2015年07月29日

湛山の荒木大将インタビュー

 「湛山の高橋蔵相インタビュー」、「湛山の町田商相インタビュー」ときて、一年近く過ぎて、今回、「湛山の荒木大将インタビュー」です。
 1935年5月13日、荒木貞夫陸軍大将「荒木大将国策縦談」(→『東洋経済新報』6月1日号)
 なぜ、この記事を取り上げたのかというと、高橋財政期の、湛山の軍事費に対する考え方がもっともわかりやすく説明されているように思えるからです。
 日本の生産力は今の軍費でマキシマムか
 石橋 理論的に私はこう思うのです。日本の財政が膨張したと云いますけれども、例えば英国とか米国とかいうような国に比すれば、国民一人当りの支出にしても、元の10円1ポンドで勘定しても英国に比すれば5分の1位でしょう。今の為替で比較すれば10分の1にもなる。そこに元来無理があると思うのです。軍備が多すぎるんじゃない、財政全体の支出が小さ過ぎるんだから、そこで世界にお付合をするのには足りない。随て軍費以外の必要の経費が大変乏しくなる。斯ういう事であるから、どうしてもこれは財政全体をモット膨張し得るように、それだけに国民の経済力が殖えるようにしなければならぬ。これが大方針だと自分では思って居るのですが、併しそれは急にそこまで伸び得ない。そこで国民の経済力を養って英米等と等しく財政支出を負担し得るのには順序を経、時を与えなければならぬ。随てその間は出来るだけ軍事に使う部分を経済力を伸ばす方へ持って行く以外にはないだろう、斯う思って居るのです。(大意)
 湛山は反軍国主義者で、軍事費の増大には反対していると思われがちですが、高橋財政期、彼は軍事費の削減をしないよう高橋蔵相に提言し続けているのです。不況というものがそれほど怖いものであるという認識があったわけですね(ところが、政友会の爆弾動議で、高橋蔵相が弱気になって、削減するとかいいはじめ、軍部の怒りを買ってしまったということだと思います)。
 ところが、これに対する荒木大将の返答はというと、「私は会議に於て高橋さん(蔵相)に言った。国策がそうと決れば竹槍三百万本を持ても国防の任に当ります」というものだったのですね。
 湛山は、軍事費は削減すべきでないといい、荒木は、軍事費がなくとも、いざとなれば竹槍三百万本で勝てるといい、世間話を交えながらのおだやかな会談でありながら、両者の主張は平行線のままなのです。
 このインタビューの中で、荒木は数回、「竹槍三百万本」ということばをもちだしています。
 武器がなくとも戦えるという精神主義こそ、湛山がもっとも恐れているものであることが、行間からも読み取れます。そのためかどうかわかりませんが、湛山はこの後も、荒木大将に面会を続けるのです。
 1934年12月19日、荒木貞夫大将と会談。
 1935年5月13日、荒木貞夫大将と会談。
 1937年12月3日、荒木貞夫大将を訪問し話し合う。
 1941年7月7日、荒木貞夫大将を訪問。防諜問題について意見交換。

 どこかで読んだと思っていたのですが、湛山は、『大陸東洋経済』1944年7月15日号「東京だより」に「遊撃戦と竹槍三百本論」を書いているのですね(ただし、このタイトルは、『石橋湛山全集』への収録に際してつけられたもの)。
 満州事変が起って間もない頃、当時陸相であった荒木大将が、竹槍三百万本論なるものを唱えたことがあった。之は世間から稍や誤解を受けた説であった。私は近頃其頼まれもせぬ弁明を折々行っているのだが、竹槍三百万本さえあれば、他の武器は無用だと云うのではない。只だ万已むを得ざれば、竹槍でも戦争は出来る。其の場合には損害は甚だ大きいが、之れを忍ぶ意力が国民にありさえすれば、戦争にはそれでも勝てると大将は説いたのである。而して大将の言に依れば、此の説は決して独断ではなく、大将が参謀本部に努めていた折、或想定の下に部内で戦術の研究を行った際得た結論であると云う。飛行機其の他の異常に発達した今日の戦争に於ては、或は状況は違うかも知れぬ。併し国民が何処までも戦意を喪わず頑張ることが戦勝の最大の条件で武器の如きは寧ろ二の次ぎだと、云うことは、確かに荒木大将の説の通りと考える。竹槍三百万本論は此の意味に於て、私は近頃特に含蓄深く感ずるのである。(こちらはそのまま)
 これは、いろいろな読み方ができると思いますが、上述の会談の内容を踏まえると、私にはこれが、荒木大将や参謀本部にいる人々への呼びかけに思えてきます。
 「あのとき、自分はまさか日本がこんなことになる(負けいくさをやる)とは思っていませんでしたが、あなたがおっしゃったように、竹槍三百万本が必要な事態になりましたね。」
 言外には、「日本がおろかな戦争を始めたために…」という気持ちがこめられていたと思います。
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2015年07月28日

転向していた、鈴木武雄4

 鈴木武雄は、このインタビューの中で、「現在の関心事」として、次のようなものをあげています。
 一つはいまの「戦後財政史」ですね。これは、頼まれたときには「現代日本財政史」と同じ時期のことを、今度は大蔵省の正史として編さんするというんですから、断るわけにはいかなくて引き受けたわけです。これがそうおろそかにはできない一つの仕事だと思っています。
 つまり、1973年ですから、今まさに『昭和財政史――終戦から講和まで――』の編さんが始まろうとしていたわけですね。『現代日本財政史』を下敷きにしようとしていたこともこれからわかります。
 それから例の「現代日本財政史」、最初、上、中、下の一、下の二というのが増版で第一巻から第四巻ということ。そのときに、これはあと五巻、六巻と続いてもいいんでそういうふうに改めたんだというのが東大出版会の話で、続きを何巻になっても、元気で限り書き続けようという気になりました。そういうことで増版本の第四巻の巻末には、もう第五巻の目次みたいなものも出ているわけなんですが、これをどうしてもやりたいと思っているんです。気持ちとしては、なんとか少なくとも国債発行が再開されるところまでは二冊か三冊になるでしょうが。
 『現代日本財政史』のほうも、下敷きにするだけでなく、さらにこれから続きを書こうというわけだったのですね。二つを同時進行させようという欲張りな計画、しかも、それだけではなくて…。
 そのほかにもう一つ、これは前から約束していて、まだ果たせない文債なんですけれども、今度は通貨論を書くことになっているんです。(……)
 ものすごいバイタリティですね。現在、以前書いた、鈴木の大陸前進兵站基地構想に関する論文を書き直しているところですが、個人的には、これでだいぶ鈴木の印象が変わりました。
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転向していた、鈴木武雄3

 鈴木武雄が「転向していた」といっておいて、いまさらですが、鈴木自身は、そこまで思ってなかったようでした。
 念のためと思って、1973年の『エコノミスト』を調べてみたら、『鈴木武雄――経済学の五十年』(1980年)では見落としていた(というより、石橋湛山や高橋亀吉との関係でしか、鈴木に興味をもっていなかったので、読み飛ばしてしまっていました)情報がいくつも出てきました。
 「転向説」については、次のようにいっています。
 マルクス経済学を若いときから勉強しまして、基本的には、ことに貨幣論ではいまだに私はマルクスの立場を捨てていないつもりなんですけれども、いろんな点でかなりマルクス経済学といわれるものから離れている点もありまして、近経は、私は必ずしも専門に勉強したわけじゃないんですけれども、ちょっとそれにちかいようなところもあります。
 マネタリー・サイドを重視する立場については、「大内先生の影響が相当あった」といい、「財政学の中心は租税論だ」とする考え方にも、「長い間の大内先生の影響によるところも大いにあります」と語っています。
 ただ、それでも、大内グループと距離を置くようになったことは、こうしたいい方からも間違いないでしょうね。
 あとは有沢広巳が湛山の公職追放に絡んでいたことを鈴木が知っていたかどうかですが、1949年頃書き始めたという『現代日本財政史』について、書いていた頃は、大蔵省の内幕的なものは、何もわからなかったといっているくらいですから、あるいはまったく知らなかったということも考えられます。
 『現代日本財政史』と『昭和財政史――終戦から講和まで――』の編纂との関係もいろいろわかってきたので、それは次回書きます。
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2015年07月25日

石橋湛山の世界開放主義その後4

 『日本経済年報』第28輯の第8章「佐藤外交と対支経済使節」の最後の部分、これをプリントアウトしたものを、すぐに使えるように文字起こしまでしていたのに、その重要性に気づいていませんでした。
 経済使節団の来支により幣制改革以来凍結していた在支邦商銀行の手持現銀引渡につき児玉団長と中央銀行席徳懋氏との間に円満な話合いが出来、各銀行も夫々本店と打合せた上当地の手持銀を全部中央銀行へ引渡すこととなり、本日(3月31日)から受渡しが開始された。引渡しの条件は、外国銀行がなした際と同様で、全額の3分の2に対し年6分の利息を2ヶ年間つけ、交換収受する紙幣には年1歩の利息を2ヶ年間支払うという華商発券銀行の例に準じた形式によっている。これは実質的に銀貨1元に対し約6分のプレミアムが付されたことを意味している。引渡される邦商銀行の手持銀内容は銀元並にミント・バーで総額930余万元であり、漢口、汕頭、厦門、廣束、北支等の在銀には触れていない。
 つまり、1937年3月31日の時点で、すでに対支経済使節団派遣の効果が現れていたということです。
 ここで、もう一つ確認できるのは、この記事を書いた記者(名前は特定できませんが、「佐藤外交」の名付け親でもあり、『東洋経済新報』の「佐藤外交」に関する一連の記事を書いています)が、この記事を書き終えたのが、3月31日、しかしその後、6月3日、佐藤外相が辞任したので、急遽、以下の冒頭の部分を付け加え、6月25日の発表に間に合わせたということになりますね(ちなみに、『日本経済年報』は東洋経済新報社発行の季刊誌です)。
 我々が林内閣の佐藤外交に特別の意義を認めてこれを本節に執筆し終えた直後、突如たる政変によって佐藤外相はその職を去り佐藤外交も当然終りになって了った。然しながら過去数代の外交方針と際立って異った、この著るしく国際協調的な「佐藤外交」は、決して氏一人の個人的好みによって生じたものでは無い。(……)
 佐藤外相の就任期間は、3月3日から6月3日までの3ヵ月間。この間、いろんな仕事をしていることには驚かされます。
 ちなみに、佐藤尚武は、1927年のジュネーブ国際経済会議に、志立鉄次郎や上田貞次郎とともに、日本代表として参加しており、1933年の松岡洋右の国際連盟脱退声明の折には、松岡とともに会場を出てきた人です。
 何ヵ月か前のNHKのスペシャル番組で、国際連盟脱退声明を非常に後悔していたという松岡の肉声テープが見つかったことが伝えられ、それはとてもよかったのですが、今度はそれを受けて、「それ以降の外交はことごとく失敗の外交だった」という結論にもっていかれてしまいました。松岡のことがあったのですから、もう少し考えて報道してもらえればと思います。
 国際連盟脱退声明以降の、外交官たちの危機感はすさまじく、芳澤謙吉(外相経験者で、ヨセミテ太平洋会議では団長を務めた)が束ねていたようですが、国際連盟との関係をつなげていくために協力体制で奮闘しているのですね。
 首藤安人の原料品調査委員会での仕事もその一環だったと思うのですが、こういう努力を「ことごとく失敗の外交」と片付けていいものかどうか。

【追記】わかりやすさのため、タイトルを変更させていただきました。
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2015年07月23日

石橋湛山の世界開放主義その後3

 「オッタワ協定の終期と英帝国貿易:世界通商自由回復の気運台頭」という論説があって、何とこれが『東洋経済新報』誌上に発表されるのが、1937年7月3日、つまり日中戦争開始のわずか4日前なのです。
 それでは、この時期、何をもって「世界通商自由回復の気運台頭」といっているのか。
 ここでは、まず、5月から6月にかけて、新聞記者をシャットアウトして開かれた英帝国会議で、「各代表は現存する通商障壁について他国と協力して検討を加える用意がある」とする報告書が出されたことが紹介されます。
 またこの会議と前後して、英米、日英、日米等の通商外交交渉が進められ、過去数年間募りに募った通商障害がようやく緩和の方向に転じつつあること、そして、表面化しないまでも前述の英帝国会議で、2,3の属領地から、オッタワ協定の修正を求める声が出たこと、さらに過日、ベルギーのヴァンゼーランド首相が世界経済会議を斡旋しようとしたことを上げています。
 一方で、英帝国貿易の概況は、次のように分析されています。
1. 英本国全体の貿易は向上し、帝国内貿易も増加したが、帝国内への輸出増加は帝国内からの輸入増加に較べると若干の劣勢にある。
2. 主要属領国も対帝国貿易はその比重を増しており、帝国内貿易の割合の増加は明か。しかしこれは比率上、英帝国内貿易の保護が効を奏したことを示すだけで、英帝国諸邦とその他の諸国との間の貿易は、オッタワ協定によって著しく妨害されてきた。
3. 近年における貿易の増加は世界的な景気回復に基くもので、もしオッタワ協定がなかったら、世界全体としての貿易はもっと遥かに増加したはず。
4. 1932年は世界恐慌のドン底時代であったから、英帝国諸国もこのような協定に甘んじたが、今日では世界景気の様相が著しく変化し、今日なお、英帝国が門戸を閉じていることは、世界の経済発展を妨げるものであり、英帝国にとっても決して利益ではない。
5. とくに原料品生産の多い英帝国属領諸国にとっては、輸入上の障害を取除いて輸出の増進を計る方が、大局的に有利である。オッタワ協定修正の要求が聞かれる理由でもある。
6. 物価指数がすでに1929年に帰ったのに、英国の輸出総額はまだその6割に過ぎないという事態を猛省すべし。
(ナンバリングは、私が適当に行っているものです)

 石橋湛山も、上田貞次郎も、ブロック経済は必ず行きづまると予測していたのですね。
 その兆しが見えはじめたというのに、なぜ、戦争なんか始めてしまったのでしょう。

【追記】内容に即してタイトルを少し変えました。
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2015年07月22日

石橋湛山の世界開放主義その後2

 1933バンフ太平洋会議→1936ヨセミテ太平洋会議・世界開放主義→1937国際連盟原料品問題調査会
 この流れを追うのに、実は、多くの文献をパッチワーク的につなぎ合わせて用いていますので、何かのご参考になればと思い、参考文献として列挙しておきます。
 なお、このうちの大半を近代デジタルライブラリーでご覧いただけます。
【参考文献】
石橋湛山全集編纂委員会編『石橋湛山全集』第15巻、東洋経済新報社、1972年
上田貞次郎『上田貞次郎日記』晩年編、上田貞次郎日記刊行会、1965年
上田正一『上田貞次郎伝』、泰文社、1980年
『東洋経済新報』(東洋経済新報社)1928年〜1937年
『日本経済年報』(東洋経済新報社)1930年〜1939年
『自由通商』(自由通商協会日本連盟)1930年〜1937年
高橋亀吉『経済評論五十年』、投資経済社、1963年
石井修『世界恐慌と日本の「経済外交」―1930〜1936年』、勁草書房、1995年
高橋亀吉『世界資本主義の前途と日本:欧米新経済戦線を探りて』、千倉書房、1934年
全国産業団体聯合会事務局『モーレット氏歓迎午餐会及懇談会記事』、1934年
国際労働局東京支局編『モーレット氏報告書: 国際労働局次長モーレツト氏の日本産業に関する報告書』、1934年
全国産業団体聯合会事務局『第一八回国際労働総会に関する報告』、1934年
フェルナン・モーレット『日本の産業的発展の社会的形相』、国際労働局東京支局、1935年
赤松祐之『昭和十年の国際情勢』、日本国際協会、1936年
赤松祐之『昭和十一年の国際情勢』、日本国際協会、1937年
赤松祐之『昭和十二年の国際情勢』、日本国際協会、1938年
赤松祐之『昭和十三年の国際情勢』、日本国際協会、1939年
横山正幸『国際聯盟の将来と日本との関係』、日本外交協会、1936年
赤松祐之編『国際経済関係現下の容相:国際聯盟経済委員会報告書』、日本国際協会、1936年
高橋亀吉述『日本経済の発展と世界経済再調整問題』、中央朝鮮協会、1937年
日本国際協会太平洋問題調査部編『太平洋問題:第六回太平洋会議報告』、日本国際協会、1937年
外務省情報部編『国際時事解説』、三笠書房、1937年
川島信太郎『対大陸経済関係強化の沿革及其の解決策』、日本外交協会、1938年
外務省通商局訳編『最近原料品取得問題:国際連盟原料品問題調査委員会の報告書』、日本国際協会、1938年
日本銀行調査局編『世界の原料問題』、日本銀行調査局、1940年
神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ【新聞記事文庫】
主なもの:
・『神戸又新日報』1934年6月3日「ソシヤルダンピングに非ず モーレット氏の認識正確」
・『大阪朝日新聞』1937年2月26日「原料資源の再分配連盟委員会で堂々我が公正な要求提唱 コンゴー条約の精神適用を求む きのう訓電を発す」
・『大阪朝日新聞』1937年4月23日「資源の獲得、開発に“自由の三原則”を闡明 聯盟委員会出席の首藤代表に外相、根本方針を授く」

【追記】内容に即してタイトルを少し変えました。
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石橋湛山の世界開放主義その後1

 石橋湛山が、1936年9月に発表した世界開放主義は、国の内外にどのような影響を与えたのか。ごく簡単に記しておきます。
 1937年2月、日米綿業協定が成立したことはすでに述べているかと思いますが、それを歓迎する「民間経済外交の成功:日米綿布協定成る」等の論評が『東洋経済新報』誌上にも何編か載せられます。
 3月、再び「世界開放主義の提唱:政府は更に積極的に努力せよ」という呼びかけがなされますが、念のために記しておくと、これら一連の記事を書いたのは湛山ではなく、同社の若手記者の一人だったと思われます。
 ここまでが、以前、私の知っていた動き。しかしこれ以降、さらなる動きが生まれます。
 それは、3月に書かれた記事の中で明らかにされているのですが、実は、湛山の世界開放主義発表後、広田内閣がこれを真摯に検討していたというのです。
 そして、有田外相が、帝国議会で、原料資源再分配の一試案として、東部アフリカの植民地に対する各国の利害調節のために制定されたコンゴ盆地条約を各国の植民地市場に適用すべきであると力説し、3月上旬からジュネーブで開かれる国際連盟原料品調査委員会で世界に訴えることになったのです。
 ここで確認しておくと、日本は、1933年3月に国際連盟からの脱退を表明し、1935年3月に脱退しますが、その後も平和的・人道的・技術的事業については協力を継続し、経済委員会には首藤商務書記官が個人の資格で参加していたのです。
 同じ3月、林内閣の外相に就任した佐藤尚武は帝国議会における外交方針演説で、中国との平等な対話を説き、戦争勃発の危機は日本の考え方しだいと述べるのですが、『東洋経済新報』はそれを好意的に取り上げます。佐藤外相は、3月中旬、児玉謙次を団長とする対支経済使節団を派遣しますが、失敗だとする評価がもっぱらだったのに対して、そうではなかったという論説を繰り広げます。つまり日中関係は親善化しており、今後、中国の経済発展を助けていけば、日本にも発展の道が開ける、中国の一部に残存している排日策動にも百年河清を待つ態度で望む必要があると訴えたのです。
 佐藤外相は、その後、原料品調査委員会の首藤商務書記官を招いて対策を練り、6月下旬に開かれる第2次会議において、世界平和の基礎を確立するために「資源獲得の自由」、「開発の自由」、「通商の自由」の3原則を根本方針として、これを表明させることを決定します。
 これに引き続き、東洋経済新報社の季刊誌『日本経済年報』には、「佐藤外交と訪支経済使節」と題された記事が掲載されますが、このときすでに、林内閣は解散し、佐藤外相もその職を去っていました。しかし東洋経済新報社では、あえて「佐藤外交」の文字を残そうとしたのです。
 湛山らは、ここで何らかの準備していたと考えられます。それは、湛山の世界開放主義に基いた「自由の3原則」を日本の国策として掲げ、国際連盟の原料品調査委員会を足がかりに、世界に広く働きかけることではなかったかと思うのです。
 ところが、その直後の7月7日、日中戦争の開始で、これらの計画は暗礁に乗り上げます。そして国際連盟でも、1937年9月初め、原料品問題調査会第3次会議が開かれ、理事会に報告書が提出された後、9月末日をもって日本の国際連盟協力が終止されるのです。首藤商務書記官もここで引き上げることになります。
 これで日本と海外との大きなパイプがほとんど完全に断たれることになるのです。

【追記】内容に即してタイトルを少し変えました。
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2015年07月21日

転向していた、鈴木武雄2

 よく考えてみれば、「湛山の公職追放と共産党」(2015年7月18日)で述べた、『真相』の記事「石橋湛山の戦犯記録――これでも自由主義者」中の、「昭和18年の秋、『大陸東洋経済』を朝鮮京城に創刊して、同地の戦時経済指導に協力した」のは、湛山というより鈴木武雄の主導によるものだったわけで、その大陸前進兵站基地構想を、湛山が『大陸東洋経済』を創刊してサポートしたというのが真相ですよね。
 ですから、鈴木が大内グループへもどってからも、湛山の公職追放に責任を感じ、その成り行きを憂慮していたことは間違いないですね。
 一方の大内兵衛や有沢広巳は、戦時中、東大を追われて、ものを書く場を失っていたわけですが、そんな彼らに誌面を提供したのが『大陸東洋経済』であり、大内は、プレッシアーニ・トゥローニの『インフレーションの経済学』を紹介する記事を、署名なしで14回連載しているのです。
 それにもかかわらず、日本共産党に便乗するようなことをやっているのですから、こうした事情に通じていたはずの鈴木が、不信感あるいは憤りを感じたとしても不思議はないと思います。
 一橋大学名誉教授であった木村元一が、1981年に行った「一橋の財政学について―井藤半彌教授を中心として―」と題する講演の中に、次のような興味深い一節がありました。
 東大では大内兵衛という方が財政学をやり、かつ並行講義で(……)もう一つのほうは土方成美という方がやっておられました。ところが土方成美さんと大内兵衛さんとは、こんなに仲の悪い同士というのはないくらいに喧嘩ばかりしておりまして、(……)同僚とでもあんなふうにけんかができるかと思うくらい。(笑)大内さんという人はちょっと人が悪いですから。(笑)とてもとても土方さんの手には負えなかったろうと思います。赤子の手をねじるようなものです。教科書に土方さんの『財政学原理』をお使いになったのです。(……)大内さんはそれを批判の材料にする。(笑)こういうへんなことが書いてあるからと学生に講義するためにその書物をお使いになった。私、その講義を聞いたわけではないですから間達っていたら訂正しなければなりませんけれども、そういうことがあった。時代の流れ流れに応じまして、ころっころっとその学風が変わっちゃうのです。戦争中になると、金融の橋爪さんといったようなナチスばかりの人たちが、非常な勢力をふるって、大内さんは牢屋に入ったのでしたか入らなかったのでしたか、とにかく特高に追い回され、検挙された。それが一生の自慢になっておりまして、免罪符を得たようなもので、自分の民主主義の看板にする。そういうところがあります。あのときに牢屋にでもちょっと関係した人は、戦後になるとわれこそは根っからの民主主義であって国策に協力しなかったということを自慢する人がいる。(……)
 木村は、井藤の門下で、井藤は有沢や猪間と同世代、木村は1930年代初めより井藤のゼミに所属しており、これは、当時、東京商科大学の経済学者・財政学者たちの目に、大内兵衛の姿がどのように映っていたかを知る、貴重な手がかりになると思います。
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2015年07月19日

転向していた、鈴木武雄

 森戸事件を調べるために『エコノミスト』のページをめくっていたら、1956年5月26日号に、「日本財政学会」についての記事があり、その「大内門下の三羽鳥」のところに、次の一文がありました(ちなみに三羽鳥というのは、武田隆夫、遠藤湘吉、大内力です)。
 マルクス派の異変は、従来この派の有力学者とみられていた鈴木武雄(武蔵大)が徐徐に転向し、いつの間にか実質上、近経派にクラ替えしたことである。その苦心の労作「現代日本財政史」はGHQの指令や官庁の豊富な資料を駆使して財政面から占領下日本の経済の歩みを顧みたもので臨床財政学の権威“鈴木外科”の異名を高らしめた。
 つまり、鈴木が、マルクス主義者ではなくなり、大内グループからも離れていたということですね。(鈴木の後に、地方財政研究者の藤田武夫(当時、立教大)が紹介されていますが、こちらは転向していないようです)
 『現代日本財政史』を借りてみたのですが(本文を読むのは少し後になりそうです)、東京大学出版会からこの上巻が出たのは、1952年2月、中巻が出たのが、1956年3月、したがって、この記事は、中巻が出版されたのを受けて、書かれたことになります。
 中巻の「序」を読むと、「本書上巻にたいし、大内兵衛先生、島恭彦教授、安藤良雄教授、大内力教授、守屋典郎氏その他の方々から新聞紙上その他において有益な批判を頂いた」とあります。
 大内の「有益な批判」が何だったのか、上巻を見ると、第2章の「8月15日のバランス・シート」に、1945年10月、大内が「渋沢蔵相に与う」として行った「戦時債務を破棄するために蛮勇を奮え」という有名なラジオ放送が紹介され、そこに、鈴木の批判と思われるものがありました。
 ところで、このような国債を中心とする膨大な政府債務は、たしかに戦争のマイナス的遺産であり、国民の巨大な借金であるが、反面においてそれは、外債を別とすれば、一部の国民にとり債権であり、プラスの資産である。この貨幣的資産は、大内兵衛のいうように、それに見合う実物的な資産をほとんど失ったものではあるが、しかもなお国民の誰かにとっては積極的な資産であり、財産である。したがって、国民は戦争の結果一方において背負い切れないほどの借金を背負ったが、他方においてそれだけの貨幣的資産を蓄積したのである。もし国民がただの一人であるならば問題は簡単であり、債権と債務を相殺すればよい。しかし国民は7,000万を超える多数であり、その構造は複雑である。ここに国家債務処理の問題の複雑さがある。(……)
 この内容について、私はコメントできる力がありませんが、いずれにしても、上巻が出てから中巻が出るまでのあたりで大内と鈴木の間に齟齬が生じ、鈴木の転向が起ったことが、推察できます。
 1985年に刊行された『昭和財政史―終戦から講和まで―』には、猪間の『日本人の海外活動に関する歴史的調査』や大内の『昭和財政史』のような、編纂者の歴史観を提示する「序」がありません。
 私は、鈴木の微妙な立場から(つまり、『日本人の海外活動…』朝鮮篇には署名論文を収録してこれが批判され、大内グループに所属し、企画が始まった1973年には『日本人の海外活動…』の刊行を求める市民運動が起るという)、書けなかったのではないかと思い込んでいたのですが、実は、『占領下日本財政史(=現代日本財政史)』がすでに書かれていて、それを『昭和財政史―終戦から講和まで―』の中にそのまま用いてもよかったくらいのものだったということです。
 そして、ここで非常に興味深いのは、
◆猪間『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(1946年→1950年)
◆大内『昭和財政史』(1947年→総説1965年)
◆鈴木『占領下日本財政史』(1949-1950年→1952年/1956年/1960年)
 これらが、ほとんど同時期(GHQ占領下)に並行して書かれていたということです。

【追記】書くのを忘れていましたが、『現代日本財政史』というタイトル、鈴木自身は『占領下日本財政史』としたかったようです。
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2015年07月18日

湛山の公職追放と共産党

 増田弘さんは、『石橋湛山 占領政策への抵抗』(草思社、1988年)の中で、共産党が湛山の公職追放に果たした役割について述べられています。
 共産党の野坂参三がGSのマーカム宛に、「湛山の戦争協力に関する資料」を同封した書簡(4月1日付)を送った。(……)(しかしこれは、)明らかに石橋追放のための捏造にほかならなかった。
 左翼系月刊誌『真相』は、当時、自由・進歩両党ばかりでなく、野党の社会党などの指導者攻撃を行った代表的雑誌であり、とくに追放該当とみなす政治家たちの戦前戦中の活動暦を暴露する記事を盛んに取り上げたが、同誌の昭和22年5月号に掲載された山下一郎「石橋湛山の戦犯記録――これでも自由主義者」は、「・・・・・・戦時中石橋は、・・・・・・昭和18年の秋、『大陸東洋経済』を朝鮮京城に創刊して、同地の戦時経済指導に協力した。・・・・・・昭和17年暮には香港総督磯谷中将と結んで香港支社を設け、磯谷のブレンと協力して常務理事斉藤幸治を陸軍嘱託の肩書で同地に送り、19年6月には『香港東洋経済』を創刊している。・・・・・・もしも彼がパーヂにかからないようだったら、日本中の出版業者の中で公職追放になるものは一人もないだろうし、金融資本家、軍需産業資本家からも追放者が出なくてもよいとゆうことになる。・・・・・・とにかく、インフレをなくすためにも、石橋のような蔵相の追放は当然であるが、日本民主化のためにも、このような侵略主義者、超国家主義者は衆議院、出版業界から絶対に追放せねばならない」旨述べており、前記野坂の資料との類似性が注目される。
 3月16日付ルーストGS政治課長の湛山に関するメモにも、共産党資料が使われている。
 NHK戦争証言アーカイブスに収録された日本ニュースを見ていると、当時であれば、こうしたことをやりかねないであろう雰囲気が伝わってきます。
 ただ、まん中の記事は、実は、情報の部分(太字)は間違ってないのです。
 私が以前、「経済学者、鈴木武雄の大陸前進兵站基地構想と戦時下、東洋経済新報社京城支局による『大陸東洋経済』の創刊」という小論を書いたのは、大陸前進兵站基地構想というのが、鈴木武雄(そして湛山)が、意識的に戦時協力を装って行った、農村工業計画の延長線上にある朝鮮工業化、つまり朝鮮の実質的な経済的自立を意図したプログラムであったこと、それは、やはりおさえておかなければならないと考えたからです。
 多くの研究者が、それを素通りして、湛山がそんなことに関わっているはずがないかのように扱っていることが、逆に、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』を、植民地主義を肯定する立場で書かれたとみなすような愚を犯すことにつながっているように思えるのです。
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2015年07月17日

有沢広巳の騙しのテクニック

 今回は、その有沢広巳の騙しのテクニックについて。
 まず最初に、糸井靖之が亡くなった後(つまり、猪間を東大から追放した後)、なぜ猪間でなく、自分が統計学講座を引き受けたのかを説明しなければならないと思ったようです。
 高野先生のあとをひきうけられて、統計座区講座担任者だった先生が思いがけなくなくなられたので、とうとうぼくが統計学をひきうけることになったのです。当時、ぼくは経済原論を専攻する助手としての2ヵ年をへて、助教授に昇進していたのですが、統計学をやれそうな若い人がほかにいない。有沢なら高野先生からもよい成績をもらっているし、糸井先生の演習もやっているから、やれるだろうというふうなわけで白羽の矢がぼくにたったというのです。
 ある日、舞出先生が学部長の代理として池袋のぼくの宅にこられて、引きうけてもらえるまではこの座を立てないという強硬談判なのです。どうもこれには困ってしまったのですが、やはりぼくの頭のどこかに統計学をやってみたいという考えがあったのでしょう。(……)とうとう舞出先生に説きふせられて、統計学を引きうけてしまったのです。もっとも、ぼくのほうも条件をつけて、統計学をやるが、それとともに経済学をもやるのを認めてもらいたいと申し出ました。
 まず誰かが自分のことを高く評価していて、あるポストについてくれと頼みにくる。自分は、いったん断るが、強引に説き伏せられて、仕方なく引き受ける……これが、何かをごまかそうとするときの、お決まりのストーリーなのでしょうか。石橋湛山を追放しようとしたときの状況にそっくりです。
 でも、これだけでは不安だったのか、他人事のように内部対立の話をもち出します。
 戦前の人なら、御存知と思いますが、経済学部は昭和のはじめごろから(つまり、有沢が猪間を追い出した後!)内部対立がひどく激化して、同僚が同僚を裏切る、同僚の追い出しをはかるというふうになった。後の矢内原事件とか河合事件とか、またぼくたちの教授グループ事件にしても、この内部対立が背景となっているのです。(……)学説の違いがあり、人と人との関係がうまくいかないということは、どんな社会にもあることでしょうが、同僚が同僚を裏切るというのは全く深刻な対立だったのです。
  「昭和のはじめごろから」という限定の仕方、ぬかりがないですよね。猪間の東大追放事件から、人々の目をそらそうとしたわけです。そして、大正期のことを聞かれると、「その頃のことは、あまり覚えていない」ととぼけるのです。
 猪間のことについても、「公式見解」を決めておきます。
 猪間君は助手時代に病気をされてやめてしまいました。
 助手時代に病気をしたところだけはほんとうですが、4月から、9ヵ月間、講師を務めた後、東大を追放されるわけです。
 有沢と大森義太郎は、6月に猪間を飛び越えて、助教授に就任していますが、論文を書かないで助教授になったことについても、いいわけが必要と考えたようです。
 助教授就職論文の提出は、舞出、糸井が助教授になるときが最初で、それからのちは助手が助教授になるときには必ず論文を出し、主としてその論文について審査することになったそうです。ぼくらの場合もやっぱりそうだったのです。
 大正13年6月、大森君とぼくとは助教授に昇進することができました。(・・・・・・)ぼくの論文は「カッセルの価値論」というので、この当時世界的名声をもっていたスェーデンの学者の「価値論なき経済学」を批判したものでした。ただどうしたわけか、大森君の論文もぼくのもついに雑誌に発表しないままになりました。
 ぼくの原稿は書棚の引出しに入れてあるとばかり思っていたのですが、最近捜してみても見つからないところをみると、やっぱり戦災のとき焼けてしまったのかもしれない。どうにも日の目をみないで死んだ子供のようで、なんだかさびしい気がします。むろん、内容はたいしたものではなかったのですけれど・・・・・・。
 何だか子供じみたいいわけですね。
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猪間驥一と森戸事件の真実D

 先日、猪間驥一の森戸事件に関連する資料を見ていたら、有沢広巳の『学問と思想と人生と』(毎日新聞社、1957年)が紛れ込んでいて、私がコピーを取った「糸井靖之」の前の項が、「森戸事件」であることがわかりました。
 暑い中、しかも有沢のことを調べるために。国会図書館へ行くことになるのかと少々憂鬱だったのですが、ひらめくものがあって、コピーの裏面を見ると、これが、『エコノミスト』に連載されたものであり、この雑誌がわが図書館にも置かれていること、しかも、1956年4月7日号〜8月18日号という、わずか4ヵ月分の誌面を見ればよいことがわかりました。
 「わが思い出の記」に書かれた、有沢の見た森戸事件をまとめると・・・。
・1919年12月、経済学部の機関誌『経済学研究』が、発売されたとたん、発禁になる。
・それは掲載された森戸助教授の「クロポトキンの社会思想の研究」という論文が、当局から“朝憲を紊乱”すると認定されたためであった。
・雑誌が発売禁止になったのみならず、筆者の森戸助教授は起訴され、雑誌の発行署名人であった大内助教授も、責任があるというので同様に起訴される。
・起訴された大内、森戸が、一審では無罪であったのが、検事の控訴で、有罪という判決が出て、森戸が三月の禁錮、罰金70円、大内が一月の禁錮、罰金20円で執行猶予になる。
・1920年1月半ば、上杉教授の息のかかった、東大の右翼団体、興国同志会が森戸事件に関する報告会を催し、論文が国体に反すると検察当局に告発したのが、この団体だとわかる。
・一人の学生が壇上に駆け上がり、報告会を、この団体の責任を問う学生大会に切り替えるという動議を提出する。
・興国同志会の一人の学生が、泣きながら自分の非を認める。
・学生大会は、引き続き、教授会が辞職をやむ得ないものとした態度をどう考えるかという議題を取り上げる。
・蝋山政道や鈴木義男が立って、教授会の軟弱な態度を非難し、学生たちは興奮して、「経済学部教授会の責任を問う」という決議案を学生大会で採決しょうということになる。
・しかし、いよいよ採決に入る段になると、学生の中に慎重な者がでてきて、そのまま押し切れば「責任を問う」に決まったのに、翌日に持ち越すことになる。
・翌日は、前日の興奮はもはやおさまって、教授会の責任を問うというかわりに、反省を促すということになる。
・実行委員が選ばれて、決議文を山川総長のところへもっていくが、“バカッ”とどなられ、何の反省もない。

 学生の興奮が冷めるというのは有沢にとってよくないことなのですね。
 大内が「森戸論文は不穏当と思った」、「自分は国家主義の方面からの社会改良論者である事を明かにして置く」と申し立てたことなど、どこにも書かれておらず、したがって、学生の出した「吾人は学問の独立を期す」という宣言についても言及がありません。
 これを読んでいると、有沢の「手口」というものがだんだんわかってきて、気分が悪くなります。
 要するに、自分たちの悪行をかくすために、矛先を他に向けるというやり方で、これが、大内グループのお家芸だったことも確認できます。
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猪間驥一と森戸事件の真実C

 森戸事件について、猪間が触れているのは、1952年に『統計』に書いた次の一節があるのみです(1957年、『人生の渡し場』に収録)。しかも、これは、河合栄治郎が東大に赴任することになった経緯を説明するための導入として語られたものでした。
 大正8年(1919年)9月経済学部の発足と共に、私たちは東大に入学したのだが、その翌年早々に、日本の社会思想史上に残る、いわゆる森戸事件が起こった。経済学部がその研究発表機関として華々しく発刊した雑誌「経済学研究」第一号に載せられた森戸辰男助教授(現広島大学長)の論文「クロポトキンの社会思想」が当局の忌憚に触れて、森戸先生は起訴、休職となり、裁判の結果ついに下獄され、外国留学の途に就かれるばかりになっていた矢先に、東大教授としての前途を失われたのである。
 したがって、もちろん、自分が何を行ったかなどどこにも書いてありません。
 ただ、『人生の渡し場』を上梓した翌年、「わたくしの東京(11)本郷の思い出」(『中央評論』1958年1月号)を書いていますが、その中に、猪間の意思が示されている(と私が感じた)部分がありますので、そこを取り上げておきたいと思います。
 猪間は、自分や同世代の者たちには、東大を母校と思う意識が希薄であるとした上で、東大のマスプロ教育と東京商大のゼミナール教育の優劣を問う際、次のように述べています。
 日本の学校には、学校騒動というものが多い。大ていの大学その他の学校で、教授と学生と先輩とが混みになっての紛擾を、その歴史に持たないものはないと云っていい。教授間の対立がこれの原因になるのも多いし、全部が一緒になって、例えば文部省に当るというようなものも少なくない。最初はいずれ(も)学内のゴタゴタなのだが、それが先輩の介入を見て、ストライキとか学校閉鎖とかいう点にまであおられるというケースが多く見られるのだ。
 ところが、東大にはこういう事暦が全然ない。もちろん、学生運動が過激にわたって、新聞紙面をにぎわすようなことはしばしばあるが、これはいわゆる学校騒動とは意味が違う。教授の軋轢がひどくて、学部が鼎の軽重を問われるというような事は、事実あったしそれはまったくここでいう学校騒動の一種に違いない。しかし、その際には、学生は傍観者になって、騒ぎにまき込まれることはない。先輩に至っては、タッチしようという者は決して出て来ない。よく云えば冷静だが、悪く云えば冷淡で、学校の運命などというものに何らかの関心を払わないのである。その冷淡さはチョッとほかの学校に見られない。
 最初のパラグラフに上げられた学園騒動の例は、東京商科大学のもので、1931年の籠城事件と1935年の白票事件を指していることは明らかです。とくに白票事件は、猪間が背広ゼミナールに参加して人口問題研究を進めている頃に起こり、上田貞次郎も巻き込まれたので、猪間は身近にあってこれを見ていたことになります。
 つまり、多くの点において、東京商大のゼミナール教育は、東大のマスプロ教育より優れているが、距離のある師弟関係、先輩後輩関係によって、学園騒動に巻き込まれないで済むという点では、マスプロ教育のほうがよいというのです。
 猪間は、東大のマスプロ教育が、森戸事件を騒動にいたらしめるのを防いだと考えていたのだと思います。
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2015年07月12日

猪間驥一と森戸事件の真実B

 森戸辰男の『思想の遍歴(上):クロポトキン事件前後』を読めば読むほど、森戸への疑問がわいてきますので、ほんとうはここまで範囲を広げたくないのですが、思いきって書いておきます。
 私が一番ひっかかっているのは、森戸が、猪間たちの出した決議について、「もう一つ高い次元で」などといっておきながら、自分たち、つまり助教授のレベルでは、決議も宣言も出してないということです。
 森戸は、教授会に助教授が出席できないことに文句をいっています。
 それなら、そのことを含め決議を出したらよかったのではないでしょうか。
 当時、助教授は、土方成美、舞出長五郎、糸井靖之、大内兵衛、森戸辰男の5人で、土方は留学中でも、舞出は留学の直前であれば、出発を少し延ばせたかもしれません。
 残りは、糸井、大内、森戸の3人で、糸井は、そうでなくとも大学に嫌気がさして辞めようとしていたわけです(止められて残りますが、やっぱり嫌気がさして、すぐに留学してしまいます)。
 大内は関係者ですから、彼を説得して3人の連名で、「学問の独立」をうたい、「吾人は経済学部教授会の責任を問う」という決議を出せばよかったのです。この時代、学生が動くより、助教授が声明を出すほうが、よほど社会に与えるインパクトは強かったはずです。
 ところが、森戸は、“大学に戻りたい”大内を説得できなかったのです。
 もちろん、自分が大内に対しては「加害者」の立場にあるという負い目もあったと思います。でも、それなら、学生たちの間には、「被害者」を増やしてもかまわないというのでしょうか。ここで騒動を大きくしたら、退学処分を受ける学生も出たかもしれないのです。
 ダメだったのは教授会ではなく(少なくとも渡辺鉄蔵と森荘三郎は「学問の自由」では動いている)、助教授だったということではないでしょうか。
 大内が、日和らずに、これを「学問の独立」をまもる闘いと位置づけ、師としての模範を示していれば、弟子たちが後に、猪間の東大追放など、汚い事件に手を染めることもなかったかもしれません。
 森戸のいい方であれば、次元が高い運動を組まなければならなかったのは、まず森戸と大内だったのではないでしょうか。
 これまで、とくに大原社会問題研究所の関係者の方々など、この森戸の著書を読むチャンスが多かったものと思われますが、その中の誰一人として、森戸や大内の態度に疑問を感じなかったのでしょうか。
 そうだったとすれば、それこそ、日本のアカデミズムの驚愕の事実ではないでしょうか。
 いずれにしても、こうした保身に走る人たちの中にあって、自分たちの意思を、民主主義のルールにのっとって表明した、猪間たちの見識の高さを改めて思います。
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2015年07月11日

猪間驥一と森戸事件の真実A

◆渡辺鉄蔵への驚き
 渡辺は、森戸辰男のクロポトキン論文が、論理も学術的価値もないと批判し、反共主義者でもあるので、黎明会の一員として、どのように折り合いをつけたのか、知りたいと思っていました。
 それに、これも私は知らなかったのですが、森戸も黎明会の一員だったのですね。
 森戸の主張では、「(1月)10日午後、経済学部教授会は、総長出席のもとに森戸助教授処分について評議した結果、6対1の票決をもって森戸休職を決定することになり」、この反対1名は上野道輔教授であるとのこと。そして、「このときの教授会のメンバーは金井延、山崎覚次郎、矢作栄蔵、河津暹、渡辺鉄蔵、上野道輔、森荘三郎の7先生で(新渡戸稲造は不在、松岡均平は休職中)」であり、助教授(糸井靖之、大内兵衛、森戸辰男)は教授会に出席できない(土方成美、舞出長五郎は留学中)と書いているのです。
 ところが、1月14日付『大正日日新聞』では、森戸の休職(1月10日付)を決定する前に開かれた教授会で、「山川総長、山崎覚次郎博士、金井延博士などの老骨派が勢力を占め、森荘三郎、渡辺鉄蔵両博士の如き少壮派は『学問の自由』の為めに極力反対を称えたが少数の為め敗れたものである。」とあるのです。
その後の渡辺の態度を見ていると、どうもこちらのほうが正しそうです。
 1月15日付『読売新聞』には、渡辺が、『大内君の辞職に就ては私は何も知りません、今日私は大学に午後の4時頃まで居て、大内君にも会いましたが、そういう話も聞きませんでした、けれどもそんな事になりはしないかと私等も心配しているのです』と話したと書かれています。
 立場は違っても「学問の自由」は守らなければならないと考えていたのではないでしょうか。
 ただ、法学部学生大会の席上、経済学部教授会への批判は間違っている、助教授を出席させろ、といわれたことに対しては、学生に一言たりとも嘴を入れる権利ない、と怒っています。
 1月30日、森戸事件第1回公判の後、黎明会では、2月1日に大会を開いて、同問題に対する態度を決定することにします。ここには「大島正徳、大山郁夫、渡辺鉄蔵、高橋誠一郎、滝田哲太郎、占部百太郎、姉崎正治、朝永三十郎、左右田喜一郎、木村久一、三宅雄二郎、森戸辰男らがいた」とあります(1月31日付『時事新報』)。
 しかし、2月7日、森戸事件第2回公判の当日の午後6時より、黎明会の他、社会政策学会等19団体による大演説会の開催が予定され(2月6日付『中外商業新報』)、2月10日、黎明会主催による福田徳三らによる公演会が開かれますが(2月11日付『大正日日新聞』・2月12日付『報知新聞』)、渡辺の名前は見当たらなくなります。
 いずれにしても、黎明会の一員として筋を通したということではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

・近代デジタルライブラリーで、猪間が編集していた(糸井靖之も関わっていた)『経友』が残ってないか、探していたところ、1924年4月発行の『東京帝国大学経済学部便覧』が出てきました。この月は、猪間が助手から講師に昇格して、統計学の演習を担当し始めた、その月です。
・終わりから何ページかわかりませんがばっさり切り取られているので、正確な日付はわかりませんが、帝国図書館に進呈されたという書き込みがあり、受領印の日付が4月28日となっているので、それ以前に発行されたことはわかります。
・その終わり部分は、「宿所」になっており、これは教員の住所付き名簿のことなのですが(1924年3月現在とある)、ここにもし、4月初めに猪間の講師就任の辞令が出ていれば、その旨が記されてもおかしくないページ以降が、奥付も残さずに切り取られているのです。
・『東京帝国大学一覧』、『東京帝国大学要覧』にも、同じような箇所に欠落ページがあったことを考えると、大内グループによって、猪間追放の事実を隠す工作が、この時期、集中的に行われたと考えてもおかしくないような気がします。
・探していた『経友』ですが、1920年5月から発行されていることがわかり、デジタルライブラリーにも、国会図書館にもありませんでしたが、東京大学経済学部の図書館に初期のものが保存されていることがわかりました。いつか見に行きたいと思っています。
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猪間驥一と森戸事件の真実@

 森戸辰男の『思想の遍歴(上):クロポトキン事件前後』(春秋社、1972年)を読んでみたのですが、意外なことがいろいろあって驚きました。
◆森戸辰男への驚き
 この書には、森戸事件関連の新聞記事すべて集めたのではないかと思うくらい、たくさんの記事が収録されているのですが、不思議なことに、猪間(あるいは経友会)という名前が載った、例の3編の記事が出てこないのです。
 実は、森戸の関心は、右翼団体、興国同志会と対立している左派の新人会の動きにあるのですね。興味深いのは次のような見方。「経済学部学生大会、法学部学生大会で、興国同志会は容易に回復しがたい指弾を受け、会そのものも分裂してしまうが、他方、特に森戸の休職を承認し、また外部からの圧力に対してこれといった抵抗を示さなかった経済学部教授会への学生の批判が急速に高まって行くのが、新しい側面であります。(……) その中で学生団体としては東大新人会がかなり重要な役割を演じたことは、いくつかのサイン分岐時からも推測がつくのです。」
 そこで、「1月16、17日とつづいて開かれた東大経済学部学生大会、法学部学生大会は、学問の独立の要求と森戸事件に対する山川総長および経済学部教授会への問責を公然と表明して、この長期にわたった思想闘争における一つのピークを形づくったのです」としながら、「森戸助教授休職問題をきっかけに急速な盛り上りをみせた東大内部の学生運動が、前述の法学部学生大会の経過からもうかがわれるように、早くも一歩後退の兆しを示したのは、運動の自然発生性そのものに伴う弱さということのほかに、教授や大学当局からの陰陽さまざまの工作があったからです。「森戸を守れ」という要求を越えて大学の改革・学問の独立・研究の自由の確保というもう一つ高い次元で運動を組み直すには、経験も展望もあまりに不足していた当時の学生運動は、この時点でいったん足踏み状態とならざるを得ません」ということになってしまうのです。
 森戸は、何が気に入らなかったのかというと、学生大会の宣言文案「吾人は学問の独立を期す」は満場一致で可決してよかったのですが、決議の原案「吾人は経済学部教授会の責任を問う」が、修正案「吾人は経済学部教授会の反省を促す」に7名の僅差で負けてしまったからなのですね。
 もう一つ上の次元の運動って何なのでしょう。私には、マルクス主義者以上にマルクス主義者的な、上から目線に見えて仕方ありません。
◆大内兵衛への驚き
 森戸事件の第1回公判は、当初1月23日に開かれることになっていたものが、弁護人側が公判延期を申し立て、1月30日に変更されます。
 公判を前にして、同裁判所検事廷で、大内は次のように申し立てます。「森戸氏の書いたクロポトキン研究と云う一論文は、自分が編輯して居る雑誌の締切期日11月18日頃に、氏自身が直接雑誌発行所たる有斐閣へ送ったもので、自分は原稿も校正も更に見なかったが、然しあの問題に就いて森戸氏が論文を書くと云う事は兼ねてから聞いて居た、其の論文は雑誌発行後に初めて読んで見たが、其時自分も不穏当とは思った、然し学術的研究の立場からでは差支えあるまいかと、先輩や友人に聞くと、矢張りあの種の論文を雑誌に掲げるのは、有害だろうと云う人が多かった、兎に角編輯上の自分の失態は認める、そして自分は国家主義の方面からの社会改良論者である事を明かにして置く」(1月25日付『時事新報』)。
 つまり、裁判で「自分は関係ないよ」と主張したのです。
 公判は公開禁止となりましたが、1月31日付『東京日日新聞』は、次のように伝えています。「その物々しき光景の中に森戸、大内両氏は何れえも背広服にて出廷し、被告席に控えて居た、大内氏は恰も他人事のように袱紗包みを小脇にしてニコニコし、森戸氏は責任者だけあって常に伏目勝で何処となく沈欝の色が眉間に漂うて居た」。
 大内は、もともと「論文を書いたのでなく雑誌の発行名義人として罪に問われたので、いわば完全な被害者」であり、「できるだけ早い機会に東大に復帰する可能性を残す、という条件のもとで、東大を一応辞職することに」なったようですから、こういう態度をとるしかなかったのかもしれませんが…。

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2015年07月07日

戦争証言アーカイブスD

(つづき)
1947年4月15日「政界の大物ぞくぞく追放」
選挙を前に、4月4日、公職追放者の第一次発表が行なわれました。この日の民主党本部。
《民主党副幹事長 田中伊三次氏》
「公職追放のね、それが今ちょうど内閣で発令しました。主だった顔ぶれを言うとね、最高委員楢橋渡君、これは該当と決定をして発表しました。犬養最高委員、河合厚生大臣、石黒幹事長は大丈夫」
ところが、政府は中央審査委員会の決定によってさらに次々と該当者を発表。その打撃がいちばん大きい民主党では、今、大丈夫と言われたばかりの最高委員犬養健氏をはじめ、幹事長石黒武重氏、電話をかけていたご本人の田中伊三次氏も追放。極端な国家主義者と決定された楢橋渡氏追放の感想。
《楢橋渡》
「いやしくも私のごとく前国務大臣をなし内閣書記官長をなした者に対して、一回の弁明の機会も与えることなくして突如として処断したことは、あたかもヒットラーのときにおけるナチの裁判よりも暴虐なものであると私は信ずるのであります」
なお、さらに追放をうわさされる人のうちには、石橋大蔵大臣、河合厚生大臣、平塚前運輸大臣があり、社会党・中村高一氏も問題になっています。
一方この嵐をよそに、追放決定の責任者吉田首相は、今ご自身の選挙戦におおわらわという形です。
 湛山が公職追放になるのは、5月ですが、4月の時点でそのうわさがニュースとして流れていたのですね。
1947年5月6日「“社会”か“自由”か 注目されるインフレ対策」
インフレはどうなるか。第一党の社会党・鈴木茂三郎氏の見解。
《社会党 鈴木茂三郎氏》
「インフレを防ぐには新円と物価と国民生活の安定を図ること、第2には勤労階級の協力を得て生産の増強を図ること、これはすでに失敗した石橋財政ではだめであって、勤労階級の信頼を得られる社会党首班の内閣でなければできないことであります」
これに対し第二党になった自由党石橋蔵相。
《石橋蔵相》
「社会党の今まで言っていることと変わってることは、例の新円の問題だけだけど、これはもう社会党であってもなくても、何党であってもこれは絶対やれることで、別段今までやったこととたいして変わりないと」
その石橋財政は5月から700円の枠をはずしましたが、こうしている間にも店先の日常品はうなぎ登り、竹の子生活者は手をつかねて傍観のていです。
しかし、シーズンともなれば府中の東京競馬は新円階級でこの混雑。さてインフレと内閣はこれから先どうなるのでしょうか。

 以下は、第一次吉田内閣の総辞職と湛山の公職追放との前後関係…。
1947年5月13日「新内閣はどうなる?」
吉田内閣は5月6日、総辞職を延期しました。(……)
 1947年5月17日、湛山が公職追放されます。
1947年5月27日「第一回国会早くも難航」
5月20日、第1回国会召集。この日、吉田内閣総理大臣は新憲法の規定に従い宮城に参内して辞表を提出。ここに吉田内閣は総辞職しました。(……)

 私自身はまだ観ていないのですが、この時期は、東京裁判が進行中で、その関連のニュースがたくさんあります。GHQ占領期というのがどのような時代だったのかを知るのに、これほど適した資料は他にないかもしれません。
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2015年07月04日

戦争証言アーカイブスC

 そして、1946年の秋以降もしくは1947年初め頃から、石橋湛山の公職追放が取りざたされるようになるわけです。
1946年11月19日「新地方民主化 新公職追放」
地方選挙を前にして11月8日、政府はついに公職追放の拡大を発表しました。
《林書記官長》
「今回とりあえず地方公共団体の公職についても、いわゆる公職追放令を適用し、地方の公職より軍国主義的ないし極端な国家主義的色彩を一掃し、あわせて地方自治の民主化を促進するところがなければならない」
今度追放されるこれらの地方政界のボスたちは、戦時中どんなことをしていたでしょうか。彼らは警察と手を組んで、あらゆる国民の不満を抑えつけたばかりでなく、半ば脅かしながら家庭から引きずりだした若い女性を、十分な設備一つない作業場に送り込み、ここで体をこわすばかりの無理な労働を押しつけました。あるいはまた、義勇隊の名ですべての男子を軍閥のいけにえにしようとした在郷軍人の幹部たち、すべてこれらの追放によって、今さらに大きい民主化の道が開かれようとしています。
1947年1月28日「二・一ゼネスト迫る」
《全官公労働者代表》
全官公庁260万の労働者は、18日ついに2月1日より大ゼネストに突入することを宣言しました。このストに参加する全日本医療組合では、21日、看護婦さんまで出動して議会にデモ。逓信従業員は靴磨きまでして闘争資金の獲得に活躍しています。30万の学校の先生たちも、放課後資金稼ぎに靴下や手袋編み。しかし、ゼネストまでは最後まで職場を守り抜こうと、中央郵便局では全員発送する郵便物と死に物狂いに闘っています。真夜中、中央電話局では若い交換手たちが寒さに震えながら頑張っています。午前2時、鉄道機関区では12時間交替の労働者が、いてつく夜空にきょうの列車を動かし始めました。こうして刻々に近づくゼネストを前にして政府は22日ついに妥協案を発表。
《石橋蔵相》
「給与の支払いの期限の問題とか、あるいは所得税の問題とか、そういうものは今後に残されている問題だから。けれども、第一のだね、給与の暫定処置についてはこれが最後の問題だ」
《労働者側》
「500円の枠にしろ、枠をはずせとか、あるいは勤労所得税の問題、これはわれわれはもう全面的撤廃を要求しているのであって」
《石橋蔵相》
「それは僕は・・・」
労働者側はあくまでこれを不満としており、前途はいよいよ予測を許さないものがあります。
1947年2月25日「第九十二議会再開」
再開された議会3日目、2月18日の論戦です。
《水谷長三郎(社会)》
「日本経済の再建はインフレーションによって行なわるべきものである。すなわち、大衆の負担において行うが、資本家的立場からはその道しかないというのが石橋インフレ策でございます」
《石橋蔵相》
「経済再建には、インフレで行なうとか、これを大衆の負担によって行うということは、かつて考えたこともないし、申したこともありません。
だいたいこれらの点についての水谷君のきょうのご主張は、材料はなはだ不確実であります」
1947年4月8日「選挙戦いまたけなわ」
4月1日、東京日比谷音楽堂では各政党立会演説会が開かれ、選挙を前におのおの熱弁を振るいました。
《石橋湛山氏(自由党)》
「社会党や共産党の主張する中のものでも今日の日本に必要であり、今日の日本に有利であると思うものを採用することに、あえて、やぶさかではない。これがすなわち自由主義の立場であります」
《中村高一氏(社会党)》
「生産の増強をするのには、不当な搾取を認めるような経済制度では断じて増強はできないのだ」
《三木武夫氏(国民協同党)》
「このどん底に落ちた日本が、この裸になった国民どうしが焼け野原に立って階級闘争をして日本の解決はできるか。私は断じてできぬと思う」
《犬養健氏(民主党)》
「敗戦後の日本におきましては、政治においても、経済においても、こういった大掃除をしなければなりません」
《徳田球一氏(共産党)》
「今、欠配をうけているわれわれが生きていくためには、われわれはなんといっても改革にいかざるをえないのである。さらにこういう小さいものを・・・」
かくて投票日が近づくにつれ選挙戦はいよいよ白熱化してきました。

【お詫びと訂正】
「戦争証言アーカイブスC」は、見落としていた湛山に関するいくつかのニュースがあったため、あらたに「戦争証言アーカイブスD」を設け、ニュースの入れ替えをしました。ご了承ください。

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戦争証言アーカイブスB

 それとは対照的な、幣原内閣・吉田内閣への怒りと反発。
1946年1月24日「遂に居据った幣原内閣」
侵略戦争協力者追放のマッカーサー司令部旋風に吹きまくられて、瓦解に瀕した幣原内閣は、13日、一部閣僚の入れ替えだけ居据りを強行。その顔ぶれは旧態依然というよりも、むしろ時代に逆行するものとして、轟々たる人民の非難はさらに高まりました。
一方、幣原首相は世田谷の私邸で内閣同様一歩も動かず、ガラス戸の外を吹く嵐をよそにひなたぼっこを続けておりました。

1946年4月18日「幣原内閣打倒 人民大会開く」
早慶戦と同じ7日の午後1時、東京付近の労働者、農民、一般勤労者7万は、むしろの旗を押し立て、日比谷の幣原内閣打倒国民大会へ続々詰めかけました。主催は民主主義諸団体、後援・民主人民連盟、荒畑寒村氏・司会。各代表は働く国民を苦しめる幣原内閣を即時打倒すべきだと主張。
(・・・・・・)
大会ののち、首相官邸へ大デモを敢行。
官邸の開門を迫りましたが、かんぬきをかけて応ぜず、激怒した群衆は門を押し破ってなだれ込みました。このとき警官はピストルを放ち、群衆を威嚇せんとしたため、激怒した群衆は官邸の玄関に迫りました。
翌8日午後4時、各代表は首相に会見しました。代表徳田[球一]氏は決議文を読み上げ、首相に迫りましたが、首相は「答えられん」の一点張りで押し通し、(・・・・・・)一方的に会見を打ち切りました。これが民主主義日本の政治家のとるべき態度かと、代表側は猛烈に非難しております。

1946年5月23日「特報“食わせろ!”の叫び 人民大衆の力に 吉田内閣動揺」
飢え死にの危険は目の前に迫っている。それなのに反動勢力は見て見ぬふりをしていると、飢えた帝都市民25万は、19日宮城前広場を再び赤旗の波をもって埋め尽くしました。各代表が、食糧人民管理、反動政府打倒を叫んだ後、世田谷区民の婦人代表は、天皇への願いは区民の本当の声ですと訴えました。
(・・・・・・)
かくて25万の大衆は、秩序整然と潮のような街頭行進に移りました。
子ども、おかみさん、学生、労働者などあらゆる層の市民は、金にあかし、権力によってたらふく食っているという一部特権階級への怒りを込めて「赤旗の歌」を合唱し、人民大衆団結の力をまざまざと示しました。
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戦争証言アーカイブスA

 まず、共産党員(釈放された徳田球一、延安から帰国した野坂参三ら)への歓迎ぶりがすごいのでそのニュースをまとめて。
1945年11月7日「政治犯釈放」
東京都豊多摩刑務所。(・・・・・・)国を憂え、民族の幸福を図って、かえって不当なる封建中世史的官憲の暴圧により、聞くに堪えざる虐待を受けつつ、重い鉄鎖につながれていた社会主義、自由主義の党首たちは連合国軍司令部よりの命により、10月10日までに全国刑務所より解放されました。
≪徳田球一氏≫
(Q:…いろんなつらい思いもされましたんでしょうな。)
「つらい思いも何も、死の牢獄ですから。だから、ぶたれる、けるはもちろんのこと、栄養失調で死んでいくのもたくさんあります。三木くんの死んだのも、そのひとつです。今度は連合軍と、人民大衆の同情と絶大なる援助のもとに、解放されるようになったんです。それで私たちは非常にその人たちに対して感謝をしているわけです。」
1946年1月1日「公職追放令」
連合軍最高司令部は、昭和21年1月4日、軍国主義主導者の官公職よりの追放、および右翼団体結社禁止の画期的指令を発し、新春の政界朝野を一大旋風の中に巻き込みました。閣僚中に該当者を含む政府では、総辞職か改造かの岐路に立ち、4日に引き続き5日も協議を続行しました。
(・・・・・・)
この無血民主革命をもたらす重大指令に対し、共産党の宮本氏および劇団の山本さんは次のごとく語りました。
《共産党 宮本顕治氏》
「今回、日本が侵略戦争をやるうえに積極的な役割を務めた反動分子の、公職からの追放と、反動団体の解散が指令された。わが日本共産党は、この指令が日本の民主化に非常に役立つものとして全面的に支持する。今日、中央と言わず、地方と言わず、反動分子は盛んに日本の民主化を妨害している。大元帥としての天皇も、この戦争の最高の責任者として、その責任をこの際、公にすべきである。またこの指令を厳格に実行するためには、現在の反動的な幣原内閣は打倒されなくてはならない。そして、従来一貫して侵略戦争に反対してきた真の民主主義的な勢力を中心として、新政府が樹立されなくてはならない。この方向こそ日本の民衆を解放する、真に正しい方法である。」
1946年1月24日「人民注視の人野坂参三帰る」
延安にあって日本軍国主義と戦ってきた野坂参三氏が、16年ぶりに、1月13日、東京駅に到着。
「延安から来た日本人民解放連盟。この先発隊として、私以下3名の者が、今日、諸君の援助のもとに、無事にこの東京の町に到着した。私個人が日本を去ってからすでに16年になる。この間に、世界も変わり、日本も変わったし、またこれから急速な勢いで変わらなければならんし、変わりつつある。(そうだ!)現在、日本の国、われわれの民族、われわれの勤労人民は、新しい日本を求めておる。それは何か。すなわち、民主主義革命の完成を要望しておる。人民の利益と意思を代表するところの真実の民主主義政治、真実の民主主義制度、これを完成しなければならない。」
翌14日、東京代々木の共産党本部において、野坂氏の帰朝歓迎会が催されました。
「新しい内容、形、これを持ったところの共産党でなきゃならない。これはどういう意味かというと、前の共産党と今の共産党で何か主義が違うかという、そんな意味ではない。実は最近までのこの共産党というものは、これは宣伝的な団体だった。こう言うことができる。小さい。大衆にはある思想的な影響を与えることはできるけど、この当時、真にだね、日本の政治をどうする、ということのような仕事はできないような共産党だった。率直に言えば宣伝団体的な性質だった。ところが今はこれが根本的に変わってきた。共産党はもう宣伝団体の時期を終えて、もう青年や子どもの時代を終えて大人になって、そしていよいよ日本の政治を動かす政党だ、これは。われわれは政権をとって日本の政治を行うことのできる政党だ。これに今、発展しつつあるし、またそうしなければならんと思う。」
1946年2月7日「野坂参三氏歓迎国民大会」
人民解放のために戦う野坂参三氏を、今、嵐の祖国に迎える民衆大会が、1月26日、日比谷公園広場において開催されました。かつて軍国主義者たちが、いくたびか天下りの国民大会を催したこの広場。この日、ここで民主主義革命への最も輝かしい出発がなされたのであります。
詰めかけた民衆、実に3万。政党政治を超えた全国民の支持を物語っております。大会はインターナショナルなコーラスとともに始められました。熱狂する民衆の拍手と歓呼に迎えられて、野坂氏登壇。歓迎の花輪を受けました。
同氏は、祖国再建の道は民主戦線の結成にある旨の決意を諄々と披瀝。民衆に大きな感動を与えました。大会委員長、山川均氏、荒畑寒村氏、黒木重徳氏、片山哲氏、室伏高信氏、神近市子女史、水谷長三郎氏、徳田球一氏と交々登壇。熱弁をふるいます。
posted by wada at 15:23 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする