2015年11月21日

『経友』から新たな事実5

 大内兵衛の書いた「糸井君を憶う」に関して気になっていることは、大内が、終戦直後に上梓した『旧師旧友』(岩波書店、1948年)に、「彼のこと――糸井君を憶う――」として収録したこの追悼文は、内容は同じでも、文章はあちこち手が入れられていること、にもかかわらず、擱筆した日付だけは「大正13.12.24」とそのまま残されていることです。しかも、私が『経友』を新聞と思い込み、1924年12月24日号を探そうとした理由でもあるのですが、『経友』第6号の出版は、翌1925年の3月であるのに、その情報は、追悼文にも、『旧師旧友』にも載っていないのです。
 なぜこんなことをしたのかということですが、一つには、糸井が亡くなった直後に書いたものであることを強調しようとする意図があったことが考えられます。つまり、自分は、糸井の唯一無二の親友であり、心から糸井のことを思っていたのであり、だからこそ誰よりも早く追悼文を書くことができたのだということを示そうとしたのではないか、と。
 あるいは、もっとしたたかに、人々が真実はどうだったのか探ろうとする前に、死人に口なしということになった今、早く公式見解として定着させたいという狙いがあったのかもしれません。
 さらに一つ、猪間東大追放事件との関連で、思い切った推論を書いておくと、この日付が、東大追放が決まる直前のものであることからして、自分が直接的な関係者ではないことを示そうとするものではなかったかということです。
 ただここで、穿った見方をするなら、真相はそれらの逆だったのではないかということです。
 当時の大内には、二つ隠したいことがあったと思われます。
 その一つが、糸井が亡くなる前の1年間の没交渉、もう一つが、森戸事件の公判で、教授職に復帰するために、自らの罪を認めたことです。
 糸井が亡くなる前の空白の1年ですが、私は、大内と糸井がフランスを旅した後(1923年8月頃)、二人は仲違いしたのではないかと考えています。その結果、大内は、糸井が体の不調を訴えていたにもかかわらず、ドイツに戻って糸井を見舞うことをせず、イギリスにとどまることもせず、アメリカに向かい、それも、到着して間もなく、日本で関東大震災が起こったというニュースを聞くと、直ちに帰国するわけです。
 糸井はその後、危篤と小康状態をくり返しているのですから、当地を訪ねることはかなわなくても、手紙を書いたり、ベルリンにいた向坂逸郎に見舞いを頼んだり、できることはあったはずです。ところが、けっきょく大学関係者で見舞いに訪れたのは、河合栄治郎だけだったのです。大内は、糸井を見捨てたも同然だったのです。
 何がこれほど決定的な別れをもたらしたのか。ここでもう一つ大胆な推論を行うと、その原因となったものは、森戸事件における大内の日和見主義的な態度にあったのではないかということです。糸井は、教授会による両助教授休職処分決定に憤り、一度は自らも大学を辞めようとしており、森戸・大内の公判に通いつめ、最後は二人を迎えにまで行っています。大学への復帰に執着している大内の態度に、煮え切らないものを感じていたとしてもおかしくありません。
 追悼文には、この事件の際、糸井の態度が立派であったと書かれているのですが、そこには、「森戸事件」ということばはありません。そうでなくとも、人々の記憶にいまだ鮮やかな事件をわざわざ掘り起こしたくないという気持ちがあったのでしょうか。一方、戦後に書き直したものには、はっきり「森戸事件」と記載されています。このときGHQ占領下、この事件が、国家権力による学問の自由の弾圧事件であり、森戸と大内はあくまでそれに抗して裁判闘争をたたかったというとらえ方が定着しつつあったためであることも十分に考えられます。

 以上、記事としてかなりまとまりの悪いもので申し訳ありません。『経友』からわかった事実というのもほとんどなくて、推論ばかりですね。ただ、大内の批判はこれまでほとんどなされてこなかったし、これからあまり時間もなさそうなので、今、私がもっている疑念をメモにだけでもしておこうと思って書いてみました。

posted by wada at 18:01 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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