争は出来る。其の場合には損害は甚だ大きいが、之れを忍ぶ意力が国民にありさえすれば、戦争にはそれでも勝てると大将は説いたのである。而して大将の言に依れば、此の説は決して独断ではなく、大将が参謀本部に努めていた折、或想定の下に部内で戦術の研究を行った際得た結論であると云う。飛行機其の他の異常に発達した今日の戦争に於ては、或は状況は違うかも知れぬ。併し国民が何処までも戦意を喪わず頑張ることが戦勝の最大の条件で武器の如きは寧ろ二の次ぎだと、云うことは、確かに荒木大将の説の通りと考える。竹槍三百万本論は此の意味に於て、私は近頃特に含蓄深く感ずるのである。(こちらはそのまま)
 これは、いろいろな読み方ができると思いますが、上述の会談の内容を踏まえると、私にはこれが、荒木大将や参謀本部にいる人々への呼びかけに思えてきます。
 「あのとき、自分はまさか日本がこんなことになる(負けいくさをやる)とは思っていませんでしたが、あなたがおっしゃったように、竹槍三百万本が必要な事態になりましたね。」
 言外には、「日本がおろかな戦争を始めたために…」という気持ちがこめられていたと思います。
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2015年07月28日

転向していた、鈴木武雄4

 鈴木武雄は、このインタビューの中で、「現在の関心事」として、次のようなものをあげています。
 一つはいまの「戦後財政史」ですね。これは、頼まれたときには「現代日本財政史」と同じ時期のことを、今度は大蔵省の正史として編さんするというんですから、断るわけにはいかなくて引き受けたわけです。これがそうおろそかにはできない一つの仕事だと思っています。
 つまり、1973年ですから、今まさに『昭和財政史――終戦から講和まで――』の編さんが始まろうとしていたわけですね。『現代日本財政史』を下敷きにしようとしていたこともこれからわかります。
 それから例の「現代日本財政史」、最初、上、中、下の一、下の二というのが増版で第一巻から第四巻ということ。そのときに、これはあと五巻、六巻と続いてもいいんでそういうふうに改めたんだというのが東大出版会の話で、続きを何巻になっても、元気で限り書き続けようという気になりました。そういうことで増版本の第四巻の巻末には、もう第五巻の目次みたいなものも出ているわけなんですが、これをどうしてもやりたいと思っているんです。気持ちとしては、なんとか少なくとも国債発行が再開されるところまでは二冊か三冊になるでしょうが。
 『現代日本財政史』のほうも、下敷きにするだけでなく、さらにこれから続きを書こうというわけだったのですね。二つを同時進行させようという欲張りな計画、しかも、それだけではなくて…。
 そのほかにもう一つ、これは前から約束していて、まだ果たせない文債なんですけれども、今度は通貨論を書くことになっているんです。(……)
 ものすごいバイタリティですね。現在、以前書いた、鈴木の大陸前進兵站基地構想に関する論文を書き直しているところですが、個人的には、これでだいぶ鈴木の印象が変わりました。
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転向していた、鈴木武雄3

 鈴木武雄が「転向していた」といっておいて、いまさらですが、鈴木自身は、そこまで思ってなかったようでした。
 念のためと思って、1973年の『エコノミスト』を調べてみたら、『鈴木武雄――経済学の五十年』(1980年)では見落としていた(というより、石橋湛山や高橋亀吉との関係でしか、鈴木に興味をもっていなかったので、読み飛ばしてしまっていました)情報がいくつも出てきました。
 「転向説」については、次のようにいっています。
 マルクス経済学を若いときから勉強しまして、基本的には、ことに貨幣論ではいまだに私はマルクスの立場を捨てていないつもりなんですけれども、いろんな点でかなりマルクス経済学といわれるものから離れている点もありまして、近経は、私は必ずしも専門に勉強したわけじゃないんですけれども、ちょっとそれにちかいようなところもあります。
 マネタリー・サイドを重視する立場については、「大内先生の影響が相当あった」といい、「財政学の中心は租税論だ」とする考え方にも、「長い間の大内先生の影響によるところも大いにあります」と語っています。
 ただ、それでも、大内グループと距離を置くようになったことは、こうしたいい方からも間違いないでしょうね。
 あとは有沢広巳が湛山の公職追放に絡んでいたことを鈴木が知っていたかどうかですが、1949年頃書き始めたという『現代日本財政史』について、書いていた頃は、大蔵省の内幕的なものは、何もわからなかったといっているくらいですから、あるいはまったく知らなかったということも考えられます。
 『現代日本財政史』と『昭和財政史――終戦から講和まで――』の編纂との関係もいろいろわかってきたので、それは次回書きます。
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2015年07月25日

石橋湛山の世界開放主義その後4

 『日本経済年報』第28輯の第8章「佐藤外交と対支経済使節」の最後の部分、これをプリントアウトしたものを、すぐに使えるように文字起こしまでしていたのに、その重要性に気づいていませんでした。
 経済使節団の来支により幣制改革以来凍結していた在支邦商銀行の手持現銀引渡につき児玉団長と中央銀行席徳懋氏との間に円満な話合いが出来、各銀行も夫々本店と打合せた上当地の手持銀を全部中央銀行へ引渡すこととなり、本日(3月31日)から受渡しが開始された。引渡しの条件は、外国銀行がなした際と同様で、全額の3分の2に対し年6分の利息を2ヶ年間つけ、交換収受する紙幣には年1歩の利息を2ヶ年間支払うという華商発券銀行の例に準じた形式によっている。これは実質的に銀貨1元に対し約6分のプレミアムが付されたことを意味している。引渡される邦商銀行の手持銀内容は銀元並にミント・バーで総額930余万元であり、漢口、汕頭、厦門、廣束、北支等の在銀には触れていない。
 つまり、1937年3月31日の時点で、すでに対支経済使節団派遣の効果が現れていたということです。
 ここで、もう一つ確認できるのは、この記事を書いた記者(名前は特定できませんが、「佐藤外交」の名付け親でもあり、『東洋経済新報』の「佐藤外交」に関する一連の記事を書いています)が、この記事を書き終えたのが、3月31日、しかしその後、6月3日、佐藤外相が辞任したので、急遽、以下の冒頭の部分を付け加え、6月25日の発表に間に合わせたということになりますね(ちなみに、『日本経済年報』は東洋経済新報社発行の季刊誌です)。
 我々が林内閣の佐藤外交に特別の意義を認めてこれを本節に執筆し終えた直後、突如たる政変によって佐藤外相はその職を去り佐藤外交も当然終りになって了った。然しながら過去数代の外交方針と際立って異った、この著るしく国際協調的な「佐藤外交」は、決して氏一人の個人的好みによって生じたものでは無い。(……)
 佐藤外相の就任期間は、3月3日から6月3日までの3ヵ月間。この間、いろんな仕事をしていることには驚かされます。
 ちなみに、佐藤尚武は、1927年のジュネーブ国際経済会議に、志立鉄次郎や上田貞次郎とともに、日本代表として参加しており、1933年の松岡洋右の国際連盟脱退声明の折には、松岡とともに会場を出てきた人です。
 何ヵ月か前のNHKのスペシャル番組で、国際連盟脱退声明を非常に後悔していたという松岡の肉声テープが見つかったことが伝えられ、それはとてもよかったのですが、今度はそれを受けて、「それ以降の外交はことごとく失敗の外交だった」という結論にもっていかれてしまいました。松岡のことがあったのですから、もう少し考えて報道してもらえればと思います。
 国際連盟脱退声明以降の、外交官たちの危機感はすさまじく、芳澤謙吉(外相経験者で、ヨセミテ太平洋会議では団長を務めた)が束ねていたようですが、国際連盟との関係をつなげていくために協力体制で奮闘しているのですね。
 首藤安人の原料品調査委員会での仕事もその一環だったと思うのですが、こういう努力を「ことごとく失敗の外交」と片付けていいものかどうか。

【追記】わかりやすさのため、タイトルを変更させていただきました。
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2015年07月23日

石橋湛山の世界開放主義その後3

 「オッタワ協定の終期と英帝国貿易:世界通商自由回復の気運台頭」という論説があって、何とこれが『東洋経済新報』誌上に発表されるのが、1937年7月3日、つまり日中戦争開始のわずか4日前なのです。
 それでは、この時期、何をもって「世界通商自由回復の気運台頭」といっているのか。
 ここでは、まず、5月から6月にかけて、新聞記者をシャットアウトして開かれた英帝国会議で、「各代表は現存する通商障壁について他国と協力して検討を加える用意がある」とする報告書が出されたことが紹介されます。
 またこの会議と前後して、英米、日英、日米等の通商外交交渉が進められ、過去数年間募りに募った通商障害がようやく緩和の方向に転じつつあること、そして、表面化しないまでも前述の英帝国会議で、2,3の属領地から、オッタワ協定の修正を求める声が出たこと、さらに過日、ベルギーのヴァンゼーランド首相が世界経済会議を斡旋しようとしたことを上げています。
 一方で、英帝国貿易の概況は、次のように分析されています。
1. 英本国全体の貿易は向上し、帝国内貿易も増加したが、帝国内への輸出増加は帝国内からの輸入増加に較べると若干の劣勢にある。
2. 主要属領国も対帝国貿易はその比重を増しており、帝国内貿易の割合の増加は明か。しかしこれは比率上、英帝国内貿易の保護が効を奏したことを示すだけで、英帝国諸邦とその他の諸国との間の貿易は、オッタワ協定によって著しく妨害されてきた。
3. 近年における貿易の増加は世界的な景気回復に基くもので、もしオッタワ協定がなかったら、世界全体としての貿易はもっと遥かに増加したはず。
4. 1932年は世界恐慌のドン底時代であったから、英帝国諸国もこのような協定に甘んじたが、今日では世界景気の様相が著しく変化し、今日なお、英帝国が門戸を閉じていることは、世界の経済発展を妨げるものであり、英帝国にとっても決して利益ではない。
5. とくに原料品生産の多い英帝国属領諸国にとっては、輸入上の障害を取除いて輸出の増進を計る方が、大局的に有利である。オッタワ協定修正の要求が聞かれる理由でもある。
6. 物価指数がすでに1929年に帰ったのに、英国の輸出総額はまだその6割に過ぎないという事態を猛省すべし。
(ナンバリングは、私が適当に行っているものです)

 石橋湛山も、上田貞次郎も、ブロック経済は必ず行きづまると予測していたのですね。
 その兆しが見えはじめたというのに、なぜ、戦争なんか始めてしまったのでしょう。

【追記】内容に即してタイトルを少し変えました。
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2015年07月22日

石橋湛山の世界開放主義その後2

 1933バンフ太平洋会議→1936ヨセミテ太平洋会議・世界開放主義→1937国際連盟原料品問題調査会
 この流れを追うのに、実は、多くの文献をパッチワーク的につなぎ合わせて用いていますので、何かのご参考になればと思い、参考文献として列挙しておきます。
 なお、このうちの大半を近代デジタルライブラリーでご覧いただけます。
【参考文献】
石橋湛山全集編纂委員会編『石橋湛山全集』第15巻、東洋経済新報社、1972年
上田貞次郎『上田貞次郎日記』晩年編、上田貞次郎日記刊行会、1965年
上田正一『上田貞次郎伝』、泰文社、1980年
『東洋経済新報』(東洋経済新報社)1928年〜1937年
『日本経済年報』(東洋経済新報社)1930年〜1939年
『自由通商』(自由通商協会日本連盟)1930年〜1937年
高橋亀吉『経済評論五十年』、投資経済社、1963年
石井修『世界恐慌と日本の「経済外交」―1930〜1936年』、勁草書房、1995年
高橋亀吉『世界資本主義の前途と日本:欧米新経済戦線を探りて』、千倉書房、1934年
全国産業団体聯合会事務局『モーレット氏歓迎午餐会及懇談会記事』、1934年
国際労働局東京支局編『モーレット氏報告書: 国際労働局次長モーレツト氏の日本産業に関する報告書』、1934年
全国産業団体聯合会事務局『第一八回国際労働総会に関する報告』、1934年
フェルナン・モーレット『日本の産業的発展の社会的形相』、国際労働局東京支局、1935年
赤松祐之『昭和十年の国際情勢』、日本国際協会、1936年
赤松祐之『昭和十一年の国際情勢』、日本国際協会、1937年
赤松祐之『昭和十二年の国際情勢』、日本国際協会、1938年
赤松祐之『昭和十三年の国際情勢』、日本国際協会、1939年
横山正幸『国際聯盟の将来と日本との関係』、日本外交協会、1936年
赤松祐之編『国際経済関係現下の容相:国際聯盟経済委員会報告書』、日本国際協会、1936年
高橋亀吉述『日本経済の発展と世界経済再調整問題』、中央朝鮮協会、1937年
日本国際協会太平洋問題調査部編『太平洋問題:第六回太平洋会議報告』、日本国際協会、1937年
外務省情報部編『国際時事解説』、三笠書房、1937年
川島信太郎『対大陸経済関係強化の沿革及其の解決策』、日本外交協会、1938年
外務省通商局訳編『最近原料品取得問題:国際連盟原料品問題調査委員会の報告書』、日本国際協会、1938年
日本銀行調査局編『世界の原料問題』、日本銀行調査局、1940年
神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ【新聞記事文庫】
主なもの:
・『神戸又新日報』1934年6月3日「ソシヤルダンピングに非ず モーレット氏の認識正確」
・『大阪朝日新聞』1937年2月26日「原料資源の再分配連盟委員会で堂々我が公正な要求提唱 コンゴー条約の精神適用を求む きのう訓電を発す」
・『大阪朝日新聞』1937年4月23日「資源の獲得、開発に“自由の三原則”を闡明 聯盟委員会出席の首藤代表に外相、根本方針を授く」

【追記】内容に即してタイトルを少し変えました。
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石橋湛山の世界開放主義その後1

 石橋湛山が、1936年9月に発表した世界開放主義は、国の内外にどのような影響を与えたのか。ごく簡単に記しておきます。
 1937年2月、日米綿業協定が成立したことはすでに述べているかと思いますが、それを歓迎する「民間経済外交の成功:日米綿布協定成る」等の論評が『東洋経済新報』誌上にも何編か載せられます。
 3月、再び「世界開放主義の提唱:政府は更に積極的に努力せよ」という呼びかけがなされますが、念のために記しておくと、これら一連の記事を書いたのは湛山ではなく、同社の若手記者の一人だったと思われます。
 ここまでが、以前、私の知っていた動き。しかしこれ以降、さらなる動きが生まれます。
 それは、3月に書かれた記事の中で明らかにされているのですが、実は、湛山の世界開放主義発表後、広田内閣がこれを真摯に検討していたというのです。
 そして、有田外相が、帝国議会で、原料資源再分配の一試案として、東部アフリカの植民地に対する各国の利害調節のために制定されたコンゴ盆地条約を各国の植民地市場に適用すべきであると力説し、3月上旬からジュネーブで開かれる国際連盟原料品調査委員会で世界に訴えることになったのです。
 ここで確認しておくと、日本は、1933年3月に国際連盟からの脱退を表明し、1935年3月に脱退しますが、その後も平和的・人道的・技術的事業については協力を継続し、経済委員会には首藤商務書記官が個人の資格で参加していたのです。
 同じ3月、林内閣の外相に就任した佐藤尚武は帝国議会における外交方針演説で、中国との平等な対話を説き、戦争勃発の危機は日本の考え方しだいと述べるのですが、『東洋経済新報』はそれを好意的に取り上げます。佐藤外相は、3月中旬、児玉謙次を団長とする対支経済使節団を派遣しますが、失敗だとする評価がもっぱらだったのに対して、そうではなかったという論説を繰り広げます。つまり日中関係は親善化しており、今後、中国の経済発展を助けていけば、日本にも発展の道が開ける、中国の一部に残存している排日策動にも百年河清を待つ態度で望む必要があると訴えたのです。
 佐藤外相は、その後、原料品調査委員会の首藤商務書記官を招いて対策を練り、6月下旬に開かれる第2次会議において、世界平和の基礎を確立するために「資源獲得の自由」、「開発の自由」、「通商の自由」の3原則を根本方針として、これを表明させることを決定します。
 これに引き続き、東洋経済新報社の季刊誌『日本経済年報』には、「佐藤外交と訪支経済使節」と題された記事が掲載されますが、このときすでに、林内閣は解散し、佐藤外相もその職を去っていました。しかし東洋経済新報社では、あえて「佐藤外交」の文字を残そうとしたのです。
 湛山らは、ここで何らかの準備していたと考えられます。それは、湛山の世界開放主義に基いた「自由の3原則」を日本の国策として掲げ、国際連盟の原料品調査委員会を足がかりに、世界に広く働きかけることではなかったかと思うのです。
 ところが、その直後の7月7日、日中戦争の開始で、これらの計画は暗礁に乗り上げます。そして国際連盟でも、1937年9月初め、原料品問題調査会第3次会議が開かれ、理事会に報告書が提出された後、9月末日をもって日本の国際連盟協力が終止されるのです。首藤商務書記官もここで引き上げることになります。
 これで日本と海外との大きなパイプがほとんど完全に断たれることになるのです。

【追記】内容に即してタイトルを少し変えました。
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2015年07月21日

転向していた、鈴木武雄2

 よく考えてみれば、「湛山の公職追放と共産党」(2015年7月18日)で述べた、『真相』の記事「石橋湛山の戦犯記録――これでも自由主義者」中の、「昭和18年の秋、『大陸東洋経済』を朝鮮京城に創刊して、同地の戦時経済指導に協力した」のは、湛山というより鈴木武雄の主導によるものだったわけで、その大陸前進兵站基地構想を、湛山が『大陸東洋経済』を創刊してサポートしたというのが真相ですよね。
 ですから、鈴木が大内グループへもどってからも、湛山の公職追放に責任を感じ、その成り行きを憂慮していたことは間違いないですね。
 一方の大内兵衛や有沢広巳は、戦時中、東大を追われて、ものを書く場を失っていたわけですが、そんな彼らに誌面を提供したのが『大陸東洋経済』であり、大内は、プレッシアーニ・トゥローニの『インフレーションの経済学』を紹介する記事を、署名なしで14回連載しているのです。
 それにもかかわらず、日本共産党に便乗するようなことをやっているのですから、こうした事情に通じていたはずの鈴木が、不信感あるいは憤りを感じたとしても不思議はないと思います。
 一橋大学名誉教授であった木村元一が、1981年に行った「一橋の財政学について―井藤半彌教授を中心として―」と題する講演の中に、次のような興味深い一節がありました。
 東大では大内兵衛という方が財政学をやり、かつ並行講義で(……)もう一つのほうは土方成美という方がやっておられました。ところが土方成美さんと大内兵衛さんとは、こんなに仲の悪い同士というのはないくらいに喧嘩ばかりしておりまして、(……)同僚とでもあんなふうにけんかができるかと思うくらい。(笑)大内さんという人はちょっと人が悪いですから。(笑)とてもとても土方さんの手には負えなかったろうと思います。赤子の手をねじるようなものです。教科書に土方さんの『財政学原理』をお使いになったのです。(……)大内さんはそれを批判の材料にする。(笑)こういうへんなことが書いてあるからと学生に講義するためにその書物をお使いになった。私、その講義を聞いたわけではないですから間達っていたら訂正しなければなりませんけれども、そういうことがあった。時代の流れ流れに応じまして、ころっころっとその学風が変わっちゃうのです。戦争中になると、金融の橋爪さんといったようなナチスばかりの人たちが、非常な勢力をふるって、大内さんは牢屋に入ったのでしたか入らなかったのでしたか、とにかく特高に追い回され、検挙された。それが一生の自慢になっておりまして、免罪符を得たようなもので、自分の民主主義の看板にする。そういうところがあります。あのときに牢屋にでもちょっと関係した人は、戦後になるとわれこそは根っからの民主主義であって国策に協力しなかったということを自慢する人がいる。(……)
 木村は、井藤の門下で、井藤は有沢や猪間と同世代、木村は1930年代初めより井藤のゼミに所属しており、これは、当時、東京商科大学の経済学者・財政学者たちの目に、大内兵衛の姿がどのように映っていたかを知る、貴重な手がかりになると思います。
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2015年07月19日

転向していた、鈴木武雄

 森戸事件を調べるために『エコノミスト』のページをめくっていたら、1956年5月26日号に、「日本財政学会」についての記事があり、その「大内門下の三羽鳥」のところに、次の一文がありました(ちなみに三羽鳥というのは、武田隆夫、遠藤湘吉、大内力です)。
 マルクス派の異変は、従来この派の有力学者とみられていた鈴木武雄(武蔵大)が徐徐に転向し、いつの間にか実質上、近経派にクラ替えしたことである。その苦心の労作「現代日本財政史」はGHQの指令や官庁の豊富な資料を駆使して財政面から占領下日本の経済の歩みを顧みたもので臨床財政学の権威“鈴木外科”の異名を高らしめた。
 つまり、鈴木が、マルクス主義者ではなくなり、大内グループからも離れていたということですね。(鈴木の後に、地方財政研究者の藤田武夫(当時、立教大)が紹介されていますが、こちらは転向していないようです)
 『現代日本財政史』を借りてみたのですが(本文を読むのは少し後になりそうです)、東京大学出版会からこの上巻が出たのは、1952年2月、中巻が出たのが、1956年3月、したがって、この記事は、中巻が出版されたのを受けて、書かれたことになります。
 中巻の「序」を読むと、「本書上巻にたいし、大内兵衛先生、島恭彦教授、安藤良雄教授、大内力教授、守屋典郎氏その他の方々から新聞紙上その他において有益な批判を頂いた」とあります。
 大内の「有益な批判」が何だったのか、上巻を見ると、第2章の「8月15日のバランス・シート」に、1945年10月、大内が「渋沢蔵相に与う」として行った「戦時債務を破棄するために蛮勇を奮え」という有名なラジオ放送が紹介され、そこに、鈴木の批判と思われるものがありました。
 ところで、このような国債を中心とする膨大な政府債務は、たしかに戦争のマイナス的遺産であり、国民の巨大な借金であるが、反面においてそれは、外債を別とすれば、一部の国民にとり債権であり、プラスの資産である。この貨幣的資産は、大内兵衛のいうように、それに見合う実物的な資産をほとんど失ったものではあるが、しかもなお国民の誰かにとっては積極的な資産であり、財産である。したがって、国民は戦争の結果一方において背負い切れないほどの借金を背負ったが、他方においてそれだけの貨幣的資産を蓄積したのである。もし国民がただの一人であるならば問題は簡単であり、債権と債務を相殺すればよい。しかし国民は7,000万を超える多数であり、その構造は複雑である。ここに国家債務処理の問題の複雑さがある。(……)
 この内容について、私はコメントできる力がありませんが、いずれにしても、上巻が出てから中巻が出るまでのあたりで大内と鈴木の間に齟齬が生じ、鈴木の転向が起ったことが、推察できます。
 1985年に刊行された『昭和財政史―終戦から講和まで―』には、猪間の『日本人の海外活動に関する歴史的調査』や大内の『昭和財政史』のような、編纂者の歴史観を提示する「序」がありません。
 私は、鈴木の微妙な立場から(つまり、『日本人の海外活動…』朝鮮篇には署名論文を収録してこれが批判され、大内グループに所属し、企画が始まった1973年には『日本人の海外活動…』の刊行を求める市民運動が起るという)、書けなかったのではないかと思い込んでいたのですが、実は、『占領下日本財政史(=現代日本財政史)』がすでに書かれていて、それを『昭和財政史―終戦から講和まで―』の中にそのまま用いてもよかったくらいのものだったということです。
 そして、ここで非常に興味深いのは、
◆猪間『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(1946年→1950年)
◆大内『昭和財政史』(1947年→総説1965年)
◆鈴木『占領下日本財政史』(1949-1950年→1952年/1956年/1960年)
 これらが、ほとんど同時期(GHQ占領下)に並行して書かれていたということです。

【追記】書くのを忘れていましたが、『現代日本財政史』というタイトル、鈴木自身は『占領下日本財政史』としたかったようです。
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2015年07月18日

湛山の公職追放と共産党

 増田弘さんは、『石橋湛山 占領政策への抵抗』(草思社、1988年)の中で、共産党が湛山の公職追放に果たした役割について述べられています。
 共産党の野坂参三がGSのマーカム宛に、「湛山の戦争協力に関する資料」を同封した書簡(4月1日付)を送った。(……)(しかしこれは、)明らかに石橋追放のための捏造にほかならなかった。
 左翼系月刊誌『真相』は、当時、自由・進歩両党ばかりでなく、野党の社会党などの指導者攻撃を行った代表的雑誌であり、とくに追放該当とみなす政治家たちの戦前戦中の活動暦を暴露する記事を盛んに取り上げたが、同誌の昭和22年5月号に掲載された山下一郎「石橋湛山の戦犯記録――これでも自由主義者」は、「・・・・・・戦時中石橋は、・・・・・・昭和18年の秋、『大陸東洋経済』を朝鮮京城に創刊して、同地の戦時経済指導に協力した。・・・・・・昭和17年暮には香港総督磯谷中将と結んで香港支社を設け、磯谷のブレンと協力して常務理事斉藤幸治を陸軍嘱託の肩書で同地に送り、19年6月には『香港東洋経済』を創刊している。・・・・・・もしも彼がパーヂにかからないようだったら、日本中の出版業者の中で公職追放になるものは一人もないだろうし、金融資本家、軍需産業資本家からも追放者が出なくてもよいとゆうことになる。・・・・・・とにかく、インフレをなくすためにも、石橋のような蔵相の追放は当然であるが、日本民主化のためにも、このような侵略主義者、超国家主義者は衆議院、出版業界から絶対に追放せねばならない」旨述べており、前記野坂の資料との類似性が注目される。
 3月16日付ルーストGS政治課長の湛山に関するメモにも、共産党資料が使われている。
 NHK戦争証言アーカイブスに収録された日本ニュースを見ていると、当時であれば、こうしたことをやりかねないであろう雰囲気が伝わってきます。
 ただ、まん中の記事は、実は、情報の部分(太字)は間違ってないのです。
 私が以前、「経済学者、鈴木武雄の大陸前進兵站基地構想と戦時下、東洋経済新報社京城支局による『大陸東洋経済』の創刊」という小論を書いたのは、大陸前進兵站基地構想というのが、鈴木武雄(そして湛山)が、意識的に戦時協力を装って行った、農村工業計画の延長線上にある朝鮮工業化、つまり朝鮮の実質的な経済的自立を意図したプログラムであったこと、それは、やはりおさえておかなければならないと考えたからです。
 多くの研究者が、それを素通りして、湛山がそんなことに関わっているはずがないかのように扱っていることが、逆に、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』を、植民地主義を肯定する立場で書かれたとみなすような愚を犯すことにつながっているように思えるのです。
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2015年07月17日

有沢広巳の騙しのテクニック

 今回は、その有沢広巳の騙しのテクニックについて。
 まず最初に、糸井靖之が亡くなった後(つまり、猪間を東大から追放した後)、なぜ猪間でなく、自分が統計学講座を引き受けたのかを説明しなければならないと思ったようです。
 高野先生のあとをひきうけられて、統計座区講座担任者だった先生が思いがけなくなくなられたので、とうとうぼくが統計学をひきうけることになったのです。当時、ぼくは経済原論を専攻する助手としての2ヵ年をへて、助教授に昇進していたのですが、統計学をやれそうな若い人がほかにいない。有沢なら高野先生からもよい成績をもらっているし、糸井先生の演習もやっているから、やれるだろうというふうなわけで白羽の矢がぼくにたったというのです。
 ある日、舞出先生が学部長の代理として池袋のぼくの宅にこられて、引きうけてもらえるまではこの座を立てないという強硬談判なのです。どうもこれには困ってしまったのですが、やはりぼくの頭のどこかに統計学をやってみたいという考えがあったのでしょう。(……)とうとう舞出先生に説きふせられて、統計学を引きうけてしまったのです。もっとも、ぼくのほうも条件をつけて、統計学をやるが、それとともに経済学をもやるのを認めてもらいたいと申し出ました。
 まず誰かが自分のことを高く評価していて、あるポストについてくれと頼みにくる。自分は、いったん断るが、強引に説き伏せられて、仕方なく引き受ける……これが、何かをごまかそうとするときの、お決まりのストーリーなのでしょうか。石橋湛山を追放しようとしたときの状況にそっくりです。
 でも、これだけでは不安だったのか、他人事のように内部対立の話をもち出します。
 戦前の人なら、御存知と思いますが、経済学部は昭和のはじめごろから(つまり、有沢が猪間を追い出した後!)内部対立がひどく激化して、同僚が同僚を裏切る、同僚の追い出しをはかるというふうになった。後の矢内原事件とか河合事件とか、またぼくたちの教授グループ事件にしても、この内部対立が背景となっているのです。(……)学説の違いがあり、人と人との関係がうまくいかないということは、どんな社会にもあることでしょうが、同僚が同僚を裏切るというのは全く深刻な対立だったのです。
  「昭和のはじめごろから」という限定の仕方、ぬかりがないですよね。猪間の東大追放事件から、人々の目をそらそうとしたわけです。そして、大正期のことを聞かれると、「その頃のことは、あまり覚えていない」ととぼけるのです。
 猪間のことについても、「公式見解」を決めておきます。
 猪間君は助手時代に病気をされてやめてしまいました。
 助手時代に病気をしたところだけはほんとうですが、4月から、9ヵ月間、講師を務めた後、東大を追放されるわけです。
 有沢と大森義太郎は、6月に猪間を飛び越えて、助教授に就任していますが、論文を書かないで助教授になったことについても、いいわけが必要と考えたようです。
 助教授就職論文の提出は、舞出、糸井が助教授になるときが最初で、それからのちは助手が助教授になるときには必ず論文を出し、主としてその論文について審査することになったそうです。ぼくらの場合もやっぱりそうだったのです。
 大正13年6月、大森君とぼくとは助教授に昇進することができました。(・・・・・・)ぼくの論文は「カッセルの価値論」というので、この当時世界的名声をもっていたスェーデンの学者の「価値論なき経済学」を批判したものでした。ただどうしたわけか、大森君の論文もぼくのもついに雑誌に発表しないままになりました。
 ぼくの原稿は書棚の引出しに入れてあるとばかり思っていたのですが、最近捜してみても見つからないところをみると、やっぱり戦災のとき焼けてしまったのかもしれない。どうにも日の目をみないで死んだ子供のようで、なんだかさびしい気がします。むろん、内容はたいしたものではなかったのですけれど・・・・・・。
 何だか子供じみたいいわけですね。
posted by wada at 18:57 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする