2016年03月03日

猪間驥一の助教授昇格問題

 今回は、飛び込みの情報ですが、ご興味がある方もあるかと思い…。 
 以前から、河合栄治郎の日記の原本がないのか、いつか時間ができたら確かめてみようと思ってきました。河合がヨーロッパ留学から帰国して、有沢広巳・大森義太郎、また猪間驥一に会ったときのこと、後にクーデターを起こすくらいですから、何か書いているはずなのです。
 先日、少し時間ができたので、何冊かの本を読んでみました。
 『河合栄治郎全集』第22巻「日記T」(社会思想社、1969年5月20日)
 江上照彦『河合栄治郎全集』第21巻「河合栄治郎伝」(社会思想社、1970年12月30日)
 松井慎一郎『河合栄治郎:戦闘的自由主義者の真実』(中公新書、2009年)

 いずれも猪間に触れた部分があるのですが、それらはすべて、『河合栄治郎全集』刊行に際しての猪間と吉田忠雄の対談「計算外の人生」(『社会思想研究』第19巻第5号、1967年)、『日記』または『全集月報』に基づくもので、猪間の『人生の渡し場』(三芽書房、1957年)さえ用いられていないのです。
 ですので、猪間を調べている者にとっては、ちょっと期待はずれでした。
 江上・松井両氏は、河合の長男武氏と親交があったようですが、「日記」に関する話は出てこないので、あるいは、『河合栄治郎日記』を出版した時点で、武氏が処分してしまわれたのかもしれません。
 その一方で、江上氏が書かれた『伝記』には、土方成美の『事件は遠くなりにけり』に触れた部分があって、土方は日記もエッセーも書いてないとばかり思っていたので、読むだけは読んでおこうと思って読んだものでしたが、これは大収穫でした。
 土方成美『事件は遠くなりにけり』(経済往来社、1965年)
 1923年の関東大震災以降の、東大の人事に関して、次のようにあります。
 最初に問題になったのは猪間驥一君の助教授への昇格問題であった。これは大内、河合両君の熱心な反対、この反対をバックされたのが、矢作教授であった。これに対して私は積極論であって、長時間論議したが、結局否決された。次いで大森義太郎君、有沢広巳君、山田盛太郎君というような、後年のマルクシストが相次いで助教授に任命された。何れも、高野グループの熱心なバックアップによるものであった。
 東大で、猪間の助教授昇格問題が話し合われたというのは初耳でした。
 1924年の3月頃、猪間の処女論文が評価されて、助教授に昇格させようという話がもち上がり、土方は賛成するが、大内兵衛だけでなく河合の反対で実現せず、その妥協案として、4月に講師に就任するが、6月には、大内らの肩入れで、大森・有沢が一足飛びに助教授に就任し、挙句の果ては猪間が東大を追い出されてしまうということですね。
 ただその後、平賀粛学があったためか、ここには河合について明らかに間違った記述があります。「大内、河合両君の熱心な反対」というところです。
 簡単にいうと、森戸事件の後、大内がヨーロッパに出立してから、翌年、河合もイギリス留学に旅立ち、関東大震災後、大内が帰国し、1925年の夏に河合が帰国するまで、土方、河合、大内が同時に日本にいたことはなかったのです。この時期、河合が、大学の命を受け、シュンペータ獲得、図書の購入、糸井の見舞い等でヨーロッパを飛び回っていたことについてはすでに何度か書いていると思います。
 河合の留学で猪間は土方ゼミに入ることになりますが、このとき河合と土方の間で、猪間を次期助教授候補とする話がもち上がり、河合が時期尚早といったことなら考えられます。あるいは、何度か伝えられた糸井危篤の報を受けて、手紙のやり取りがあった中で、猪間が糸井の後を受けて昇格する問題が話し合われていたことであれば考えられます。ただ、大内と河合がこぞって反対したということは考えられないのです。
 大内一人が反対したということではなかったでしょうか。
 1926年3月2日、河合と二人で起こしたクーデターについてもここでは触れられていません。興味深いのは、土方が、平賀粛学は大内に図られた、河合には悪いことをしたというニュアンスのことをいっていることです。
 以下、他に興味深かった部分を引用します。
 有沢広巳君は、もともと統計学にそれほど興味を持っているように見受けられなかったが、統計学以外の科目では教授になる望みが薄かった。それかあらぬか、統計学を専攻するようになったが、今日に至るも、統計学に関する著書、論文は多くは見当たらないようである。
 有沢の門下生、中村隆英も同様のことを書かれていましたね。
 土方は、自分のことについても次のように書いています。
 私が1923年に、逸早く学位論文を提出したのも、高野グループによる身辺の危険を感じたからである。東大を放り出された場合、矢張り学位があった方が、飯を食うのに何かと都合がよかろう。素裸で放り出されたのでは、いよいよもって、衣食に困るだろうと考えたからである。(……)審査は長老教授の厚意によってパスしたが、いよいよ決定の教授会になって半畳を入れたのが大内君であった。
 このため、論文通過は数ヶ月のびた。しかし、とにかく1924年秋には私の論文も通過し、私は日本で4人目の経済学博士の学位を得た。大内君はその後、学位などを問題にしないというのか、長く学位論文を提出しなかった。ところが、終戦後、ご自身の天下となるや、仲間が相寄って、あっという間にお互いの論文を通して学位を得た。
 (土方は1924年 10月6日、『財政学の基礎概念』で経済学博士となっている)
posted by wada at 18:34 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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