2015年10月08日

「医学の仮想博物館」より

 以前、搾乳器について書いたときに参照した「Musée virtuel de la Médecine(医学の仮想博物館)」ですが、Instruments médicaux utilisés en Médecine(医学で使用される医療機器)というところに、トラウベについて、また吸引分娩用の吸引器と鉗子分娩用の鉗子について、興味深い写真とコメントがありましたので、ご紹介したいと思います。
◆「トラウベについて追加B」
 Stéthoscopes obstétricaaux (pièces de musée) …産科聴診器
 Stéthoscope obstétrical de Pinard (toujours utilisé)…ピナール産科聴診器(今日も使用)
 前者の項には、19世紀に用いられたトラウベを集めた写真があって、一般的な(つまり日本でトラウベと呼ばれるピナール型でない)聴診器が、産科聴診器として分類されていることから、児心音の聴取に常用されていたことがわかります(ピナール型が誕生したのはフランスなので、ピナール型一色とも思われたのですが)。最終月経から18週ないし20週以降の心音を聴取していたこともわかります。
 後者には、初期のピナール型聴診器の写真があり、これがアルミ製だったことがわかります。音がどんな風に響くものか一度聞いてみたいと思いました。
 (なお、トラウベについては何度も書いてきましたので、タイトルをこのようにしました)
◆吸引分娩用機器
 Ventouse obstétricale (産科吸引器):
 Ventouse de James Young SIMPSON ; modèle historique de 1848.
 (ジェームズ・シンプソンの産科吸引器:1848年の「歴史的モデル」)
 鉗子が相当古い時代から存在したことは想像がつきますが、吸引器は電気の使用が一般的になってからだとばかり私は思っていました。でも真空ポンプの原理を応用すれば、電気は要らないのですね。他のサイトで確認して、柔らかいゴム製だということがわかったのですが、1848年(つまりフランス二月革命の年)にこれが存在していたというのは驚きですね。ただし、この吸引器は、鉗子に押されて一般化するにはいたらず、1950年代に、スウェーデンのTage Malmstroが、今日の産科吸引器を発明するまで、ほとんど空白期となっています。なお、ジェームズ・シンプソンは英エディンバラ大学教授。
◆鉗子分娩用機器
 Forceps (鉗子):
 Historique du forceps (Tarnier - Budin ; 1901) (鉗子の歴史)
 Mains de fer de Palfyn (「パルフィン(パルファン)の鉄の手」:1720年)
 Forceps de Dubois(デュボアの鉗子:19世紀)
 Forceps de Pajot(パジョーの鉗子:19世紀)
 Forceps de Suzor(ズゾーの鉗子:1899年)
 Forceps Tarnier (version ancienne de 1877)(タルニエの鉗子:1877年)
 このうちの「鉗子の歴史」を見ると、その発明者を中心に、第1期:Levret(1600-1747)、第2期:Levretから Tarnier まで(1747-1877)、第3期:1877年から現在までの3期に分けて考えられていることがわかります(ひどく雑な読み方をしていますので、間違っている可能性があります。直接、ご確認いただければと思います)。
 第1期(1600-1747):
 この1600年というのは何か具体的な年号をあらわしているのではなく、発明されたのがこのころということだと思います。Rueffという人がすでに1554年に産科鉗子を着想していたのですが、産科鉗子の真の発明者というべきは、その長男のPeter Chamberlen(1560-1631)で、1600年頃にこれを発明し、Peterの甥のHugh Chamberlenが1670年、パリで使用したのが実施の始まりということのようです。
 1720年、Palfynが「鉄の手」を発明しますが、写真を見るとわかるのですが、二つの鉄の手が平行に固定されているので、接合部がダメージを受けやすかったので、1747年、Levretによって改良、つまり二つの手がかみ合わさる平行でないものに戻されます。
 第2期(1747-1877):
 その後、改良が加えられた様々な鉗子が登場し、1877年に、画期的なタルニエの鉗子が誕生し(これが、パリコミューンの少し後)、基本的にはこのモデルのものが今日まで使われ続けたということのようです(とはいっても21世紀になって使われた例は多くないはずです)。
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2015年07月03日

大正・昭和期の産婆かばん

 産婆往診かばんについても、以前書いた「明治時代の産婆かばん」より時代は少し下りますが、ずっとわかりやすいイラストの付いたものがありました。東京助産女学校の校長で医学博士の佐久間兼信が著わした『産婆学教科書』第3巻「正常分娩」がそれです。
 1919年版、1920年版、1924年版、1941年版があって、「産婆の携帯品」はほとんど同じなのですが、イラストがだんだん増えて行っていて、そのイラストがとてもよく描けているので、戦前の出産に興味がある方には、ぜひ近代デジタルライブラリーで見ていただきたいと思います(すべてを見ていただくためには、1941年版だけでOKということです)。
 ここでは「産婆の携帯品」のリストすべてではなく、イラストがあるものだけを取り上げます(1919年・1920年版にもイラストがあるものは☆、1924年版にイラストがあるものは★)。
(45)ガラス製膣洗浄用嘴管★
(46)ガラス製計量カップ★
(47)産婆往診器械(その1)…かばんと中身一式★
(48)産婆往診器械(その2)…折畳式の器械セット収納袋★
(49)ガラス製浣腸器★
(50)ゴム製ネラトン式排尿カテーテル☆★
(51)金属製排尿カテーテル★
(52)S状カテーテル★
(53)小児用気管カテーテル…佐久間兼信考案のもの★
(54)小児用気管カテーテル…清水学士考案・中島学士考案のもの等☆★
(55)臍帯剪刃☆★・佐久間式臍帯剪刃★
(56)コッヘル氏止血鉗子☆★
(57)桿状聴診器(押込型トラウベ)★
(58)体重計(バネばかり)

 ドイツ産婆学の導入によるものではありますが、当時の産婆かばんの中身がとても充実していたということ、その中で少しずつ、より使いやすい器具の開発が試みられていたことが確認できます。
 薄いガラス製の本体にゴム製のチューブがついた小児用気管カテーテルなど、10年少し前に病院の分娩室のひきだしから大量に出てきて処分したことがありました。これって、日本で佐久間兼信が考案したものだったのですね。
 この箱型のかばんは、器械を入れる位置がすべて決まり、寸分の隙間もないことが、その特長です。二つの「金属箱」は、煮沸消毒器、器械皿、手洗鉢、胎盤受、便器(といっても導尿用の尿受け)を兼用し、いわゆる膿盆(のうぼん)を、箱型のかばんに収まりやすいように箱型にしたものといえます。
 実は、このかばんのことを私が気にしているのは、1990年代半ばに開業した助産師が、これとそっくりなものを注文していたことを覚えているからです。
 確か何10万円とかで、ずい分高いなと思ったのと、この箱型の膿盆が小さくて使いにくそうと思ったのを覚えています(いわゆるドクター用の丸みのある往診かばんの上部に、ふつうの大きな膿盆を2枚重ねてかぶせた方がよほど合理的かと)。壊れたら修理してもらえると話していたようにも記憶しています。
 戦後になって、出産介助に必要なものはずいぶん増えましたが、基本はこのかばんで、他に二つ三つ、別のバッグをかかえて行くというのが、家庭分娩を扱う助産婦のスタイルになっていたと思います。
 つまり、この佐久間式産婆往診かばんは、昭和時代を生きのびたということですね。
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2015年07月02日

与謝野晶子の「無痛安産」

 近代デジタルライブラリーでお産のことを調べていて、1917年に与謝野晶子が上梓した『我等何を求むるか』に、「無痛安産を経験して」というエッセーが収録されていることを知りました。1916年3月、順天堂病院で、Dr.近江の立会いの下、5人目の男の子を無痛分娩にて出産したというのです。
 当時は、無痛分娩が「無痛安産(法)」と呼ばれていたことを知って、その前後のことを調べてみると、次のような本が見つかりました。
◆1914年、青柳有美『実験無痛安産法』
 ドイツのバーデン大学附属フライブルフ(ク)婦人科院で始められた、麻酔剤スコポラミン使用による「無痛安産法」についての解説書。この病院では、12年間に5万人がこの分娩法により出産しているという。
◆1915年、家庭問題研究会編『御存知でせうか』
 一般向けのガイドブック(薄暮睡眠安産法/全く無害有効である/眠り七分、覚醒三分の夢見心地/此の安産法を行った<経験者談>/一般に此の法を行い得るか/我が国でも此の方法が研究される)。
 まさに日本での実施が始まろうとしていたところに、与謝野晶子の出産があったわけです。
◆1920年、高橋政秀・伊藤尚賢『妊娠より分娩まで』
 日本で初めて無痛安産法を紹介したDr.近江の『衛生新報』誌上に発表した論文を紹介。この中に「さる有名な女詩人も、此の難産に苦しまるる一人で、曾て『悪龍となりて苦しみ、猪となりて啼かずば、人の産み難きかな』と歌を詠まれた」と、与謝野晶子のことに触れた箇所がある。
 Dr.近江は、ミュンヘンの婦人科教室でこの方法を学んでいるが、「私が帰朝以来、此の無痛安産法によって、無事にお産を済ませた人が沢山あるが、先年、懇意にして居る或る有名な女詩人が、此の方法で、安産され、常に有名な人だけあって、その模様が新聞に出ると、ひどく世人の注目を惹いたものと見えて、その後と云うものは、此の産法に就ての質問が諸方面から頻々と来て居る」と、“与謝野晶子効果”があったことを伝えている。

 ここまででしたら書く必要はないかなと思っていたのですが、医療的にはどうなんだとろうとネット検索したら、奥富俊之さんの次のような論文紹介記事を見つけてしまったので、サマリーをコピー&ペーストさせていただきました。
◆奥富俊之「わが国の無痛分娩第1例目は与謝野晶子の分娩?」(『麻酔』2011年10月号)
 わが国で区域麻酔を用いた無痛分娩が普及し始めたのは第二次世界大戦から数年経ってからである。しかし、昭和の初期にも静脈麻酔薬や注腸麻酔薬を用いた記録が残っている。ところが、与謝野晶子の評論感想集を辿っていくと、大正5年と大正6年に彼女自身が無痛分娩を経験した記載が見られる。担当医は、夫の与謝野鉄幹がパリ留学のため乗った船に同乗していたことから夫婦で親交を深めていた近江湖雄三医師であり、彼の帰国後、ドイツより持ち帰ったと見られるパンドポンスコポラミン(筋注)、さらにその後国内で製造されたと見られるナルコポンスコポラミン(筋注)といったアヘンアルカロイドを用いた無痛分娩であったと推測される。
◆奥富俊之「わが国の薬物を用いた無痛分娩は明治末期には行われていた:与謝野晶子に用いられたパントポンスコポラミンを遡って」(『麻酔』2013年2月号)
 わが国の昭和期初期には、静脈麻酔や注腸により無痛分娩が行われていたとの記録がある。しかし著者は、明治期後期にすでに無痛分娩が行われていたことを見出した。使用された薬物は、ドイツで開発・生産され、日本に持ち込まれた水溶性オピオド系薬物(パントポン)とスコポラミンの混合液であり、これらは当時の手術においては吸入麻酔薬と併せて手術麻酔薬として使用されていた。パントポン・スコポラミンはモルヒネ・スコポラミンより呼吸抑制などの副作用が少ないが、入手量に限界があったためか無痛分娩の使用薬物としては両者が混在していた。パントポン・スコポラミンの陣痛に対する鎮痛作用は良好で、母児に対する大きな副作用はないとの報告が多く見られた。
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2015年06月22日

明治時代末期の産婆カルテ

◆鶴谷熊蔵編『(袖珍)産婆回診録』(南山堂、1907年)…以下、「回診録」
◆中田千代『産婆診察録』(文光堂医籍店、1908年)…以下、「診察録」
 「回診録」は産婆教育に携わる広島病院の医師、「診察録」は東京在住の産婆が作成したものです。袖珍というのは今日のポケット版という意味のようです。「診察録」も例言では「袖珍産婆診察録」となっているので、明治の終わり頃、必要に迫られてこのようなものが作られたということのようです。

【妊娠期】
「回診録」では、
第○号・住所・第○回妊婦・姓名・○歳、初診○月○日・最終月経日・分娩予定日・既往症(結婚・月経・分娩)
診断(妊娠第○ヶ月・第○位・第○分類)
初診時の兆候(健否・乳房・子宮底・児頭(動否)・臀部・児背・小体部・心音(数)・胎動・其他)
「診察録」では、
第○号・初診年月日・最終月経月日・分娩予定月日・住所・姓名・職業。年齢、診断(妊娠第何ヶ月・位置・胎向分類)・配偶有無・妊娠回数(第○回妊娠)
既往兆候(結婚・月経開始・月経順不順・月経持続日数・既往妊娠有無・胎動初発時日・疾病有無・其他)
妊娠時症候(健否・乳房・子宮底・へーガル氏兆候・児頭・児背(小体部)・心音(所在・数)・胎動感否・骨盤異常・其他疾病)
 「回診録」では、再診時の状態を記す欄が8回分設けられて今日の母子手帳のようですが、「診察録」ではこれがなく、初診時の記録の記載だけ。妊娠5ヵ月目位になったら戌の日に診察を受けて腹帯をまいてもらい、その後、何もなければそのままで、陣痛が始まったら産婆さんを呼ぶというのが通例だったのでしょうか。

【分娩期】
「回診録」では、
分娩(月日・現症・備考)
開口期(陣痛初発時・破水)、産出期(胎児産出時)、後産期(後産産出時)、分娩直後の子宮状態(収縮・子宮底)
初生児(性・発育の度・健否)
後産(胎盤・卵膜・臍帯)
「診察録」では、
分娩月日時、分娩時症候、摘要(分娩難易・医師を迎え来りし時の処置)
開口期(陣痛発来時・破水時・其他)、娩出期(胎盤産出時間・其他)、後産期(後産産出時間・其他)
後産(胎盤・卵膜・臍帯)
分娩直後子宮状態(収縮・子宮底)
初生児(男女の別・身長・頭囲・発育健否・体重・異常・母乳か人工栄養か・産瘤(有無・位置))

【産褥期】
「回診録」では、
産褥経過(10日分):褥婦(悪露の性質・子宮底の高)・小児
温度表(10日分):体温・脈拍・呼吸・便通・尿通
「診察録」では、
産褥の経過7日分:褥婦(悪露・子宮底高・体温・脈拍)・小児の経過(入浴・臍帯異常・其他)

 今日と大きく違うのは、血圧と体重の検査がないこと。少し前まで「妊娠中毒症」(浮腫・高血圧・蛋白尿)と呼ばれていた「妊娠高血圧症候群」(浮腫は外されている)の診断が妊娠中にはできなかったということです。ただ「子癇」の兆候として、浮腫・尿量減少・蛋白尿(+頭痛・悪心・嘔吐)はチェックをしていたようです。
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2015年06月19日

1930年代初めの出産費用

◆主婦之友社編『安産と育児法』(主婦之友社、1932年)
 これは、みなさまにぜひ一度見ていただきたい、出産・育児ガイドブックです。写真が豊富に使われていて、1970年代の本だといっても、9割の人が騙されると思います。
 個人的には「お産に要する費用調べ」(p.204-208)に注目しているのですが、1970年代初めでも、東京都が行った出産費用の調査はたいへんだったと見受けられるのに、これはほんとうによく調べられていると思います。
お産に要する費用調べ
【東京標準のお産の費用】
 普通のお産でどのくらいの費用がかかるか、家庭、病院、産院別に調査。
 家庭で、産婆さん介助による出産の場合、通常、妊娠5ヵ月から診察を受ける。産婆の診察料は、各地とも産婆会による規定料金があるが、ここでは、東京付近の中流を基準としている。
【産婆の酒肴料と車代】
 東京市内でも区によって異なるが、初診料が3円、再診料が1円(初診5円、再診3円のところも)。着帯のとき3円前後の酒肴料。分娩料としては、産後1週間に15円の謝礼(初診2円、再診1円で、分娩料20円のところも)。お七夜の祝膳代りの酒肴料は、5円か3円程度。車代は別途。
【産具一式の費用】
 妊娠5ヵ月から月1回の再診として、産婆の費用は30円から35,6円。その他、産具を揃える必要があり、6円、8円、10円位で一揃いになったものが売られているが、手製にすれば4円位で揃う。
【看護婦及び医師の手当】
 産婦の状態で看護婦をたのめば、普通1日2回として10日で20円、産婆だけでなく医師の診察をあおげば、5円から10円かかる。
【病院でお産する時の費用】
帝大附属病院 初診料30銭、再診料なし、分娩料(1等70円・2等70円・3等30円)
入院料(1等7円・2等4円50銭・3等3円50銭)、看護婦料1円50銭
慶応病院 初診料2円、再診料50銭、分娩料(1等50円・2等30円・3等15円)
入院料(1等9円・2等6円50銭・3等3円)、看護婦料2円80銭または1円
聖路加国際病院 初診料3円、再診料1円、分娩料(1等60円・2等45円・3等35円)
入院料(1等10円・2等5円・3等3円50銭)、看護婦料4円
 (1) 帝大附属病院:普通10日間の入院として、初診より計算すれば、1等155円30銭、2等130円30銭、3等で75円30銭かかる。(その他、困る人たちのために、特別に実費でお産を取扱ってくれる。1週間と期間が定まり、入院料はなく、食事の実費のみ負担。)
 (2) 慶応病院:再診を普通5度として2円50銭で、10日間入院すれば、1等で154円50銭、2等109円50銭、3等59円50銭となる。なお冬季には、暖房料として、1日1等80銭、2等50銭、3等30銭を支払わなければならない。
 (3) 聖路加国際病院:1等が198円、2等が133円、3等が109円(赤ちゃんが生まれると、母親から離して乳児室で育てるので、その費用1日1円50銭、分娩具費15円を含む)。
【産院及び特殊病院の費用】
 (1) 赤十字社産院:方面委員(今の民生委員に相当)または警察署の身分証明書があれば、診察、入院、分娩の料金はすべて無料になる。有料のものは1日に付、次の料金となる。減費は、収入が所得税に達しない人のために設置されたもので、市町村役場の所得税不納の証明書、官公吏・会社員は上司の証明書を必要とする。初診料は1回、再診は無料、入院10日として、1等91円または81円、2等51円、3等26円、冬季の場合は暖房料が加算される。
1等:入院料6円または5円、分娩料30円、冬季暖房料60銭または50銭
2等:入院料3円、分娩料20円、冬季暖房料30銭
減費:入院料1円50銭、分娩料10円、冬季暖房料15銭
 (2) 築地産院:方面院の証明書が必要。入院料としては、1日食費45銭を収めれば他は一切無料。10日間の入院で4円50銭あれば、安心してお産ができる。震災後、貧しい人たちのために設けられたもので、他に浅草産院、深川産院も同様の事業を行っている。
 (3) 済生会産院:1日入院料2円50銭、分娩料7円、初診、再診無料、10日の入院として、費用合計32円。警察署、区役所で済生会診察券をもらって持参すれば、入院費も免除。幾分か余裕がある人は、食費1日30銭。同じ趣旨で営まれている産院・特殊病院は他にも種々あるが、賛育会本所産院、大塚病院、和泉橋病院、慈恵医院では、無料あるいは最低4円50銭から最高91円で十分なお産ができる。
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2015年06月18日

なぜお湯を沸かすのか回答編

 なぜお産が始まると「お湯を沸かせ!」とあわてるのか、なぜそれほど急にお湯が必要となるのか(沐浴の習慣のなかったアメリカの西部開拓時代にも)、答らしいものが見つかったのでこれも書いておきます。
◆岩崎直子『安産のしるべ』(日進堂、1916年)
◆岩崎直子『安産のしるべ』(主婦之友社、1926年)
 後者は前者の改訂版で、内容的には重なっているのですが、ここに「一番大切なお湯の準備」という一節があって、そこに理由がいいつくされています。
 まず、お産には赤ちゃんの沐浴をはじめとして、普通の鍋一つでは足りないくらい、たくさんお湯が必要だということ。
◎消毒に使う(温湿布もここに含まれるでしょうか)
◎手を洗う
◎赤ちゃんに使う(沐浴用ですね)
◎産婦さんに使う(清拭・更衣)
 ここにはありませんが、寒い季節でしたら、赤ちゃんにもお母さんにも湯たんぽが必要ですね。火を起こすのにもスイッチ一つというわけにはいかなかった時代だということも考えに入れなくてはならないでしょう。
 もう一つの理由は、これとも重なりますが、昔の住居では、お湯が沸かすそばからどんどん冷えていくからです。寒い季節であればなおさらです。
 この産婆さんは、以上のようなことから、常々、「お湯はお産で一番大切なものである」と話していたのだそうです。
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トラウベについて追加A

 ところで、みなさまは、本間棗軒(りけん)=本間玄調という人のことをご存知でしょうか。近代デジタルライブラリーで聴診法・聴診器のことを調べていたら、次の2冊の本が見つかりました。
◆由利八郎『発見と科学:青少年科学読本』(大智書房、1942年)
 聴診器が日本に伝わったのは、レーネックが発明してから34年目の西暦1848年で日本では嘉永元年のことである。嘉永元年といえば、ペルリが黒船を率いて浦賀に来る5年以前である。しかし日本ではこれより10年も前、すなわち天保9年に本間棗軒と呼ぶ医者が発明して、色々の病気を診察していたという記録がある。
◆寺島柾史『日本の科学者達』(日本小学館、1942年)
 西洋で、レンネックがはじめて聴診法を工夫したのは、西暦1819年(わが文政2年)であり、診断上の大発見といわれ、その手柄をたたえられたが、聴診法などは、わが国ではけっしてめずらしくはなく、かなりまえからわが国の医者は行っていたものだ。
 こんなはなしがある。文化2年というと、レンネックが聴診法をとなえたときより14,5年前もまえに、クルーゼンステルンの遠征にしたがってわが国にやって来た、ラングスドルフという医学者は、わが国の医者たちが病人を診察するのにその心臓の聴診をやっているのをみて、
 「これはまさしく、これまでの医術をまったく一変させてしまうだろう。」
 といっておどろいたというが、それもそのはずで、西洋ではまだ、聴診法など夢にも考えられなかった時代だからだ。
 (……)
 聴診器を発明したのは、それよりまたのちで、モーニゲという人が、これを持ってわが国にやって来てみると、わが本間玄調は、それよりも10年もはやく、これを発明して診察につかっていたから、モーニゲでなくても、わが国の医術の進歩に眼をみはるのは当然である。
 玄調は、そのころまた按腹法をも発見して、これを行っていたが、西洋で按腹法などが考えられたのは、それよりずっとのちのことだ。
 このように玄調は、聴診器をつくって胸や腹の病気を診察し、按腹法を工夫して肝臓その他を診察したことは、西洋にさきがけた医学上の大発見であり、日本医学のほこりでなくてはならぬ。
 玄調は、このほか種痘法をも大いにひろめ、このことをのべた書物を著し、
 「種痘は世を治め、人を救う一大良法だ。」
 と論じたが、明治のはじめまで生きのびて、同5年になくなった。
 前者はありうる話だと思いますが、後者では、本間棗軒が、独自に聴診器を開発していたということだったのが、世界に先駆けて聴診器を作ったことになってしまっていますね。それに、西洋医学を学んだからこそ、こういう方法を見出せたのでもあるのですから。戦時中で、こんなことになってしまったのでしょうか。
 なお近代デジタルライブラリーでは、この本間棗軒の『続瘍科秘録』を読むことができます(私には難しすぎて、眺めただけですが)。
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2015年06月17日

トラウベについて追加@

 お産関係のことは、近代デジタルライブラリーを調べるのが好きで書いていただけでしたので、もう書かないつもりだったのですが、トラウベのことで、ちょっとわかったことがあったので追加情報として書いておきます。つまり、お産になぜ、ピナール型聴診器が広まらないで、トラウベ型聴診器が定着したかという疑問への回答ということになります。
◆篠原昌治他編『近世診療技術』上巻(南江堂、1908年)
 これはお産に関する本ではありませんが、「聴診法」のところに、「管状聴診器には其型種々ありといえども「トラウベ」のもの最も多く用いらる」とあり、それと対比させるように4種の両耳聴診器が紹介されています。
 お産関係の児心音の聴取について述べたものには、以下のものがありました。
◆山崎元脩『産科要論』(丸善、1887年)
 何と1887年の本にすでに児心音の聴取は「必ず聴診器を用(い)てすべし」とあり、少なくとも産科医のレベルでは、それが常識だったと思われます。
◆中島襄吉『産科学講義』(南江堂書店、1907年)
 ただそれから20年を経て出版されたこちらの産科専門書では、「此の聴診は直接に耳を腹壁に当るを以て最良となす」とされ(布切れ一枚はさむのも聞こえにくくなるからダメ)、「然れども平常直接耳を以てするは不便多きを以て、聴診器を用ゆるものなり。故に本器中最も雑音を生ずべき部分の少(な)き管状聴診器を宜しとす」とあります。
 西洋の教科書から採られたと思われる二枚のイラストがあり、もう一枚、このDr.中島が診察している写真が収録されているので(p.132)、これは近代デジタルライブラリーで確認していただければと思います。
 ただDr.中島が使用しているのは、いわゆるトラウベではなく、両耳型の管状聴診器です。
◆佐久間兼信『産婆学独習書』(東京助産女学校、1932年)・・・ただし初版は1918年
 まず表紙に、組み立て式になった桿状聴診器のイラストが描かれています。そして「聴診の方法」のところに「聴診器の中で、妊産婦の診察に適当なのはトラウベ氏桿状聴診器である。就中硬ゴム製差換形が宜いと思う」とあり、これが表紙に描かれた聴診器を指していることがわかります(この聴診器は「はめはずし桿状聴診器」とも呼ばれていたようです)。さらに「両耳聴診器は、医師が一般に用いているもので、二本の長い「ゴム管」を有する聴診器である」とあるので、医師と産婆とで使い分けが生まれていたことも考えられます。(このパラグラフは一部修正しています)
 いずれにしても、医師の間では、両耳型でなければトラウベが好まれる(推奨される)状況があって、その延長線上に産科での使用があったということでしょうか。

【追記】
・日本産婆看護婦養成所『最新産婆看護婦講習録:産婆科第4巻』(1919年)では、このトラウベ型聴診器を「産婆用聴診器」と呼んでいる。
・川村清一『産婆に必要なる手技一汎』(1926年)の「産婦の聴診法」では、「妊婦の腹部に直接耳を接着するか或は聴診器なる器械を用いて母児両体の内部に発する諸音を聴取する法なり、両耳聴診器及び単耳聴診器の何れを取るかは産婆の任意なるも…」としている。
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2009年01月08日

気がかりなことC

最近、ある市民団体の通信を読んでいて、おやっと思った記事がありました。

「産科医療補償制度の疑問??」
産科医療補償制度にからんで、出産一時金がアップされる議案が検討されました。障がい当事者からは「制度ができて少しでも補償されるなら助かる」といったものから「脳性マヒが生まれてはいけないのか」という声も。本来は、それぞれのニーズに合った支援策が必要です。お産当事者の意見も置き去りにした、保険会社だけが儲かる制度には疑問の声をあげていかなくては、と思います。

産科医療補償制度は、「分娩に係る医療事故により脳性麻痺となった児及びその家族の経済的負担を速やかに補償する」ことを主な目的として創設されたもので、この1月から実施に移されています。認定されると、準備一時金600万円と補償分割金2,400万円が支払われます。
この制度は、不備な点も多く、再検討の余地は大いにあると思われるのですが、それでも、これを議論するのに、「脳性マヒが生まれてはいけないのか」という主張を持ち出すのは、見当外れなのではないかと思い、このグループに属する議員さんに問い合わせてみました。
すると、その議員さんは、こうした制度ができることが、脳性マヒの当事者(家族)に不快な気持ちを起こさせ、差別をあおることになる可能性があるのだというのです。
それは違うと思います。この制度の趣旨そのものが、当事者(家族)を傷つけるものとは、とうてい思えないのです。
「生まれてはいけないのか」と問われれば、「そうならないように努力しなければならない」と、私はお答えすると思います(避けられないものはあるにしても)。これは、乳児死亡率を下げる努力や、予防接種で感染病を予防する努力と同様に考えるべきものだと思います。
そのために私たちは、出産を介助するとき、胎児の心音を聴く器械や酸素ボンベを持ち運んでいるのですから。
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2008年12月29日

外国人と自宅出産A

もう一方は、少し特殊なケースで、米軍基地にお住まいの方。
私は以前、この基地に近い病院の産婦人科病棟に勤務していたことがあるのですが、基地内で出産できる条件が整っている方で、この病院に来られた方は、8年の間、皆無でした。
私は、その理由として、二つがあると思っていました。
一つは、経済的な理由から。つまり、基地内の出産費は、2,000〜3,000円で済むのに(帝王切開でも同程度)、あえて基地の外で産みたいとは思わないのが普通ですよね。翌日には退院となりますが、2桁違う費用の魅力には抗えないと思います。
もう一つは、法的な理由から。基地内、つまり、法的にはアメリカ合衆国の扱いになっている場所に入って、私が出産を介助するということは、「不正規労働」に該当するというわけです。
こういう説明をして、彼女に、この計画の非現実性を理解してもらおうとしたのですが・・・。
ところが、この方は、費用がかかるのは承知の上のこと、法的な手続きも、自分が窓口に出向いて行なうと言われるのです。
私自身は実現の可能性は小さいと思いながらも、内心はとても期待していました。というのは、基地のお産では、緊急時には、ヘリコプターでハワイの病院に搬送になると聞いていたからです。このお産を通して、こういう医療体制のことを詳しく知りたいと思ったのです。
けっきょくのところ、つまづいたのは、バックアップをお願いすべき、基地内のクリニックでした。そこのドクターに、自宅出産のバックアップはできないと断られたのです。
私にとって、「クリニック」は思わぬ伏兵でしたが、いずれにしても、米軍基地は、日本にあってもアメリカ合衆国、国境を越えるお産の実現には、これからもまだまだ、遠い道のりが待っているように思えます。
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2008年12月28日

外国人と自宅出産@

この秋、自宅出産を希望されていた外国人の4人の妊婦さんが、それぞれ異なった理由で、実施できなくなりました。
お一人は、妊娠の早い時期に流産された方、また一人は、ご主人の他国への赴任にともなうもので、致し方なかったのですが、残りのお二方は、いずれも自宅出産の経験があるアメリカ人で、今回、日本へ来て、自宅出産の希望がかなわなかったという方々でしたので、その事情をご紹介したいと思います。
初めにご紹介するのが、アメリカのコロラド州出身の方。今回3人目の出産で、すぐ上のお子様も自宅出産だったと言われるので、お家を訪問しました。
ここで初めて、一番上のお子さんが、帝王切開で出産されたことが分りました。自宅出産をしていたのですが、頭がどうしても出なくて、病院へ搬送になり、そこで無事、出産されたとのこと。4kgを超える大きな赤ちゃんだったようです。
お2人目は、自宅出産。日本では、VBAC(帝王切開後の経膣分娩)は、子宮破裂のリスクをともなうということで、自宅や助産院で行なうことは認められていませんが(病産院で行なっているところも増えてきてはいますがまだ多くはありません)、コロラド州では、車で20分以内のところにバックアップしてくれる病産院があることを条件に許可されているため、こういうことが可能だったのです。
彼女にしてみれば、帝王切開の後に、普通の分娩を自宅で経験しているのですから、当然、日本でも自宅出産が可能であると信じていたわけです。
日本の事情を知らされた彼女は、ワッと泣き出してしまいました。彼女の選択肢の中には、自宅出産以外なかったようで、こちらとしてもなぐさめようがありませんでした。
アメリカは、自宅出産が盛んでない国という印象がありましたが、州によっては、日本より規制が緩やかなところがあるのですね。「車で20分以内」という条件は、私にはとても合理的なものに感じられました。
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2008年12月25日

気がかりなことB

さらに、もう一つ、長時間、いきみを逃すお産というものがあります。
お産が始まると、膣の奥のほうにある子宮口がだんだん開いていきますが、子宮口が完全に開いて、赤ちゃんの頭が下がってくると、産婦さんは、陣痛時に、自然に力が入るようになります。これが、いきみです。
ここで、「フーウン、フーウン」という呼吸を行いながら、いきませないようにするのが、いきみを逃すお産です(おそらく、三森式ラマーズ法の頃から、この呼吸法が用いられるようになりました)。
何度かいきみを逃す程度であれば、病産院でも行なっているところが多く、理解できるのですが、数十分、これを続けているところが、けっこうあるようなのです。
会陰が切れないように、というのがそれを行なう根拠になっているようですが、このあたりは、自然のいきみに任せたほうが、会陰のあらゆる方向に等分の力がかかって、切れにくいというのが、私の持論でもあります。
いきみを逃す苦しみをくぐりぬけて、赤ちゃん娩出の歓喜にいたる、という筋道を好まれる方もあるでしょうが、そうでなくても痛みの波がおしよせるお産、すんなり終われるものなら、終わったほうがいいように私など思ってしまうのですが・・・。
しかも、これがうまくいかず、会陰が切れてしまうと、それは産婦さんのがんばりが足りなかったからということになってしまします。
私は、「お産は、始まるまで、手を加えないで待つのがいい」と思うのと同時に、基本的に、「始まってしまったお産は、人為的に止めないほうがいい」と考えています。
最近、久しぶりに、この長時間、いきみを逃がしている場面に遭遇して、私は、正直なところ、いたたまれないような気持ちになりました。
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2008年12月23日

気がかりなことA

もう一つ、気になっているのが、やたら苦しいことを強いるお産です。
例えば、分娩予定日を過ぎてしまった産婦さんや、陣痛が弱くなった産婦さん、前期破水をした産婦さんに対してなされる、「階段を何度も上り下りしなさい」、あるいは「長距離を歩きなさい」というような指導。
もちろん、楽しみの範囲内の散歩であれば、私もつきあったりすることがありますが、こういうものは度を超すと苦痛以外の何ものでもなくなると思います。私が見た限りでは、さしたる効果があったためしもありませんし・・・。
ひまし油を飲むというものもあります。これは、西洋では昔から頑固な便秘に対して処方されていたもので、その目的で使用されるのであれば理解できるのですが、陣痛促進の意味で用いられているのを見ると、あまりにもつらそうで、やりきれなくなります。今日、病産院の多くで、出産前の浣腸を廃止しているのに、なぜこうした方法が開業助産師のあいだには残ってしまうのでしょうか。
鍼灸院へ行って、長時間、施術を受けてくるというものもあります。
お灸自体は、私自身もときおり使ってみることがありますが、それは、体を温めて調子を整えるためであって、直接的に、お産を進めようとするものではありません。
それに、ふだんなじみのない人が、お産が進まないからといって、突然、何時間も施術を受けたりすることは、どうなのでしょうか。鍼灸院によっては、置き針をするところまであるようですが・・・。
施術中に、お産が進まないのは、食生活がなっていないからだと説教されて、おびえた顔をして戻ってこられた方を見たことがあって、それ以来、私は、こうしたやり方に対して、疑問を感じるようになりました。
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2008年12月21日

気がかりなこと@

開業すると、まわりの同業者たちがどのようなお産をしているのか、だんだんわかってきます。その中で、私が日頃、気になっているお産について、疑問をまとめてみたいと思います。
その一つが、代替療法を多用するお産。とくに口から何かを服用するものです。
私は、「お産は本格的に始まるまでは、待ったほうがいい」と思っているのですが、何かを仕掛けようとする助産師は、意外に多いように見受けられます。病院で医師が、このあたりで、少し手を加えて、お産を進めたいと思うような場面で、助産師は、それに代わる擬似薬を使って、お産を進めたいと思うようなのです。
「そんなことしなくても、時期が来れば、お産は始まるのに・・・」と、私は思ってしまうのですが・・・。
ニセ科学に反対する人たちから、こうした療法への批判があがっています。プラセーボ(偽薬)以上の効果はないというのがその結論であるように解釈していますが、そうではない(つまり何か薬物を染み込ませているなど)可能性も考えられなくはありません。
というのは、こうした薬を使って、全身に湿疹が出たという人の話を聞いているからです(施術者によれば、こういう反応が出ることもいいことなのだそうですが・・・)。
出産に限って言うなら、プラセーボであれば、むしろ幸いと私は思います。少なくとも体に害はないわけですから・・・。
最近、いくつかの病産院で、こうした代替療法を取り入れていることを知りました。
とくに院内助産院などを始めようとするとき、この種のものを用意すると、いかにも「お産のやり方を変えました」という印象を与えるもののようです。「タダだと言うと、産婦さんたちは使わなければ損と思うみたい・・・」と、スタッフも積極的です。
私には、人間の体に基本的な信頼をおいていないことによるものに思えてならないのですが・・・。
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2008年10月26日

昔のお産はよかったかA

ここで、明治から大正にかけての、分娩体位の変化、会陰保護の導入に対する、私自身の考え方をかんたんにまとめておきたいと思います。
旧産婆と新産婆の助産術を比べるとき、「坐産(会陰保護なし)」vs「仰臥位産・側臥位産(会陰保護あり)」という図式が、当時すでに描かれています。
しかし、分娩介助で、体位や会陰保護よりもっと重要なポイントは、お産を急ぐかどうか、つまり、陣痛が始まって子宮口が開いていく分娩第一期(開口期)に、無理やり腹圧をかける(いきむ)ことをするかしないかという点にあるように思われます。
旧産婆による「昔のお産」に会陰裂傷が多かったのは、坐産だったことより、早くから腹圧をかけさせていたことが原因なのではないでしょうか。というのも、自然に来るいきみであれば、産道もいっしょに開いていくことが考えられるからです。
この時代の女性たちは、新産婆になって、「自分の力で産む」ことから、「産ませてもらう」ことに変化したように感じていたといわれます。もしかすると、彼女たちは、産婆の指示に従って早くから腹圧をかけることを、「自分の力で産む」ことと錯覚していたのかもしれません。
それが、新産婆になって、いきみが自然に起こるのを待つようになり、裂傷を防ぐための介助がなされるようになったということではないでしょうか。とくに、この時代の会陰保護は、会陰部が筒状に盛り上がってくるまで時間をかけたようで、「やってもらっている」という意識が産婦に植えつけられたのだと思います。
分娩時のホルモン動態をかんがみるなら、陣痛が始まって、自然にいきみが来るまでは待つこと、いきみが来はじめれば、無理に止めたりしないでいきむこと、それが、スムーズなお産の基本だと私は思っています。その意味では、かなり道理に適ったお産が、この時代なされるようになったということができると思います。
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2008年10月23日

昔のお産はよかったか@

実は、ブログを始める前から、このタイトルで文章を書くことは決めていました。
どうも世の中には、昔のお産に関して、大きな誤解があるような気がしていたからです(ここで、「昔のお産」というのは、西洋医学の導入・定着を意識して、19世紀末、明治の頃までのお産をいいます)。
その一つは、昔の女性は安産だったという「神話」。
もう一つは、昔の伝統的な産婆には、優れた「技」があったという「神話」。
ほんとうにそうだったのでしょうか。
昔の女性は、膣の感覚が鍛えられていたので、経血をコントロールできた、だから安産だったとする説が広まっていますが、これは、あまりにも短絡的な思考といわざるを得ません。
ふだんの軟らかさや、開閉をコントロールできるかどうかということと、出産時の子宮口開大のスムーズさとは、直接的には何の関係もないと思います。
経血をコントロールできるかどうかは、むしろ習慣の問題で、排尿と同様、トイレに行けなければ我慢するというだけの話だと思います。
1910年代には、妊産婦死亡率がとても高かったことが指摘されています。安産かどうかいうには、大出血や子癇発作を起こすことが今より多かった、そうした産婦さんの体の状態を想起しなければならないと思うのです。
産婆の技術については、すでに書いた通りです。急ぐお産から、安全なお産へと、安産に対する考え方が大きく変るのがこの時期です。
1960年に家庭分娩が施設分娩に切り替わってから、極端な医療介入・薬剤の使用による行き過ぎの管理分娩があったのは事実ですが、だからといって、西洋医学の導入以前に、何か特別な技があったとするのは錯覚に過ぎないと思います。
お産がよくなったのは、旧産婆ではなく、新産婆の時代になってからのことであり、学ぶべき技があるとすれば、それは、後者が西洋医学から学んだものであるということです。
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2008年10月15日

産婆が遅れたときA

『女ばかりの衛生』は、この先、もっと面白くなります。6番として示されているものは、7〜15番をまとめるタイトルともなっています。(以下要旨)
6. 産婆が来る前に生れそうなとき、あるいは生れてしまったときはどうするか
7. 産後の処置(略)
8. 臍帯の切断法(略)
9. 出産後の産婦の処置(略)
10.分娩後の飲食物(略)
11.産婦がめまいを起こしたときの処置(略)
12.産婦が悪寒を訴えたときの処置(略)
13.赤ちゃんの処置(略)
14.赤ちゃんに異常があったときの処置(略)
15.産婦が一眠りした後の処置(略)
こうして、すべての器物が片付けられ、汚れ物はまとめて他へ移し、分娩用の器物は清潔に消毒し、これで一安心、案じるより産むが易いと一家皆々喜んでいるところへ、「どうも遅うなりまして何とも申しわけございませぬ」といいながら入ってきたのは先約の他家のお産をすませてきた産婆である。
「素人流にやっておきましたが、何分不行届きなところをお直しくださるように」 産婆はとりあえず母子ともに調べてみて、「おそれいりました。これなら玄人はだしでございます」(以上)
こういう光景もよくみられたのでしょうか。いくらか皮肉もこもっていて、思わず笑ってしまいますね。
この糸左近氏、『通俗治療法』(1906)の中では、難産の特効薬として、「酒」を紹介しています。
上等な日本酒20gをグッと一飲みにするというもので、平素、酒をたしなむ人は、ほろ酔い加減になって興奮を増し、酒を好まない人は大いに酔って嘔吐する反射作用が子宮にも及んで、ともにいい効果があるというのですが・・・。
3番「出産時の必要品」にも、良質なぶどう酒というのが含まれていて、11番「めまいを起こしたとき」に、水で割って飲ませることを勧めています。
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2008年10月14日

産婆が遅れたとき@

明治・大正年間に活躍した、今でいう医療ジャーナリストがおり、その名を糸左近といいました。『素人診断学』、『素人薬剤学』、『衛生百人一首』、『家庭医学』、『何うすれば長命できるか』などたくさんの指南書を著しましたが、助産師の立場から痛快に思われたのが、『女ばかりの衛生』(1910)、その「臨月及出産時の心得」というくだりです。
産婆が間に合わないときを想定して、緊急時の対応を教示するのですが、当時の産婆の立場、自尊心などをみごとに描き出しているように思います。
「出産時には、もちろん産婆がいいように取り計らうに違いないのであるが、ときによっては、前もって約束していた産婆が病気になって、他の産婆もいろいろな差しさわりがあって、出産時に間に合わないというようなことがないとも限らない。
このようなときに家族に出産時の知識がなければ、母子ともに困った事態になって、いろいろな病気に罹ったり、一命を危うくすることもある。だから、産婆の仕事に立ち入って、その心得を詳しく述べることにする。
1. 産室の選定(略)
2. 産床の作り方(略)
3. 出産時の必要品(略)
4. 陣痛が始まったときの処置(略)
このように、いつ生れても大丈夫という状態にしておくと、からからと車の音がして、さあ、産婆の入来となる。「どうぞよろしく願います」「まあ、お素人にしては、よく整頓していること」
こう誉めてくれるに違いない。そして、あとはすべて産婆の指図に従い、医者を招けといえば「はい」、何かを買ってこいといえば「はい」と、何ごとも背いてはならない。また、このとき大事なことは、
5. 良人は在宅せよ、ということである。
夫は、何もしなくても、煙草をくゆらせていればよい。夫が家にいることは産婦にとっては何より増して心強いものである。その心強さが、安産にもつながるのである」
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2008年10月13日

難産はわがままの証拠?

安産を願う気持ちは、どの時代にも共通するもだと思いますが、明治の終わり頃、出版された書物の中に、驚くべき内容のものがありましたので、ご紹介したいと思います。
女子裁縫高等学校出版部による『家庭節用』(1910)が、それです(「家庭節用」というタイトルは、現在でいえば、「家庭百科」というようなものに当たるのでしょうか)。
その中の「安産を期待すべき法」という項を見てみましょう。あらましは、以下の通りで、一言でいうと、難産は、産婦のわがままから起こるのだというのです。
「難産は、どのようなときに起こるかというと、@産道が狭くて胎児の通過が困難な場合、A胎位の異常があって胎児の通過が困難な場合、この2つの場合である。しかし、こういう例に遭遇するのは極めてまれなことである。実際に多く起こる難産の理由は、陣痛作用、つまり胎児を押し出す力に乏しく、子宮の収縮力が弱いことによる。この陣痛作用は、精神感動に左右されるものであり、産婦のわがままによって異常をきたすものである。夫が過度に心配したり、親が甘やかしたりすると、本人は分別をなくして弱りはて、たちまち陣痛力に異常を生じて、難産となり、胎児を失い、極端な場合には本人をも危険にさらすことになる。だから産婦は従順になって、その介助に心を安らかにしていれば、お産は軽いものと思うはずである。お産が始まったときから、あれこれ心配して、それが度を超すようなものには難産が多い。ゆえに、難産はわがまま女に特有のものと見てさしつかえない」
まるで、修身の教科書か何かのようですね。こんな偏見で見られていた、昔の産婦さんのたいへんさが偲ばれます。
(ただし、こういうことを書いた本は、私が見た限り、この一冊だけです)
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2008年10月11日

明治時代の会陰保護B

1920年代以降になると、会陰保護は、どう変るのか。
高橋辰五郎の『産婆学講本(8版)』(1924)は、1898年の初版発行以来、版を重ねてきたものですが、従来通り側臥位分娩を先に示して、とくに初産婦では、側臥位を取るべきとしています(通し番号163)。
一方、『実験産婆学』(1925)を著した、望月寛一は、仰臥位は側臥位に比べて、会陰保護がやりやすいとしています(通し番号145−146)。はしがきに「従来刊行されてをる産婆書を見るに、往々にして学説に重きをおきすぎて実際の応用に迂といものがあり・・・」とあるので、かなり意識的に自説を述べたものかもしれません。
このあたりから、側臥位と仰臥位の逆転が起こったことも考えられますが、両者が併用されていたことは間違いないでしょう。というのも、戦後、1950年に出版された、真柄正直『最新産科学』(今日でも次々に改訂版が出されています)の中でも、仰臥位に比重は置かれているものの、側臥位の場合の会陰保護もちゃんと載せられているからです。
ところが、1972年の日本看護協会出版部による『助産学』には、手技の説明がなく、図解もありません(1960年、家庭分娩から施設分娩への移行を受けての配慮ということは充分に考えられます)。
それが、1985年の『臨床助産学』(南江堂)では、仰臥位・側臥位・坐位の各体位における会陰保護が登場します(それぞれ一長一短があるとの説明も)。フリースタイル分娩のブームに触発されて、復活をみたのでしょうか。
こうして分娩体位・会陰保護の変遷をたどってみると、一般に信じられていることとは逆に、自然のいきみが来ないのに、早くから腹圧をかけさせていたのが、伝統的な産婆であり、会陰保護をしながら、「一度の腹圧を二度にして、二度の腹圧を三度にして」、ゆっくりお産を進めていたのが、新しい教育を受けた産婆だったという、意外な事実が見えてきます。
posted by wada at 00:52 | TrackBack(0) | お産 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする