2016年03月28日

指導教官が求めたことB

【2014年4月18日】
 2012年度の秋以降に起きた出来事を考えようとすると、今でも悪夢の中にいるような錯覚に陥ります。一つらなりの出来事としてとらえることが難しく、書く作業は何度も中断されます(すでに報告書は書き上げているというのに)。
 ハラスメントの経緯については後で詳しく書きますが、とにかく『猪間評伝』を形にすることで一歩目が踏み出せたこと、キャンパスで偶然出会ったある先生のお力添えによって研究環境を整えることができたことが(指導教官を変えるのは無理でしたが、主査・副査は変更され、外部審査委員は希望を入れてもらいました)、「博論」の執筆を始めるきっかけとなりました(ただ、いずれにしても論文は書くつもりで、それを「博論」として提出することを決めたのは最終段階でした)。
 その「ある先生」が、指導教官に「ちゃんと指導をするように」、また、私のための「研究計画書」を書くようにいってくださったようで、それから3ヵ月位たってから、次のようなファイルが送られてきました(何かに上書きされたもののようで、「日本経済論、あるいは日本資本主義論の座標軸としては、それが本格的な課題として確」という不思議なタイトルがついていました)。
和田みき子氏博士論文への注文

 猪間という人物を日本近代史に位置づけるために、とりあえずは日本経済史研究の研究史、学説史の中に位置づける工夫が必要。
 東大経済学部における組織的暗闘に巻き込まれたという側面も大事だが、やはり湛山的自由主義の系譜に立つ論者として際立たせたい。

 それゆえ
「第一部 戦前・戦時期日本経済と経済政策の展開のなかでの猪間 1 (とりあえず猪間なしでの)研究史とその問題 2 猪間驥一という人物 3 猪間を入れることで研究史の見え方がどう変わると予想されるか」
「第二部 猪間驥一の経済思想 1 略伝 2 経済認識」
「第三部 総括 日本経済史・経済思想史における猪間驥一」
という感じになるといいかな、と。

 以下、踏まえていただきたい問題系をつらつらと書く。

☆日本資本主義論(日本経済論)におけるいくつかの対立軸

・「マルクス経済学」対「近代経済学」という対立軸は大した意味を持たない。せいぜい「日本資本主義」「帝国主義」といった用語を用いるかどうか、である。

・「日本資本主義論争」における「講座派」対「労農派」の対立
 日本資本主義は半封建的であり、封建的な農村セクターの重石に引きずられているのか、あるいは基本的に近代資本主義であり、農業も市場の論理に支配されているのか?
 政治的には、日本国家は天皇制絶対王政か、不完全ではあれブルジョワ立憲主義か?
→戦後における変奏――「二重構造論」――近代セクターと在来セクターの二重構造の持続、「ルイスの転換点(農村セクターからの無制限労働供給の終焉)」はいつか?
 自民党支配の性格をどう見るか?
 「日本資本主義論争」の争点は実はマルクス主義陣営における対立にとどまるものではない! 
 「労農派」の流れをくむ「宇野派」においては、資本の支配的蓄積様式(と対応する経済政策)をベンチマークに資本主義の発展段階を見出し、日本資本主義の高度な発展を認める論理を無理なく展開できた。
 こう考えると「近代経済学」の発想に近しいのは「宇野派」「労農派」に見えるかもしれない。しかし話はそう簡単ではない。「二重構造論」を開発経済学(ルイス等)と照応する発想と見なし、市場が十分に発達しない在来セクターのメカニズムを「制度」としてとらえる立場の論者は、むしろ「講座派」的発想の継承者といえる。
(戦後の非マルクス経済学者による「日本資本主義論争」論、とりわけ中村隆英、安場保吉、中林真幸のものに注意せよ。)
 「講座派」対「労農派」の対立は、日本経済の発展段階の理解をめぐるものであったのみならず、経済と政治の連関の理解をめぐるものでもあった。では、それはどのようなものであったのか?

・「金解禁論争」前後、並びに昭和恐慌から戦時経済の評価をめぐって
 「金解禁論争」自体、更に昭和恐慌の最悪の時期は「日本資本主義論争」に先行していることに注意。
 長幸男の整理に従うならば、金解禁並びに昭和恐慌前後の経済論争においては、高橋財政、ならびに石橋湛山の経済評論が代表する、ケインズ主義的立場――金本位制の廃棄と機動的財政金融政策を主張――と、浜口―井上ラインが代表する金本位制復帰と産業合理化(構造改革)志向とが目立った対立であり、マルクス主義陣営の論者はほとんどの場合結果的に浜口―井上的ポジションをとってしまう結果になっていたことになる。
 「金解禁論争」は、果たして「日本資本主義論争」に何らかの影を落としているのか?

・「金解禁論争」はマルクス主義者以外、更に学界のみならず言論界官界実業界を含めて広範な参加者を集めた論争であったのに対して、「日本資本主義論争」は一見マルクス主義者の中の「コップの中の嵐」であったし、コミンテルンの政治的マヌーバーによて引き起こされた不幸な争いではあったが、その後世への知的影響は存外大きい。
 「金解禁論争」は今日的にはケインズ派対反ケインズ派、あるいは貨幣重視派対実物重視派、拡張主義対緊縮主義の対立として理解しやすいが、シンプルであまり含みがないように見える。実際この論争がアクチュアルな相貌を帯びて広く読み返されたのは、たかだか20世紀末のバブル崩壊以降、「失われた二十年」以降でしかないのではないか。
 「日本資本主義論争」の後世へのインパクトはもっとわかりやすく複雑である。本来のそれはとりあえずは「日本は半封建的絶対主義国家で、当面の課題はブルジョワ革命とプロレタリア革命の二段階革命」(講座派)対「日本は資本主義国家で、課題はプロレタリア革命」(労農派)という対立であり、この争点自体は戦後まで生き延びることはない。
 しかしながら戦後これらの争点は、例えば左翼、マルクス主義陣営においては「日本はアメリカ帝国主義の半植民地であり、課題は民族独立と社会主義革命である(対米従属論)」(日本共産党)対「日本は既に帝国主義国家として復活しつつある(日帝自立論)」(新左翼)という対立に姿を変えた。そして非マルクス主義サイドにおいても「日本は途上国経済と類似の在来セクターを最近まで抱え込んでいた、それゆえの二重構造が依然残存している」対「日本はかなり早期から成熟した市場経済である」という対立を見ることができなくもない。
 ちなみに80年代における絶頂期の日本経済論(日本的経営論)は、「講座派」において「半封建的」とされてきた日本的労務管理を、「労農派」の流れをくむ「宇野派」の視点から「帝国主義段階」(後期資本主義)に適合的な経営システムと位置づけなおすものであった。ここにも「日本資本主義論争」の余波は及んでいるのである。
(米谷匡史の昭和研究会論も、こうした潮流に掉さしている。無論戦後ではなく、戦時動員の中での革新派の路線対立の中に、「日本資本主義論争」の残響を聞き取るわけである。そこでは革新左派は、いわば一国資本主義の限界を帝国主義ではなく世界革命で突破しようとする戦後の新左翼の先取りのようなポジションを付与される。)

・それに比べると「金解禁論争」、そこから透けて見える石橋湛山の「小日本主義」が代表する親ケインズ的リベラリズムの存在感は何とも薄く、「失われた20年」、更に東アジアの緊張とともにようやく本格的に読み返されるようになったばかりである。その意義は今日どのようなものとして読まれ得るか?
 金本位制の廃棄、リフレーションといったマクロ政策論と、自由貿易主義、反植民地主義、開明的社会政策といったミクロ政策論からなる湛山の政策パッケージは、どのように整合性がとられているのか? 
 変動相場制―管理通貨制への移行が国内的にはマクロ政策を可能とし、かつ国際的にも国際収支の問題が貿易に対して障壁ではなくなり、自由貿易主義を可能とする――といったところだろう。では、社会政策との関連は?
 労働組合の承認、産業組合(農業協同組合)――? 経済自由主義への敵とはみなしていないのは、なぜか? 
 「日本資本主義論争」の流れをくむ日本経済論においては、基本的にマクロの契機が欠落しており、その分だけ湛山的なパースペクティブはある種の優位を主張できるはずだが、実際にはそこまでの存在感はない。この立場に存在感を回復させるためには、ミクロサイドに議論を今少し充実させる必要があるのではないか? 
 マルクス経済学者の一部は、高橋財政には(のみならずニューディールも)実は限界があり、不況からの本格脱出には軍需、更に帝国主義的侵略による海外市場の囲い込みが必要だった――と主張している。乱暴に言えば、実物的不均衡を埋めるためには、貨幣政策では足らず、財政的な実需(としての軍需)が必要だった、という議論である。これとニュアンスを若干異としつつも重なり合うのが、榊原―野口論文から『1940年体制』に至る野口悠紀雄、また岡崎哲二による、戦後経済の前提としての戦時統制経済論である。
 彼らの議論ではマクロ、マネタリーな側面が軽視されている。これに対して「マクロ・貨幣という次元が重要ある」とぶつけることは必要だが、そのいわばミクロ的な効果をも論じる必要があるのでは?(たとえば戦時下では管理通貨制ではあったものの外貨との決済において戦争ゆえの困難を抱え、変動相場制のメリットは享受できなかった、あるいは「円ブロック」が施行されてブロック内は実質固定相場制だった、等。そうしたマクロ的逼塞も、統制経済による事態の糊塗を要請した?)

☆猪間驥一の位置づけと再評価を以上のような文脈で押さえるとどうなるか?

1.湛山的「小日本主義」的な帝国主義(「大日本主義」)批判としての人口論
 「大日本主義」はマルクス主義風に言うと「帝国主義」で、市場の機能不全を前提とした議論であるが、そこで人口論はどう位置付けられるか? 後期資本主義としてのレーニン的帝国主義論はともかく、前期資本主義としての重商主義においては、スミス的な労働市場を通じた人口調整や、リカード的な貿易を通じた食糧調達は想定されておらず、人口を独立変数とし、人口扶養のためには農業生産、そして土地が必要、という議論が展開されることもあった。「大日本主義」も需要不足―雇用不足を植民でもって解決しようという議論ではなかったか? 
 猪間の人口論はこの論脈でどのように位置づけられるか?

2.開戦以降の「大東亜共栄圏」評価
 湛山らの批判にもかかわらず日本は帝国主義の道を歩んだ、とするならば、その局面において少しでも正気を保とうとした猪間のコミットメントをどう評価するか? 『報告書』における植民地経営の評価において、「大東亜共栄圏」をそれこそナチスの「広域圏」的なアウタルキーとしてではなく、自由市場圏に作り変え、将来における政治的独立をも展望するものであった――ありえた、という議論を猪間は展開しえたか?
 このあたり当然鈴木武雄の評価の問題とも絡む。

☆対決すべき先行研究(とりあえず戦時に絞る)
松浦正孝のものはもちろんであるが、そのほか
石井寛治『帝国主義日本の対外戦略』名古屋大学出版会
「在華紡」に着目しつつ、37年までに焦点を絞って、なぜ政治勢力としての日本ブルジョワジーが戦争を回避できなかったのか、を問おうとする。
原朗『日本戦時経済研究』東京大学出版会
荒川憲一『戦時経済体制の構想と展開』岩波書店
山本有造の著書
山崎志郎の著書
あたりを研究の前線ないし総括として、
『日本経済史』東大出版会
などで研究史を確認していく。

ラベル:猪間驥一
posted by wada at 12:36 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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