2010年07月27日

上田貞次郎の日記から10

1919年の国際労働会議の時点においても、上田貞次郎の交渉術・説得術には目を見張るものがありますが、その後、さらに自説の支持者・共鳴者をふやし、外に向かってネットワークを広げていくという点においても優れた才能の持主であることが明らかになります。そして、これがまさしく、官民を問わず、「貿易立国への強い意志」をもつ人々の層の形成にも結びついたと思われます。
その象徴的なできごとのいくつかを『日記』から拾ってみました。
1926年
新自由主義
そこで余は勿論(『企業と社会』に)毎月論文を一つは執筆するが、自分の主張する事は多少主義らしいものを有っているつもりだが、之を何と呼ぶかに付て考えた。結局新自由主義がよいと思って四月の創刊なるべく論題の内にも此語を用いる事にした。未だ一定の体系を案出したわけではないが、余の主張には次のような事がある。
(一) 日本は明示維新以来国権主義の下に産業革命を行った国だから、今日十八世紀の英国にあったような重商主義の弊害が残っている。之を一掃する為めにアダム・スミスの学説を復活せしめなければならぬ。
(二) 併し自由放任主義ばかりではいけない。社会政策は必要である。但し社会政策が唯貧者を物質的に引上げるという丈けのものになってはならない。人格を引上げなければならない。自己責任を忘れるようなものになってはならない。そこで余の主張は旧自由主義でもない。又社会改良論でもない。新自由主義である。
(三) 社会主義を今の日本に行わんとすれば却って官僚政治の弊を甚だしからしむ事になるからいけない。日本では政府の勢力が強すぎる。官業が多すぎる。日本で政府の干渉を少くする必要がある。
(四) 個人の自由活動と生存競争は理想ではない。個人の自発的協力は望ましき事である。個人の自覚に基いた団体生活の発達を計らなければならぬ。
余の主張に対して武藤山治氏、志立鉄次郎氏は讃辞を送られ、吉野作造氏は中央公論に同情ある論評をかいてくれた。
改造の九月号には新自由主義の合評がなされた。高畠素之、大森義太郎、新明正道三氏が書いた。併しこの方は反対論であって中にも大森氏のは罵りざんぼうであった。
十二月には経済学攻究会で余が新自由主義の講演をやらされた。深井英五、柳田國男、塩沢昌貞氏等が論評された。何れも大体賛成であった。
十月には田沢義鋪氏の主宰する日本青年館に招かれて同様の講演をやった。此時は同氏の外に那須皓、大島正徳、馬場恒吾氏等の論評があり、之も反対ではなかった。
田沢氏は特に余の主張に共鳴したものと見えて大正十六年(昭和二年)新年号の新政(同氏の青年教育雑誌)を新自由主義文献と題して、高田保馬、塩沢昌貞、那須皓、川原次吉郎諸氏の論評を集められた。高田、那須両氏の説は余にとってヒントに富んだものであった。
1927年
余の国際会議(註:ジュネーヴ国際経済会議のこと)に赴きたるは新自由主義主唱により志立鉄次郎氏及外務省方面(特に出淵次官)に余の意見が知られた為めである。
大阪で自由貿易論の具体的運動となりたるについては「企業と社会」の宣伝が有効なりしと田口八郎氏はいう。要するに「企業と社会」は国際経済会議と東京、大阪の自由通商協会を余に与えた。(・・・・・・)
1932年
人口問題研究
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その内に太平洋問題調査会で真面目な研究部を組織する事になり、那須皓、蝋山政道、高柳賢三、高木八尺等の若い学者等が団結した。余にも加入をすすめられたから、人口問題調査を申出した所が一同賛成というので余が中心となる事に決った。
(・・・・・・)
来年秋にはカナダで太平洋会議をやるというから出席すると否とに拘らずその時までに日本人口の研究をまとめて内外に発表するとしよう。
1933年
六、七月中は太平洋会議の準備会が度々あった。七月二日、逗子の後藤伯別邸で鶴見、那須、高柳、高橋(亀吉)及余の五人が会した。浦松佐美太郎氏も同席した。
バンフ太平洋会議を前にして、相当なお互いの協力体制ができていたということになりますね。
posted by wada at 16:59 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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