2012年02月07日

幣原喜重郎の「経済外交」7

「日本の率直なる公式声明」B
山東について
日本は、山東を支那から剥ぎとったという非難を受けている。この真相はどうなのか。
大戦中、日本は極東に於ける連合国の利益を守る義務を負うたので、青島に於けるドイツ軍事基地の脅威を取り除く必要があった。日本は英国の分遣隊と共に、必要な軍事的努力をして、そこを占領したのである。(……)
日本はもとのドイツの租借権を継承しようという積りは毛頭ない。戦争以来、それは支那に返すという最初からの申出を繰り返し、もとの租借地は各国民が均等の条件で貿易のできる自由港にするということも、またドイツ鉄道部の仕事は日支合弁にするということも、言っているのである。支那はこの取計いを拒絶し、もとのドイツの権利は、参戦してその布告をした時に、自然に支那に返っているものだと論ずるのである。しかしこの宣戦布告は、支那が日本との借款を取り決め、その約束の支払金を受け、もとのドイツ鉄道の合弁計画の原則を承認してから満一年以上もたって、発せられたものである。
日本は、鉄道を警備するため、山東の沿線に軍隊を駐屯させている。青島にいるのは派遣軍に臨時分遣隊を合わせて、将卒約二万である。北京の領事館を守護するため、また海岸からその首都までの鉄道を警備するため駐屯している各国軍隊は、その二倍にも及び、この中には米国軍隊も加わっている。かつまた鉄道延長のための資本を提供する際のドイツの優先権は、もし日本が主唱して賛成さえ得るなら、現在米国、ベルギー、英国、仏国、日本の銀行団が、その政府の支持を受けている国際財政借款団に継承させることも出来る。
だから日本が、山東を侵略するという非難を裏付けるべき事実は、実際には存しないことが明らかである。今やこれら総ては海軍軍備縮小と共に片が付くに違にない。なぜなれば、もし会議参加国民の間に、何ら重大なる利害衝突がなく、それゆえに軍事侵略の脅威もなくなれば、解決はただ時間の問題となるのである。
再び率直にいえば、日本は、払拭しなくてはならぬ疑惑と不信は米国側にあることを認めて、この会談に臨んだのである。日本側では米国に対し、そういう不審な気持は全く持っていない。日本の代表は、事実さえ明かになれば、この疑は晴れるであろうことを信じ、かつ希望しながら来たのである。(……)
男爵大将で海軍大臣の加藤代表は、海軍の軍備制限に、その国防の安全性をそこなわぬ限り、日本は同意する腹であると述べている。(……)
日本は海上貿易に依存する島帝国である。しかし負担の軽減が軍縮から生れてくること、また軍備制限は相互の認識了解に基く真の協力によって達成の出来ることを確信している。(……)
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2011年06月04日

B.フリードマンの講演会

やはり先日、一橋大学で、ハーバード大学経済学部教授、ベンジャミン・フリードマンの特別講演会がありました。
私はこの経済学者のことをほとんど何も知らないのですが、たまたまその時間近くにいることになっていたのと、有名人は一目だけでも見ておきたいという生来のミーハー精神からのぞいてみることにしました(ゼミの先生に、「サインをもらって来れば」といわれて、それも考えたのですが、さすがに、そこまでの度胸はありませんでした…)。
関西方面で開催された、金融学会で講演された帰りに一橋大学に寄られたのだそうで、講演のタイトルは、「経済成長とモラル――経済成長は社会をどう変えてきたのか?」というものでした。
一時間以上にわたる講演で、正義、公平さ、移民への寛容さといったものが、経済成長の結果あるものであり(したがって経済が落ち込むと、移民への対応が悪くなる)、経済成長とモラルは互いに矛盾するものではない、というのが結論のようでした。
ハーバードで教えられているというだけで、「サンデル教授・白熱教室の…」と紹介されるのには、ある種の痛快さと時代の変化を感じさせられましたが、実際に学生さんたちが、積極的に質問をされていて、またこの教授が一つ一つていねいに答えられていて、時間の制約がなかったら、そのまま白熱教室になっていたような勢いでもありました。
まったくの経済音痴の私が、経済学に興味を持つようになった理由の一つが、経済が上向くと社会の治安もよくなるということに気づかされたことによるものでしたので、フリードマン教授のお話の結論は、そのためにどのような経済政策が取られるのかというような問題は別にして、非常に興味深いものがありました。
さらに私は、戦前、資本主義の発達の過程で、日本人の海外交易におけるモラル(国際基準の受容を含む)がだんだん向上してきた、ということを立証できないかと考えていたことがあるので(猪間驥一のことばの端々にそうしたとらえ方が感じられるので…)、その方面の研究への意欲も改めて湧いてきました。
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2011年05月31日

先日の日本経済政策学会

日本経済政策学会で、東日本大震災がテーマに取り上げられると知り、出かけました。
実はプログラムを見て、先に行われる午後の自由論題セッションで、片岡剛士さんが「マクロ計量モデルを用いた、次世代育成支援対策推進法に基づく行動計画の出生率への効果測定」というお話をされるとばかり思い込んで、そういうご研究もされているのだとそちらも楽しみにしていたのですが、片岡さんは報告者ではなく、討論者であることを、会場に着いてから知りました。
しかし、したがって偶然、聞くことのできたこの報告は、「人的資本形成と教育政策及び経済発展」とあわせて、数式のわからない私にも、雨の中、出てきてほんとうに幸運だったと思える内容のものでした。
「マクロ計量モデルを用いた…」のほうは、保育所の定員数増加と出生率との相関関係を計量化する試み、「人的資本形成…」のほうは、教育政策と経済発展の関係を計量化する試みといっていいのでしょうか。
個人的には、いわゆる少子化対策が直接的に出生率の増加に結びつくことはあまりないのではないかと思っているのですが、それでも少子化対策は取り組まれるのがよいと思っている根拠として、これまで、それが社会の成熟というようなことばでしか語りえなかったのが、こうした研究を統合すると、例えば、子どもを預ける場所を確保できることによって、働くことができるようになった女性が、子どもを増やすことはなくても、子どもの教育費(あるいは自分自身の教養費)としての支出を増やすことによる経済効果というようなことをいえるようになるのではないかなど、ぼんやり考えてしまいました。
ただ、この日の、「東日本大震災」特別セッションや、招待講演「大震災と経済政策」の議論とも絡むのですが、こうした出産・子育て世代への社会保障や支援プログラムは、日本の景気がよくならなければ、現状維持さえむずかしいということになるのだと思います。
その意味でも、今、経済復興のための思い切った決断が望まれるところなのだと思いますが、この会場での議論から、すぐに何かが動き出すというような雰囲気ではなかったのが気になりました。
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2011年04月21日

高橋亀吉と鈴木武雄メモ4

先日、大震災後初めて、大学へ行った折、指導教授のI先生に、研究計画についてのご相談をしてきました。
つまり、「猪間驥一の人口問題・植民地問題認識」に、鈴木武雄の「大陸前進兵站基地論(大陸ルート論)」と3論文を組み入れるべきかどうかという点についてですが、結論からいうと、別にすべきということになり、自分の中では何かすっきりするものがありました(高橋亀吉の考え方や鈴木武雄のこうした構想について、まだ定見があるわけではないので…)。
ということで、今年は、上田貞次郎グループの人口問題研究と、猪間驥一の『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の内容の検証に専念したいと考えています。

このメモの最後に、高橋亀吉の『東亜経済ブロック論』(1939年)から、世界経済のブロック化を分析した部分を引用しておきます。『現代朝鮮経済論』(1935年)、『現代台湾経済論』(1937年)と内容は重なっていますが、もっともまとまっているもののように思われますので。
多くの人々の観方の中には、ブロック経済は1929年以降の世界恐慌の克服策として発展したものだという考方がかなり支配的であるようであります。しかしもしこの観方が正しいと致しますと、世界恐慌が克服された暁においては、ブロックというものは無くなってしかるべきだという結論になり得るのであります。然るに、世界恐慌は1935‐6年において一度克服せられたにもかかわらず、ブロック経済的大勢は依然として存続しています。従って、それだけから見ましても、ブロック経済というものの体制は、単に世界恐慌の克服策として生れたものだという観方をしたのでは真相に触れないように考えられるのであります。と共にそういう観方では日満支経済ブロックというものの意義も、これがどういう方向に向いて行くべきかというような問題にも示唆するということがなくなる訳であります。私は世界の経済ブロックの体制をそういう風には見るべきでないと思っている一人なのであります。
ブロック経済は、早くすでに欧州大戦において萌して居った一つの傾向ではないかと考えるのであります。それは、大戦後、国防という立場から各国が各種の自給自足政策を採り始めたことであります。欧州大戦までの戦争におきましては自給自足という風な政策は必ずしも採られて居なかった訳であります。現に日本が日露戦争をやりましても、自給自足政策という風なことは必ずしも採って居ないのであります。然るに欧州戦争は、それが各国経済の総力戦であることが判りました結果として、その後におきまして、あるいは戦争中におきまして、世界各国は、少なくとも軍事必需品、食糧品の自給自足の必要あることを痛感し来り、戦中戦後にかけてその政策が採られた訳であります。これは戦争の規模、戦争の本質というものが従来とは非常に変って来て、莫大の物資を要求せる国家総力戦になって来て、従来の戦争のように、経済力と戦闘力とが分れていた戦争でなく、両者が一体となった戦争になって、かかる大規模の総力戦に対応する為には、従来のような自由通商の経済の下においてはとうていこれが実現出来ないので、自給自足政策を採り始めたという風に解すべきであると思うのであります。
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2011年04月12日

猪間驥一からのメッセージ

猪間驥一やその周辺にあった経済学者を調べているからでしょうか。このたびの大震災のことを考えていると、無意識のうちに、猪間の時代の、関東大震災、昭和恐慌、敗戦と比べている自分がいることを発見します。そして思うのは、今回の事態は、こうした3つの危機的状況が重なったほどの深刻なものではないかということです。
ここでは、それぞれの局面に猪間驥一がどのように対処したのかを見てみたいと思います。

1923年の関東大震災のとき、猪間は、肋膜炎を患って長期入院を強いられ、死線をさまよっていました。その後、猪間が、あるきっかけから、後藤新平が設立した東京市政調査会の研究員になるのは1925年のことであり、帝都復興計画はすでに着手され、社会事業部門に含まれるいくつかの事業は役割を終えているという段階にありました。
したがって、帝都復興計画全体への直接的な言及はありませんが、「大震災後の社会事業施設」(『都市問題』1930年1月号)に記された社会事業部門の総括から、猪間のこの計画への評価は汲み取れるように思います。
東京市の社会事業施設は、震災後の帝都において、最も著しい復興ぶりを示したものの一つである。大震火災は東京市民にとり実にこの上なき不幸であったが、しかしもしこの災厄に促さるる事態無かりしならば、短年月の間に450余万円(市立病院建設費をも加えれば760余万円)の巨費を投じて、社会事業施設の普及を図るがごときことは、とうてい思い及ばなかったであろう。760余万円の支出は、東京市執行の復興事業費総額2億9,500万円中の甚しく多い部分を占めるものではない。街路修築事業等に比すれば、その重要さは、いわば付随的と称し得べき程度に過ぎない。しかし震災前東京市の社会事業がいかに微々たるものであったかを回顧する時は、実に偉大なる躍進と呼び得るであろう。

1930年の昭和恐慌のとき、猪間は、『都市問題』誌上に、異例の時事問題解説として「失業問題は何処へ行く?」を発表します。金本位制のもと、金の流出を恐れて起債市場が事実上閉鎖され、日本の経済が閉塞状態にあったとき、ある「経済理論」(というのがケインズ理論であったと思うのですが)を用いて、通貨を膨張させながら、物価の高騰・金の流出を来さない方法を考えようとしたのです。
それが、起債によって増加した通貨を、当時、政府が進めていた国産品愛用運動とドッキングさせて、国産品の購買に当てさせ、国産品の生産を増すこと、つまり日本の工業化を促進させようとするものであったと思います。そうすれば、金は流出せず、失業救済事業による多少の雇用も生まれて、輸入品の購買による金の流出も逃れることができるというのです(この提言は、田中義一内閣の三土忠造蔵相によって採用された可能性があります)。

太平洋戦争開始後の1942年、猪間は満州・新京商工会議所の理事として中国大陸に渡り、終戦後、一年を超える幽囚生活の後、日本に帰国します。ある事業家に持ち家を奪われ、住居の確保もままならない中で、彼は、第一次吉田内閣の石橋湛山蔵相のもとに組織された、在外財産調査会のメンバーとなります。
廃墟と化した国土にあって、自信まで喪失した人々を奮い立たせるために何ができるか。猪間は、在外財産をはじめ、何もかも失ってしまったかに見える日本および日本人であるが、祖先たちが積み上げてきた商業活動の歴史は、子孫たちが誇ってもいいものであり、そこで培われてきた英知は失われるものではないことを示そうとして、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の「総論」、つまり日本の資本主義発達史を書き上げます。それが必ずや、日本の経済復興の原動力になりうると信じていたのだと思います。

こうして見てくると、猪間は、不況が深刻化したり、災害・戦争等で国が壊滅的なダメージを受けたとき、すぐさま打って出るべき、積極的な経済政策があると考えていたことがわかります。
彼の主張・提言の妥当性については、様々な観点からの検証が必要だとは思いますが、それにしても、今日、このようなたいへんな時期に、日銀は国債を発行せず、財源は増税によって確保するというような政策が出されるのを見ていると、はたして復興はなるのか、素人目にも不安な気持ちにさせられます。
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2010年08月27日

ホメオパシー問題について2

ホメオパシーに関する日本学術会議会長談話が発表されたとき、こんなことが起こりうるのだと感動したのですが、本日、日本助産師会がこれに誠実に応える声明を出しています。ほんとうにうれしいです。
先日の私の記事は、書く必要がなかったのかもしれませんが、たくさんの方が読んでくださり、単なる情報提供として受けとめるのでなく、自らの問題として考えてくださっていたことに、大きな力を得ました。
東京都助産師会も近々、会員のアンケート調査を踏まえた声明を発表するようです。
これを機会に、助産師が、そして日本の周産期医療が、よい方向に変わっていくことを願っています。
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2010年08月11日

ホメオパシー問題について

昨年、山口市の助産師が、自宅出産で生れた赤ちゃんに、ビタミンK2シロップを与えなかったことから、ビタミンK欠乏性出血症にもとづく急性硬膜下血腫を発症して亡くなるという事件が起こり、母親が助産師を相手取って訴訟を起こしたことが、先月、新聞に報じられました。
この助産師はホメオパシーという代替療法の信奉者で、ホメオパスという資格をもち、その団体「ホメオパシージャパン」で用いられているレメディをビタミンK2として与えていました。
私自身はすでに開業をやめ、日本助産師会の会員でもないのですが、この問題は助産師全体の問題として受け止めており、東京都助産師会(この4月から法人化して、「日本助産師会東京都支部」から独立した組織となった)のトップにある人と、この間、意見交換をしてきました。
彼女も、ホメオパシーJPNの由井寅子会長の言動には以前より疑念を抱いていた人ですが、それでも私たちは、K2の代替薬が存在していることは知らず、ましてや、それを実際に使っている助産師がいることなど想像もしていませんでした。
助産師会の会員だったとき、私は東京都の委託講習会を企画する委員会にいて、先月の初め亡くなった、ホメオパシーJPNが経営する学校の副校長をしているS助産師とは、よく顔を合わせていました。とても影響力のある人で、定例会では、ホメオパシーの話題に加わらないのは、私一人だったと思います。
マタニティ期にある人たちからしょっちゅう電話がかかってきて、切迫流産と思われる出血にレメディを処方している声が聞こえていました。
生れてきた赤ちゃんが呼吸しないとき嗅がせる、気付け薬のようなレメディを紹介したときには、自分も開業したら使いたいという声が、何人かの委員から上がっていました。
インフルエンザに効くレメディがないかという質問に答えていたときの様子は、実は、このブログですでに書いています(ホメオパシーということばを使いませんでしたが、代替療法と書いたものは、すべてホメオパシーのことです)。
私は一年目に、この会議で、一般的な予防接種の講演会を提案して却下されました。
二年目には少し工夫を凝らして、午前と午後で、予防接種の賛成派・反対派両方の意見を聞く企画案を提出したのですが、これも却下されていました。
そこで、別の場を設けて、日本助産師会東京都支部ではじめて、一般的な予防接種の講演会を実現させました(このことについてもブログに書いています)。これが私の助産師会における唯一の貢献だと思っています(この企画には、ホメオパシーJPNのレメディを使用している助産師、ホメオパシーJPN以外のホメオパシー団体に所属する助産師も加わっていたことは確認しておきたいと思います)。
先日、日本助産師会で、臨時の理事会が開かれたそうです。上層部の何人かが、ホメオパシーJPNの由井会長を訪ねると、「ホメオパシーつぶしだから相手にしない」とものすごい剣幕で、肝腎なところでは黙秘権の行使だったようです。
しかし問題は、日本助産師会の態度だろうと思います。少なくとも、日本助産師会で、総務理事・安全対策委員という要職についているホメオパシーJPNのK助産師の解任または辞任は常識だろうと思うのですが、そんな話はまったく出なかったそうです(K助産師は、「ビタミンK2の使用は、法律で定められていないから、使わなくてもいい」と話しているとか)。
東京都助産師会の対応は、少し異なっています。K助産師は、東京都助産師会ではヒラの会員なので解任等はありませんが、安全対策委員会にかけることを考慮中だといいます。
私が知る範囲内でも、ホメオパシーを使っている会員は多いですが、K2を投与しなかったのは、故S助産師・K助産師のごく周辺にいる人たちに限られていると思います。
東京都助産師会は、昨年の新型インフルエンザ流行のときも、会員にきちんとした対応を呼びかけていました(ほんとうは、会のサイトに「ホメオパシーはインフルエンザには効きません」という一言を載せることを提案していたのですが、それは果たせませんでした)。少しずつですが、いい方向に変えていこうとしている動きがあります。
しかし日本助産師会は、このままではダメになるような気がします。
指導層が、会としての弁明どころか、何の判断も示すことができず、何の見解も発表できずにいます。けっきょく厚労省か行政が指導に入るしかないのだと思いますが、むしろ、それがいちばんいい方法のように思えます。

訂正:
*「一昨年」→「昨年」(書き改めました)
*「赤ちゃんが呼吸しないとき嗅がせる、気付け薬のようなレメディ」と書きましたが、「嗅がせる」のではなく、「呑ませる」レメディ(つまり丸薬)でした。その場で小瓶が回されていたのですが、私は手に取ることをしなかったので、確認していませんでした。
以上、お詫びとともに訂正させていただきます。
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2010年02月11日

日本の出産給付の推移・追記

昨日の記事について、早速、訂正があって申しわけありません。
出産育児一時金について、現金給付か現物給付かはあまり問題ではないという旨のことを書きましたが、これは、給付額の多寡、つまり実勢費用がカバーできているか否かがより重要なポイントであるという意味で書いたものです。
その後、産婦人科医(+助産師)関係の団体から送られてきた資料を読んでいて、「出産育児一時金の医療機関等への直接支払制度」が問題化していることを知りました。
もし現金給付か現物給付かという議論が、この直接支払制度との関係でなされているのだとすれば(つまり、医療機関へ直接支払われるのであれば、出産育児一時金は、現金給付でなく現物給付ということになるので)、私の記述は誤解を生むものということになります。申しわけありません。
もう一つ、同じ資料から、入院分娩費用の全国平均が42万円と算出されていることを知りました(出産育児一時金の給付額の根拠)。
これをどう考えるかですが・・・。東京都で、50万円以下で出産できる施設がどのくらいあるのだろうと、私など考え込んでしまいます。100万円かかるところもいくつもありますが、世田谷区にある国立の周産期センターでも、数年前すでに、正常産の場合、70〜80万円といわれていました。
いずれにしても私自身が、もう少し勉強してから書くべきだったと反省しています。
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2010年02月10日

日本の出産給付の推移

Book1.xls
「出産給付の推移」を示したグラフです(2003年に作成したものなので、ここ数年の状況が反映されていません)。
これは、今日「出産育児一時金」という名称に統一された、国保、健保の出産給付(1994年までは、それぞれ「助産費」「分娩費」と呼ばれた)の支給額の急激な変化を入院分娩費の実勢費用との比較で見ようというものです。
生活保護の「出産扶助」の額を実勢費用の目安として載せた理由を少し説明しておきます。
当初、東京都統計部発行の『東京の物価』を用いることを考えたのですが(1974年から国立・公立病院の「入院費・正常分娩料」の項目が追加されている)、これには通常この費用の中に含まれるべき、「新生児保育料」、「その他、薬、検査費等」が除かれており、その額が、私(たち)の実感からほど遠かったということがあります。一方で、生活保護はその性格からして、実勢費用をカバーするものだからです。
さて、このグラフをご覧になって、入院分娩費の高騰ぶりに驚かれない方はないと思います。それに伴って出産給付も増額されていますが、国保に関しては、「助産費」と呼ばれていた間、実勢費用に追いついたことは一度もありません。
出産育児一時金に統一されてから、ようやく実勢費用をほぼカバーできそうなところまで行ったのですが、2000年代になって入院分娩費の大幅な値上げがあって(東京都内では、現在50〜60万円位が相場か)、再び乖離が始まったように見受けられます。
昨年より、出産育児一時金は42万円になっていますが(この増額には、産科医療補償制度に支払われるべき3万円が含まれているので、実質的には39万円ということになる)、この額で費用がまかなえる施設はほとんどないことになります。
妊婦健診についても、2008年度から、受診費の助成が始まりましたが(ちなみに、この受診票を使用すると、東京都の場合、14回の健診のうち、初回は8,500円、その後は5,000円が補助される)、実は、妊産婦さんたちは病産院の窓口での支払いが増えていると訴えていました。具体的には、2,3年前には妊婦健診で一万円を超えることは滅多になかったのが、足りないことが多くなったというのです。その背景には、病産院では助成を見込んでの値上げがすでになされたということがあるでしょう。
こうした状況では、現物給付か現金給付かというような議論はあまり意味がなく、給付額の適正さ、あるいは妊産婦さんの負担額の大きさが問題にされなければならないのだと思います(ついフランスの還付金制度が羨ましくなるのは、病院で支払った金額が100%戻ってくるからであり・・・)。
個人的には、少子化対策として特別な対策を講じるより、現行の国保・健保という健康保険制度の枠組みで、基本的な保障、つまり出産育児一時金で実勢の入院分娩費の大方がカバーでき、妊婦健診に国保・健保が適用されるようになれば、そのほうが、よほど、子どもが欲しい女性たちに資することになると思っています。それが現実的にはなかなか難しいのでしょうが・・・。

追記:出産育児一時金等の金額については、説明をしやすくするために典型的な市の例を取り上げていますが、実際にはかなりバラツキがあります。例えば、港区では、出産育児一時金について、以前より、上限50万円までの入院分娩費の現物給付を行っていると聞いています。

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2009年02月07日

気がかりなことE

どこまでも続いてしまいそうな「気がかりなこと」シリーズですが、この辺で、打ち止めにしたいと思います。最後に書きたいのが、「舌小帯の切除」についてです。
舌小帯というのは、舌の下にある水かき様のものですが、これが短いと、お乳が上手く吸えないとか、Lの発音ができないとかいうので、ここをハサミで切るということが、以前はよく行なわれていました。
私が信頼していた小児科医も、舌小帯(短縮症)気味の赤ん坊を見つけると、足底をピンとはじいて、泣いて大きく口を開けたところで、さっとハサミを入れるということを行なっていましたし、また元気な赤ん坊で、大声で泣いている間に、自然に切れる例も見ていましたので、とくに抵抗があるわけではありませんでした。
ところが、小児科医が、よほど強度のもの以外、放置してよいという見解を示しはじめた頃より、開業助産師の間で、この処置の必要性を強く訴える人々が目立ってきました。
母乳育児との関係だけで言われるのであれば、まだわかるのですが、親たち自身の手術を勧める例があって、私自身、こうした人々に何人か会って、その方々が、「呼吸がラクになった」、「目がよく見えるようになった」、「人生が楽しくなった」と口を揃えられるのを聞いて、何か異様なものを感じてしまいました。
2年ほど前、新生児訪問で、このことにひどく悩まれているお母さんに会いました。私が見たところ切除する必要はなさそうで、そのお話をした上で、1ヵ月健診のとき、小児科医とよくご相談することをお勧めしました。
2,3年前は、「舌小帯」でネット検索すると、上から数10件は、切除する立場からのものでした。今、念のために検索すると、@ほとんどのものは自然に治ること、A治らないものも、4,5歳までようすをみて、発音に問題がありそうな例のみ手術をすればよいことなど、きちんとした説明が上位に出てくるようで、ほっとしています。
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2009年02月03日

気がかりなことD

子どもの胎内記憶が話題になっています。
私の所属する助産師の団体でも、このテーマで、セミナーが何度か開かれ、そのたびに満員になるという盛況ぶりです。
私の知る限りでは、以前は、この胎内記憶は、胎内あるいは出生時のものを指していたと思います。それが最近では、子どもがおなかに入る前(妊娠前)の記憶を指すものに、話題の中心が移ってきているようです。よりインパクトがあるためでしょうか。
初めて、このことばを聞いたとき、羊水の中にいる感触、つまり温かさとか、暗さとか、気持ちのよさとかを、体のどこかが記憶にとどめていることはあるかもしれないと思っていました。ところが、この主張は、そんな漠然としたものではないのです。
とくに、おなかに入る前の記憶は、空の上に、神様のような人物が男女一人ずついて、そこに、これから生まれようとしている子どもたちが、おおぜい暮していて、地上の世界を見ながら、やさしそうな女性を見つけると、そのおなかに入ろうと決めるというのです。
不思議なことに、こうした記憶の話には、人の五感のうち、味覚、臭覚は除外するとして、温かいとか、心地よいとか、皮膚の感覚(触覚)によるものが、意外に少ないのです。視覚についても、明るさ、暗さに関するものもがあまりなくて、手術のメスとか、人工的なもの、形のあるものの記憶が中心になっています。聴覚も、音より、人間の声、それも具体的なことばを伝えるものが多いのです。
こうした話を、一種のファンタジー、あるいは宗教講話のようなものとして広めるのであれば、いっこうに構わないのですが、子どもの証言として、親から話を募っていることには違和感があります。 
子どもは本来、作話が上手だと思います。本来、親が望むような子になりたがっていると思います。それだけのことではないかと思うのですが・・・。
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2008年12月13日

予防接種の講演会A

清という男の子が、ジフテリアと診断されると、他の子供たちは、予防のために血清を打たれ、ただちに他の家に隔離されます。
医師は、咽頭ジフテリアは喉頭ジフテリアより軽いが、放置すると重症化し、合併症を起こしやすく、心臓病に罹ったり、重い腎臓病を患ったり、手足の麻痺を起こすこともあるとして、次のような事例をあげ、回復後も用心を促します。
ある富豪の愛児で、六歳の男の子がいた。ジフテリアに罹ったが、いったん全治して、三週間を経過し、その家で全快祝いをしていた。当日、大勢の招待客がお祝いを述べたり、膳も整ったところ、元気に家の中を走り回っていたその子が、突然、顔色が悪くなり、息も苦しそうになった。居合わせた主治医が診察したが、その甲斐もなく、その夜、亡くなってしまった、と。
喉頭ジフテリア(クループ)に罹った子もいました。
「英男二三日来、声何となく嘶嗄れしと思ひしに、今午後より一層明らかならず、咳はケンケンとしたる、犬の吠ゆるやうなるを催し、夕方よりは、熱三十八度二分に達し、夜半過ぐる頃よりは、呼吸殊にくるしげに、咽喉のあたりキーキーと、鋸もて木を切るにひとし。夜ふけたればと医師をも呼ばず、ただ吸入を施し、咽喉のあたりを氷もて冷しなどして其夜を明しつ(・・・)」
この子は、呼吸困難を起こして、気管切開まですることになるのですが、そのおかげで、一命は取りとめます。
この『親ごころ』を読んでいると、昔の子育てが、感染症との戦いであったことが分ります。しじゅう誰かが熱を出したり、一人が病気に罹れば、他の子供たちも次々に移されて・・・。
私たちは、知らぬ間に、予防接種の恩恵を受けているのだと思います。
講師の先生が最後に言われた、「予防接種は子供たちへの贈り物」、「弱い子を守るためにも、みんなが予防接種を受けるようにしよう」ということばが耳に焼き付いています。
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2008年12月12日

予防接種の講演会@

再び、日常の話題に戻ります。
先日、私も所属する助産師の団体で、「乳幼児の感染症と予防接種」という講演会を企画しました。この秋、インフルエンザ菌b型や肺炎球菌などが任意接種に加わるのを受けて、予防接種の基本的な知識を学ぼうというものです。
講師は、地域でお母さんたちに人気のある開業医の先生。
実は、この団体で、今までこのような予防接種に関する講習会が開かれたことはありませんでした。ただ、そうした知識を得たいという人は、意外に多かったようで、会場は定員を超過、横浜からの参加者まであって、こういう講演が心待ちにされていたことがわかりました。
この講演の中で、私が心を打たれたのは、講師の先生が、百日咳やジフテリアに罹ったときの、特有の苦しそうな咳の様子を、顔を真っ赤にして再現してくださったこと。実際に目にすることのない私たちに、こういう姿を一晩中見ていることなどとてもできないと思わせるのに充分なものでした。
以前にもご紹介していますが、明治時代末期の育児書『親ごころ』の中に、百日咳、ジフテリアに罹った子供(著者からすると孫たち)の様子が描かれているので、引用したいと思います。
「殊に友子はまだ三歳になれるのみにて、咳吹き切らむ力なければにや、最も劇しき咳の出づる折には、顔の色は青ざめ、唇はみるみる紫になりもて行き、手足はブラリと力なく下げて、息も絶え入らむばかりに苦しむ。かかる折には、いつも背のあたり軽く叩き、顔などに水吹きかくるも少しの甲斐なく、果ては季肋部のあたりを数多度押へ撫でさすりて、息吹き返さしむ、かかる事は、昼のまは二回、夜は三回位あり、さて又かく劇しからぬ折も、咳の為にヒーッと息を続け引きに、二三十も引きて苦しむ事は、昼は十回夜は二十回位ありて、ほとほと見るにもえ堪えず、聞くにも堪えぬ計りに苦しみ悶ゆれば、(・・・・・・)」(百日咳)
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2008年05月29日

少子化を考えるB

前述のアンケートの回答を注意深く読むと、そこに、生れてきた子どもの死亡率がゼロに近づくという夢について語られてはいても、多産がいいのか、少産がいいのかについては、触れられていないことに気づかれるでしょう。
彼らは、人口の増減は、一朝一夕に起こるものではなく、何十年も前の、出生・死亡の状態で決まる、所与のものとして受けとめるのですね。ですから、産児制限などの人口政策も、効果がないとは言えないまでも、すでに遅すぎると考えるのです。
1918年、米騒動が起こり、各地に労働争議や小作争議が頻発して、1920年代から30年代初めにかけては、失業問題や人口過剰問題が取りざたされた時代でした(1927年には、政府の諮問機関として人口食糧問題調査会が設置され、上田貞次郎もこのメンバーとなります)。
しかし、彼らは、いずれ日本の出生率は減少して、適正人口になるという見通しをもっていました。医療が進歩し、衛生状態の改善を果たした、イギリスなどヨーロッパ諸国がそうだったからです。
1936年1938年に人口の増加が急に落ち込む事態となり、これに慌てた政府は、「産めよ殖やせよ」政策を推進しますが、このときも、上田は、この出産奨励策への直接的な批判は避けたものの、それ以上に重要な標語として、「育てよ病ますな」があるべきことを指摘します。
多産であろうと、少産であろうと、重要なことは、生れてきた子どもが、健康を保持し、長く生きることだと言うのです。
今日、高齢化社会は否定的に捉えられがちですが、文化的に成熟した社会とはどのようなものかを考えるとき、そこに「長寿」が重要な鍵となっていることを、彼らの研究を通して、あらためて思わざるをえないのです。
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2008年05月26日

少子化を考えるA

実は、すでに戦前、同様の考え方をしていた人々がいました(このあたりが、私の研究テーマですが・・・)。近年、再評価がされている、上田貞次郎を始めとする経済学者のグループです。
彼らの人口問題に対する提言等についてお話する前に、1920年、雑誌『日本及日本人』春季増刊号の、「百年後の日本」のアンケートに寄せた、上田貞次郎の回答をご覧いただきましょう。
「産婦は皆国家の保護に依り、充分の手当を受くるに依り、生れた子供は健康にて幼児死亡率零に近く、義務教育は幼稚園より始めて十六才まで継続せらる。而して優秀のものは男女共国家の費用にて中学、大学に入り、卒業の後,社会の指導者となる。優秀ならざるものも、二十歳まで補習教育を受け完全なる市民となる。労働時間は四時間にとどまり、其余の暇は文学、芸術、運動、遊技に費さる。男女普通選挙はいふに及ばず、産業も皆国有公有となり、従業者の自治に依りて経営せらる。衛生の進歩に依り、伝染病は絶無となり、人々皆長寿にして、平均年齢は百二十五歳に上る」
1920年というのは、上田自身がこうした調査研究活動を開始する、ずっと以前のこと。夢物語としてではなく、到達可能な目標として語られた(予測した)ものだと思います。
当時、乳児死亡率(出生千対)は、3桁(165.7)という高い値を示しており、2桁(90.0)に下がるのが1940年、1桁(9.3)に下がるのは1976年のことです。
その「100年後」が目前に迫ってきた現在、少なくとも、乳幼児の死亡に関しては、上田貞次郎の夢(予測)に近づきつつあることを思うと(21世紀に入って、乳児死亡率は3.0など)、感慨深いものがあります。
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2008年05月25日

少子化を考える@

昨年の夏頃から、生命科学者で、京都大学名誉教授の、柳田充弘さんのブログ『生きるすべ』を読んでいます。
この方の、様々な分野の話題について書かれたものは、歯に衣を着せぬ物言いで、教えられることが多く、いつも興味深く読ませていただいているのですが、今回は、その中から、少子化に関するご意見を取り上げてみたいと思います。
柳田氏の主張を、私なりにまとめてみると、以下のようになるように思われます。
―少子化は悪いことではない。日本の国土に1億2千万人は多すぎるので、5千万人以下でもいいくらいである。人口が多ければ多いほどよいという、国としての発想はよくない。
―ただ人口の急激な低下は社会のパニック現象を呼び起こすので、これをゆっくりすすませるという意味でも、少子化対策は必要である。
―少子化対策で一番やらなければならないことは、優遇措置を施すこと。その第一が、子どもが欲しい夫婦が、社会的困難を強く感じないようにするための、保育園の確保である。ところが、皮肉なことに、これができていない。
―何らかの対策を講じても、放っておいても、いずれは、日本の人口が半減するときが来るだろう。そのときに、ひとりひとりが自分の意見をしっかりもった、世界にうらやまれるような、ゆとりのある社会になっていて欲しい。
助産師という立場にはそぐわないかもしれませんが、私も、ここ数年来、こうしたご意見に近いことを考えてきました。
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2008年05月15日

ある産科病棟の試みA

この病棟では、その後、常勤の医師が2名増えて、民間病院をバックアップ機関とする「院内助産院」構想は、いったん白紙に戻ります。それでも、医師の数は充分とは言えません。
そこで、師長さんたちは、今度は、助産師が、より主体的に関わるお産を目指して立ち上がります。
最優先課題として取り組んだのが、畳敷きのLDR(陣痛室と分娩室が兼用となった部屋)の設置です。これには、当初、医師たちから強いクレームがついたと言います。
畳の部屋で、産婦さんがふとんの上にいては、会陰裂傷等ができた際に、縫合が困難になるというのが、その理由です。
これに対して、スタッフは、「ほら、こんなに簡単なんですよ」と言わんばかりに、産婦さんをみんなで「エッコラセッ」とかかえあげ、LDRから本来の分娩室へ運び、すばやく分娩台に乗せて、医師の了解を取りつけたといいます。
病院に勤務したことのある者であれば、こうしたことの、一つ一つが、どれだけ自分たちの仕事を増やし、責任を重くするものであるか、よく分るのですが、師長さんたちは、こうした経験を、実に楽しそうに語られるのです。
新しく作成された、病棟紹介のリーフレットには、彼女たちの努力の跡が、凝縮したかたちで盛り込まれています。
この病棟の試みは、苦境に立たされた助産師に何ができるかという問いに、一つの答えを示してくれるものであると同時に、苦境に立たされた病院に何ができるかという問いにも、ヒントを与えてくれる、格好のモデルと言えるのではないかと思います。
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2008年05月12日

ある産科病棟の試み@

2年程前、東京の多摩地域にある、公立病院の産科病棟で、医師が1名を残して退職してしまうという事態が発生しました。
それまで、年間400件もの分娩を扱っていた病院だったのですが、こうした状況下、分娩数を制限せざるをえなくなり、その後も、医師の確保が難しく、一時は、病棟閉鎖を考慮する方向で、話がすすんでいたと言われます。
産科医不足が、日本各地で、ますます深刻化していることは、皆さん、新聞・テレビのニュース等でご存知のことだと思います。病棟閉鎖というようなできごとも、今日、珍しいことではないのです。
ただ、この病棟のケースがユニークだったのは、師長さんをはじめ、助産師たちが自ら、産科病棟が生き残るための道を模索し始めたことです。
スタッフ全員が、交代で、近隣の助産院へ研修におもむき、「妊婦健診や、入院中のお母さんへの対応、退院後の母子への働きかけ」等、様々なことを学んだと言います。また、「医師のいない分娩」、「自然分娩」のあり方等についても、理解を深め、病院に戻って、フリースタイル分娩や、カンガルーケア、母児同室等、新しい取り組みが始まったと言われます。
そして、その過程で、まさに画期的な事件が起こります。
ある研修の場で、地域の助産院のお産をバックアップしている産婦人科病院の院長に出会った師長さんは、千載一遇とばかり、「私たちの病棟を支援していただけないでしょうか」という大胆な申し出をされるのです。これに対して、院長も、「考えてみましょう」と約束され、ついには、医療連携の承諾を得ることができたのです。
ここに、公立病院が、民間病院との医療連携で、バックアップ体制を整備するということが、現実のものになろうとしていたのです。
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