2015年08月31日

猪間驥一と日本統計学会2

 猪間驥一は、日本統計学会における最後の仕事、そして1942年、満州に新京商工会議所へ常務理事として赴任する前の日本での最後の仕事として、次のことを行っています。
 学会の事業として最後にもう一つ、官立統計図書館設立の政府建議の件を書き落としてはならない。日本の戦時色は昭和10年代から次第に濃厚になり、それと同時に統計資料の公表も国家機密という理由で制限されるようになった。たとえば昭和15年の国政調査結果は簡単な概要数字の一部分を除いては一般に公表されなかったし、唯一の官庁統計集である『帝国統計年鑑』も昭和15年度は印刷はされたが「極秘」と銘打って一般には頒布されず、16年以降は編集すら中止されてしまった。(……)
 高野岩三郎先生はこのことを心配されたのである。戦時下一般の公表をひかえるのは防諜上やむを得ないかも知れない。しかし国家的見地から必要な場合には、有資格者には利用させねばならない。一歩譲って部外者には公開できないとしても後日のために保存の方法を講じることは最小限度必要である。これが高野先生の御意見であった。そして昭和16年4月(太平洋戦争の開戦前である)慶応大学での第11回総会の席で、官立統計図書館設立の建議を熱心に提議されたのである。総会はこの提案を満場一致で採択し、直ちに左記のとおり実行委員を指名した。
 高野岩三郎 藤本孝太郎 汐見三郎 猪間驥一 森田優三
 委員会は同年4月から6月に至る間5回に亘って会合を重ね、決議文の起草を終って6月17日、森田を除く4名の委員は打ち揃って総理官邸、法制局、企画院を歴訪し、内閣総理大臣、内閣書記官長、法制局長官、企画院総裁宛に建議文を提出し、るる陳情した。この建議文は高野先生(実際には大内兵衛先生)が起草され、委員の合意によって若干の加筆を行ったものである。統計の資料センターあるいはデータバンクの構想は現在もまったく別の発想から存在していることは周知のとおりである。発想はまったく別であるが、時代の環境と相対的に考えるとその意図に相通じるものがある。高野先生の統計学者としての学問的情熱と時代にさきがけた炯眼に改めて敬意を表したい。この建議が戦争の遂行に狂奔していた軍国政府の一顧もするとこころとならなかったことはやむを得ない。
 何と猪間は、官立統計図書館設立の建議の実行委員の一人だったのですね。 
 実は、『猪間驥一評伝』の猪間の6人の師の内の高野岩三郎のところに次のように書いたのですが、それが、このことだったんですね(自分で腑に落ちるというのもヘンですが)。
 ところで、高野は第二次世界大戦の直前、「政治上、学術研究上、常にアップ・ツー・デートな参考資料を提供する」ことを旨とした、一大統計図書館の設立を建議している。この建議書を作るために、謄写版を刷ったり、袋とじをしたり、挙句の果ては、総理官邸まで高野のお供をしたのが猪間だった。間もなく戦争となって、この計画はうやむやになってしまうが、戦後になって、国立国会図書館の創設、あるいは内閣統計局図書室の付設として、日の目を見ている。
 高野もそうですが、猪間も図書館の大切さがよくわかっている人で、東京市政調査会の資料室の整備を手がけた体験から、1928年4月、『経済研究』第5巻第2号に「経済研究室の設備と作業に就て」を発表しているくらいです。
 こうしたことも猪間の業績に加えなければなりませんね。

 実は、森田の大内・有沢評、石橋湛山評で気になっているところもあるのですが、またの機会に書くことにします。
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猪間驥一と日本統計学会1

 「社会統計学・論文ARCHIVES(人生という森の探索)」というサイトで、森田優三『統計遍歴私記』(日本評論社、1980年)が紹介されており、そこに猪間驥一の名前が出ていたので、さっそく読んでみました。
 日本統計学会における猪間驥一の活躍ぶりがよくわかりますので、ここに書き写しておきます。
 1931年に日本統計学会が設立される前、森田の目に、猪間はどのように映っていたのか。
 東京帝大では高野先生の退任後、統計学講座は空席のまま、そしてその後任に予定されていた糸井先生は留学中に客死ということで、記録によると大正14年8月21日付で有沢広巳助教授が統計学講座担任に決定しているが、有沢助教授は統計学の講座を開講することなく、その年の暮に独逸留学に旅立ち、統計学の講義は従来に引き続き竹下清松先生が講師として担当しておられた。東京帝大からはその頃有沢助教授のほかに猪間驥一氏と中川友長氏が若き統計学者として巣立っていたが、猪間氏は経済学部の助手から後に市政調査会に転出され、中川氏も内閣統計局に入ってしまわれた。
 森田は、東京商科大学を1925年に卒業しているので、有沢による猪間の東大追放事件のことはまったく知らないようで、猪間が助手のまま東大を辞めて、東京市政調査会に入ったと思っていることがわかります。
 物価指数論でも当時の花形はやはり、蜷川、郡の両氏であった。(……)歴史の古い人口統計学の論文の数は必ずしも多くはなかったが、その中で岡崎文規氏と猪間驥一氏の研究が注目された。猪間氏はまたその頃から統計図表のエキスパートとしてユニークな存在であった。
 専門家の間では、猪間はとても評価されていたんですね。
 統計学会を創ろうという話がいつ頃どういうふうに始まったかは、いまほとんど記憶にないが、最初にそれを言い出した人は神戸商大の水谷一雄だったと思う。(……)先輩格の中山氏を中心に、水谷氏と私の3人の間で学会組織がほしいということを話し合ったのは、昭和5年の国際統計会議後いくらも経たない頃だったと思う。そしてこのことについての私のはっきりとした記憶は、中山伊知郎氏と同道で東京帝大の有沢広巳氏を笹塚の私宅に訪問したことからはじまっている。(……)中山、水谷と私の3人はみな一ツ橋出身だが、東大や京大の人たちにも動いてもらわないとということでこの訪問となったのである。
 したがって、東大を追放されていた猪間は、1931年1月の関西・関東で開かれた協議会のいずれにも参加しておらず、日本統計学会創立趣意書の発起人(13名)には、猪間の名前はありません。
 猪間が登場するのは、1931年4月の創立総会からです。こあたりのことは、2015年5月2日の「猪間驥一の写真を見たい方へ」等に少し書いていますが、36人の出席者の中に猪間の名前があり、記念写真の中に猪間の姿もあります。
 なおこの時の総会の決定事項で一つ書き落としてならないことは、統計学の学術用語の統一について調査に着手する計画を立てたことである。これは多分猪間驥一氏あたりの提案ではなかったかと思う。事実この仕事はその後同氏が中心になって進められた。そして調査委員として猪間氏の外に水谷、森田の二人が指名された。
 このあたりのことにもふれていると思いますが、ただ私自身、訳語の統一の大切さはよくわかりますが、先進的な猪間の一提案であって、これほど会員の総意に基づいた試みであったとは思っていませんでした。
 日本統計学会の推進力の中心は当時の若い統計学者たちであって、発起人13名中の9名、すなわち3分の2は当時まだ30歳代の若さであった。(……)
 この第2回総会での報告者の顔振れとその題目は、当時もっとも活発に活動していた若い学者たちがどのような問題にとり組んでいたかを示して(いた)。
 ちなみに、1932年4月に開かれた総会の、報告者の一番バッターが猪間であり、その演題は「価格の年次的統計と物価水準の推移を簡単に示すべき通俗的図表法に就いて」でした。
 東京では講演会を開いても入りが悪いので、第4回(昭和9年)のとき(……)JOAK(現在のNHK)にわたりをつけて講演会の代わりに講演を放送することになった。(……)第1回目の講師は上田貞次郎先生にお願いしたが、先生も恐らく最初の放送ではなかったろうか。私といっしょに愛宕山にお伴をしていった猪間驥一氏が放送室に入られる先生を見送って思わず「先生もさすがに緊張しておられる」と洩らしたのを今もはっきり記憶している。
 このエピソードも、どこかに書いているのではないかと思いますが、このとき猪間は、すでに上田の背広ゼミナールに参加していました。
 敗戦に至るまでの10余年間、日本統計学会の会合の場で日本の統計学がどのような歩みを進めてきたか。(……)資料の大部分は年報の中に残されており、(……)ここでは会員個別の研究以外で学会が学会としてやって来た仕事のいくつかを回顧しておこう。(……)
 その第一は(……)統計学用語統一のための調査委員会の活動である。この委員会は昭和6年の創立総会当時の決議で際遺書「統計学学用外国語訳語調査委員会」といういささか冗長な名称で設けられ、猪間驥一氏を委員長として水谷一雄氏と私の3名が委員に委嘱され、後に「統計学用語統一調査委員会」と改めて、厚東常照、田村市郎、中川友長の3氏が委員として追加され、最後の報告書は昭和12年発行の第6年報の付録として提出されている。上記のように6名の委員が委嘱されたがだいぶ文の仕事は委員長の猪間氏の苦心によるものであって、その成果についてはいろいろの見方はあろうが、とにかくいちおうまとめをつけることができたのはひとえにこのような根気のいる仕事に独特の才能をもっておられた猪間氏の努力のおかげであった。
  日本の統計学への貢献ですね。この『年報』は、近代デジタルライブラリーでも読むことができます。
 猪間驥一氏は統計用語の調査委員としてだけでなく、多方面に亘って学会の中枢メンバーとして活躍されていたが、戦争の後半、満州国の新京商工会議所の常務理事として赴任され、同地で敗戦を迎えて苦労された。帰還後は長く中央大学で統計学を講義しておられたが、戦後の統計学会に顔を出される機会は多くなかった。

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2015年08月22日

河合栄治郎クーデター事件

 猪間驥一の東大追放事件から1年余り後に起った「河合栄治郎のクーデター」、このことについてはすでに書いているのですが、正確さに欠けるところがあったので、あらためて整理しておきます。
 1922年11月、河合がイギリス留学へ出発してから、1925年に帰国するまでに起った、いくつかの出来事を確認しておくと、
 ◎1923年9月、関東大震災が起こる。10月、大内兵衛、帰国。河合には焼け落ちた図書館を復旧すべく、ヨーロッパで蔵書購入の命が下る。11月、糸井靖之の病状が悪化し、河合が見舞う。糸井はその後、もち直す。
 ◎1924年4月、猪間が講師に就任し、6月、有沢広巳と大森義太郎が、助手からいきなり助教授に就任する。このうち、有沢に関しては大内の推薦によることが確認されている。
 ◎同年12月、糸井が亡くなる。シュンペーター獲得の命をになってドイツに来ていた河合が、その後処理を行う。年末に有沢による猪間東大追放事件が起る。

 1925年8月初め、河合が、イギリス留学を終えて帰国します。
 8月19日、大森が来て、大学内部のことを話します。
 11月19日、だいぶ時間がたっていますが、河合は、山崎覚次郎を訪ね、「パルタイ」(大内兵衛らマルクス主義者のグループ)の動きを知らされます。このとき、猪間追放事件の真相を知ったという可能性もあります。
 11月30日、大森と有沢と午餐をともにしたとあるので、このとき何か聞き出そうとしたのかもしれません。
 12月12日、猪間が、河合を訪ねますが、これはその日に予定された、再び留学する川崎芳熊の送別会に誘うためだったかもしれません。

 そして、明けて1926年3月2日、そのクーデターは起こります。
 『河合栄治郎日記』と『東京大学経済学部五十年史』からその経緯を追うと、この日の教授会で、河合が、「(大内が)研究室主任として重要な人事を矢作先生と一緒になって独断専行したということ」で攻撃し、大内は任期なかばにして研究室主任を辞めさせられることになり、代って渡辺鉄蔵が、新しくできあがった研究室に主任として「乗り込む」ことになったことがわかります。河合が、「渡辺さんということに異論はないが、余り早く定め過ぎはしまいか、延期するようにしたいものと思う」と考えていたこともわかります。
 ここでいう「重要な人事」というのが、大森と有沢の助教授就任を指していることはもちろんですが、ここにはさらに重要なものとして、猪間の東大追放が含まれていたことが推察できます。
 日記には、「教授会を終えてから、土方(成美)と二人で安田講堂を巡り、それから上野の森を夕方暗くなるまで話をした。話題は多岐に亙ったが、頭に残るのは助教授の中に大したものがいないこと、グルッぺが大失敗をやったこと、これから主なる潮流を作って置かなくてはならないこと、それに僕を推したことなどであった。(……)唯物史観、暴力革命反対の運動を大学内に於て起こすことに付いては非常に共鳴したようである。彼は大学新聞に反感を持っているようである。11時近くまで更に神田を歩いて別れた。随分話をした。ともかく今日の話でグルッペの気勢は挫かれた。これからは我々の方がどう結束するかということである。と同時にこの傾向に対して僕が如何なる腹で進むかが、いよいよ決定されねばならぬ時に来た」とあり、河合と土方が意気投合して、新たな動きを作っていこうとしていたことがわかります。
 つまり、「パルタイ」とも「グルッペ」とも呼ばれる、大内グループの企みに一矢報いたということができると思います。

 1927年、渡辺は東大を辞めますが、その後も、大内グループの動きをチェックするために通いつづけました。
 1928年3月の三・一五事件(治安維持法違反容疑により社会主義者、共産主義者が一斉検挙された)を受けて、4月17日、東大評議会において、左派学生グループ「新人会」の解散が決定され、このとき大森義太郎の進退問題も協議されますが、大森は先手を打って辞表を提出します。
 おそらく、この頃までに、渡辺鉄蔵は商工会議所の所長に就任し、東大から手を引いたと思われます。

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