2016年03月28日

指導教官が求めたことG

【2014年5月18日】
 その数日後、私は思いあぐねて、『猪間驥一評伝』の書評を書いてくださった先生にお礼のメールを出すとき、IS教授の「和田みき子氏博士論文への注文」を読んでいただくことにしました。
 その先生からは以下のコメントをいただきました。このコメントに私は救われたのです。
和田様

うーん、添付ファイルを読むと、この方針で直すのは無理ですね。

添付ファイルに分量は書いてありますが、和田さんが書いていることとほとんど関係のないことが書いてあるだけですから。この部分には違う見方があるから反論するか取り下げるかどちらかにしろとか、根拠が甘い、文献的証拠を追加せよとか、言ってくれないとどうしようもないですね。

歴史はイデオロギーですから、最初に、イデオロギーで一致する先生を探さないとどうしようもないですね。

IS先生とはイデオロギーで一致せず、IS先生はご自身よりももっと正統的なマルクス主義歴史学者(注:変更前の主査・副査の先生方)に反論して和田さんの論文を生かすのが面倒になったのでしょうね。
(……)
 私の書くことはけっきょく誰にも理解されないのかと絶望的な気持ちになっていたところに、このコメントをいただいて、私はあらためて、自分の意思を曲げずに「博論」を書こうと決心しました。
 
◎「指導教官が求めたこと」はとりあえずここまでとします。
◎「論文要旨」を近いうちに紹介させていただきます。

ラベル:猪間驥一
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指導教授が求めたことF

【2014年5月10日】
 指導教官からの反論。けっきょく段階論から抜け出せないご自身のことは棚に上げておられますが、そんな自分を説得できなければダメというわけですね。
和田様

繰り返しになりますが、「間違っている」と断言するだけではだめで、いちいち論拠を挙げて説得する必要があるのです。読み手が説得されなければ、それは単純に書き手の負けなのです。

「間違っている」という断言が意味を持つのは、聞き手がすでに語り手の権威なり正当性を受容している場合のみであり、そのような場合には、説得されなくとも「説得されない自分が悪いのだろう、では自分のどこが誤っているのか」との自己点検が始まります。
和田さんの場合には、そのステップが不足しています。このままでは、すでに結論を共有している相手としか話が通じない恐れがあります。

あるいは、たとえば政治哲学において、ロールズがやってのけたように、あえて至近の伝統を無視して、新しいゲームを始める、ということも不可能ではないですが、それこそロールズのように、その後万単位の研究者がそれを飯の種にできるほどのスケールの著作を一挙に提示しなければ無理です。

また学の伝統というものに対しても認識が不足していると考えます。日本資本主義論争自体は同時代的には日本のマルクス主義者の狭いサークルの中でのかなりどうでもよい論争でしたが、それでも思想史的には後世にほどほどの影響を及ぼしましたし、またこの論争で提起された論理自体は、割合普遍的で、あちこちに姿を変えて再現されるようなものだったと考えます。戦後において二重経済論、ルイス的転換点として山田盛太郎が読み替えられたのもその一例でしょう。

歴史学に限らず実証科学においては、間違った前提から出発したとしても、事実の発掘を丹念に行っている限り、必ずしもそれ以降すべての蓄積が無意味となるものではありません。その蓄積の結果終には誤った前提が見直される可能性は常に残されています。

和田さんの言う「戦後の歴史学」はすべてがマルクス主義に尽くされるわけではなく、経済史学においても安場や中村という先達が存在し、講座派マルクス主義の立場をとりながらも原朗は中村の弟子でもありました。マルクス主義者の中での労農派系・講座派系の緊張関係はもちろん、近代経済学系においても講座派的な二重構造論につく者もいればそうではない者もおりました。講座派的な問題意識はことに岡崎哲二以降、青木昌彦的な制度分析の枠組みに読み替えて継承されていったきらいがあります。他方で計量経済史の研究者は、こうした制度分析に対しては(「実証性が甘い」と)警戒していました。
しかし大体において経済史学の領域においては、時間を経る中で立場や理論枠組みを異にするものの間の緩やかな連帯というべきものは生じてきていたと思います。戦後日本経済史学のメインストリームは実のところ講座派と宇野派の折衷であり、しかも70〜80年代に「独占段階への移行」が焦点だった時代には、主たる分析用具は近代経済学的な、ベイン流の(旧)産業組織論でした。結構いい加減なものです。
もちろん緊張関係はあります。(ある講座ものに執筆する際、中村は「国家独占資本主義などというタームをタイトルにつけた本には書かない」とごねたというエピソードが残っています。)

経済成長をこの時期のすべての論者が軽視している、というのも全くの誤りです。ある時期以降宇野派の実証研究者のほとんどは、近代経済学の普通の研究者と同様、日本資本主義の成長力をほぼ留保なしで肯定するようになっています。もっとも明確に開き直ったのは80年代の橋本寿朗ですが、実質的にはそれ以前から一部の研究者はそんな感じでした。宇野派の産業研究者の多くは80年代以降は実際には経営学者になっています。そもそもマルクス主義は本来どうしようもない成長主義なのであり、成長主義と反資本主義を両立させていたのが元々の姿なのですが、80年代以降分岐していくのです。
そうではなく、経済におけるマネタリーな側面を軽視し、ケインズ主義を財政に偏って理解し、金融政策無効論にとらわれていた、の方が適切な批判です。それについても、なぜそうなってしまったかについての理由までさかのぼっての批判が必要です。
(……)
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指導教官が求めたことE

【2014年5月10日】
 同じ日の私からの返信です。
IS先生

私の言わんとしていることが理解されていないように思います。

私は先生(方)のもっておられる歴史認識の枠組みが間違っていると思っています。
戦後の歴史学は、その間違った枠組みの中で増殖を続けているだけでしたがってその中にどっぷり浸かって議論するのは時間の無駄だとも考えています。

『歴史的調査』一つを例に取っても私は、自分たちが「植民地主義を肯定する立場から書かれたもの」で、「思想的にバイヤスのかかったもの」と規定してきたものが、実は貿易立国を実現するために尽力した人々によって書かれ、しかもその背景には湛山がいて、その小日本主義をいかに実現しようとしてきたかについて述べたものであることを知った後にも何の違和感・危機感も感じないでいられる、そのような感性に半ばあきれ果ててもいます。
日本資本主義論争にしてもその影響を論ずるより、猪間の書いた日本資本主義発達史をじっくり読んでみることのほうが大事という発想にはならないのでしょうか。
(……)
日本資本主義論争は、矮小な人々が行っただけでなく、矮小な内容だったから価値がないのだと思います。湛山も猪間も加わらなかった論争です。
(……)
日本資本主義論争に限らず、先生の挙げられている研究者たちは経済発展をどこかでセーブしなければならないものと考えている点で限界があると思います。
湛山も猪間も上田も亀吉もそんなふうには考えてなかったこと、しかしそのことを研究者の誰一人として認識していないのは不思議な現象ともいえます。
上田グループの人口問題研究や国際会議における活動が見逃されているところ、というより今日的にも重要なその意義をいまだに理解できないでいるところにもそれがよく表われていると思います。
(……)

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指導教官が求めたことD

【2014年5月10日】
 5月7日に、論文チェックのスケジュール等について、高圧的な調子のメールが届きますが、それは後に触れるとして、ここでは5月10日のやり取りをご紹介します。
和田様

(……)
和田さんの問題意識をどう表現すればわかりやすくなるかは難しい問題です。
一番適切な書き方は、あたかも文学研究でなされるように、テキストの校訂を行う、この場合ですと一番問題になる『報告書』テキスト形成の歴史的経緯の綿密な検討のみならず、本文についても章どころかパラグラフごと、あるいは一文一文、猪間の文体や問題設定の癖を考慮に置き、どこからどこまでが猪間の筆になるか、そしてほかの箇所は誰が、といった問題を明らかにしていく、ではないかなとも思ったりもしますが……。

何か和田さんのお話を聞いていると「別に自分には言いたいことはなく、猪間のテキストと事績を紹介すればおのずと明らかになる」とおっしゃりたいようにも聞こえます。それにふさわしいスタイルとなると、上記のような感じかな、と。
しかしそれは文学や哲学史の一部の論文ではなされますが、あまり社会科学界隈ではなされないのです。社会科学界隈では学説史研究も、どうしても自分の土俵での再構成を求められます。引用を並べて「彼らはこういった。これより明らかである」では相手にされません。自分の意見を交えずに学術研究と評価されるには、それこそテキスト校訂・資料批判のスタイルに特化しないとならないような……。

日本資本主義論争ですが、同時代的かつ社会史的にはそれ自体が矮小な問題であったという観点はあり得ます、というより実際そうだったとは思います。その意味では金解禁論争や、更に大日本主義・小日本主義をめぐる論争の方がはるかに重要です。ですから「矮小な問題として検討はしない」と書くことは可能ですが、書き方というものがあります。つまりそれが矮小であることを説得的に提示しないといけないわけです。「矮小な人間たちがやったことだから」だけではだめです。「矮小な人間たちが重要な問題について考えていたとしたらどうなのか?」という疑問に反論できません。また矮小性自体の論証も結構重要で、単なる感情的評価や陰謀論と思われないためには、陰謀の証拠を提示しないとならないのも確かです。

私見では、思想的に言うとこの矮小な日本資本主義論争における問題のセッティング――マクロ面を無視してのミクロレベルでの、日本経済の成長体質についての議論(二重構造は重要か否か、等)は、やはりマルクス主義系の経済史研究のみならず、安場保吉、中村隆英、速水佑次郎といった戦後日本の経済発展研究のリーダーたちの問題意識を規定しています。また大日本主義・小日本主義論争は、米谷匡史が変に重視する昭和研究会その他革新主義の議論の動向をも規定しているのであり、戦後の左右の帝国主義観にも影響を与えています。戦時下の石橋湛山の言説、あるいは『報告書』その他から見えてくる猪間や鈴木武雄の問題意識は、それらを小日本主義の精神を引き継ぎつつ批判するものと解釈することも可能でしょう。資本主義論争の一国レベルの発展論は、マクロとつながりにくい論点ですが、大日本主義の問題は国際通貨等を通じてマクロとつながりますので、重要だと思います。
(……)

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指導教官が求めたことC

【2014年4月29日】
 この「注文」に対して、私は教授に直接会う機会があって反論をしています。その反論をメモとして残しておいたものが以下のファイルです。
 IS教授「博士論文への注文」への疑問
・猪間は思想家ではない、学説を展開した経済学者でないことをまず確認したい。猪間の人口問題研究の意義は、自身のことばでいえは“イズム”を排している点にある。これは、湛山が政治思想や政党で選ぶのではなく「政策」で選ぶ姿勢にも通じるものがある。なぜあえて思想家たるまいとしたのか、人口論争にも、資本主義論争にも、参加しなかったのか(金解禁論争は経済政策論争であることに注意)、この重要な点が理解されていないように思われる。
・「注文」にあるような論文を書くのであれば、猪間は不要。ほとんど持ち出す意味がない。湛山の評論を追えばよい。
(……)
・「(戦争を)なぜ回避できなかったのか」だけを問うのでは意味がない。「回避して何をしようとしていたのか、そのために何を用意していたのか、どのようなヴィジョンがあったのか」が重要。これまでの歴史学はこれを問うていない。ただ反対すればよかったのか、革命が起こればよかったのか、という問題にもつながる。
・「失敗のプログラム」というような捉え方も間違い。根底に歴史にはレールが敷かれているというマルクス主義的史観がある。現実には、あるときある状況下でのある程度の見通しがあるのみである。あやまった政策を選択する指導者はいつの時代にもいることは、今日の状況を見てもわかる。
・「日本資本主義論争」に肩入れしすぎ。この論争は、前提に「革命」がある。革命が必要だったのかという議論には決着がついているのではないか。猪間は、そして湛山も、この論争にはかかわっていないし、興味も持っていない。彼らがかかわるのは経済政策にかかわるもの。
(……)
・「日本資本主義論争」の影響の大きさが、重要性の評価基準となるか。この影響力は左翼とそのシンパサイザーへの影響力。これらの人々が、実態の把握に問題のある十五年戦争という史観をかかげて1930年代の歴史的空白を作っているという認識も必要である。
・思想をいうのであれば、その質を問うべきであろう。少なくとも、日本資本主義論争の一翼を担っていたのが、猪間を東大から追放したような勢力であることは踏まえておくべきであろう。そういうレベルの人々による論争であったこと、これを後生大事に考えている人々をこそ、いったん疑ってみるべきだろう。

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指導教官が求めたことB

【2014年4月18日】
 2012年度の秋以降に起きた出来事を考えようとすると、今でも悪夢の中にいるような錯覚に陥ります。一つらなりの出来事としてとらえることが難しく、書く作業は何度も中断されます(すでに報告書は書き上げているというのに)。
 ハラスメントの経緯については後で詳しく書きますが、とにかく『猪間評伝』を形にすることで一歩目が踏み出せたこと、キャンパスで偶然出会ったある先生のお力添えによって研究環境を整えることができたことが(指導教官を変えるのは無理でしたが、主査・副査は変更され、外部審査委員は希望を入れてもらいました)、「博論」の執筆を始めるきっかけとなりました(ただ、いずれにしても論文は書くつもりで、それを「博論」として提出することを決めたのは最終段階でした)。
 その「ある先生」が、指導教官に「ちゃんと指導をするように」、また、私のための「研究計画書」を書くようにいってくださったようで、それから3ヵ月位たってから、次のようなファイルが送られてきました(何かに上書きされたもののようで、「日本経済論、あるいは日本資本主義論の座標軸としては、それが本格的な課題として確」という不思議なタイトルがついていました)。
和田みき子氏博士論文への注文

 猪間という人物を日本近代史に位置づけるために、とりあえずは日本経済史研究の研究史、学説史の中に位置づける工夫が必要。
 東大経済学部における組織的暗闘に巻き込まれたという側面も大事だが、やはり湛山的自由主義の系譜に立つ論者として際立たせたい。

 それゆえ
「第一部 戦前・戦時期日本経済と経済政策の展開のなかでの猪間 1 (とりあえず猪間なしでの)研究史とその問題 2 猪間驥一という人物 3 猪間を入れることで研究史の見え方がどう変わると予想されるか」
「第二部 猪間驥一の経済思想 1 略伝 2 経済認識」
「第三部 総括 日本経済史・経済思想史における猪間驥一」
という感じになるといいかな、と。

 以下、踏まえていただきたい問題系をつらつらと書く。

☆日本資本主義論(日本経済論)におけるいくつかの対立軸

・「マルクス経済学」対「近代経済学」という対立軸は大した意味を持たない。せいぜい「日本資本主義」「帝国主義」といった用語を用いるかどうか、である。

・「日本資本主義論争」における「講座派」対「労農派」の対立
 日本資本主義は半封建的であり、封建的な農村セクターの重石に引きずられているのか、あるいは基本的に近代資本主義であり、農業も市場の論理に支配されているのか?
 政治的には、日本国家は天皇制絶対王政か、不完全ではあれブルジョワ立憲主義か?
→戦後における変奏――「二重構造論」――近代セクターと在来セクターの二重構造の持続、「ルイスの転換点(農村セクターからの無制限労働供給の終焉)」はいつか?
 自民党支配の性格をどう見るか?
 「日本資本主義論争」の争点は実はマルクス主義陣営における対立にとどまるものではない! 
 「労農派」の流れをくむ「宇野派」においては、資本の支配的蓄積様式(と対応する経済政策)をベンチマークに資本主義の発展段階を見出し、日本資本主義の高度な発展を認める論理を無理なく展開できた。
 こう考えると「近代経済学」の発想に近しいのは「宇野派」「労農派」に見えるかもしれない。しかし話はそう簡単ではない。「二重構造論」を開発経済学(ルイス等)と照応する発想と見なし、市場が十分に発達しない在来セクターのメカニズムを「制度」としてとらえる立場の論者は、むしろ「講座派」的発想の継承者といえる。
(戦後の非マルクス経済学者による「日本資本主義論争」論、とりわけ中村隆英、安場保吉、中林真幸のものに注意せよ。)
 「講座派」対「労農派」の対立は、日本経済の発展段階の理解をめぐるものであったのみならず、経済と政治の連関の理解をめぐるものでもあった。では、それはどのようなものであったのか?

・「金解禁論争」前後、並びに昭和恐慌から戦時経済の評価をめぐって
 「金解禁論争」自体、更に昭和恐慌の最悪の時期は「日本資本主義論争」に先行していることに注意。
 長幸男の整理に従うならば、金解禁並びに昭和恐慌前後の経済論争においては、高橋財政、ならびに石橋湛山の経済評論が代表する、ケインズ主義的立場――金本位制の廃棄と機動的財政金融政策を主張――と、浜口―井上ラインが代表する金本位制復帰と産業合理化(構造改革)志向とが目立った対立であり、マルクス主義陣営の論者はほとんどの場合結果的に浜口―井上的ポジションをとってしまう結果になっていたことになる。
 「金解禁論争」は、果たして「日本資本主義論争」に何らかの影を落としているのか?

・「金解禁論争」はマルクス主義者以外、更に学界のみならず言論界官界実業界を含めて広範な参加者を集めた論争であったのに対して、「日本資本主義論争」は一見マルクス主義者の中の「コップの中の嵐」であったし、コミンテルンの政治的マヌーバーによて引き起こされた不幸な争いではあったが、その後世への知的影響は存外大きい。
 「金解禁論争」は今日的にはケインズ派対反ケインズ派、あるいは貨幣重視派対実物重視派、拡張主義対緊縮主義の対立として理解しやすいが、シンプルであまり含みがないように見える。実際この論争がアクチュアルな相貌を帯びて広く読み返されたのは、たかだか20世紀末のバブル崩壊以降、「失われた二十年」以降でしかないのではないか。
 「日本資本主義論争」の後世へのインパクトはもっとわかりやすく複雑である。本来のそれはとりあえずは「日本は半封建的絶対主義国家で、当面の課題はブルジョワ革命とプロレタリア革命の二段階革命」(講座派)対「日本は資本主義国家で、課題はプロレタリア革命」(労農派)という対立であり、この争点自体は戦後まで生き延びることはない。
 しかしながら戦後これらの争点は、例えば左翼、マルクス主義陣営においては「日本はアメリカ帝国主義の半植民地であり、課題は民族独立と社会主義革命である(対米従属論)」(日本共産党)対「日本は既に帝国主義国家として復活しつつある(日帝自立論)」(新左翼)という対立に姿を変えた。そして非マルクス主義サイドにおいても「日本は途上国経済と類似の在来セクターを最近まで抱え込んでいた、それゆえの二重構造が依然残存している」対「日本はかなり早期から成熟した市場経済である」という対立を見ることができなくもない。
 ちなみに80年代における絶頂期の日本経済論(日本的経営論)は、「講座派」において「半封建的」とされてきた日本的労務管理を、「労農派」の流れをくむ「宇野派」の視点から「帝国主義段階」(後期資本主義)に適合的な経営システムと位置づけなおすものであった。ここにも「日本資本主義論争」の余波は及んでいるのである。
(米谷匡史の昭和研究会論も、こうした潮流に掉さしている。無論戦後ではなく、戦時動員の中での革新派の路線対立の中に、「日本資本主義論争」の残響を聞き取るわけである。そこでは革新左派は、いわば一国資本主義の限界を帝国主義ではなく世界革命で突破しようとする戦後の新左翼の先取りのようなポジションを付与される。)

・それに比べると「金解禁論争」、そこから透けて見える石橋湛山の「小日本主義」が代表する親ケインズ的リベラリズムの存在感は何とも薄く、「失われた20年」、更に東アジアの緊張とともにようやく本格的に読み返されるようになったばかりである。その意義は今日どのようなものとして読まれ得るか?
 金本位制の廃棄、リフレーションといったマクロ政策論と、自由貿易主義、反植民地主義、開明的社会政策といったミクロ政策論からなる湛山の政策パッケージは、どのように整合性がとられているのか? 
 変動相場制―管理通貨制への移行が国内的にはマクロ政策を可能とし、かつ国際的にも国際収支の問題が貿易に対して障壁ではなくなり、自由貿易主義を可能とする――といったところだろう。では、社会政策との関連は?
 労働組合の承認、産業組合(農業協同組合)――? 経済自由主義への敵とはみなしていないのは、なぜか? 
 「日本資本主義論争」の流れをくむ日本経済論においては、基本的にマクロの契機が欠落しており、その分だけ湛山的なパースペクティブはある種の優位を主張できるはずだが、実際にはそこまでの存在感はない。この立場に存在感を回復させるためには、ミクロサイドに議論を今少し充実させる必要があるのではないか? 
 マルクス経済学者の一部は、高橋財政には(のみならずニューディールも)実は限界があり、不況からの本格脱出には軍需、更に帝国主義的侵略による海外市場の囲い込みが必要だった――と主張している。乱暴に言えば、実物的不均衡を埋めるためには、貨幣政策では足らず、財政的な実需(としての軍需)が必要だった、という議論である。これとニュアンスを若干異としつつも重なり合うのが、榊原―野口論文から『1940年体制』に至る野口悠紀雄、また岡崎哲二による、戦後経済の前提としての戦時統制経済論である。
 彼らの議論ではマクロ、マネタリーな側面が軽視されている。これに対して「マクロ・貨幣という次元が重要ある」とぶつけることは必要だが、そのいわばミクロ的な効果をも論じる必要があるのでは?(たとえば戦時下では管理通貨制ではあったものの外貨との決済において戦争ゆえの困難を抱え、変動相場制のメリットは享受できなかった、あるいは「円ブロック」が施行されてブロック内は実質固定相場制だった、等。そうしたマクロ的逼塞も、統制経済による事態の糊塗を要請した?)

☆猪間驥一の位置づけと再評価を以上のような文脈で押さえるとどうなるか?

1.湛山的「小日本主義」的な帝国主義(「大日本主義」)批判としての人口論
 「大日本主義」はマルクス主義風に言うと「帝国主義」で、市場の機能不全を前提とした議論であるが、そこで人口論はどう位置付けられるか? 後期資本主義としてのレーニン的帝国主義論はともかく、前期資本主義としての重商主義においては、スミス的な労働市場を通じた人口調整や、リカード的な貿易を通じた食糧調達は想定されておらず、人口を独立変数とし、人口扶養のためには農業生産、そして土地が必要、という議論が展開されることもあった。「大日本主義」も需要不足―雇用不足を植民でもって解決しようという議論ではなかったか? 
 猪間の人口論はこの論脈でどのように位置づけられるか?

2.開戦以降の「大東亜共栄圏」評価
 湛山らの批判にもかかわらず日本は帝国主義の道を歩んだ、とするならば、その局面において少しでも正気を保とうとした猪間のコミットメントをどう評価するか? 『報告書』における植民地経営の評価において、「大東亜共栄圏」をそれこそナチスの「広域圏」的なアウタルキーとしてではなく、自由市場圏に作り変え、将来における政治的独立をも展望するものであった――ありえた、という議論を猪間は展開しえたか?
 このあたり当然鈴木武雄の評価の問題とも絡む。

☆対決すべき先行研究(とりあえず戦時に絞る)
松浦正孝のものはもちろんであるが、そのほか
石井寛治『帝国主義日本の対外戦略』名古屋大学出版会
「在華紡」に着目しつつ、37年までに焦点を絞って、なぜ政治勢力としての日本ブルジョワジーが戦争を回避できなかったのか、を問おうとする。
原朗『日本戦時経済研究』東京大学出版会
荒川憲一『戦時経済体制の構想と展開』岩波書店
山本有造の著書
山崎志郎の著書
あたりを研究の前線ないし総括として、
『日本経済史』東大出版会
などで研究史を確認していく。

ラベル:猪間驥一
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2016年03月26日

指導教官が求めたことA

【2012年11月14日】
 最初に提出した博論に対するコメント。とりあえずそのまま掲載します。
*初稿に対するコメントとリライト要求の方針案
1.従来の日本近代政治経済史研究、ならびに日本近代思想史研究においては、石橋湛山の「小日本主義」をその典型とする、第二次大戦前の日本における政治的・経済的自由主義構想は、その先駆性と理想主義を高く評価されつつも、昭和初期におけるいわゆる「日本ファシズム」の台頭、軍部による政治の蹂躙、帝国主義的侵略戦争を防げなかったがゆえに、結果的には失敗・敗北したプランとの評価をつけられることが多かった。
 近代日本における社会矛盾――農村の貧困、階級対立――の根本因を人口過剰(マルサス主義)や、資本主義経済の自己調整機能の麻痺(マルクス主義)に見出し、その克服を日本の移民と植民地化を中軸とする重商主義的・帝国主義的社会経済戦略に求める「大日本主義」に対して、石橋湛山は移民や植民地主義の経済合理性を否定し、内政におけるケインズ主義(マクロ経済政策と社会政策の組み合わせ)と外政における国際協調主義(経済面ではブロック経済化の否定と自由貿易主義)のセットによる「小日本主義」のビジョンを早くから提起し、実際の政治的・政策的論争においても、労使の階級対立に対しては労働組合の放任、農村問題については産業組合主体の自力更生戦略、金解禁と昭和恐慌を巡る論争に際しては徹底したマクロ的拡張政策擁護の論陣を張って闘った。また石橋は決して孤立した存在ではなく、本論文でも論及された上田貞次郎や高橋亀吉、そして本論文の主人公たる猪間驥一といった「同志」が存在しており、実践的にも幣原喜重郎の協調主義的外交活動(幣原外交)、高橋是清の大蔵相・首相(高橋財政)としての活動によってある程度その実現を見ていた。
 しかしながら昭和前期――第二次世界大戦前までの歴史的展開を見る限り、高橋の積極財政はのちに「軍事ケインズ主義」と呼ばれる軍需依存の経済回復に帰結して、軍部の台頭に付け入る隙を与え、それを抑えようとした高橋自身の横死をもたらした。すなわち、石橋・高橋的自由主義は、昭和前期日本においては、右翼的ラディカリズムに敗北したのである。この評価は右翼的な歴史観のみならず、マルクス主義的史観によっても共有されている。
2.本論文は以上のような石橋・高橋的自由主義に対する低評価に対して、猪間を中心的な素材としてその見直しを迫ることを目標としている。石橋の「小日本主義」や高橋財政、あるいは幣原外交についての評価にはある程度の先行業績があるが、猪間、そして本論文で取り上げる鈴木武雄といった論者に注目する理由は、おおむね以下のように思われる。
 代表的自由主義政治家としての高橋は暗殺によって横死し、筆頭論客たる石橋も軍部専横の本格化以降は、拠点たる東洋経済新報社を守るためもあってか、終戦までは「消極的抵抗」でやり過ごす。それに対して高橋亀吉、あるいは猪間や鈴木などは、昭和研究会に参加して「大東亜共栄圏」への大っぴらな加担者となった高橋は極端な例としても、本論文での検討素材となった『在外活動についての報告書』にみられるとおり、昭和日本の帝国主義・植民地主義路線が動かせない所与となった局面において、むしろ「よりましな帝国主義・植民地主義」を目指すかのごとく、日本ファシズムに対する抵抗よりもむしろ(「批判的」にではあれ)参加の道を選んでいるように解釈できる。
 本論文は、猪間の研究・言論活動の全体、また石橋・上田といった人脈との関係を射程に収めたうえで、猪間の思想が全体として石橋的な「小日本主義」、政治的・経済的自由主義と軌を一にしていることを示し、そのうえで、ファシズム下・戦中におけるその活動も、一見したところとは異なり、必ずしもファシズム・植民地主義への「屈服」「転向」ではなく、戦前における自由主義と矛盾したものではないこと、それ以上に、石橋的な「消極的抵抗」とはまた別の形での、戦時下における自由主義の継続の試みに他ならないことを論証しようととするものである。
3.以上のように本論文の主題を理解したうえで、なお指摘しておくべき本論文の問題としては、次の諸点が挙げられる。
a.上記の主題、論文自体の戦略的目標――石橋湛山が代表する、戦前日本における自由主義のポテンシャルの再評価を、あえて「屈服」「転向」とみえる猪間の活動の再解釈を通じて行おうというもの――野心的であるだけにトリッキーでもあり、それを説得的に論証することは極めて困難な課題である。提出時点における本論文の構成は、必ずしもこうした本論文の主題、戦略的目標を、専門研究者はともかく一般読者に対してわかりやすく提示するものとはなっていない。それゆえ、導入部において、戦前日本の政治的・経済的自由主義に対する研究と評価の歴史的変遷についての包括的な展望を置いたうえで、あらためて本論文の課題を予示的に総括的に示しておくことが望ましい。またこれと併せて、導入部には『報告書』を主題とした既発表論文を全面的に本論に組み込むことが必要と思われる。
b.上記のごとく導入部を変更することに合わせて、本論部分も、各章において全体構想との関係でその論証課題を明示する書き直しを行うことはもちろん、論文全体の総括においても、導入部における問題提起を復習したうえで、設定された課題がどこまで論証され、何が未解決課題であるかを確認する、独立論文となりうる充実した内容を備えた「終章」を作ることが望ましい。
 この後、私は博論の取り下げを強要されることになりますが、その経緯についてはもう少し後で説明することにします。
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指導教官が求めたこと@

【2012年4月26日】
 私が最初に博士論文の草案を提出したときの返信メールです。このときはまだ、指導教授がマルクス主義的歴史観のもち主であることに気づいていませんでした。
和田様

ざっと拝見しましたが、以下のような点を明確化する方向で修正された方がよいと存じます。

・石橋湛山の「小日本主義」はある程度までは戦前の日本において実現していたことを明確に主張し、できるだけその根拠をあげて傍証する。
・にもかかわらず湛山の構想はいったん挫折するわけであるが、それが必ずしも必然ではないことの論証を目指す。
・それだけのことであれば既に多くの先行業績があるので、猪間(や上田)の仕事を湛山構想の一定程度の実現の証拠として、また特に猪間の戦後の報告書をその検証作業として読む、ということで研究史への貢献とする。
・湛山の半植民地主義はいったんは挫折し、湛山自身はその後消極的抵抗に入るが、高橋亀吉や猪間はあえてアジア主義にコミットすることで、「よりましな植民地帝国」を目指したことを明確化する。またそれはどの程度有効であり得たかも検証する。この際猪間の戦後の報告書は主要な資料となると期待される。

 湛山を主軸に据えるのはいいのですが、やはり猪間を活躍させないと、あまり目新しい仕事には見えなくなってしまいますので、湛山と猪間の関係についてはしつこく強調して良いかと思います。

 ここで注目すべきは、この教授がこだわる、「消極的抵抗」と「挫折」(=失敗のプログラム)という、二つのキーワードです。
 「消極的抵抗」とは、松尾尊兌らが「十五年戦争」ということばとセットにして用い始めたもので、満州事変以後、日本は「十五年戦争」に入り、湛山はその「戦時下」において、国家に対して表立った批判はできなかったが、「消極的抵抗」つまり「帝国主義」という怪獣とたった一人対峙しようとしたという文脈で説明しようとするものです。
 「挫折」とは、湛山の「小日本主義」の挫折をいうもので、優れた思想であったが、けっきょく戦争を防ぎきれなかったから「失敗のプログラム」であったとするものです。
 「消極的抵抗」が現実を反映したものでないことはすでに述べていますが(高橋財政期に「戦時下の抵抗」という枠組みに収めるべき湛山の評論が見つからない)、この教授の場合は、リフレ派も名乗らなければならないので、矛盾がさらに深刻化します。どのようなことになるかというと…。
 金解禁論争で湛山らの新平価金解禁の主張を支持するのは、問題ないですね。
 浜口内閣が成立して井上蔵相が行った旧平価金解禁や緊縮財政に批判的な立場を取るのも問題ないのですが、その不景気のさなか、1931年9月に満州事変が起こってしまいます。
 「十五年戦争」というのは満州事変開始以降の時期を指すので、ここから湛山は「消極的抵抗」に入らなければなりません。
 ところがその3ヵ月後に犬養内閣が成立し、高橋是清が湛山らの提言を採用して新平価金解禁・金本位制停止を実施します(湛山は、何と「消極的抵抗」を行いながら、政府にリフレーション政策を提案していたわけです!)。
 そして、高橋財政期を通して「消極的抵抗」を続けているはずの湛山が、リフレーション政策を展開する高橋蔵相をブレーンとして背後で支えていたのです(それも、「軍事費を縮小すべきでない」という提言を行って)。
 それが「失敗のプログラム」であるのなら、リフレーション政策の提言自体が間違っていたことになるのではないでしょうか。
 大内兵衛は、昭和財政史を失敗の歴史と規定し、その結末として太平洋戦争があったと結論づけ、その責任を高橋財政に帰していますが、これが奇しくも「失敗のプログラム」という考え方に符合するわけです。高橋財政開始の直後、湛山のこの政策提言に異議を唱え、暗殺される直前の井上準之助と手を組んで、湛山の追い落としを図ろうとしていたのが有沢広巳だったことも確認しておくべきだと思います。
 この教授に限らず、「湛山好き」の左翼の人たちってこういう矛盾に気づかないのでしょうか。
 念のため、猪間が、高橋亀吉や鈴木武雄のように、「あえてアジア主義にコミットすることで、「よりましな植民地帝国」を目指した」というような事実はありません。湛山のように、東洋経済新報社の京城支局を設置して『大陸東洋経済』を発刊するようなことさえ行っていないのです。
 当初、猪間と鈴木を取り違えただけかと思い、何度も指摘しているのですが、この教官はずっとこの主張に固執したままです。
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2016年03月25日

ご報告A

3.アカデミック・ハラスメントの報告
 私がこの大学院で指導教官より受けたアカデミック・ハラスメントの報告書をまとめ、大学当局に提出しました。それがどのように起こり、どれほどつらいものであったかを伝えるために、残っていたメールや添付ファイル等を用いて状況の再構築につとめたものです。
 報告書は20数ページに及ぶもので、これを少しずつブログに載せていくことも考えていますが、ここではとりあえず、その中に用いた指導教官の矛盾だらけの「主張」をいくつか公開することにしました。私からの反論も交えています。
 シリーズのタイトルは「指導教官が求めたこと」とします。
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2016年03月18日

ご報告@

 いくつかのことをご報告します。
 1.以下のタイトルで博士論文を提出し、学位をいただきました。
自由主義経済学者、猪間驥一の人口問題研究およびその近代史認識
――1920〜1940年代の考察――

Liberal economist INOMA Kiichi’s Studies on the population problem and his recognition of Japan’s modern history from the 1920s through the 1940s
 (構成・内容等については4月以降にご紹介させていただきます)

 2.以下のタイトルで明治学院大学大学院社会学研究科『社会学専攻紀要』に小論文を書きました。
いかにして日本の農村は自立しうるか?
――石橋湛山と猪間驥一の1930年代地方財政問題への視点――

How can the rural areas in Japan become independent?
-View on the issue of local finance in the 1930s by Tanzan ISHIBASHI and Kiichi INOMA, both economists-
 何かの機会にお目通しいただければ幸甚です。『紀要』論文はご希望の方があれば送らせていただきます。
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2016年03月04日

猪間驥一と国際連盟の関係

 猪間驥一は、国際連盟事務局東京支局の諮問機関、国際連盟経済調査委員会の7人のメンバーの一人だったんですね。
 この3月で研究にひとまず区切りをつけて、日本外交とくに戦前の外交を勉強したいと思っています。そこで例によって、近代デジタルライブラリーを「国際連盟」で検索して眺めていたら、驚いたことに猪間驥一の文字が目に飛び込んできました。
 「国際連盟経済叢書」刊行の辞
 国際的依存性は年と共に一層緊密を加え、如何なる国と雖も、他の国との協力なしにその生活を営むことは益々困難となって来た。殊に経済関係に於てその甚しきを見る。
 国際連盟が世界の経済界に対し過去十二年の間に為した偉大なる寄与はこの方面に於ける国際的依存性の発達を如実に示すものである。
 各国の経済事情乃至その国際関係については今日夥しい数の資料が発表され、又されつつある。而もこの方面に於ける国際連盟の調査書類および統計資料に至っては、広汎、正確、公平なる点に於て決して他の追随を許さず、その権威は今や世界的に認められて来た。日本は連盟の書類を購入することに於て米英に次ぐ地位に在るが、その約八割が経済関係の書類によって占められている事実は、日本に於て連盟の調書が信頼すべき資料として広く用いられていることを証するものではなかろうか。惟うに、若し連盟の刊行物が日本文としても発表されていたならば、更に一層大なる貢献を日本の経済界に与え得たであろう。
 国際連盟事務局東京支局は、ジュネーヴ連盟事務局の日本に於ける出張所として、国際連盟に関する情報の普及に努めているのであるが、連盟の、殊に経済に関する調査及び統計の貴重なる資料が未だ充分に利用されずに残されてあることを遺憾とし、而してその原因の一が原書の外国文たることに在るを知り、夙に主要なる調書の翻訳及び紹介を行っていたが、恰も本年四月国際連盟経済財政部長サー・アーサー・ソルターの来朝あり、同氏の熱心なる賛同の下に「国際連盟経済調査委員会」なるものを、連盟事務局東京支局の諮問機関として設置し、一は連盟の調査及び統計の翻訳紹介に当り、一は連盟本部に対する日本の経済情報の提供に努めることを申合せた。委員会は左の諸氏を中心として組織された。(ABC順)
 荒木光太郎(東京帝国大学教授) 青木節一(国際連盟事務局東京支局主任)
 猪間驥一(東京市政調査会研究員) 猪谷善一(東京商科大学教授) 
 木村孫八郎(『エコノミスト』編集次長) 高木友三郎(法政大学教授) 
 幹事 徳田六郎(国際連盟事務局東京支局長)
 「国際連盟経済叢書」の刊行は国際連盟本部の承認により、財団法人金融研究会の援助の下に、委員会最初の事業として着手されたのであって、各委員は自ら翻訳に当り、連盟事務局東京支局その刊行を為すものである。この計画によって連盟の経済事業及びその結果が日本に普く理解され、延いて国際平和と協力の促進に対し幾何かの寄与を為すことを得ば、吾々望外の幸である。
 昭和六年九月                             国際連盟事務局東京支局
【国際聯盟経済叢書】
第1冊『英米独仏における金移動問題:国際聯盟全委員会に提出せられたる四論文』(1931.10)
第2冊『世界農業恐慌:附・国際農業抵当銀行』(1931.10)
第3冊『世界経済不況の過程並びに様相』(1932.1)
第4冊『手形法国際統一と我商法の改正:改正手形法案の解説』(1932.6)
第6冊『国際聯盟金委員会最終報告書』(1932.10)
第7冊『世界経済概観:1931年至1932年』(1933.8)
第8冊『最近世界貿易概観』(1935.2)
 第8冊だけは刊行の辞がないのでわからないのですが、第7冊まで、つまり1931年9月から1933年8月までは、猪間が、経済叢書の編集に関わっていることがわかります。

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2016年03月03日

土方成美ゼミ生たちの受難

 前回同様、土方成美『事件は遠くなりにけり』(経済往来社、1965年)からの引用です。土方ゼミとはいっても、厳密にはゼミ生ではなく、ゼミに出入りしていた北山冨久二郎の話が中心になります(引用文中にもあるように、北山は山崎覚次郎の門下生です)。
 戦敗に歓呼の声をあげたもの
 昭和20年8月15日、終戦の詔勅は三井本社の廊下で聞いた。(……)
 それはともかく、如何に軍が無謀な戦争を始めたとはいえ、国民の大多数はこれに協力したのではないか。(……)
 ところが、同じ日本国民の中には、この敗戦を待ってましたとばかりに欣んだ人が少なからずあったことは残念なことである、
 中でも喜んだのは共産党を中心とする左派マルクシストの連中であった。(……)占領軍は戦時中の日本の旧勢力を抑えるためには共産党の勢力を借りる必要があると考えたらしい。ひどく共産党を煽てていた。野坂参三氏が凱旋将軍のように外地から引揚げて来る。日々のラジオ放送では野坂、志賀といった人々の放送が聞えて来る。それに呼応するかのように、躍り出した一人が大内兵衛君である。
 これより先、同君は「満州事変後の財政金融事情」を調査するという名目で日本銀行の嘱託?になっていた。当時の日銀総裁渋沢敬三氏とは相当昵懇であったらしい。先ず終戦早々、昭和20年の秋である。ラジオ放送で、日本の財政を論じて、各種の補償の打切を唱道した。これは当時の大蔵大臣渋沢敬三氏との狎れ合いの疑も持たれた。
 これでもだいぶ端折りましたが、ここまで大内の悪口をいっている人を私は知らないので、長めに引用してみました。北山冨久二郎の動静もこれによってわかります。
 大内教授はさらに、この勢を利用し、占領軍を背景に多数の教授を追い出し一党を率いて東大復帰を試みられた。(……)先ず血祭に上ったのは荒木光太郎教授である。それについで追出しを喰ったのは、油本豊吉君、中川友長君である。ご両人とも東大在学中、私のゼミ(学習指導)に出席した人々である。(……)難波田助教授も追放された。(……)その外に、平賀縮学の時に、内務省社会局から招かれて教授になった北岡寿逸君も追われた一人であった。北山富久二郎君も追われたが、この理由は、私にはもっともわからないことの一つである。北山君は私の所にも親しく出入していた人で、山崎覚次郎教授の推薦で、台北大学の教授として招聘された人であるが、平賀粛学後東大入りをした。終戦当時、大内君の東大復帰を非常に歓迎されていたが、それにどうしたことか、結局追われることになった。現在は舞出五郎君の下に、学習院大学の教授をしている。(……)かくて、東大経済学部は終戦と共にマルクス主義者ないしその同調者が体勢を支配するところとなった。
 北山が東大に戻った後、追放されたこと、そのため学習院大学へ行ったことも私は知りませんでした。
 「昭和4年頃、土方ゼミの参加者(敬称略)」という写真があって、そこに猪間驥一も写っていますが、同じところに北山の姿もあって、二人が戦前より面識があったことがわかります(年齢の差から大学院は入れ違いになったと思っていました)。
 『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の編集委員の3人、猪間驥一、鈴木武雄、北山富久二郎は大学時代からかなり近いところにいたのですね(鈴木と北山は大学院で同級生)。
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猪間驥一の助教授昇格問題

 今回は、飛び込みの情報ですが、ご興味がある方もあるかと思い…。 
 以前から、河合栄治郎の日記の原本がないのか、いつか時間ができたら確かめてみようと思ってきました。河合がヨーロッパ留学から帰国して、有沢広巳・大森義太郎、また猪間驥一に会ったときのこと、後にクーデターを起こすくらいですから、何か書いているはずなのです。
 先日、少し時間ができたので、何冊かの本を読んでみました。
 『河合栄治郎全集』第22巻「日記T」(社会思想社、1969年5月20日)
 江上照彦『河合栄治郎全集』第21巻「河合栄治郎伝」(社会思想社、1970年12月30日)
 松井慎一郎『河合栄治郎:戦闘的自由主義者の真実』(中公新書、2009年)

 いずれも猪間に触れた部分があるのですが、それらはすべて、『河合栄治郎全集』刊行に際しての猪間と吉田忠雄の対談「計算外の人生」(『社会思想研究』第19巻第5号、1967年)、『日記』または『全集月報』に基づくもので、猪間の『人生の渡し場』(三芽書房、1957年)さえ用いられていないのです。
 ですので、猪間を調べている者にとっては、ちょっと期待はずれでした。
 江上・松井両氏は、河合の長男武氏と親交があったようですが、「日記」に関する話は出てこないので、あるいは、『河合栄治郎日記』を出版した時点で、武氏が処分してしまわれたのかもしれません。
 その一方で、江上氏が書かれた『伝記』には、土方成美の『事件は遠くなりにけり』に触れた部分があって、土方は日記もエッセーも書いてないとばかり思っていたので、読むだけは読んでおこうと思って読んだものでしたが、これは大収穫でした。
 土方成美『事件は遠くなりにけり』(経済往来社、1965年)
 1923年の関東大震災以降の、東大の人事に関して、次のようにあります。
 最初に問題になったのは猪間驥一君の助教授への昇格問題であった。これは大内、河合両君の熱心な反対、この反対をバックされたのが、矢作教授であった。これに対して私は積極論であって、長時間論議したが、結局否決された。次いで大森義太郎君、有沢広巳君、山田盛太郎君というような、後年のマルクシストが相次いで助教授に任命された。何れも、高野グループの熱心なバックアップによるものであった。
 東大で、猪間の助教授昇格問題が話し合われたというのは初耳でした。
 1924年の3月頃、猪間の処女論文が評価されて、助教授に昇格させようという話がもち上がり、土方は賛成するが、大内兵衛だけでなく河合の反対で実現せず、その妥協案として、4月に講師に就任するが、6月には、大内らの肩入れで、大森・有沢が一足飛びに助教授に就任し、挙句の果ては猪間が東大を追い出されてしまうということですね。
 ただその後、平賀粛学があったためか、ここには河合について明らかに間違った記述があります。「大内、河合両君の熱心な反対」というところです。
 簡単にいうと、森戸事件の後、大内がヨーロッパに出立してから、翌年、河合もイギリス留学に旅立ち、関東大震災後、大内が帰国し、1925年の夏に河合が帰国するまで、土方、河合、大内が同時に日本にいたことはなかったのです。この時期、河合が、大学の命を受け、シュンペータ獲得、図書の購入、糸井の見舞い等でヨーロッパを飛び回っていたことについてはすでに何度か書いていると思います。
 河合の留学で猪間は土方ゼミに入ることになりますが、このとき河合と土方の間で、猪間を次期助教授候補とする話がもち上がり、河合が時期尚早といったことなら考えられます。あるいは、何度か伝えられた糸井危篤の報を受けて、手紙のやり取りがあった中で、猪間が糸井の後を受けて昇格する問題が話し合われていたことであれば考えられます。ただ、大内と河合がこぞって反対したということは考えられないのです。
 大内一人が反対したということではなかったでしょうか。
 1926年3月2日、河合と二人で起こしたクーデターについてもここでは触れられていません。興味深いのは、土方が、平賀粛学は大内に図られた、河合には悪いことをしたというニュアンスのことをいっていることです。
 以下、他に興味深かった部分を引用します。
 有沢広巳君は、もともと統計学にそれほど興味を持っているように見受けられなかったが、統計学以外の科目では教授になる望みが薄かった。それかあらぬか、統計学を専攻するようになったが、今日に至るも、統計学に関する著書、論文は多くは見当たらないようである。
 有沢の門下生、中村隆英も同様のことを書かれていましたね。
 土方は、自分のことについても次のように書いています。
 私が1923年に、逸早く学位論文を提出したのも、高野グループによる身辺の危険を感じたからである。東大を放り出された場合、矢張り学位があった方が、飯を食うのに何かと都合がよかろう。素裸で放り出されたのでは、いよいよもって、衣食に困るだろうと考えたからである。(……)審査は長老教授の厚意によってパスしたが、いよいよ決定の教授会になって半畳を入れたのが大内君であった。
 このため、論文通過は数ヶ月のびた。しかし、とにかく1924年秋には私の論文も通過し、私は日本で4人目の経済学博士の学位を得た。大内君はその後、学位などを問題にしないというのか、長く学位論文を提出しなかった。ところが、終戦後、ご自身の天下となるや、仲間が相寄って、あっという間にお互いの論文を通して学位を得た。
 (土方は1924年 10月6日、『財政学の基礎概念』で経済学博士となっている)
posted by wada at 18:34 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする