2015年05月27日

経済図表の見方画き方・・・3

 4つの記事とともに、『経済図表の見方画き方使ひ方』の広告にも面白い発見がありました。見たのは1926年のものだけですが・・・。
◎3月27日号/4月10日号・・・A:対数方眼紙の「形見本」
◎4月17日号/4月24日号/5月1日号/5月15日号・・・B:「5月中旬発行」と記入されたもの(本文は前回記事「経済図表の見方画き方使ひ方」中のものに同じ。◆×5)
◎5月22日号・・・C:「最新刊」と記入されたもの(本文は前回記事「経済図表の見方画き方使ひ方」中のものに同じ。◆×5)
◎6月19日号/6月26日号/7月24日号・・・D:「最新刊」+以下の「著者曰く・・・」が入ったもの(本文は前回記事「経済図表の見方画き方使ひ方」中の終わりの二つ。◆×2)
著者曰く、最近統計図表の応用が非常に盛になって来ました。難解な統計数字を簡単に了解せしめる此の方法の便利は云うを俟ちません。単り統計のみならず、系統、組織、記録、計画、計算等にも図表法の応用は広うございます。
既に若槻首相も去る6月1日付で、法律や手続の難解な点は適宜図解及び図表を用うべきであると云う訓令を諸官庁に向け発して居られます。米国のハスケル氏は図表法を簿記法と同じく事務家の必修科目とすべしと云っています。本書は著者が、此の将来必要なるべき問題を、主として実用的見地から、半ばは学問的統一の要求から論じた労作であります。この書を通じて同じ問題を考え同じ方法を用いる友を得る事が出来るならば、著者の幸福之に過ぎたるはありませぬ。・・・・・・
 これも湛山が書いたのではないかと思うのですが、興味深いのは、猪間の肩書きが「前東京帝国大学経済学部講師・現東京市政調査会副参事」となっていることです。これはわかる方にはわかるのですが、大内兵衛グループは猪間が講師にまでなっていた事実を消そうとするのですね(有沢広巳は、猪間が大病をして辞めたというようなストーリーを作った)。
 1927年以降の広告で、例のキャッチコピーが入りますが、ここでは再び、「前東京帝国大学経済学部講師」の肩書きが消えます。
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経済図表の見方画き方・・・2

 ということで、1926年の『東洋経済新報』を調べてみたら、猪間がいくつかの記事を書いていることがわかりました。
◆1926年3月27日号「東洋経済半対数方眼紙発売に際して」
◆1926年11月27日号「半対数方眼紙と数列の微少変動記入に就いて(一)」
◆1926年12月4日号「半対数方眼紙と数列の微少変動記入に就いて(二)」
◆1926年12月11日号「半対数方眼紙と数列の微少変動記入に就いて(三)」
 最初の記事は、タイトル通りの内容ですが、面白いのは、猪間自身が誌上連載でもっとも力を入れたのは対数図表に関するものだったのに、すぐに一般にこれが利用されるようになるとは思いもよらず、まず3,4年先のことと思っていたこと。ところが記事掲載の後、まもなく、対数方眼紙を使いたいという大口小口の注文が、続々と東洋経済新報社に届いて面食らったということです。「時世の進歩と云うものは学問をする者が机上で理屈を捏ね回す程愚図愚図しているものではない事を、つくづく感じた」とも書いていますが、これは猪間が東大を追われて間もない時期であるだけに、彼の気概というようなものを感じさせます。追われるとき、やっとの思いで原版を持ち出し、それがすぐに自分を迎えに来てくれた湛山の役に立ったのですから、うれしさもひとしおだったと思います。
 いずれにしても湛山の企画が大当たりしたということですね。
 その後も対数方眼紙の注文が山のように届き、売れ行きのよさを見ると、支障なく使いこなしている人が多いように思われる一方で、「あの版では統計数列を曲線で表わそうとしても、微細な変化が十分明瞭に表われず、まるで一本の直線に終って、なんらの判断の下し様も無くて困る、斯う云う場合にはどうしたらよかろうか」と質問する人も多かったようです。
 そこで、11月から12月にかけての記事は、「微少変動を明瞭に半対数曲線として見たい方に」補足説明を試みたもので、三つの方法が順次述べられています。
 それでもわからない人には、東京市政調査会まで手紙、電話、または来訪くださいとまで書いてあって、ほんとうに律儀な人ですね。
 私が前回、連載中の「図表と其の応用」の記事と勘違いしたのは、終わりの二つの記事だったということになります。
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2015年05月26日

「物価の地位高く」の由来

 やはり1920年代終わりの『東洋経済新報』を見ていて、1927年1月1日号に掲載された石橋湛山の論説「物価下落を希望する謬想」と添付されたグラフのタイトル「見よ、我物価の国際的位地!」が目に留まりました(念のため、1月15日号にはこの続編が掲載されています)。
 猪間驥一が書いた『日本人の海外活動に関する歴史的調査』総論に、「日本は1917年には、米国に追随して金の輸出を禁止したが、その後米国の金解禁に際しては、これにならわず金本位制を離脱したまま経過した。このため金準備が比較的豊富な結果、通貨は収縮せず、物価の地位高く、為替の低落、貿易の逆調は容易に訂正されなかった」というくだりがあり、その「通貨は収縮せず、物価の地位高く」というフレーズがわかりやすくて好きだというようなことを私はどこかに書いていると思いますが、それが、この「見よ、我物価の国際的位地!」から来ているものであるということに、私は確信をもってしまいました。
 この報告書は日本が武力的な大陸政策へ向かいそうになったとき何度も小日本主義へ引き戻してきた湛山へのオマージュという側面をもつというのが私の考え方で、湛山の主張をわかりやすく伝えようとして猪間が工夫したことばだと思っていたのですが、もっと直接的に湛山の表現をいただいたということですね。
 もう一つ。
 1927年6月25日号の『東洋経済新報』に、「安価にして健全なる牛乳の供給方法」というおそらく湛山が書いた記事があって、これが同じ1927年7月号『都市問題』に猪間が書いた「東京市の牛乳問題」と同じ趣旨のものだったことが私には興味深くて、ここに付け加えておきます。
posted by wada at 11:19 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

経済図表の見方画き方使ひ方

 1920年代終わりの『東洋経済新報』を見ていたら、猪間驥一の『経済図表の見方画き方使ひ方』の広告が見つかりました。1927年頃のものだと思いますが、石橋湛山が書いたのではないかと思われるコピーが面白いので、書き写しておきます。
東京市政調査会副参事・経済学士 猪間驥一著
『経済図表の見方画き方使ひ方』
統計図表の作成だけで一の職業が成立し
図表を簿記と同じく事務家の必修科目とすべき時代が来た!
◆会社や官庁で統計数字を矢鱈に列べられたり、組織傾倒をゴタゴタ述べられるのは、話を聴く時でも、なかなかわからないし、寔(まこと)に以て厄介千万なものである。
◆その困難に打ち克つものとして、最近、図表の応用が盛んになって来たのは、実に当然の事と云わねばならぬ。これならば厄介な統計など一目見て直ちに理解が出来る。
◆ところが、其の図表を書くには定まった方式がある。ただ滅茶苦茶に書いたのでは、判断を迷わす基である。否、恐るべき事には、人の判断を迷わさんが為めに書かれた図表が、時々出て来るのである。これを看破する為めにも図表に関する正しい知識が必要である。
◆本書は此等図表中、事業の経営、事務の管理、経済現象の研究等に関係あるものに就て、斯界の権威者たる著者が通俗的に簡潔平明な筆を以て説明したもの。曾て東洋経済新報誌上に連載して読者より多大の歓迎を博した「図表と其の応用」と題した講話に、修正増補を施して一冊に纏めた書である。
◆類書も他になき折柄、敢て事務家及び研究家諸子に一読をお勧めする。
 いまふと気づいたのですが、湛山が農業問題について書いたものを調べていて、1926年12月にも3編の論説があったので、それを見ていたのですが、そこに図表とともに猪間の書いた記事が載っていたのですね。私は「図表と其の応用」の最後のものだと思ったので読まなかったのですが、この連載が終ったのは、1925年の12月でした。となると、猪間は何か別のものを書いていたのですね。近いうちに確認したいと思います。
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2015年05月07日

町田忠治と志立鉄次郎

以前、「志立鉄次郎と東洋経済新報社」(2014年8月27日)という記事を書いて、その追加情報ということになるので、「志立鉄次郎と東洋経済新報社2」としたほうがわかりやすいかと思いますが、今回のテーマは、町田忠治と志立鉄次郎の接点に関するもので、ここには石橋湛山が登場しないので、このように変えました。
・町田は1887年、帝国大学法科選科卒業、志立は1889年、帝国大学法科大学卒業なので、在学中にお互いを知っていた可能性はゼロとはいえません。
・また、町田は1893年5月から約1年間イギリスに外遊とあり、志立は1889年、日本銀行に入り、ついで3ヵ年欧米に留学とあるので、その時期によっては、接触できた可能性もなかったとはいえません。
・しかし、「志立鉄次郎と東洋経済新報社」における両者の会話を見る限り、そこまでは出会っていなかったと考えるほうが自然な気がします。ただし、その後においては、会話の中にはなかった強いきずなが生れていたことが判明しました。
・1895年11月、町田は『東洋経済新報』を創刊。このとき、志立は日銀にいて、首脳部と対立して金本位制に反対の意見を述べていたわけですが、この前後に、町田が日銀に志立をときどき訪れ意見交換していたことから、志立が『東洋経済新報』のシンパサイザー&寄稿家となったのでしょう(このあたりのことまでは、前の記事の会話中にありますね)。
・1896年12月、町田は『東洋経済新報』を友人の天野為之に譲り、これと前後して日本銀行に調査役として入り、1898年1月、日銀総裁、岩崎弥之助の特命を帯びて大阪支店監査役となって体質改善に乗り出すわけですね(ここで両者とも日銀の人になるわけです)。
・ところが1899年3月、両者は日銀騒動(日銀幹部ストライキ事件)に連座して辞職しているので、つまり同志として闘ったということになりますね(志立はこのとき門司支店長)。このあたりのことは、若気の至りと思っているのか、二人ともあまりいいたくなかったのでしょうか。
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2015年05月02日

猪間驥一の写真を見たい方へ

 近代デジタルライブラリーで、『日本統計学会年報』を検索すると、日本統計学会の設立総会から第4回総会までの記念写真を見ることができます。猪間驥一(いのまきいち)の活躍ぶりも垣間見ることができます。他に、当時どのような人々がこれに参加し、どのようなことが議論されているかもわかって専門家の方には興味深いのではないかと思います。
 猪間を東大から追い出したあの人物も毎回いっしょに写っているのが気になるところですが、この方は、名前を連ねているだけで、一度たりとも報告者になったことはなく、討論者になったこともありません。
◆日本統計学会創立総会(1931年4月、於:京都帝国大学):会員117名/出席者36名
⇒『日本統計学会年報』第1年(1932年)
◆日本統計学会第2回総会(1932年4月、於:一橋学士会館/東京帝国大学):会員125名/出席者33名
⇒『日本統計学会年報』第2年(1933年)
・猪間(研究報告)「価格の年次的統計と物価水準の推移を簡単に示すべき通俗的図表法に就て」
・猪間「統計学学用外国語訳語調査委員報告」
・宗藤圭三「物価指数における構成的抽象性と相対的歴史性との吟味」の討論に参加。
◆日本統計学会第3回総会(1933年5月、於:日本生命保険会社本社/大阪毎日新聞社大講堂):会員138名/出席者36名
⇒『日本統計学会年報』第3年(1934年)
・猪間(研究報告)「物価の下落と労働者の家計――大阪市に於ける事実の考察――」
・猪間「統計学用語統一調査委員報告」
◆日本統計学会第4回総会(1934年4月、於:如水会館/一橋講堂):会員143名/出席者47名
⇒『日本統計学会年報』第4年(1935年)
・上田貞次郎の放送講演「統計より見たる我が国の国民経済」(原稿が収録されている)に森田優三とともに付添う。
・柴田銀次郎「我国に於ける綿糸布の需給状態」の討論に参加。
・山口正「物価と失業」の討論に参加。
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