2015年09月18日

猪間追放「後」の派閥抗争

 大内は、『経済学五十年』(東京大学出版会、1960年)で、東大経済学部の草創期を振り返り、学内対立が起ったのは経済学部独立から10年たった頃であるとして、次のような主張を展開しています。
 後年の学内対立
 ぼくははじめそういうことに気づかなかったが、これより10年の後、すなわち三・一五事件のころから東大内で左右両派の対立がクライマックスに達し、それがまた久しく世間の問題になり非難の的ともなったとき、そのことに気づいた。今となって、こういう対立の歴史を否定することはできぬが、その対立は自由主義とファシズムという二つの色彩において分類すべきであって、マルクス主義と資本主義とに分類すべきではない。すなわち、われわれはマルクス主義の研究を許容する少数派であり、河合君たちはそれを排斥する多数派であった。そして後者が学内の支配者グループであった。
 大内は、自らを自由主義者と名乗り、河合はファシストだというのですね。
 有沢の「わが思い出の記:森戸事件のあとさき(三)」(『エコノミスト』1956年4月21日号)にも、厚顔としかいいようのないことが書かれています。
 糸井先生の演習「もし生きて帰れば」
 それでぼくは糸井先生のことを思いおこすと、もし先生が健在でお帰りになっていたなら、昭和年代の初めの東大経済学部はどうなっていただろうと考えるのです。戦前の人なら、御承知と思いますが、経済学部は昭和のはじめごろから内部対立がひどく激化して、同僚が同僚を裏切る、同僚の追出しをはかるというふうになった。後の矢内原事件とか河合事件とか、またぼくたち教授グループ事件にしても、この内部対立が背景となっているのです。単に軍部ファッショの時代に変ったので、思想上の問題として、これらの事件がおこったのではないのです。外部からの弾圧から同僚を守ろうとするのではなく、かえってそれと手をつないで、同僚を傷つけて追い出そうとするものが同僚の中にいたからです。(……)同僚が同僚を裏ぎるというのは全く深刻な対立なんですね。
 小さな学部内にそんな深刻な対立があったんですから、ほんとにたまったもんじゃない。糸井先生が大正年代の終りに元気に帰朝されていたとしてもこうした対立の激化はどうにもならなかったかもしれません。あるいは、もっと早く対立が爆発していたようにも見えるのです。しかし、その対立の姿はもっとちがったものになっていたといえましょう。対立が内訌してゆくのを、そうはさせない存在となったかもしれないと思うんですね。
 最初に同僚を傷つけて追い出したのは一体誰か、という話ですよね。
 東大の派閥抗争は昭和の初めに激化するという概念を戦後の歴史学に植えつけたのも、実は大内兵衛一派だったということになりますね。
posted by wada at 10:21 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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