2011年04月12日

猪間驥一からのメッセージ

猪間驥一やその周辺にあった経済学者を調べているからでしょうか。このたびの大震災のことを考えていると、無意識のうちに、猪間の時代の、関東大震災、昭和恐慌、敗戦と比べている自分がいることを発見します。そして思うのは、今回の事態は、こうした3つの危機的状況が重なったほどの深刻なものではないかということです。
ここでは、それぞれの局面に猪間驥一がどのように対処したのかを見てみたいと思います。

1923年の関東大震災のとき、猪間は、肋膜炎を患って長期入院を強いられ、死線をさまよっていました。その後、猪間が、あるきっかけから、後藤新平が設立した東京市政調査会の研究員になるのは1925年のことであり、帝都復興計画はすでに着手され、社会事業部門に含まれるいくつかの事業は役割を終えているという段階にありました。
したがって、帝都復興計画全体への直接的な言及はありませんが、「大震災後の社会事業施設」(『都市問題』1930年1月号)に記された社会事業部門の総括から、猪間のこの計画への評価は汲み取れるように思います。
東京市の社会事業施設は、震災後の帝都において、最も著しい復興ぶりを示したものの一つである。大震火災は東京市民にとり実にこの上なき不幸であったが、しかしもしこの災厄に促さるる事態無かりしならば、短年月の間に450余万円(市立病院建設費をも加えれば760余万円)の巨費を投じて、社会事業施設の普及を図るがごときことは、とうてい思い及ばなかったであろう。760余万円の支出は、東京市執行の復興事業費総額2億9,500万円中の甚しく多い部分を占めるものではない。街路修築事業等に比すれば、その重要さは、いわば付随的と称し得べき程度に過ぎない。しかし震災前東京市の社会事業がいかに微々たるものであったかを回顧する時は、実に偉大なる躍進と呼び得るであろう。

1930年の昭和恐慌のとき、猪間は、『都市問題』誌上に、異例の時事問題解説として「失業問題は何処へ行く?」を発表します。金本位制のもと、金の流出を恐れて起債市場が事実上閉鎖され、日本の経済が閉塞状態にあったとき、ある「経済理論」(というのがケインズ理論であったと思うのですが)を用いて、通貨を膨張させながら、物価の高騰・金の流出を来さない方法を考えようとしたのです。
それが、起債によって増加した通貨を、当時、政府が進めていた国産品愛用運動とドッキングさせて、国産品の購買に当てさせ、国産品の生産を増すこと、つまり日本の工業化を促進させようとするものであったと思います。そうすれば、金は流出せず、失業救済事業による多少の雇用も生まれて、輸入品の購買による金の流出も逃れることができるというのです(この提言は、田中義一内閣の三土忠造蔵相によって採用された可能性があります)。

太平洋戦争開始後の1942年、猪間は満州・新京商工会議所の理事として中国大陸に渡り、終戦後、一年を超える幽囚生活の後、日本に帰国します。ある事業家に持ち家を奪われ、住居の確保もままならない中で、彼は、第一次吉田内閣の石橋湛山蔵相のもとに組織された、在外財産調査会のメンバーとなります。
廃墟と化した国土にあって、自信まで喪失した人々を奮い立たせるために何ができるか。猪間は、在外財産をはじめ、何もかも失ってしまったかに見える日本および日本人であるが、祖先たちが積み上げてきた商業活動の歴史は、子孫たちが誇ってもいいものであり、そこで培われてきた英知は失われるものではないことを示そうとして、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の「総論」、つまり日本の資本主義発達史を書き上げます。それが必ずや、日本の経済復興の原動力になりうると信じていたのだと思います。

こうして見てくると、猪間は、不況が深刻化したり、災害・戦争等で国が壊滅的なダメージを受けたとき、すぐさま打って出るべき、積極的な経済政策があると考えていたことがわかります。
彼の主張・提言の妥当性については、様々な観点からの検証が必要だとは思いますが、それにしても、今日、このようなたいへんな時期に、日銀は国債を発行せず、財源は増税によって確保するというような政策が出されるのを見ていると、はたして復興はなるのか、素人目にも不安な気持ちにさせられます。
posted by wada at 09:42 | TrackBack(0) | 話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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