2016年03月03日

土方成美ゼミ生たちの受難

 前回同様、土方成美『事件は遠くなりにけり』(経済往来社、1965年)からの引用です。土方ゼミとはいっても、厳密にはゼミ生ではなく、ゼミに出入りしていた北山冨久二郎の話が中心になります(引用文中にもあるように、北山は山崎覚次郎の門下生です)。
 戦敗に歓呼の声をあげたもの
 昭和20年8月15日、終戦の詔勅は三井本社の廊下で聞いた。(……)
 それはともかく、如何に軍が無謀な戦争を始めたとはいえ、国民の大多数はこれに協力したのではないか。(……)
 ところが、同じ日本国民の中には、この敗戦を待ってましたとばかりに欣んだ人が少なからずあったことは残念なことである、
 中でも喜んだのは共産党を中心とする左派マルクシストの連中であった。(……)占領軍は戦時中の日本の旧勢力を抑えるためには共産党の勢力を借りる必要があると考えたらしい。ひどく共産党を煽てていた。野坂参三氏が凱旋将軍のように外地から引揚げて来る。日々のラジオ放送では野坂、志賀といった人々の放送が聞えて来る。それに呼応するかのように、躍り出した一人が大内兵衛君である。
 これより先、同君は「満州事変後の財政金融事情」を調査するという名目で日本銀行の嘱託?になっていた。当時の日銀総裁渋沢敬三氏とは相当昵懇であったらしい。先ず終戦早々、昭和20年の秋である。ラジオ放送で、日本の財政を論じて、各種の補償の打切を唱道した。これは当時の大蔵大臣渋沢敬三氏との狎れ合いの疑も持たれた。
 これでもだいぶ端折りましたが、ここまで大内の悪口をいっている人を私は知らないので、長めに引用してみました。北山冨久二郎の動静もこれによってわかります。
 大内教授はさらに、この勢を利用し、占領軍を背景に多数の教授を追い出し一党を率いて東大復帰を試みられた。(……)先ず血祭に上ったのは荒木光太郎教授である。それについで追出しを喰ったのは、油本豊吉君、中川友長君である。ご両人とも東大在学中、私のゼミ(学習指導)に出席した人々である。(……)難波田助教授も追放された。(……)その外に、平賀縮学の時に、内務省社会局から招かれて教授になった北岡寿逸君も追われた一人であった。北山富久二郎君も追われたが、この理由は、私にはもっともわからないことの一つである。北山君は私の所にも親しく出入していた人で、山崎覚次郎教授の推薦で、台北大学の教授として招聘された人であるが、平賀粛学後東大入りをした。終戦当時、大内君の東大復帰を非常に歓迎されていたが、それにどうしたことか、結局追われることになった。現在は舞出五郎君の下に、学習院大学の教授をしている。(……)かくて、東大経済学部は終戦と共にマルクス主義者ないしその同調者が体勢を支配するところとなった。
 北山が東大に戻った後、追放されたこと、そのため学習院大学へ行ったことも私は知りませんでした。
 「昭和4年頃、土方ゼミの参加者(敬称略)」という写真があって、そこに猪間驥一も写っていますが、同じところに北山の姿もあって、二人が戦前より面識があったことがわかります(年齢の差から大学院は入れ違いになったと思っていました)。
 『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の編集委員の3人、猪間驥一、鈴木武雄、北山富久二郎は大学時代からかなり近いところにいたのですね(鈴木と北山は大学院で同級生)。
posted by wada at 19:19 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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