2008年12月09日

猪間驥一という人J

猪間は、1920年代後半の妊産婦保護事業研究の後、席は東京市政調査会に置いたまま、1930年に設立された、上田貞次郎の日本経済研究会(通称、背広ゼミナール)に参加します。
人口問題研究を本格的に始めるという噂を聞きつけてのことですが、おそらく妊産婦保護事業の衰退を見て、個人で研究することに限界を感じたのではないかと思います。上田貞次郎は、1923年、『英国産業革命史論』を読んで以来、猪間の憧れの人でもありました。
会の主要メンバーは、中山伊知郎、東畑精一、森田優三、杉本栄一、猪谷善一、美濃口時次郎、小田橋貞壽ら。東大出身の猪間が、東京商大(現、一橋大学)で、自分より若い上田の門下生にまじって研究を行うことは、当時としては異例のことだったのではないでしょうか。
猪間の参加の申し出をすぐに受け入れた上田もそうですが、彼は学閥をも越える自由さを持ち合わせていたのでしょう。
実は、猪間の父、収三郎は地学者で、上田の中学生時代、その学校で生物進化論を教えていました。上田は、この進化論の考え方によって、自分は思想の根底を築いたという話をします。こうしたことが、猪間を即座に、このグループの仲間として溶け込ませたようです。
この共同研究がどのように進められていったかについては、またの機会に記すとして、ひとまず筆を擱きたいと思います。
なお、「猪間驥一という人」というタイトルは、一高時代から、戦後、最終的には、ともに駒澤大学に奉職するようになるまで、人生の多くの時間を一緒に過した、内海丁三の追悼文のタイトルをそのまま拝借しています。
posted by miki at 23:49 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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