2016年03月26日

指導教官が求めたこと@

【2012年4月26日】
 私が最初に博士論文の草案を提出したときの返信メールです。このときはまだ、指導教授がマルクス主義的歴史観のもち主であることに気づいていませんでした。
和田様

ざっと拝見しましたが、以下のような点を明確化する方向で修正された方がよいと存じます。

・石橋湛山の「小日本主義」はある程度までは戦前の日本において実現していたことを明確に主張し、できるだけその根拠をあげて傍証する。
・にもかかわらず湛山の構想はいったん挫折するわけであるが、それが必ずしも必然ではないことの論証を目指す。
・それだけのことであれば既に多くの先行業績があるので、猪間(や上田)の仕事を湛山構想の一定程度の実現の証拠として、また特に猪間の戦後の報告書をその検証作業として読む、ということで研究史への貢献とする。
・湛山の半植民地主義はいったんは挫折し、湛山自身はその後消極的抵抗に入るが、高橋亀吉や猪間はあえてアジア主義にコミットすることで、「よりましな植民地帝国」を目指したことを明確化する。またそれはどの程度有効であり得たかも検証する。この際猪間の戦後の報告書は主要な資料となると期待される。

 湛山を主軸に据えるのはいいのですが、やはり猪間を活躍させないと、あまり目新しい仕事には見えなくなってしまいますので、湛山と猪間の関係についてはしつこく強調して良いかと思います。

 ここで注目すべきは、この教授がこだわる、「消極的抵抗」と「挫折」(=失敗のプログラム)という、二つのキーワードです。
 「消極的抵抗」とは、松尾尊兌らが「十五年戦争」ということばとセットにして用い始めたもので、満州事変以後、日本は「十五年戦争」に入り、湛山はその「戦時下」において、国家に対して表立った批判はできなかったが、「消極的抵抗」つまり「帝国主義」という怪獣とたった一人対峙しようとしたという文脈で説明しようとするものです。
 「挫折」とは、湛山の「小日本主義」の挫折をいうもので、優れた思想であったが、けっきょく戦争を防ぎきれなかったから「失敗のプログラム」であったとするものです。
 「消極的抵抗」が現実を反映したものでないことはすでに述べていますが(高橋財政期に「戦時下の抵抗」という枠組みに収めるべき湛山の評論が見つからない)、この教授の場合は、リフレ派も名乗らなければならないので、矛盾がさらに深刻化します。どのようなことになるかというと…。
 金解禁論争で湛山らの新平価金解禁の主張を支持するのは、問題ないですね。
 浜口内閣が成立して井上蔵相が行った旧平価金解禁や緊縮財政に批判的な立場を取るのも問題ないのですが、その不景気のさなか、1931年9月に満州事変が起こってしまいます。
 「十五年戦争」というのは満州事変開始以降の時期を指すので、ここから湛山は「消極的抵抗」に入らなければなりません。
 ところがその3ヵ月後に犬養内閣が成立し、高橋是清が湛山らの提言を採用して新平価金解禁・金本位制停止を実施します(湛山は、何と「消極的抵抗」を行いながら、政府にリフレーション政策を提案していたわけです!)。
 そして、高橋財政期を通して「消極的抵抗」を続けているはずの湛山が、リフレーション政策を展開する高橋蔵相をブレーンとして背後で支えていたのです(それも、「軍事費を縮小すべきでない」という提言を行って)。
 それが「失敗のプログラム」であるのなら、リフレーション政策の提言自体が間違っていたことになるのではないでしょうか。
 大内兵衛は、昭和財政史を失敗の歴史と規定し、その結末として太平洋戦争があったと結論づけ、その責任を高橋財政に帰していますが、これが奇しくも「失敗のプログラム」という考え方に符合するわけです。高橋財政開始の直後、湛山のこの政策提言に異議を唱え、暗殺される直前の井上準之助と手を組んで、湛山の追い落としを図ろうとしていたのが有沢広巳だったことも確認しておくべきだと思います。
 この教授に限らず、「湛山好き」の左翼の人たちってこういう矛盾に気づかないのでしょうか。
 念のため、猪間が、高橋亀吉や鈴木武雄のように、「あえてアジア主義にコミットすることで、「よりましな植民地帝国」を目指した」というような事実はありません。湛山のように、東洋経済新報社の京城支局を設置して『大陸東洋経済』を発刊するようなことさえ行っていないのです。
 当初、猪間と鈴木を取り違えただけかと思い、何度も指摘しているのですが、この教官はずっとこの主張に固執したままです。
posted by wada at 16:53 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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