2014年01月15日

いただいたお手紙のご紹介2

●石橋湛山が好きになった叔父
 私事にわたり恐縮ですが、今回の『猪間驥一評伝』の出版でうれしかったのは、母の5人の弟妹たちが皆この本を読んでくれたことです。そして私のいわんとすることをよく理解してくれたことです。
 一人の叔父は、これまで石橋湛山に対して左翼的な思想の持ち主という偏見があったのが、これを読んで好きになったといってくれました。
 猪間家の方々もそうですが、何かこの世代(つまり1920年代後半から1940年代初め生れ)の人々には、歴史を見る上での土地勘というようなものが確実にあるように思いました。

●吉瀬俊助(1901.1.28-1994.12.7)の日記
 そして今回もう一つうれしかったのが、その母たちの従妹で、吉瀬俊助の末子にあたる方からいただいたお手紙の中にあった情報です。
 何と吉瀬俊助の大正6年(1917年)からの日記が段ボール2,3箱分残っており、昨年12月の20回忌を機にこれらを整理しようと思っていると書かれていたのでした。
 これを聞いて私が楽しみにしていることというのは……。
@ 吉瀬俊助は、東京商科大学(現、一橋大学)で福田徳三の門下生であり(1930年、福田が亡くなったとき、『一橋新聞』に追悼記事「福田博士の長逝と経済学の将来」を書いている)、福田の周辺のことがいろいろわかるのではないか。
A 小泉信三(1888-1912)と親しかったのも福田徳三との関係からか。
B 1925年、東京商科大学卒業後、第一銀行に入行した折、渋沢栄一に議論を吹っかけたというが、何をめぐっての議論だったかがわかるのではないか。
C 1928年、「最近日本に於ける綿業の発展」という論文を発表しているが、大学から離れた後、なぜこのような論文を書いたのかわかるのではないか。
D 大正14年(1925年)卒業の同期生から、杉本栄一、森田優三、山中篤太郎の3人が上田貞次郎の背広ゼミナール(1932年設立)に参加している(この「十四日会」の名簿を吉瀬俊助は亡くなるまで手元においていたという)。したがって、背広ゼミナールのことは知っていたはずで、これに関する記述があるのではないか。
E 第一銀行(後に三井銀行と合併して帝国銀行となる)入行以降、「名古屋、東京、大連、京城の各支店に勤め、釜山支店長となり、終戦を迎える」(『春雷句集』略歴より)。京城支店に赴任したのが、ちょうど太平洋戦争が開始する1941年12月であり、終戦の翌1946年7月、釜山より引揚げ。この間、京城で、鈴木武雄に接触した可能性、東洋経済新報社の経済倶楽部に参加した可能性もあるのではないか。
 この日記が出版されるといいなと思っているのは私だけでしょうか。
posted by wada at 20:39 | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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