2015年10月16日

「果して帝国主義戦争か」

 石橋湛山が、日本が国際連盟からの脱退を声明した直後する直前に書いた「社説」に、びっくりさせられるものがありました。「果して帝国主義戦争か」(1933年3月4日号)というのがそれです。
 日支紛争、それから引続いての我国と国際連盟との衝突が、社会的に或は歴史的に、我国に取って何を意味するかを考究し、確(し)かと之を理解することは、単に理論家の遊戯としてでなく、此際我国民が此問題を処理する実行の上に最も肝要な用意である。
 之に就て予てから一の鋭き評論を試みつつあるは左翼理論家の一群であろう。彼等は一般に此事件を、彼等の所謂帝国主義戦争と見るのである。然るに私の察する所に依れば、此事件を所謂帝国主義戦争なりと解する者は、必ずしも左翼理論家ばかりではない。政治家、資本家、企業家、乃至一般大衆の多くも、亦無批判的に同様に考えている観がある。何となれば彼等は、此事件を甚だ単純に、日清日露戦役以来の我国の大陸政策の引続きに過ぎずと解釈し、そこに何等の特異性を認めぬからである。果して此事件が左様に単純の性質のものであれば、私は寧ろ其処理の容易なるを楽観する。併し事実は果して何うか。
 云う所の帝国主義とは、左翼理論家が経典の一とせるレーニンの著『資本主義の最後の段階としての帝国主義』に依れば、五個の重要なる特徴を持っている。即ち(……)
 ここで湛山は、帝国主義の五つの特徴について解説し日本がそれに当てはまらないといっているのですが、長くなるので省略します。
 此事件は、単に連盟を脱退し、熱河を討伐し、満州国を建設する等の事で終るものでないことは明かだ。真の問題は、斯様の国外の事にあるのではなくして、国内に存するのである。国内の政治を改め、経済制度を変える。而して所謂王道国家なる抽象的名称に依って表示せらるる理想を、満州国にでなく、我国内に於て実現する。之が前年以来の事件の底を流るる漠然たれども、強烈なる希望ないし思想である。而して思うに此の希望に相当満足が与えらるる見込みのつかぬ限り、現に発展しつつある事件も容易に片付かず、或は一応片付いた所が、真の安定は得られないであろう。私はここに我時局は帝国主義戦争の現れと見る場合以上の困難を伴っていると考えるのである。
 さて然らば何うしたら善いか。難局ではあるが処理の方法は無くはない。一言にすれば、国内の政治及経済に改造を施す事である。それは過激な論者の主張するごとき急進的なるを必ずしも要せぬ。今日政界及経済界等に支配的位地を占むる者が、時潮に省み、改造の決心を固め、秩序的に為し得る所から実行に着手するの誠意あらば、解決は寧ろ意外に容易なるを感ずる。
 「西洋文明模倣から独創時代への波瀾」(1934年7月8日号)では、明治維新以来の日本経済を以下のように時代区分しています。
 第一期 明治初年より日露戦役まで:西洋文明輸入に依る産業革命時代
 第二期 日露戦役より昭和6年まで:西洋文明模倣から独創時代に入らんとする煩悶時代
 第三期 昭和7年以後:金輸出再禁止を契機として展開せる独創時代
 日本は、リフレーション政策によって危機を脱しただけでなく、いよいよ独創時代に突入したというのです。
 それは、どのようなイメージかというと、戦後になって書いた「私の見た大河内博士の功績:いわゆる科学主義工業の主張」に端的に示されています(すでに2年前にも引用していますが)。
 昭和6年12月内閣が更迭し、高橋是清大蔵大臣の下に金の輸出再禁止が行われるや、我国の産業界は俄然活況を呈した。ことに多年半死半生の有様にあった重化学工業界は、目ざましき発展を示した。同時に卓越せる産業指導者がくつわをならべて現れた。その中でも、いわゆる理研コンツェルンの総帥とし華々しく登場した大河内博士は、日本窒素の野口遊、昭和電工の森矗昶、日本産業の鮎川義介の三氏と合せて、私はこれを産業界の四傑と称し、特に推奨したしだいであった。(……)その四氏が時を同じくしてそれぞれの分野に活躍した有様はおそらくわが産業界空前の偉観であったと思う。
 十五年戦争ということばを安易に使っている人たちには、湛山のこの主張をかみしめてほしいです。
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2015年10月08日

「医学の仮想博物館」より

 以前、搾乳器について書いたときに参照した「Musée virtuel de la Médecine(医学の仮想博物館)」ですが、Instruments médicaux utilisés en Médecine(医学で使用される医療機器)というところに、トラウベについて、また吸引分娩用の吸引器と鉗子分娩用の鉗子について、興味深い写真とコメントがありましたので、ご紹介したいと思います。
◆「トラウベについて追加B」
 Stéthoscopes obstétricaaux (pièces de musée) …産科聴診器
 Stéthoscope obstétrical de Pinard (toujours utilisé)…ピナール産科聴診器(今日も使用)
 前者の項には、19世紀に用いられたトラウベを集めた写真があって、一般的な(つまり日本でトラウベと呼ばれるピナール型でない)聴診器が、産科聴診器として分類されていることから、児心音の聴取に常用されていたことがわかります(ピナール型が誕生したのはフランスなので、ピナール型一色とも思われたのですが)。最終月経から18週ないし20週以降の心音を聴取していたこともわかります。
 後者には、初期のピナール型聴診器の写真があり、これがアルミ製だったことがわかります。音がどんな風に響くものか一度聞いてみたいと思いました。
 (なお、トラウベについては何度も書いてきましたので、タイトルをこのようにしました)
◆吸引分娩用機器
 Ventouse obstétricale (産科吸引器):
 Ventouse de James Young SIMPSON ; modèle historique de 1848.
 (ジェームズ・シンプソンの産科吸引器:1848年の「歴史的モデル」)
 鉗子が相当古い時代から存在したことは想像がつきますが、吸引器は電気の使用が一般的になってからだとばかり私は思っていました。でも真空ポンプの原理を応用すれば、電気は要らないのですね。他のサイトで確認して、柔らかいゴム製だということがわかったのですが、1848年(つまりフランス二月革命の年)にこれが存在していたというのは驚きですね。ただし、この吸引器は、鉗子に押されて一般化するにはいたらず、1950年代に、スウェーデンのTage Malmstroが、今日の産科吸引器を発明するまで、ほとんど空白期となっています。なお、ジェームズ・シンプソンは英エディンバラ大学教授。
◆鉗子分娩用機器
 Forceps (鉗子):
 Historique du forceps (Tarnier - Budin ; 1901) (鉗子の歴史)
 Mains de fer de Palfyn (「パルフィン(パルファン)の鉄の手」:1720年)
 Forceps de Dubois(デュボアの鉗子:19世紀)
 Forceps de Pajot(パジョーの鉗子:19世紀)
 Forceps de Suzor(ズゾーの鉗子:1899年)
 Forceps Tarnier (version ancienne de 1877)(タルニエの鉗子:1877年)
 このうちの「鉗子の歴史」を見ると、その発明者を中心に、第1期:Levret(1600-1747)、第2期:Levretから Tarnier まで(1747-1877)、第3期:1877年から現在までの3期に分けて考えられていることがわかります(ひどく雑な読み方をしていますので、間違っている可能性があります。直接、ご確認いただければと思います)。
 第1期(1600-1747):
 この1600年というのは何か具体的な年号をあらわしているのではなく、発明されたのがこのころということだと思います。Rueffという人がすでに1554年に産科鉗子を着想していたのですが、産科鉗子の真の発明者というべきは、その長男のPeter Chamberlen(1560-1631)で、1600年頃にこれを発明し、Peterの甥のHugh Chamberlenが1670年、パリで使用したのが実施の始まりということのようです。
 1720年、Palfynが「鉄の手」を発明しますが、写真を見るとわかるのですが、二つの鉄の手が平行に固定されているので、接合部がダメージを受けやすかったので、1747年、Levretによって改良、つまり二つの手がかみ合わさる平行でないものに戻されます。
 第2期(1747-1877):
 その後、改良が加えられた様々な鉗子が登場し、1877年に、画期的なタルニエの鉗子が誕生し(これが、パリコミューンの少し後)、基本的にはこのモデルのものが今日まで使われ続けたということのようです(とはいっても21世紀になって使われた例は多くないはずです)。
posted by wada at 11:06 | TrackBack(0) | お産 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする