2015年06月29日

大内兵衛グループの犯罪史

 増田弘さんの石橋湛山の公職追放関連の本を何冊か読んで、この追放に共産党が関わっていること、また有沢広巳の言動が、大きな役割を果たしていた可能性があることを知りました。これに私が調べていたことを重ねあわせると、ある企みがあぶりだされてきます。
 ただ、増田さんの書かれたものは、湛山と吉田首相あるいは共産党との間に何が起こっていたかという観点からのものですが、私の関心は、湛山と大内兵衛グループとの関係にありますので、そこを中心に見ていきたいと思います。
 そもそも吉田の有沢引き出し工作は、内閣成立直後の5月に石黒武重を介して、また経済安定本部の設置が本決まりとなった6月から7月には、和田博雄を介して行われた。しかし有沢は大内兵衛の意見に基づき、安本の総務長官を二度にわたり固辞した。(……)それでも吉田は学者を追い求めた。その結果、和田農相の仲介により、有沢のほか、中山伊知郎、東畑精一(……)などが参加した円卓会議、いわゆる昼食会がつくられ、毎週一回外務省官邸で吉田を囲んで諸問題を論議することになった。(……)有沢らはこの私設委員会を通じて吉田のブレーン的役割を果たすことになった。とくに石炭増産問題では有沢委員会は吉田の信頼を確実なものにした。すなわち、有沢を委員長とする私設の石炭特別小委員会(……)は、12月12日に「石炭対策中間報告」をまとめ、その中で石炭最優先の「傾斜生産方式」を提起したのである。(『公職追放 三大政治パージの研究』)
 吉田は有沢を安本長官として入閣させることを諦めなかった。以下は有沢の弁である。
 中山伊知郎君や東畑精一君がだいぶ麻生太賀吉さんや白洲次郎さんなんかとしめし合わせて、僕をどうしても安本本部の長官にまつりこもうと動きはじめました。22年2月の半ばごろだと思いますが、中山君が僕のところへきて、君の入閣を全部総理は了承した。だから安本本部長官になれというのです。それで中山君と二人で大内兵衛先生を訪ねて、その晩、徹夜で話しあった。……翌日、早朝に中山君とつれだって白金の外務省の官邸に吉田総理を訪ねた。……三人きりで話をしました。僕がかねてからもち出していた三つの条件のうち二つまでは、承知しました。その通りにしますといってくれました。しかしあと一つの問題点、これは人事の問題だから話せないんだけれども、これについては3月末まで待ってくれという。僕はある閣僚の更迭を条件としてもち出していたのです。(同上)
 増田さんは、有沢が提起した「ある閣僚の更迭」とは、湛山を意味したことは間違いないといわれています。
 吉田は、湛山の力と人気を恐れており、辞任を望んでいたようです。ただ公職追放については、湛山自身、「あとから考えても僕の追放を吉田や白州がやったというような説は信じない。ただあまり熱心に食いとめ運動をやってくれなかったことはあったかもしれない。やってもダメだと初めからあきらめたのかもしれない」といっていることからも、吉田らが意図的にやったと考えるのには無理がありそうです。
 私が注目したのはむしろ、吉田が、湛山の公職追放に関して、助かる可能性があったのにもかかわらず、GHQと直接折衝した様子がなかった点です。
 なぜ動かなかったのか。増田さんは、「@動いても無駄だと思ったためか、A吉田の物臭さの性格によるものか、B石橋が追放となっても構わないと考えたためであるのか」という3つの仮説の中で、Bの可能性が強いといわれます。
 これはやはり、増田さんが指摘されるように、有沢の意向を汲んでのことだったのでしょう。
 大内グループは、戦前から、自由主義者を最強の敵と考え、その排除を最大の課題と考えていたのですね。その実動部隊を一身に担っていた有沢は、猪間を東大から追放しただけでは足りず、湛山を政権の座から引き摺り下ろそうとしたわけです。そして前面には出ませんが裏で指示を出していたのが大内だったのです。
 考えてみると、『東京大学経済学部五十年史』というのは、「大内兵衛グループ犯罪50年史」というべき歴史だったのですね。2019年の『東京大学経済学部百年史』ではどうなるのでしょうか。

戦前:
◆1924年12月、有沢広巳、講師の猪間驥一を東大より追放する。
◆1925年12月、1924年度『東京帝国大学要覧』編纂における改竄(講師であった猪間の名前と肩書きが消されている)。
戦後:
◆1946年5月、第一次吉田内閣成立、石橋湛山、大蔵大臣に就任する。
◆1946年9月、大蔵省内に極秘に在外財産調査会が設置される。
◆1947年2月、有沢、吉田の安本本部長官就任依頼に対して、大内兵衛に相談の上、安本本部長官就任の条件として湛山の更迭を要求する。
◆1947年5月、吉田内閣総辞職、湛山の公職追放。
◆1947年6月、大蔵省の愛知揆一より、大内に、『昭和財政史』の企画が持ち込まれる。
◆1947年6月、在外財産調査会の編集会議が開かれ、日本の在外財産形成の過程を日本資本主義の発達史から説明する猪間の案が採用される。
◆1947年12月、猪間ら、在外財産調査会の報告書『日本人の海外活動に関する歴史的調査』脱稿。総論に、日本人の海外活動はいわるるような帝国主義的発展の過程ではないという主張が盛り込まれる。
◆1950年7月、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の印刷製本が完成
◆1951年6月、湛山の公職追放解除
◆1954年12月、第1次鳩山内閣が成立し、湛山が通商産業大臣に就任する。第2次鳩山内閣、第3次鳩山内閣でも引き続き通産大臣を務める。(←追加)
◆1955年、大内グループ、東京都政調査会を設立(ここに東京市政調査会の名前を利用)。
◆1956年、石橋湛山内閣が成立し、湛山は総理大臣に就任する。しかし翌1957年1月、湛山は病に倒れ、2月、石橋内閣は総辞職する。(←追加)
◆1965年、大内、『昭和財政史』刊行、昭和財政史を失敗の歴史と規定し、その責任が高橋財政にあるとした。この歴史観は、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』とは対立するもので、高橋に政策提言を行った湛山らへの巧妙な責任転嫁であった。
◆1967年、東京都政調査会を母体に、美濃部都知事誕生へ。
◆1976年、大内グループの『東京大学経済学部五十年史』編纂における改竄(猪間が講師であった事実、その猪間を追放しようとした事実を抹消)。

【追記】湛山に関する重要な情報が抜けていました。申しわけありません。
posted by wada at 21:50 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月22日

明治時代末期の産婆カルテ

◆鶴谷熊蔵編『(袖珍)産婆回診録』(南山堂、1907年)…以下、「回診録」
◆中田千代『産婆診察録』(文光堂医籍店、1908年)…以下、「診察録」
 「回診録」は産婆教育に携わる広島病院の医師、「診察録」は東京在住の産婆が作成したものです。袖珍というのは今日のポケット版という意味のようです。「診察録」も例言では「袖珍産婆診察録」となっているので、明治の終わり頃、必要に迫られてこのようなものが作られたということのようです。

【妊娠期】
「回診録」では、
第○号・住所・第○回妊婦・姓名・○歳、初診○月○日・最終月経日・分娩予定日・既往症(結婚・月経・分娩)
診断(妊娠第○ヶ月・第○位・第○分類)
初診時の兆候(健否・乳房・子宮底・児頭(動否)・臀部・児背・小体部・心音(数)・胎動・其他)
「診察録」では、
第○号・初診年月日・最終月経月日・分娩予定月日・住所・姓名・職業。年齢、診断(妊娠第何ヶ月・位置・胎向分類)・配偶有無・妊娠回数(第○回妊娠)
既往兆候(結婚・月経開始・月経順不順・月経持続日数・既往妊娠有無・胎動初発時日・疾病有無・其他)
妊娠時症候(健否・乳房・子宮底・へーガル氏兆候・児頭・児背(小体部)・心音(所在・数)・胎動感否・骨盤異常・其他疾病)
 「回診録」では、再診時の状態を記す欄が8回分設けられて今日の母子手帳のようですが、「診察録」ではこれがなく、初診時の記録の記載だけ。妊娠5ヵ月目位になったら戌の日に診察を受けて腹帯をまいてもらい、その後、何もなければそのままで、陣痛が始まったら産婆さんを呼ぶというのが通例だったのでしょうか。

【分娩期】
「回診録」では、
分娩(月日・現症・備考)
開口期(陣痛初発時・破水)、産出期(胎児産出時)、後産期(後産産出時)、分娩直後の子宮状態(収縮・子宮底)
初生児(性・発育の度・健否)
後産(胎盤・卵膜・臍帯)
「診察録」では、
分娩月日時、分娩時症候、摘要(分娩難易・医師を迎え来りし時の処置)
開口期(陣痛発来時・破水時・其他)、娩出期(胎盤産出時間・其他)、後産期(後産産出時間・其他)
後産(胎盤・卵膜・臍帯)
分娩直後子宮状態(収縮・子宮底)
初生児(男女の別・身長・頭囲・発育健否・体重・異常・母乳か人工栄養か・産瘤(有無・位置))

【産褥期】
「回診録」では、
産褥経過(10日分):褥婦(悪露の性質・子宮底の高)・小児
温度表(10日分):体温・脈拍・呼吸・便通・尿通
「診察録」では、
産褥の経過7日分:褥婦(悪露・子宮底高・体温・脈拍)・小児の経過(入浴・臍帯異常・其他)

 今日と大きく違うのは、血圧と体重の検査がないこと。少し前まで「妊娠中毒症」(浮腫・高血圧・蛋白尿)と呼ばれていた「妊娠高血圧症候群」(浮腫は外されている)の診断が妊娠中にはできなかったということです。ただ「子癇」の兆候として、浮腫・尿量減少・蛋白尿(+頭痛・悪心・嘔吐)はチェックをしていたようです。
posted by wada at 12:59 | TrackBack(0) | お産 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月19日

1930年代初めの出産費用

◆主婦之友社編『安産と育児法』(主婦之友社、1932年)
 これは、みなさまにぜひ一度見ていただきたい、出産・育児ガイドブックです。写真が豊富に使われていて、1970年代の本だといっても、9割の人が騙されると思います。
 個人的には「お産に要する費用調べ」(p.204-208)に注目しているのですが、1970年代初めでも、東京都が行った出産費用の調査はたいへんだったと見受けられるのに、これはほんとうによく調べられていると思います。
お産に要する費用調べ
【東京標準のお産の費用】
 普通のお産でどのくらいの費用がかかるか、家庭、病院、産院別に調査。
 家庭で、産婆さん介助による出産の場合、通常、妊娠5ヵ月から診察を受ける。産婆の診察料は、各地とも産婆会による規定料金があるが、ここでは、東京付近の中流を基準としている。
【産婆の酒肴料と車代】
 東京市内でも区によって異なるが、初診料が3円、再診料が1円(初診5円、再診3円のところも)。着帯のとき3円前後の酒肴料。分娩料としては、産後1週間に15円の謝礼(初診2円、再診1円で、分娩料20円のところも)。お七夜の祝膳代りの酒肴料は、5円か3円程度。車代は別途。
【産具一式の費用】
 妊娠5ヵ月から月1回の再診として、産婆の費用は30円から35,6円。その他、産具を揃える必要があり、6円、8円、10円位で一揃いになったものが売られているが、手製にすれば4円位で揃う。
【看護婦及び医師の手当】
 産婦の状態で看護婦をたのめば、普通1日2回として10日で20円、産婆だけでなく医師の診察をあおげば、5円から10円かかる。
【病院でお産する時の費用】
帝大附属病院 初診料30銭、再診料なし、分娩料(1等70円・2等70円・3等30円)
入院料(1等7円・2等4円50銭・3等3円50銭)、看護婦料1円50銭
慶応病院 初診料2円、再診料50銭、分娩料(1等50円・2等30円・3等15円)
入院料(1等9円・2等6円50銭・3等3円)、看護婦料2円80銭または1円
聖路加国際病院 初診料3円、再診料1円、分娩料(1等60円・2等45円・3等35円)
入院料(1等10円・2等5円・3等3円50銭)、看護婦料4円
 (1) 帝大附属病院:普通10日間の入院として、初診より計算すれば、1等155円30銭、2等130円30銭、3等で75円30銭かかる。(その他、困る人たちのために、特別に実費でお産を取扱ってくれる。1週間と期間が定まり、入院料はなく、食事の実費のみ負担。)
 (2) 慶応病院:再診を普通5度として2円50銭で、10日間入院すれば、1等で154円50銭、2等109円50銭、3等59円50銭となる。なお冬季には、暖房料として、1日1等80銭、2等50銭、3等30銭を支払わなければならない。
 (3) 聖路加国際病院:1等が198円、2等が133円、3等が109円(赤ちゃんが生まれると、母親から離して乳児室で育てるので、その費用1日1円50銭、分娩具費15円を含む)。
【産院及び特殊病院の費用】
 (1) 赤十字社産院:方面委員(今の民生委員に相当)または警察署の身分証明書があれば、診察、入院、分娩の料金はすべて無料になる。有料のものは1日に付、次の料金となる。減費は、収入が所得税に達しない人のために設置されたもので、市町村役場の所得税不納の証明書、官公吏・会社員は上司の証明書を必要とする。初診料は1回、再診は無料、入院10日として、1等91円または81円、2等51円、3等26円、冬季の場合は暖房料が加算される。
1等:入院料6円または5円、分娩料30円、冬季暖房料60銭または50銭
2等:入院料3円、分娩料20円、冬季暖房料30銭
減費:入院料1円50銭、分娩料10円、冬季暖房料15銭
 (2) 築地産院:方面院の証明書が必要。入院料としては、1日食費45銭を収めれば他は一切無料。10日間の入院で4円50銭あれば、安心してお産ができる。震災後、貧しい人たちのために設けられたもので、他に浅草産院、深川産院も同様の事業を行っている。
 (3) 済生会産院:1日入院料2円50銭、分娩料7円、初診、再診無料、10日の入院として、費用合計32円。警察署、区役所で済生会診察券をもらって持参すれば、入院費も免除。幾分か余裕がある人は、食費1日30銭。同じ趣旨で営まれている産院・特殊病院は他にも種々あるが、賛育会本所産院、大塚病院、和泉橋病院、慈恵医院では、無料あるいは最低4円50銭から最高91円で十分なお産ができる。
posted by wada at 15:36 | TrackBack(0) | お産 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月18日

なぜお湯を沸かすのか回答編

 なぜお産が始まると「お湯を沸かせ!」とあわてるのか、なぜそれほど急にお湯が必要となるのか(沐浴の習慣のなかったアメリカの西部開拓時代にも)、答らしいものが見つかったのでこれも書いておきます。
◆岩崎直子『安産のしるべ』(日進堂、1916年)
◆岩崎直子『安産のしるべ』(主婦之友社、1926年)
 後者は前者の改訂版で、内容的には重なっているのですが、ここに「一番大切なお湯の準備」という一節があって、そこに理由がいいつくされています。
 まず、お産には赤ちゃんの沐浴をはじめとして、普通の鍋一つでは足りないくらい、たくさんお湯が必要だということ。
◎消毒に使う(温湿布もここに含まれるでしょうか)
◎手を洗う
◎赤ちゃんに使う(沐浴用ですね)
◎産婦さんに使う(清拭・更衣)
 ここにはありませんが、寒い季節でしたら、赤ちゃんにもお母さんにも湯たんぽが必要ですね。火を起こすのにもスイッチ一つというわけにはいかなかった時代だということも考えに入れなくてはならないでしょう。
 もう一つの理由は、これとも重なりますが、昔の住居では、お湯が沸かすそばからどんどん冷えていくからです。寒い季節であればなおさらです。
 この産婆さんは、以上のようなことから、常々、「お湯はお産で一番大切なものである」と話していたのだそうです。
posted by wada at 12:07 | TrackBack(0) | お産 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トラウベについて追加A

 ところで、みなさまは、本間棗軒(りけん)=本間玄調という人のことをご存知でしょうか。近代デジタルライブラリーで聴診法・聴診器のことを調べていたら、次の2冊の本が見つかりました。
◆由利八郎『発見と科学:青少年科学読本』(大智書房、1942年)
 聴診器が日本に伝わったのは、レーネックが発明してから34年目の西暦1848年で日本では嘉永元年のことである。嘉永元年といえば、ペルリが黒船を率いて浦賀に来る5年以前である。しかし日本ではこれより10年も前、すなわち天保9年に本間棗軒と呼ぶ医者が発明して、色々の病気を診察していたという記録がある。
◆寺島柾史『日本の科学者達』(日本小学館、1942年)
 西洋で、レンネックがはじめて聴診法を工夫したのは、西暦1819年(わが文政2年)であり、診断上の大発見といわれ、その手柄をたたえられたが、聴診法などは、わが国ではけっしてめずらしくはなく、かなりまえからわが国の医者は行っていたものだ。
 こんなはなしがある。文化2年というと、レンネックが聴診法をとなえたときより14,5年前もまえに、クルーゼンステルンの遠征にしたがってわが国にやって来た、ラングスドルフという医学者は、わが国の医者たちが病人を診察するのにその心臓の聴診をやっているのをみて、
 「これはまさしく、これまでの医術をまったく一変させてしまうだろう。」
 といっておどろいたというが、それもそのはずで、西洋ではまだ、聴診法など夢にも考えられなかった時代だからだ。
 (……)
 聴診器を発明したのは、それよりまたのちで、モーニゲという人が、これを持ってわが国にやって来てみると、わが本間玄調は、それよりも10年もはやく、これを発明して診察につかっていたから、モーニゲでなくても、わが国の医術の進歩に眼をみはるのは当然である。
 玄調は、そのころまた按腹法をも発見して、これを行っていたが、西洋で按腹法などが考えられたのは、それよりずっとのちのことだ。
 このように玄調は、聴診器をつくって胸や腹の病気を診察し、按腹法を工夫して肝臓その他を診察したことは、西洋にさきがけた医学上の大発見であり、日本医学のほこりでなくてはならぬ。
 玄調は、このほか種痘法をも大いにひろめ、このことをのべた書物を著し、
 「種痘は世を治め、人を救う一大良法だ。」
 と論じたが、明治のはじめまで生きのびて、同5年になくなった。
 前者はありうる話だと思いますが、後者では、本間棗軒が、独自に聴診器を開発していたということだったのが、世界に先駆けて聴診器を作ったことになってしまっていますね。それに、西洋医学を学んだからこそ、こういう方法を見出せたのでもあるのですから。戦時中で、こんなことになってしまったのでしょうか。
 なお近代デジタルライブラリーでは、この本間棗軒の『続瘍科秘録』を読むことができます(私には難しすぎて、眺めただけですが)。
posted by wada at 11:27 | TrackBack(0) | お産 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月17日

トラウベについて追加@

 お産関係のことは、近代デジタルライブラリーを調べるのが好きで書いていただけでしたので、もう書かないつもりだったのですが、トラウベのことで、ちょっとわかったことがあったので追加情報として書いておきます。つまり、お産になぜ、ピナール型聴診器が広まらないで、トラウベ型聴診器が定着したかという疑問への回答ということになります。
◆篠原昌治他編『近世診療技術』上巻(南江堂、1908年)
 これはお産に関する本ではありませんが、「聴診法」のところに、「管状聴診器には其型種々ありといえども「トラウベ」のもの最も多く用いらる」とあり、それと対比させるように4種の両耳聴診器が紹介されています。
 お産関係の児心音の聴取について述べたものには、以下のものがありました。
◆山崎元脩『産科要論』(丸善、1887年)
 何と1887年の本にすでに児心音の聴取は「必ず聴診器を用(い)てすべし」とあり、少なくとも産科医のレベルでは、それが常識だったと思われます。
◆中島襄吉『産科学講義』(南江堂書店、1907年)
 ただそれから20年を経て出版されたこちらの産科専門書では、「此の聴診は直接に耳を腹壁に当るを以て最良となす」とされ(布切れ一枚はさむのも聞こえにくくなるからダメ)、「然れども平常直接耳を以てするは不便多きを以て、聴診器を用ゆるものなり。故に本器中最も雑音を生ずべき部分の少(な)き管状聴診器を宜しとす」とあります。
 西洋の教科書から採られたと思われる二枚のイラストがあり、もう一枚、このDr.中島が診察している写真が収録されているので(p.132)、これは近代デジタルライブラリーで確認していただければと思います。
 ただDr.中島が使用しているのは、いわゆるトラウベではなく、両耳型の管状聴診器です。
◆佐久間兼信『産婆学独習書』(東京助産女学校、1932年)・・・ただし初版は1918年
 まず表紙に、組み立て式になった桿状聴診器のイラストが描かれています。そして「聴診の方法」のところに「聴診器の中で、妊産婦の診察に適当なのはトラウベ氏桿状聴診器である。就中硬ゴム製差換形が宜いと思う」とあり、これが表紙に描かれた聴診器を指していることがわかります(この聴診器は「はめはずし桿状聴診器」とも呼ばれていたようです)。さらに「両耳聴診器は、医師が一般に用いているもので、二本の長い「ゴム管」を有する聴診器である」とあるので、医師と産婆とで使い分けが生まれていたことも考えられます。(このパラグラフは一部修正しています)
 いずれにしても、医師の間では、両耳型でなければトラウベが好まれる(推奨される)状況があって、その延長線上に産科での使用があったということでしょうか。

【追記】
・日本産婆看護婦養成所『最新産婆看護婦講習録:産婆科第4巻』(1919年)では、このトラウベ型聴診器を「産婆用聴診器」と呼んでいる。
・川村清一『産婆に必要なる手技一汎』(1926年)の「産婦の聴診法」では、「妊婦の腹部に直接耳を接着するか或は聴診器なる器械を用いて母児両体の内部に発する諸音を聴取する法なり、両耳聴診器及び単耳聴診器の何れを取るかは産婆の任意なるも…」としている。
posted by wada at 19:36 | TrackBack(0) | お産 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月06日

森戸事件と猪間驥一の意志2

森戸事件:
1919年 12月東京大学経済学部の学術機関誌『経済学研究』創刊号に,経済学部助教授森戸辰男が発表した論文『クロポトキンの社会思想の研究』をめぐる筆禍事件。学内右翼団体興国同志会の上杉慎吉教授らの働きかけにより,20年1月森戸は発行人の大内兵衛助教授とともに新聞紙法違反,朝憲紊乱条項の適用により起訴され,教授会により休職を命じられた。(コトバンク「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」)
 この説明が、私にとっても、前述(2015.4.24)の三つの新聞記事を読むまでの森戸事件への理解のほぼすべてだったのですが、実は記事を読んで、「おや?」と思うことがいくつかあって、調べていたら真相がわかってきたので書いておきます。

1. 大内兵衛への大きな誤解
 大内兵衛は、森戸をかばったために休職を命じられ、教授会に反発して洋行したのかと思っていたら、新聞記事では、辞表(進退伺い)を提出しただけなのですね。
 Wikipediaでは、この点についてもっとちゃんとした説明をしていました。
10月2日、大審院は上告を棄却して有罪が確定。「社会理想としての無政府主義」と「実行方針としての無政府主義」は峻別すべきと主張した森戸は結果的に禁錮刑だったのに対して大内は「森戸論文は不穏当と思った」「自分は国家主義の方面からの社会改良論者である事を明かにして置く」と釈明して罰金刑のみとなった。両名は失職し、同じ頃ILO日本代表派遣問題をめぐって東大を辞職した師の高野岩三郎とともに大原社会問題研究所に参加、同所の中核メンバーとなった。(Wikipedia)

2. 渡辺鉄蔵への小さな誤解(一部修正)
同じ経済学部の教授である渡辺銕蔵などは、森戸の論文は論理も学術的価値もない、と批判した。(Wikipedia)
 『反戦反共の四十年』の中で、渡辺は自らこのようにいっていますが、これは1919年、論文掲載直後のコメントですね。
 森戸事件の新聞記事では、森戸の論文への言及はなく、法学部の学生大会で経済学部教授会および山川総長の態度を批判したことに対して、学生が出すぎたまねをするなといっているのであり、教授会を擁護し、森戸というより猪間ら学生たちを批判していたことがわかります。
 この前年、渡辺は、吉野作造、福田徳三とともに黎明会を結成しているのですが、吉野が森戸の弁護士を雇うのに奔走したのに対して、渡辺は教授会を擁護する側についたというのは、個人的には興味深い事実です。

3.「学問の独立」を主張したのは?
 教授会は文部省の命令に従い、大内兵衛もそれに対して何をしたわけでもなく、けっきょく森戸事件を森戸事件たらしめているのは、「学問の独立」を掲げた猪間たちの行動あってこそということになるのですね。

4.森戸事件の余波(社会政策学会の分裂)
 Wikipediaでは、森戸事件の後で、森戸、大内、高野が社会政策学会に加わったというニュアンスになっていますが、おそらくこれは間違いで、彼らはすでに有力会員で、高野ら旧幹事が、大内ら新幹事に改選された直後に森戸事件が起こっているようです。
 社会政策学会の内紛については、とてもまとめきれませんので、詳細は、神戸大学付属図書館新聞記事文庫の以下の記事を読んでいただければ幸いです(個人的には、この内紛への憤りで糸井靖之が脱会したことを知ってなるほどと思いました)。
◆東京日日新聞1920.6.18「二つの流れに争う思想界の権威者 社会政策学会分裂せんか 森戸事件に其の源を発して 資本主義と社会主義の衝突 興味ある今後の態度」
◆読売新聞1920.12.21「社会政策学会仲間割れ新旧人の大衝突 社会主義者の入会を拒絶し乍ら河上博士を筆頭に数名が入会」
posted by wada at 11:05 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする