2016年03月28日

指導教授が求めたことF

【2014年5月10日】
 指導教官からの反論。けっきょく段階論から抜け出せないご自身のことは棚に上げておられますが、そんな自分を説得できなければダメというわけですね。
和田様

繰り返しになりますが、「間違っている」と断言するだけではだめで、いちいち論拠を挙げて説得する必要があるのです。読み手が説得されなければ、それは単純に書き手の負けなのです。

「間違っている」という断言が意味を持つのは、聞き手がすでに語り手の権威なり正当性を受容している場合のみであり、そのような場合には、説得されなくとも「説得されない自分が悪いのだろう、では自分のどこが誤っているのか」との自己点検が始まります。
和田さんの場合には、そのステップが不足しています。このままでは、すでに結論を共有している相手としか話が通じない恐れがあります。

あるいは、たとえば政治哲学において、ロールズがやってのけたように、あえて至近の伝統を無視して、新しいゲームを始める、ということも不可能ではないですが、それこそロールズのように、その後万単位の研究者がそれを飯の種にできるほどのスケールの著作を一挙に提示しなければ無理です。

また学の伝統というものに対しても認識が不足していると考えます。日本資本主義論争自体は同時代的には日本のマルクス主義者の狭いサークルの中でのかなりどうでもよい論争でしたが、それでも思想史的には後世にほどほどの影響を及ぼしましたし、またこの論争で提起された論理自体は、割合普遍的で、あちこちに姿を変えて再現されるようなものだったと考えます。戦後において二重経済論、ルイス的転換点として山田盛太郎が読み替えられたのもその一例でしょう。

歴史学に限らず実証科学においては、間違った前提から出発したとしても、事実の発掘を丹念に行っている限り、必ずしもそれ以降すべての蓄積が無意味となるものではありません。その蓄積の結果終には誤った前提が見直される可能性は常に残されています。

和田さんの言う「戦後の歴史学」はすべてがマルクス主義に尽くされるわけではなく、経済史学においても安場や中村という先達が存在し、講座派マルクス主義の立場をとりながらも原朗は中村の弟子でもありました。マルクス主義者の中での労農派系・講座派系の緊張関係はもちろん、近代経済学系においても講座派的な二重構造論につく者もいればそうではない者もおりました。講座派的な問題意識はことに岡崎哲二以降、青木昌彦的な制度分析の枠組みに読み替えて継承されていったきらいがあります。他方で計量経済史の研究者は、こうした制度分析に対しては(「実証性が甘い」と)警戒していました。
しかし大体において経済史学の領域においては、時間を経る中で立場や理論枠組みを異にするものの間の緩やかな連帯というべきものは生じてきていたと思います。戦後日本経済史学のメインストリームは実のところ講座派と宇野派の折衷であり、しかも70〜80年代に「独占段階への移行」が焦点だった時代には、主たる分析用具は近代経済学的な、ベイン流の(旧)産業組織論でした。結構いい加減なものです。
もちろん緊張関係はあります。(ある講座ものに執筆する際、中村は「国家独占資本主義などというタームをタイトルにつけた本には書かない」とごねたというエピソードが残っています。)

経済成長をこの時期のすべての論者が軽視している、というのも全くの誤りです。ある時期以降宇野派の実証研究者のほとんどは、近代経済学の普通の研究者と同様、日本資本主義の成長力をほぼ留保なしで肯定するようになっています。もっとも明確に開き直ったのは80年代の橋本寿朗ですが、実質的にはそれ以前から一部の研究者はそんな感じでした。宇野派の産業研究者の多くは80年代以降は実際には経営学者になっています。そもそもマルクス主義は本来どうしようもない成長主義なのであり、成長主義と反資本主義を両立させていたのが元々の姿なのですが、80年代以降分岐していくのです。
そうではなく、経済におけるマネタリーな側面を軽視し、ケインズ主義を財政に偏って理解し、金融政策無効論にとらわれていた、の方が適切な批判です。それについても、なぜそうなってしまったかについての理由までさかのぼっての批判が必要です。
(……)
posted by wada at 17:34 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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