まずは、明治時代の大阪市の事例から。
大阪には、1887年、大阪産婆会が結成されますが、これが産清社を設立して、胞衣汚物の取扱い業を開始します。利用者が少なくて、結果としては、間もなく廃業に追い込まれるのですが・・・まだ、衛生思想が行き渡っているとはいえない時代だったので、こうしたことにお金をかけることが習慣化しにくかったのでしょう。
この後、1900年、大阪府令「胞衣汚物取締規則」が公布されて、許可を受けた事業所が営業を開始しますが、取扱い方法等が非衛生的で、法外な料金を要求するなど、弊害が目立ってきたようです。
そこで、大阪市では、1902年、事情の許さない市域周辺部を残して、これを市営化することにします。肩引車により収集して、埋没あるいは焼却処分にするもので、特等・上等・中等・下等の4等級に分け、前3者については、胞衣塚に合祀して、毎年大祭を執り行なったようです。
もう一つは、大正時代の北海道小樽市の例です。
以前にも、少しお話しましたが、1920年代は、日本各地に、妊産婦保護事業が繰り広げられていた時代です。その中には、産婆会が、主体的に行なっているものも少なくありませんでした。
小樽市では、市の産婆会が、無料産院の設立を計画しますが、その建設資金を得るために、1925年、市内の、胞衣・産汚物の取扱い許可を得たと言われます。産婆会が、焼却事業を実施し、取扱い料金から経費を差引いた残りをこれに当てたのです。
この時代になると、胎盤の処理が、事業として成り立っていたという証左にもなるかもしれませんね。
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