2016年03月28日

指導教官が求めたことD

【2014年5月10日】
 5月7日に、論文チェックのスケジュール等について、高圧的な調子のメールが届きますが、それは後に触れるとして、ここでは5月10日のやり取りをご紹介します。
和田様

(……)
和田さんの問題意識をどう表現すればわかりやすくなるかは難しい問題です。
一番適切な書き方は、あたかも文学研究でなされるように、テキストの校訂を行う、この場合ですと一番問題になる『報告書』テキスト形成の歴史的経緯の綿密な検討のみならず、本文についても章どころかパラグラフごと、あるいは一文一文、猪間の文体や問題設定の癖を考慮に置き、どこからどこまでが猪間の筆になるか、そしてほかの箇所は誰が、といった問題を明らかにしていく、ではないかなとも思ったりもしますが……。

何か和田さんのお話を聞いていると「別に自分には言いたいことはなく、猪間のテキストと事績を紹介すればおのずと明らかになる」とおっしゃりたいようにも聞こえます。それにふさわしいスタイルとなると、上記のような感じかな、と。
しかしそれは文学や哲学史の一部の論文ではなされますが、あまり社会科学界隈ではなされないのです。社会科学界隈では学説史研究も、どうしても自分の土俵での再構成を求められます。引用を並べて「彼らはこういった。これより明らかである」では相手にされません。自分の意見を交えずに学術研究と評価されるには、それこそテキスト校訂・資料批判のスタイルに特化しないとならないような……。

日本資本主義論争ですが、同時代的かつ社会史的にはそれ自体が矮小な問題であったという観点はあり得ます、というより実際そうだったとは思います。その意味では金解禁論争や、更に大日本主義・小日本主義をめぐる論争の方がはるかに重要です。ですから「矮小な問題として検討はしない」と書くことは可能ですが、書き方というものがあります。つまりそれが矮小であることを説得的に提示しないといけないわけです。「矮小な人間たちがやったことだから」だけではだめです。「矮小な人間たちが重要な問題について考えていたとしたらどうなのか?」という疑問に反論できません。また矮小性自体の論証も結構重要で、単なる感情的評価や陰謀論と思われないためには、陰謀の証拠を提示しないとならないのも確かです。

私見では、思想的に言うとこの矮小な日本資本主義論争における問題のセッティング――マクロ面を無視してのミクロレベルでの、日本経済の成長体質についての議論(二重構造は重要か否か、等)は、やはりマルクス主義系の経済史研究のみならず、安場保吉、中村隆英、速水佑次郎といった戦後日本の経済発展研究のリーダーたちの問題意識を規定しています。また大日本主義・小日本主義論争は、米谷匡史が変に重視する昭和研究会その他革新主義の議論の動向をも規定しているのであり、戦後の左右の帝国主義観にも影響を与えています。戦時下の石橋湛山の言説、あるいは『報告書』その他から見えてくる猪間や鈴木武雄の問題意識は、それらを小日本主義の精神を引き継ぎつつ批判するものと解釈することも可能でしょう。資本主義論争の一国レベルの発展論は、マクロとつながりにくい論点ですが、大日本主義の問題は国際通貨等を通じてマクロとつながりますので、重要だと思います。
(……)

posted by wada at 16:56 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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