2013年12月20日

いただいたお手紙のご紹介

 『猪間驥一評伝』を送らせていただいた方から、おたよりが届いています。その一部をピックアップしてご紹介させていただきたいと思います。

 一つは、東京市政調査会(現在は後藤・安田記念東京都市研究所)の理事であられる西尾勝さんに『猪間驥一評伝』をお送りした直後にいただいたもので、「本財団の元研究者についての評伝故、通読後に本財団の市政専門図書館に寄贈し、永く大切に保存するとともに広く研究者の利用に供したい」と書かれていました。猪間がその中によくこもって仕事をしていたという図書館の中に、猪間の名前を冠した拙著が収められるというのは、身に余る光栄で恥ずかしくもあるのですが、一方で、猪間にとっては本来いるべきところに戻ったのだという思いもわいてきて、感慨深いものがあります。
 以前、『都市問題』に「1926年の「産めよ殖えよ」と1939年の「産めよ殖やせよ」――猪間驥一の調査研究はなぜミスリードされるのか――」を書いたときも、西尾さんは拙稿を読まれて、「(このミスリードした)研究員の論考への厳しい批判と受けとめました」というおたよりをくださいました。あのときも、ただ書いただけの理解を得られない論文だったと落ち込んでいたのが、その一言で、ほんとうに書いてよかったと思えるようになりました。

 もう一つは、猪間家の方々。猪間驥一の四女に当る方に何度も応対していただいたのですが、いろいろご迷惑をおかけしているのに、この本の出版を一緒に喜んでいただいたのがありがたくて、申しわけなくもあって…。ご姉妹や従兄弟にあたる猪間明俊さんにまでお声をかけてくださったようです。
 その猪間明俊さんからも、心のこもったお手紙をいただいて、感激しています。
 「猪間家の家長として威厳があり、父を含む3人の弟妹から煙たがられた伯父とは生前に時たま顔を合わせるくらいで口を聞いた機会も少なく…」とあって、猪間驥一の意外な側面も知りましたが(引揚げ後の数年間、猪間は『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の編纂、石橋湛山の公職追放への対応等に忙殺され、家族にもそのことを明かせなかったので、このような印象を与えたことも考えられますが…)、地質学を学ばれるようになった明俊さんは、猪間から地学者(地質学者)収三郎のかたみだったハンマーを手渡されたのだそうです。
 猪間の師、上田貞次郎は、収三郎に進化論を学んで経済学者を志すようになったのですから、猪間にとって、当時博物学者を意味した地学者というのは特別な意味をもっていたはずです。甥である明俊さんがその地学者を目指すと聞いて、喜びも格別なものがあったのに違いありません。
 明俊さんは、赴任してきた教授に「猪間という苗字は珍しいが、私は驥一という人を知っている」といわれ、それが縁となって、その先生に師事されることになったそうですが(いただいたご著書によれば、この先生に授かった知恵で、アマゾン源流地質調査の際、命拾いされています)、このお話も、猪間が上田貞次郎の背広ゼミナールの門をたたくときのエピソードに重なるものがあります(実は、明俊さんはかつて私の弟の上司であったのですが、それを「縁」といってくださるやさしさをもちあわせておいでです)。

 このようなお手紙をいただいて、不完全な形でも、とにかく評伝を出版できてほんとうによかったと思いました。私の一生の財産です。
posted by wada at 08:09 | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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