2014年09月26日

「渡し」とウーラント同窓会

 大事なことを書くのを忘れていました。
 ウーラント同窓会の会員であられる「按針亭(管理人)」さんが、そのサイト上で、拙著『猪間驥一評伝』をご紹介くださり、「目次」・「はじめに」・「おわりに」を掲載してくださいました。ほんとうにありがとうございました。
 按針亭 http://homepage2.nifty.com/anjintei/
 本日、ウーラント同窓会のことを調べておこうと、この「按針亭」のサイトを読ませていただいて気づいたのですが、声楽家の佐藤征一郎さんが「渡し」(渡し場/渡し場にて/渡し場で)を歌われているCDが発売されているのですね。以前、2006年5月に四谷の紀尾井ホールで「カール・レーヴェ全歌曲連続演奏会」が開催され、そこで「渡し」が日本初演されたことをうかがって、聴き逃したことが悔しくてたまらなかったのですが、CDのことを確認していなかったのはうかつでした(演奏会とは別のものかもしれませんが…)。
 しかもピアノは高橋アキさん。
 1970年代のある時期、私は東京周辺で開催される高橋悠治さん&高橋アキさん兄妹のコンサートをほとんど欠かさず聴きに行っていたことがありました。エリック・サティの初演とか、現代音楽の様々な作品とか。
 いまやっていることが片づいたら、このCDをじっくり聴いてみようと思っています。
 念のため、CDのタイトルは「カール・レーヴェ:バラードと歌曲の世界」、詳しくは上記の「按針亭」のサイトをごらんください。

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2014年09月22日

藤田武夫の謎めいた経歴4

 藤田の戦前の地方財政問題のとらえ方は、私がざっと見た限りでは、戦後間もない1949年12月に上梓された、『日本地方財政發展史』(河出書房)によく表われているように思います。
第六章 昭和二年金融恐慌以後における地方財政
第六節 結語

 昭和二(1927)年の金融恐慌によって再び恐慌状態に入った日本経済は、四(1929)年の世界恐慌、五(1930)年の農村恐慌によって夥しい企業の倒壊と恐るべき農民の分解を伴った。年毎に深刻化する経済恐慌は、上述の如く地方団体の行財政に種々の影響を与えたが、それとともに地方財政制度上に大きな変化をもたらした。
 金融恐慌後間もなく始められた地方団体の失業救済その他の救済事業は、昭和七(1932)年以後の政府の時局匡救事業に促された膨大な規模のものとなり、財政の所謂労働振興政策的機能をも担うことになった。(……)
 右の如くして昭和二年(1927)金融恐慌以後、農村その他の壊滅的な疲弊と国民生活の窮乏化によって、地方団体の経済的社会的機能は著しく拡充されたが、同じ原因が地方住民の担税力の甚だしい低下を招来した、かくて、すでにその運営に多大の困難を来たしつつあった地方団体の財政は、愈々極度の窮乏状態に陥った。
 地方財政の窮状打開のために、昭和四(1929)年田中政友会内閣はその最高政策の一つ地租収益営業税委譲案を第五十六議会に上程した。上税案は、農村救済、社会政策的減税を唱え、また両税の地方委譲によって地方分権的独立税主義的地方税制を樹立せんとした。そして一時は、これによって地方財政制度における制度創設時より刻印された強大な官治制と独立税源の涸渇と言う日本的特徴の解消が期待された。しかるに、深刻な不況と国費の膨張は、両税の委譲を許さず、右の理想は地方分権的税制への単なる思慕に終った。その上譲税案の実現が、地方団体の貧富の懸隔を一層著しくし、遂に最も救済を必要とする貧弱町村を救い得ないことが指摘された。事実当時すでに富裕団体と貧弱団体の経済力の懸隔は、地方分権的独立税主義的な譲税案によっては、地方財政の窮乏を救い得ないまでに大なるものになっていたのである。
 その後昭和六(1931)年の地租改正、七(1932)年以後の時局匡救事業と諸社会法の公布、さらに満州事変以後の一部都市の繁栄は、地方団体間の財政力及び負担の不均衡をいよいよ激化し、農村の極端な負担過重は、到底これを放置することを許さざるに至った。この際独逸財政調整法その他の経験に倣って財政調整交付金案が提唱されたが、財政調整交付金は、その必然性を認められながらも、財源捻出その他に阻まれ、漸く昭和十一(1936)年臨時町村財政補給金二千万円の成立を見た。これは翌十二(1937)年臨時地方財政補給金に拡大され、瞬く間に一億四千八百万円に増額され、地方財政運営上の重要な支柱となった。尤も臨時地方財政補給金は全く一時的なものであり、窮乏団体の歳入補填のための一種の補給金であって、地方財政制度の恒久的な一環としての地方財政調整交付金とはその性格を異にする。しかし、(……)国の収入の一部を交付することによって地方財政の窮迫を救済せんとすることにおいては、財政調整交付金と相違するところなく、強度の中央集権的官治的性格を持ち、地方財政制度の新しい方向への発足を示すものである。
 世界大戦(注:第一次)以後すでに高度の独占段階に入っていた日本経済が要請するものは、決して自由主義的な地方分権的地方財政政策ではなく、それはむしろ中央集権的統制主義的な財政方策によって国政委任事務の完遂と画一的な国内行政の充実を確保するものでなければならなかった。かくて、臨時地方財政補給金の生誕を契機として、日本地方財政制度は急速に従来よりもはるかに中央集権的官治的な体制に突入して行ったのである。右の意味において、この時代は、日本地方財政制度の発展上一大転換期をなしたものと言い得る。
 いかにもマルクス主義者の分析といえると思いますが、それはさておき、ここで注目すべきは、この書の執筆・出版がちょうどGHQ占領下、猪間驥一が編纂した『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(高橋財政期の経済成長を評価する)に対して、大内兵衛の『昭和財政史』(戦前の財政を失敗と見なし高橋財政が戦争をもたらしたとする)による「歴史」のすげ替えが始まった時期に当るということです。石橋湛山が公職追放されていた時期に相当するといういい方もできます。
 1955年10月、大内兵衛・高橋正雄らによって、東京都政調査会が設立されます。その名称からも明らかなように東京市政調査会をモデルにしたもので、後に美濃部都政を実現させることになるのですが、ここに主要なメンバーとして鈴木武雄・藤田武夫が加わっていることには注意が必要かと思われます。
 いかにも戦前の東京市政調査会の遺産を受け継いだ団体のようであって、実は、東京市政調査会の研究員だったのはこの両名だけであり、1930年代、鈴木は京城にいたので、ここから何かを引き継いだということができるのは藤田だけということになります。
 ここで前述の、藤田の経歴になぜ、1943年に東京市政調査会の調査課長になる以前の、研究員時代のことが書かれていないのか、という点を絡めて、推論を試みたいと思います。
 ここに非常に興味深い事実があります。『都市問題』掲載論文を見ると、1935年から1937年までの藤田は寡筆で、しかもその半数は保健衛生等に関するものでした。1938年以降、地方財政問題に特化した論文を執筆するようになり、1939年以降はその内容も体系的になって、太平洋戦争中も研究に没頭していたことがわかります。その間、それらをまとめた3冊の本も上梓しているわけです。
 その分岐点ともいうべき1938年に、猪間は東京市政調査会を去り、1939年夏、日中戦争によって一旦、挫折しながら発表の機会をうかがっていた「人口の都市移住計画」(仮称)をあきらめ、東京市政調査会とのつながりも途切れてしまいます。
 こうしたことを鑑みると、藤田にとって、猪間というのはうっとうしい存在で、湛山ら『東洋経済新報』周辺で展開されていた議論の“リベラルな”香りともども、表に出てきてほしくないものだったのではないでしょうか。
 それが、東京市政調査会における研究員時代を捨象してしまうという行為に及んだ(たとえそれが自分で行ったものではないにしろ訂正することがなかった)理由ではないかと、現在の時点で私は推察しています。

【追記】わかりやすくするため、引用文中の元号に西暦を併記し、また湛山・猪間が地方財政について議論していた時期に相当する部分を太字で示しました。

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藤田武夫の謎めいた経歴3

 ここでは、1935年9月に藤田武夫が発表した、「人口別に見たる我国都市財政の不均衡」(『都市問題』第21巻第3号)を取上げます。
 まず冒頭部分から。
 昭和七年の内務省の地方財政調整交付金案を契機として、爾後同交付金を繞って、政府、諸政党、其他諸団体等の間に各種の提案対策が凝議された。其結果昭和九年第六十五議会に政友会、民政党及び国民同盟は相競って之に関し大同小異の案を提出したが、結局之等三派の妥協に成る地方財政補整交付金案も、議会に於いて決定せらるべく予定されている。今後此問題は内閣審議会に於いて決定せらるべく予定されている。(……)
 地方財政の均衡不均衡を取扱う観点には、(一)各種財政主体間の均衡問題、(二)地域別に見たる衡平問題、(三)都市農村の財政上に於ける衡平問題及び(四)一地方財政主体の財政の内部に於ける衡平問題等が考えられ、之等の観点に拠って経費、租税、公債等の所財政事実に於ける均衡不均衡を取扱うことが考察上適当且つ便宜である。(……)
 藤田はこのうち、(四)の一部(都市)について、経費、租税、公債が各都市間でバランスが取れているかをこの論文では見ています。
1.人口階段別都市人口数並千分比
2.人口階段別都市経済力表
3.各都市経済力分布千分比表
 以上の3つの表を示して、藤田は「全国市民の経済力の実に半ば近くが東京と大阪とに集中している」こと、「大都市市民の負担の其経済力に対する割合は、此状態とは反対に中小都市よりも遥に小さい」ことを指摘します。さらに、
4.人口階段別都市財政状況
5.各都市財政状況千分比表
6.各都市歳出及市税の所得に対する千分比
7.各都市一人当り所得、歳出及市税表
 以上4つの表を示して、以下の結論を導きます。
 一見恰も各都市の貧富の程度に応じて経営されて居るが如き我国都市の財政は、(……)甚だしく不均衡な状態に在るものと断ぜざるを得ない。地方財政の不均衡は、農村と都市との間に、亦各地域の間に存すると同時に、都市相互間にも亦見出されるのである。(……)主要な原因と考えらるるものを大別すれば、其一は大都市への人口、富及び産業の集中と言う現在の社会経済組織的原因、其二は一の如き事情あるには拘らず行政上全国組織的原因並に其三は財政的諸原因である。(……)此財政的要因には、(一)大都市に於ける公費事業の隆盛、(二)大都市の巨額の市債発行、(三)大都市に於ける都市計画事業並に受益者負担の普及、(四)各都市の国政委任事務に関する画一的制度の採用等が、主なるものとして挙げ得られるであろう。
 この小論では、「我国都市財政不均衡の現状を提示するに止め」ながら、藤田が、「不均衡緩和乃至除去の適当な方策が講ぜらるべき」という立場を取っていることは明らかです。
 後に藤田は、『市政の基礎知識・第9輯:地方税制の沿革』(1940年)、『日本地方財政制度の成立』(1941年)、『日本地方財政論』(1943年)等を発表しますが、この財政上のアンバランスが都市と農村の間にも存在しているとしています(冒頭の問題提起のうち(三)に相当する)。
 猪間驥一は、第六十五議会における議論を評して「直接地方制度或は地方問題を対象としたものではないが、産業立法の中に蔵された利害関係の交錯が、都市と農村との対立と云う形で意識され、激しい論争の主題となり、院外にも猛烈な運動の継起を来した著しい事例を、今期議会は見たのである」と書いていますが、藤田も、これらの議員たちと同様、この問題を都市と農村との対立という枠組みでとらえているわけです。
 つまり、都市が豊かになることが農村の貧しさをもたらすという考え方がその根底にはあったわけです。
 石橋湛山や上田貞次郎や猪間驥一ら自由主義経済学者の、都市と農村が対立するものと見なさない立場、あるいは農村問題の解決のためにも都市のさらなる工業化が必要とする立場を、身近にいた藤田が嫌っていたことは間違いないでしょう。
 ただそれでも、研究者としてフェアな態度をとるなら、猪間はともかく、湛山ら『東洋経済新報』における大キャンペーンをなかったものとする(抹消する)ことはできなかったのではないでしょうか。
 それを意識的にやったのかどうかはわかりませんが、藤田が、戦後の日本地方財政史研究の基礎を作った人物であったことから、その影響が今日まで及ぶことになったのですね。

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2014年09月20日

猪間驥一の地方財政研究@

 ここで、猪間驥一と藤田武夫の地方財政問題のとらえ方の違いを明白なものにするために、猪間が、第67議会における議論を受けて、1935年5月、地方財政問題に関する本格的な研究を開始する記念碑的な論文「第六十七議会に於ける都市及地方問題」の内容の概略を紹介しておきたいと思います(解説としてもすぐれたものです)。
 以後、便宜上、猪間の地方財政問題論文を、1935年・1936年に分けて論じることを考えていますが、念のために、1935年の論文には、以下の4編があります。
 1935年5月「第六十七議会に於ける都市及地方問題」
 1935年8月「歴代内閣の地方財政対策−地方財政改善方策の沿革的研究」
 1935年9月「地方財政整理論の種々相−地方財政改善方策に関する沿革的研究(続)」
 1935年11月「地方財政調整交付金制度の生誕−地方財政改善方策に関する沿革的研究(続)」
 一方の藤田は、この1935年5月の論文がきっかけとなって、1935年9月、同じ『都市問題』に最初の論文「人口別に見たる我国都市財政の不均衡」を発表することになったと思われます。

「第六十七議会に於ける都市及地方問題」
 はしがき

 地方に関連する財政問題としては、政友会の所謂爆弾動議の跡始末が会期前半の最主要題目たる観を呈し、其の解決を見るや、政友会・国民同盟並に民政党から競争の形で提出された地方税制調整交付金に関する法案をめぐっての論議が注目の的となった。政府提出の法案では、政府貸付金処理に関する法律案・市町村立尋常小学校費臨時国庫補助中改正法律案等がある。(……)
 最後に直接地方制度或は地方問題を対象としたものではないが、産業立法の中に蔵された利害関係の交錯が、都市と農村との対立と云う形で意識され、激しい論争の主題となり、院外にも猛烈な運動の継起を来した著しい事例を、今期議会は見たのである。上に揚げた米穀関係三法案、蚕糸業三法案は、その問題の焦点であった。果して之が「都市対農村」の問題であるか否かは更に考究を要し、寧ろ端的に産業組合の発展に対する大資本に中小商業者の攻撃乃至防御運動と見るを妥当とすると思われるが、賛否の分野から見て、農村議員と都市選出議員との間に、対立状態が現われた事は、事実である。(……)

三 地方財政関係の問題
 所謂政友会爆弾動議の跡始末

 我々はただ此の所謂爆弾動議が如何なる見地に於て地方問題に関連しているかを観察すれば事足る。(……)即ち予算に於ける軍事費の膨張と、地方殊に農村匡救施設費とが相伴わず、動もすれば国費の分配が前者に厚くして後者に薄からんとする事に対する批評が根本に横っている事を看取し得るのである。(……)
 内務農林両省予算の縮小は、昭和7年度以来3ヶ年継続の時局匡救事業費の打切が最も大きな原因であるが、それが残存事業の普通経費組換えや、又折柄幸か不幸か発生した所の災害対策に要する経費によって、幾分減縮程度を少くしたにしても、尚巨額な支出減として現われ、その事が更に市町村への補助の減少、農民及都市労働者の現金収入の減少を結果して来る事に対する不満が論議の根柢に横っているのである。(……)
 地方財政調整交付金
 斯く爆弾動議跡始末中にも片影を現しているのであるが、これとは別糸の運動が右政争一段落を告げると共に進展した。それは地方財政調整交付金の趣意を汲む法律案が、各党から衆議院へ提出され議題に上ったことである。(……)法案の大体の構成並に地方財政の窮乏を救い負担の不均衡に匡正を試みんとする趣旨に至っては、両案共全く相違を見ない。併し3月14日衆議院は其の議員頭数に応じて民政案を葬り去り、両党案を可決した。而して法案は貴族院に送られたが、審議未了に止った。
 なお翻案と直接関係したことではないが、2月15日貴族院の予算総会に於て、高橋蔵相が内田重成氏の地租営業収益税の委譲に関して質問したるに対して「現在は事情が変化した、現在に於て地租委譲などはこれを簡単に行うことは出来ない」と答えたのは、可なり人の耳目を聳てしめた。この案の創唱者であり永らくの固持者であった老蔵相の改論は、地方財政改革案としての地租営業収益税委譲の終焉を意味し、それが地方財政調整交付金に地位を譲る一道標とも考えられるのである。
 以上を踏まえ、次回は「藤田武夫の謎めいた経歴3」へと進みます。

◎10月以降の記事との関連で、この記事のタイトルを「1935年の地方財政問題@」から「猪間驥一の地方財政研究@」に改めました。
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2014年09月19日

藤田武夫の謎めいた経歴2

 藤田武夫について、「コトバンク」には、以下のように記されています。
藤田武夫 昭和時代の財政学者。東京市政調査会調査課長を経て昭和21年立大教授。48年大阪学院大教授。地方自治の問題点を財政面から論じた。昭和63年10月6日死去。83歳。京都出身。九州帝大卒。…

 また藤田の東京市政調査会時代の主な論文・著作をまとめると次のようになります(煩雑になるので、「保健衛生」に関する論文は省略しました)。
@ 1935年9月、「人口別に見たる我国都市財政の不均衡」(『都市問題』第21巻第3号)
A 1936年1月、「明治最初の地方税法案と其財政史的意義−明治十一年「地方公費賦課法」案に就て」(第22巻第1号)
B 1936年3月、「明治十一年の地方税規則に就て」(第22巻第3号)
C 1936年9月、「我市町村税制の本来的性格に就て−明治二十一年に於ける市町村税制度の確立」(第23巻第3号)
D 1937年10月、「日本地方税制に於ける自治性−制度史的観点より」(第25巻第4号)
E 1938年9月、「地方財政調整交付金と國政事務 」『全国都市問題会議総会文献. 第6回 第3 都市の経費問題』=F
F 1938年10月、『都市問題』第27巻第4号「地方財政調整交付金と国政事務/都市の経費問題に就て」=E
G 1940年1月、『市政の基礎知識 第9輯 地方税制の沿革』
H 1941年(11月)12月、『日本地方財政制度の成立』(岩波書店)
I 1943年(9月)12月、『日本地方財政論』(霞ヶ関書房)
J 1943年12月、「新税制下の都市財政力」『全国都市問題会議総会文献. 第8回 総会要録』

 九大をいつ出たのか、また出てから東京市政調査会に入るまでの過程がわかりにくいですね。
 そこで、『九州帝国大学一覧』で調べて、「1925年入学‐1928年卒業」を確認しました。
 1925年度、法文学部学生に「藤田武雄」(山口)の名前があり、法文学部に第一回生として入学したことがわかります。
 1926年度に「藤田武雄」、1927年度「藤田武夫」、また1928年3月の卒業生に「藤田武夫」(経済学士)の名前があります。
 1925年度、1926年度の「藤田武雄」というのは、表記ミスでしょうか(戦後、『都市問題』に書いた論文でも「藤田武雄」名になっているものがあります)。
 教授陣には、美濃部達吉、向坂逸郎等。同期に具島兼三郎(法学士)の名前があり、経済学を教えていたのが向坂ですので、おそらく向坂ゼミに所属していたのでしょう。
 となると、1928年に卒業した後、1935年9月、『都市問題』に最初の論文を発表するまでの数年間、何をしていたのかという疑問が生じます。

 そこで、『昭和人名録V 東京編』を調べて出てきたのが以下の事実です。
藤田武夫 立教大学経済学部教授 東京大学 早稲田大学各講師
杉並区阿佐ヶ谷(…)【電】(…)
明治38年2月27日生 京都府宮津市出身
昭和5年九大経済学科卒
同9年迄京大大学院に研究 其の間立命館大講師を務め
同18年東京市政調査会調査課長となり 明大中大各講師を経て
同21年立大教授に就任 早大講師を兼ね 同24年学位を受く
尚地方行政調査委員会専門調査委員を兼務
著書「日本地方財政」「地方財政論」「日本資本主義と財政」「日本地方自治論」「日本地方財政発展史」「日本地方財政制度の成立」
【宗】(…)【趣】(…)【家】(…)

 九大卒業後、京大大学院に進んだことがわかります。ところが、『京都帝国大学一覧』を調べて見ても、「藤田武夫」「藤田武雄」の名前はどこにも見当らないのです。
 けれども、1935年9月の「人口別に見たる我国都市財政の不均衡」を読んで合点がいきました。この注に藤田が「拙稿」としている論文「我国の都市行政費と都市人口」(『都市問題』第20巻第3号、1935年3月)の執筆者が「伊藤武夫」となっていたからです。藤田には別名があったのです。この数年間、養子縁組でもして、またそれを解消するというようなことがあったのでしょうか。

 そこであらためて、『京都帝国大学一覧』を参照すると、確かに「伊藤武夫」という名前がありました。
 1930年度に、経済学士、伊藤武夫(京都)の名前があり財政学を専攻していたことがわかります。
 1931年度にも、経済学士、伊藤武夫の名前があり、1932年度は法学士となっていましたが、やはり財政学専攻で、伊藤武夫の名前があります。
 教授陣に汐見三郎、神戸正雄ら。河上肇は1928年、京大教授の職を辞して、1930年、東京へ移って実践活動を開始しているので、藤田とはすれ違いの形になっています。
 ここで、九大では山口出身だったのが、京都になっているのが気になりますが、京都で生れ、山口に移り住み、九大を出た後、京都へ移って、その後京大大学院に入学したということであれば辻褄が合うでしょうか。
 いずれにしても、鳴海正泰「戦時中革新と戦後革新自治体の連続性をめぐって―都政調査会の設立から美濃部都政の誕生まで―」(『自治総研』通巻402号,2012年4月号)にある「鈴木武雄と藤田武夫はともに東京帝国大学で大内ゼミの卒業生」というのは間違いですね。

 実は私には、ここまで書いてきたこと以上にひっかかっていることがあります。それは、藤田が戦後、東京市政調査会の研究員であったことを伏せているように思えることです。
 彼が1935年以降、研究員であったことは、1935年9月の『都市問題』第21巻第3号「執筆者紹介」に「東京市政調査会研究員」とあること。1941年に上梓した『日本地方財政制度の成立』に「私が地方財政史の研究を志したのは、昭和十年秋のことであった。爾来六年の星霜が流れた」とあること。1943年に上梓した『日本地方財政論』にも同様の記述があること。また『日本都市年鑑』第1(1931年用)〜第12(1943年用)において、第5(1936年用)以降、毎号執筆を分担していることからも確認できます。
 ところが、「コトバンク」でも、『人名録』でも、彼の東京市政調査会でのキャリアは、1943年、調査課長になったところから始まっているのです。
 彼がまとまった著作を発表するのは、1940年以降ですが、このとき猪間がすでに(1938年)東京市政調査会を去っているのです。

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藤田武夫の謎めいた経歴1

 財政学者、藤田武夫(1905−1988)は、地方財政問題を研究する人々の間ではよく知られた存在であり、その人物の著作をあらためて検証しなおすなどまったくの想定外のことでした。
 では、なぜあらためて調べてみる必要を感じたのかというと…。
 それは今日、1930年代の猪間驥一だけであればともかく、石橋湛山の地方財政問題への関わりがまったく無視されていること、その一つの原因が、藤田のこの問題のとらえ方にあるのではないかと感じはじめたからです。そのとらえ方というのは、藤田が意識的に行ったものか無意識に行なったものかわかりませんが、そのいずれであっても重要な意味を含むものに思えるからです。

 湛山の地租委譲論についての議論が1920年代で止まったままになっているのではないかという疑いについては、以下の鈴木武雄の論文を取上げたときにも多少そのニュアンスを伝えているかと思います(6月13日記事「寄り道:鈴木武雄と地租委譲」参照)。
■1971年9月、鈴木武雄「地租委譲論と石橋さん――『石橋湛山全集』第五巻を読んで――」(『石橋湛山全集』第8巻月報10)
 鈴木には以下のような論文もありますが(未読)、いずれも1920年代の議論であり、彼が1928年以降、京城帝国大学に赴任していることや、1930年代になってヨーロッパに留学し、京城に戻るのが1935年であったことなど鑑みると、致し方ないという気がしないではありません。
■1927年6月、鈴木武雄「政友会内閣の地租委譲論」(『都市問題』第4巻第6号)
■1928年3月、鈴木武雄「各政党の地方財政政策」(『都市問題』第6巻第3号)

 その傾向は、今日の石橋湛山研究者たちにも受け継がれているようで、例えば、湛山の地租委譲の主張について論じた以下の二つの論文にも、湛山の1930年代における議論はまるで存在しなかったかのようにぬけ落ちています。
伝田功「石橋湛山の経済政策思想 : 資金交付行政批判を中心として(森俊治教授退官記念論文集)」(『彦根論叢』 第258・259号),滋賀大学経済学会,1989年9月
■姜克実「石橋湛山の地方分権論――小日本主義的思想の一側面――」(『自由思想』 第56巻),石橋湛山記念財団,1990年8月

 しかも、これらの人々と異なり、藤田は猪間のごく近いところにいた人なのです。どれだけ近いところにいたのかは次回以降、明らかにしますが、はじめはちょっとした確認であったはずのものが、意外な事実が浮かび上がってきました。
 ここでは、猪間が1956年9月、『中央評論』第8巻第6号に書いたエッセーから引用するに止めたいと思います。
 調査会での同僚には、財政学者金融学者として活躍している武蔵大学の鈴木武雄君、地方財政の権威になっている藤田武夫君があり、台湾の日月潭水力発電所を建設した早稲田大学講師の後藤曠二君がある。それらのすぐれた人達と平和な空気の中に過ごし得た壮年の日はなつかしい。(わたくしの東京6「日比谷の思い出」)
 これから明らかになる事実というのは、ある意味で、猪間のこの一文さえ裏切るようなものではなかったかと私は思っています。

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2014年09月13日

内海丁三、石橋湛山との日々(追記)

 『大蔵省百年史』別巻を調べたら、櫛田光男の名前が出ていました。それによると、
1946年2月2日、大蔵省に理財局が再置され(1945年5月19日に廃止されていた)、櫛田光男が局長に就任する。
1947年9月21日、理財局が廃止され、櫛田は大蔵省を去っている。

 この間、以下のことが起こっています。
1946年5月22日、第一次吉田内閣が発足し、石橋湛山が大蔵大臣に就任する。
1946年6月1日、大蔵省管理局が新設される。
1946年9月、大蔵省内に在外財産調査会が設置される。「本調査は大蔵省管理局当時に計画着手されたが、その後、組織の改変に伴い、理財局によって完成されたものである」(『日本人の海外活動に関する歴史的調査』総論「例言」)
1946年11月、猪間驥一、新京より引揚げ、調査会のメンバーとなる。
1947年5月17日、湛山、GHQ令により公職追放となる。
 以後、前述のごとく、猪間・内海丁三の湛山との接触が活発となります。

1947年11月9日、湛山が内海と櫛田を引き合わせる。
1947年12月、猪間他、在外財産調査会報告書『日本人の海外活動に関する歴史的調査』脱稿。
1950年7月、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』印刷製本完成。
1951年6月20日、湛山の公職追放解除。

 櫛田は、湛山が公職追放となった後、大蔵省を去り(事情はともかく)、湛山に会っているのですから、大蔵省内で湛山の腹心の部下であったことは間違いないと思います。
 その櫛田と内海をわざわざ鎌倉に呼んで会わせたのはなぜだったのでしょうか。あくまで私の推測ですが、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』草稿の保管に関する申し合わせがあったような気がしてなりません。
 
 ちなみに、1946年6月1日、大蔵省に管理局が新設されて以来の統括責任者「管理課長」(局長ではない)は、伊東武郎(-1947年8月27日)、前野直定(-9月15日,-1949年5月25日,-6月1日)となっています。
 『大蔵省百年史』は上巻・下巻・別巻からなり、1969年10月に刊行されています。青木得三の編纂によるもので(ただし途中で亡くなっている)、青木が大内兵衛とともに編纂した『昭和財政史』(1965年)の後を受けたものですが、ザッと見たところ、戦争の責任を高橋財政に押し付けるようなこともなく、客観的な記述になっているように思われます。
 そのうち読んでみようと思っています。

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2014年09月07日

内海丁三、石橋湛山との日々

 『名峰湛山:石橋書簡のあとさき』(1957年)に収録された内海丁三の「石橋さんという人」を読みました。
 一
 私が石橋さんにお近づきを得たのは、昭和五年の金解禁の前だったか後だったか、とにかく石橋さんら“街の経済学者”が新平価金解禁を提唱してあられた頃からである。私は当時大阪朝日に勤めており、その前から東洋経済新報の愛読者で、一、二度投書などしたり、その投書が全文雑誌に掲載されたりしたこともあった。そうした縁で、石橋さんの帳面の一角に私の名が留められてあったらしく、石橋さんが講演で下阪されて、大阪ホテルでその歓迎晩餐会のようなものが開かれたとき、わざわざ私を呼んで下さった。然もメーンテーブルの石橋さんの隣席に座らせられた。(……)
 食後の歓談のとき、新平価解禁の正しい理屈は正にお説のとおりだが、実際問題としては不可能であって、政府の実行した――あるいは実行せんとしている――行き方以外には途はないと思うという意味を、生意気にも弁じたところ、大いにやっつけられると思いの外、「いや、しかし評論家としてはネ」と、アッサリ笑って答えられたのには、拍子のぬけた感じがした。(……)
 最初の出会いが、1930年頃であったこと、そして、猪間とは別に独自に出会っていることがわかります。
 二
 終戦の翌年、鳩山内閣が今にも生れるというころ、石井光次郎さんの紹介で、私は、組閣第一声の演説原稿のお手伝いに、当時麻布にあった鳩山さんの仮寓へ、二、三日通ったことがある。ある日、大蔵大臣には誰がよかろうかという話が出た。(……)
 石橋さんは戦後初めての選挙に、ちょうど私の住む東京二区(注=当時)で出馬された。私は家内の票や近所の知り合いを説いた票を献じて陰ながら御当選を祈ったが、遺憾ながら当時まだ石橋湛山の名を知る人は少なく、落選された。(……)
 この二つのエピソードのうち、前者は首相就任を目前にしていた鳩山に大蔵大臣として湛山を推薦した話であり、後者は選挙で湛山を応援した話で、いずれも直接会ってはいません。
 三は、いわば内海による石橋湛山論になっているのでここでは省略します。
 四
 昨年暮れ(1956年)、石橋さんが総裁になられたとき、私は十年余りの溜飲が一時に下がった思いをした。そして、超派閥の体制で石橋内閣が生れたとき、政府の前途に対して、名状し難い玲瓏な明るさを認めた。(……)それだけに、退陣されたことは、何としても遺憾に堪えない。今日では一日も早く往年の精悍さを回復されて、再び政界で重きをなされんことを祈るのみである。
 この四より前、二に相当する時期に、実は「語られない日々」がありました。つまりこの頃、猪間驥一は『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の編纂に携わり、湛山は第一次吉田内閣下で大蔵大臣に就任した後、約4年間公職追放になっていたのです。
 『石橋湛山日記』によれば、内海は少なくとも9回、湛山に会っています。

□1946年12月3日、湛山、引揚者代表(猪間と思われる)に会う。猪間、大蔵省内に極秘設置されていた在外財産調査会のメンバーとなる。
□1947年5月17日、湛山、公職追放となる。
□1947年6月13日「午前十時頃出社。午後一時頃より海運局にて講習学生に向って講演、三時頃まで。猪間氏の依頼による」
1947年11月9日「在鎌。午前内海(丁三)氏来談。櫛田、青木均一、諸井貫一の三氏に内海紹介の名刺を与う」
□1947年11月27日「午後一時より自由思想協会第一回会合。議会関係者は本日議会の関係にて出席せず。東洋経済編輯部首脳者、猪間氏等にて懇談、今後の運営方針等協議、三時半頃終了」
□1947年12月1日「午後一時半頃より自由思想協会第一回研究会を開く。集る者、工藤復金副理事長、横田庶金理事長、安積得也、猪間驥一、その他東洋経済編輯幹部等」
□1948年2月13日「十一時頃事務所に赴く。午後二時より常例研究会、猪間氏より米国の労働法につき報告を受く」
□1948年5月11日「午後一時より生方氏肝入の会合を催す。福泉よりウィスキー及びブランデーの寄贈あり、之を饗す。煙山、本山、村松、杉森、猪間、関、徳川、馬場、生方の諸氏参会、頗る賑かなり」
□1948年10月7日から1949年12月末日まで『湛山日記』の空白期間。この間に自由思想協会の活動に圧力がかかり、湛山の事務所が閉鎖される。
1950年1月1日「年賀客 谷一士 猪間驥一 内海丁三氏」
□1950年7月、『歴史的調査』の印刷製本が完成。
□1950年7月15日「午前猪間驥一氏来談」
1950年11月12日「午後四時より内海丁三、猪間驥一、延島英一、大原万平の四氏を招きて夕食且つ歓談。延島という人は甚だ説に富む人なり」
1951年1月1日「終日在宅。午後谷一士、石澤誠一兄弟、島村一郎及仝秘書、内海時事新報編輯局長、泉山三六及仝秘書等来駕、年酒を供す」
1951年1月29日「午後四時より経倶にて内海、猪間、延島及び大原氏と会食」
1951年3月4日「午後二時内海編輯局長約に依りて来談。別段の話もなけれど雑談して四時ごろに至る」
□1951年3月31日「午後三時経済倶楽部に赴き猪間驥一、渡辺滋氏等と会談」
□1951年5月6日「来客多し。三島市の鈴木栄、猪間驥一氏、石田博英氏等」
□1951年6月20日、湛山の公職追放解除。
□1951年9月4−8日、サンフランシスコ講和会議。
□1951年10月26日「午後三時より猪間氏の依頼により中央大学にて講演一時間余」
1952年1月1日「帰宅すれば島村一郎、浅川栄次郎、片桐良雄の諸氏来賀、酒を出す。宮川氏一家、猪間氏等も亦来。夕刻内海丁三氏、泉山三六氏来、いずれも酒を出す」
1952年3月29日「十時時事新報内海氏外記者一名、対談、不況打開策につき語る」
□1952年4月28日、サンフランシスコ条約発効。GHQが廃止される。
1954年1月1日「午後来客多数五時すぎまで。島村代議士夫妻、片桐元秘書官、坂本警備犬協会理事、河村医博等、賀陽之宮様、内海丁三、猪間驥一(……)」

 この時期は、内海が猪間の亡くなったときに書いた追悼文「猪間驥一という人」の、以下の部分とも重なっています。
 終戦後引揚げてから、君は中央大学で講壇に立ち(1948年〜)、私もちょうど同じ駿河台に新聞研究を志した事務所を設けた。君はよく遊びに来て談論した。猪間君ともう一人N(延島英一)君というやはり話好きの友人がよく訪ねてきて、保守反動の徒が三人集まり、自ら戯れに「駿台学派」と称した。話題は万般の時事問題、中でも当時の社会主義流行の風潮について語った。
 湛山の事務所も実はこの駿河台にありました。
 以前より、内海ら「駿台学派」のメンバーが、公職追放期の湛山の影の協力者であったのではないかと推察していましたが、ここにきて『湛山日記』の「櫛田(光男か)、青木均一、諸井貫一の三氏に内海紹介の名刺を与う」という箇所が気になり始めました。青木、諸井は実業家ですが、櫛田は大蔵省理財局長だったからです。『大蔵省百年史』(1969年)というものが出されているようで、少し調べてみたいと思います。

◎内海丁三の湛山関連評論:
1954年5月8日、「気にかかる『異端者的』」(『東洋経済新報』「石橋氏の経済再建私案批判」特集)
1957年2月、「石橋内閣に望む――国民に夢を抱かせよ 」(『東京だより』)
1957年2月、「石橋内閣の外交的課題 」(『政治経済』)

石橋湛山(1884.9.25‐1973.4.25)
内海丁三(1897.4.3‐1973.3.5)
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2014年09月05日

石橋湛山と自由通商協会

 石橋湛山と自由通商協会の関係を確認するために『上田貞次郎日記』を参照して驚いたのは、1936年2月26日の二・二六事件の翌日、二人が同じ場所にいて、この事件についての議論の輪に加わっていたことです。

1928年1月14日、湛山、工業倶楽部における東京自由通商協会の会合に出席する。
◎『上田日記』1928年:「一月中の事 十四日に自由通商協会発足式をやった後風邪で引籠り、(……)」
1928年1月28日、湛山、『東洋経済新報』に「いかにして自主独立の精神を作興するか――自由通商協会の設立について――」を発表。1838年、コブデン、ブライト両闘士を首領としてマンチェスターに繰り広げられた穀物条例反対同盟の運動を紹介し、自由通商協会を「いわば1928年極東の島帝国に現れた穀物条例反対同盟だ。志立氏は或はコブデンで、上田氏は或はブライトであろう」と評価する。
1929年10月19日、湛山、『東洋経済新報』「時評」に以下の記述。
【自由通商協会の決議】上田貞次郎氏の草案であると言う自由通商協会日本連盟の決議案にこういうのがある。「……金解禁の一時的対策として関税引上を行うことは右の大方針(自由通商の……筆者註)と矛盾するのみならず、一旦引上げられたる関税を減廃するは極めて困難なるを以って断然最初よりこの案を取らざるにしかず」。同感であるがこの反対建議理由には最も重要な問題が無視されていはせぬか。なぜかと言うに、関税引上と平価金解禁とが直接矛盾すると言う点に言及しておらぬからである。されば、「一旦引上げられたる云々」の代りに矛盾の他の理由として、「金解禁そのもののためにも最初より引上げてはならぬ」と言う意味の句に改めて欲しかった。

その後の自由通商協会の活動状態…。
◎『上田日記』1929年:「自由通商協会 同会は、大阪は相当振ておるが、東京は志立氏と自分の他に熱心な人がいないので、一向に盛にならぬ。(……)」
◎『上田日記』1931年:「自由通商協会 この会は存立しているけれども一向に振わない。志立氏と余はやるつもりでも他の発起人は非常に冷淡である。時々研究会などやっても会員外の人ばかり来る。併し、大阪の協会は、平生釟三郎、村田省蔵、田口八郎、岸本彦兵衛等が熱心にやっているばかりでなく、共鳴者が少くない」
◎『上田日記』1933年:「五月中 五月三日大阪へ行き(……)大阪自由通商協会の理事諸氏にも会談した。この時自由通商協会連盟の本部を大阪へ移しては如何との説あり、余は同意した。この会合が動機となって、本部移転は十一月に実行されたのである」
◎『上田日記』1933年:「六月中 東京自由通商協会の財政は、協会連盟の財政と一所になっていたが、連盟を大阪に移すことになれば、その財政を立直さねばならないので、井上貞蔵氏が寄付金(年額百円)の勧誘に巡った処、今の事務所を維持するだけのことは出来るような見込がついた。その上、三井の安川雄之助氏から、海外に向って自由通商を宣伝するなら、その費用を貿易奨励会から出させるとの申出あり。相談の結果九月以後 Liberty of Trading Bulletin を毎年四、五回出すことになった。No.1 は Japanese Population & World Trade だ」
◎『上田日記』1934年:「自由通商協会 英文パンフレット第2号発行。日豪貿易論」
◎『上田日記』1935年:「(一月)十四日 自由通商協会理事幹事会」
◎『上田日記』1935年:「二月一日 東京自由通商協会総会」
◎『上田日記』1935年:「(三月)二十三日 午後三時、大阪自由通商協会総会」

1936年2月3日、湛山、自由通商協会総会に出席。
◎『上田日記』1936年:「二月二十七日 正午、自由通商協会で遣暹(シャム)使節、安川雄之助氏の送別午餐会をやる予定があったから行った。市ヶ谷から日比谷行バスへ乗ったが、新議事堂前に多数自動車が輻輳し、兵卒の姿も見えた。叛軍か、官軍かは判らなかった。兎に角バスは平生の通りに運行した。しかし協会には安川氏は大阪へ行ったなり帰らぬ、というので欠席。志立氏、簗田氏(中外商業新聞社の簗田久[金+久]次郎か)、石橋氏、田口氏等が居て議論まちまちであったが、こうなれば仕方ない故、市街戦でもやって叛徒を平らげる他なし、もし軍隊が皆シンパであるため動かないなら、軍政府を立てるまでだという強硬論が多かった」
<『上田日記』1937年:「経済倶楽部 経済倶楽部は、東洋経済新報を中心とする社交クラブで、創立は数年前になる。余は最初からの会員だが、クラブには時々顔を出す位。常務は元東洋経済主幹、三浦鉄太郎氏が執っている」>
1938年1月28日、湛山、銀行倶楽部における自由通商協会の会合に出席。
◎『上田日記』1938年:「自由通商協会 会の事業は縮小せられ事務も至って少き故、銀座の事務所を閉じ、岸本商店に看板を移すこととした。書記上鶴氏は岸本にて採用す。移転に付ては志立、村田両氏と会談の際、志立氏の宅へ移しては如何と提議したが、志立氏承諾せぬ故、上記の通り田口氏に交渉して承諾を得た。この移転の結果、会は志立氏よりも多く平生氏に近づくことになるかも知れないが、それは悪いことではない。志立氏はあまりに理論的で時勢に対応する智慧が出ない」
◎『上田日記』1939年:「(一月)十六日 同日、自由通商協会の役員会をA.Iに開く。同会は事務所と事務員を岸本商店に托するようになってから、第一回の役員会であった。自由通商は最早実際政策ではなくなったので、役員会も雑談会に外ならぬ」

1940年1月20日、湛山、国際関係研究会の会合に出席、清沢洌、蝋山政道、上田貞次郎らと、新研究題目 International Organization について協議する。
◎『上田日記』1940年:「(一月)二十日 夜、国際関係研究会、東洋経済新報社にて開く。石橋湛山、蝋山政道氏が中心。芦田均、植原悦二郎、笠間(笠間杲雄か)、清沢洌、鮎沢巌、等集まる」
1940年4月29日より、湛山、朝鮮満州視察の旅へ。5月3日、朝鮮経済倶楽部設置。8日、新京着。6月14日、帰京。
◎1940年5月8日、上田貞次郎死去。

追記
・最後の部分は自由通商協会関連のものではありませんが、湛山と上田が1940年初めにも同じ場所にいたことを示すために引用しました。
・猪間と湛山の出会いが1924年末、湛山と上田の出会いが1928年初め(自由通商協会発足式)、猪間と上田の出会いが1932年秋、したがって湛山と上田の関係は、猪間の介在以前に生れていることになります。
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2014年09月02日

上田も農村工業協会に参加!

 本日、調べものをするために一橋大学の図書館へ行ったのですが、復刻版の『一橋新聞』を読んでいて面白い記事を見つけました。
救済策を掲げ
農村工業協会生る
上田(貞)教授も参加
 農村問題が熾辣をきわめこの匡救策が刻下の急務をなしているためこの度従来迄農村救済策としてその工業化を提唱していた理研所長大河内正敏博士を中心に、本学より上田(貞)教授が参加し、工人倶楽部、農林省の援助のもとに去る二日午後五時から学士会館で農村工業協会創立の大会を開催、定款、役員を決定並びに会長に大河内氏を推薦(。)農林省小平更生局長、全購連千石与太郎氏の祝辞挨拶等あり、救済策としての工業化の大綱につき意見が交換され、九時半閉会、同会の意義につき上田(貞)教授は左の如く語る。
 大河内君の提唱する点は科学の進歩によって精密工業の都会集中と熟練工によってのみ行い得た段階は既に過ぎて、農村の不熟練工によっても行い得るから、農村に工業を分散して余剰労力を利用し、これによって農村を救済しようとする案であるが、所謂一升の枡の例えで、これに最初豆を一升入れその隙に米、米と米の間に稗を入れると一升枡に一升五合入れ得る如くこれが農村産業の理想で、定期不定期に余暇の多い農村には副業は絶対必要だ、従ってこの余剰の労力を利用し得るなら商品がもっと理想的な状態に生産し得る、然しこのため唯賃銀低下によって生活状態が現在よりも低下される場合もあり得るからこれに対する対策も必要だ、それは兎も角、この協会の事業はこれから進展するもので、具体的対策は今後の問題である。
 湛山が推奨した農村工業計画に実は上田貞次郎も共鳴し農村工業協会の会員になっていたということです。
 湛山と上田の近さを示す資料になりそう、というより、これは大河内正敏を含め、東洋経済新報社が主催する座談会に参加しているような人々の大半の近さということになるのではないでしょうか。
 大河内はこの計画をアウタルキーを前提に立案し、上田はアウタルキーはダメだといっているので、このあたりのことをどう書いたらいいのかわからず舌足らずないい方をしてしまっていたと思いますが、けっきょく両者とも、湛山や猪間と同じく、農村工業化は農村工業化で必要であり、外国との貿易は貿易で必要だと思っていたということですね。
 うっかりしてこの記事が1934年のものであることは確認できるのですが(復刻版第3巻98頁)、日付を書き取ってくるのを忘れてしまいました。確認できしだいここに記入したいと思います。

【追記】ネットで読める『上田貞次郎日記』の1934年のところに次のような記述がありました。
農村工業化問題の会(技術家中心の会創立)。一月二十日

農村工業協会
大河内正敏子爵等技術家の一群が農村工業化を主唱し、一の財団法人を組織することになったので、理事に加わることを依頼され承諾。五月二日学士会にて会合あり。

十月中の事
農村工業協会理事会。

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