2014年07月26日

いくつかの新しい情報2

 ここで、1939年9月30日、『東洋経済新報』誌上に掲載された無署名論文「朝鮮経済の新動向=前進基地的性格と工業化運動=」と社告「京城支局開設記念時局問題大講演会」を見ておきたいと思います。これは社告のタイトルで明らかなように、1939年7月1日の、東洋経済新報社京城支局開設にともなう企画です。
 無署名論文ですが、その文面を見ると、執筆者が鈴木武雄であることは明らかです。以下、目次のみ記しておきます。
朝鮮経済の新動向=前進基地的性格と工業化運動=
目次
はしがき=「農工併進」の展開=
「米の朝鮮」から「工業朝鮮」へ
工業化運動の進展
 工業化運動の奏功
 工業化の行政的促進
資源地の豊富と特異性
工業化の基礎要件・鉱業の発展
内地資本への依存性
対外貿易の活況と戦時再編成
米作農業の方向再転換
 最終ページの下半分に、社告「京城支局開設記念時局問題大講演会」が掲載され、そのおとなりには、朝鮮銀行の写真入りの全面広告が掲載されています。社告の内容は以下の通り。
=社告=京城支局開設記念時局問題大講演会
 弊社は大陸進出の第一歩として、去る7月1日京城に支局を設置し、既に事務を開始しつつあるが、今回諸般の準備が出来上ったので、愈々本格的活動に入ることとなった。その門出に当り、支局開設記念披露会を来る10月4日京城に開き、翌5日には次のプログラムを以て時局問題の大講演会を開催する。今後一層の御支援を乞う次第である。
日時 10月5日午後6時半
場所 京城府府民館 【会場整理費 金十銭】
講師・演題
欧州動乱と今後の世界情勢 
 前特命全権大使 木村鋭市
経済界の前途=内外時局の影響と戦後の見透し=
 本社主幹 石橋湛山
主催 東洋経済新報社 京城支局
 これをふまえると、拙稿「経済学者、鈴木武雄の大陸前進兵站基地構想と戦時下、東洋経済新報社京城支局による『大陸東洋経済』の創刊」の東洋経済新報社の日中戦争後の動きには、以下のような加筆修正が必要となります。
1938年9月28日-10月4日、石橋湛山、朝鮮を旅行する。
1939年5月、高橋亀吉、『東亜経済ブロック論』を著わす。
1939年6月(『東洋経済新報』では7月1日)、小倉政太郎が東洋経済新報社京城支局を開設。
1939年9月30日、『東洋経済新報』誌上に、無署名論文「朝鮮経済の新動向=前進基地的性格と工業化運動=」と社告「京城支局開設記念時局問題大講演会」の掲載。
1939年10月5日、京城支局開設記念時局問題大講演会(このとき湛山が講演のため京城を訪れていれば、湛山と鈴木の初めての接触はこのときだった可能性が強まる)。

1940年11月、小倉政太郎、京城支局より『大陸会社要覧』を発刊。
1940年2月、鈴木武雄、『朝鮮金融論十講』を著わす。
1940年4月29日-6月14日、石橋湛山、朝鮮・満州を旅行する。これは、京城経済倶楽部の設立にともなうもので、湛山が幹事に就任する。ここで湛山と鈴木が初めて接触する

 今さらですが、拙稿「経済学者、鈴木武雄の大陸前進兵站基地構想と戦時下、東洋経済新報社京城支局による『大陸東洋経済』の創刊」を読んでくださる方があったら、お知らせください。

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いくつかの新しい情報1

 先日、久しぶりに一橋大学の図書館へ行きました。私が現在、少しずつ読んでいる復刻版の『東洋経済新報』には、1938年分までしか収録されていないことがわかったからです。
 今回ざっと見たのは、今まで見落としがありそうな年まで含めて、1935年・1936年・1937年・1938年・1939年・1940年(1-3月)の分ですが、ただコピーを取ったのは、1939年以降のものだけ。合本のぐあいで、センターラインの1,2行がどうしても写らないのですね。このあたりは復刻版をコピーするほかないようです。
 いくつかこの段階でわかったことを書いておきます。

 1935年1月12日(掲載は19日)より、湛山の発案によって、金解禁論争の四人組、小汀利得(中外商業編集局長)・高橋亀吉(高橋経済研究所)・山崎靖純(読売新聞経済部長)・石橋湛山(東洋経済新報主幹)らを中心に、毎週一度、昼食をともにしながら語り合う「今週の経済界」がスタートしています。湛山は都合がつかずに(体調不良)で出席できないことがたびたびありましたが、12月14日までこれが続いています。
 ここには非常に興味深い内容のものがあって(猪間驥一が参加した回については、「猪間驥一と地方財政問題4」「猪間驥一と地方財政問題5」に収録している)、それについてはこれから少しずつ読んでいくつもりですが、一つだけ、忘れてしまいそうなので書いておきたいのが、亀吉のこと。この最初の座談会の後、朝鮮へ旅立って、まる一ヵ月の旅から帰国した後、4月21日に『現代朝鮮経済論』を上梓するのですが、その直前までの座談会で、東亜経済ブロックを主張するようすがまったくないのです。この2ヵ月足らずの間ですが、亀吉が何を考えていたのか気になります。
 1935年には、政界・軍部の要人、高橋是清大蔵大臣、町田忠治商工大臣、荒木貞夫陸軍大将、若儀槻礼次郎元首相、山崎達之輔農林大臣へのインタビューを実現させていることはすでに述べています。経済倶楽部の講演会も多く開かれ、講演者の大半が外交等に関わる人々で、それが1ページ分の要約にして掲載されています。
 1935年末に発行された1936年新年特大号には、上田貞次郎が「人口問題と貿易政策」という論文を寄せています。このように1935年という年は、湛山が最も精力的に活動し、上記のような企画が次々にわいてきた年ということができると思います。

 1936年は、二・二六事件をはさんで、厳しい状況が反映された誌面づくりとなっていますが、それでも、ヨセミテ太平洋会議を意識して書かれた(と私が信じている)湛山の数編の論文(その最たるものが「世界開放主義を掲げて」関連のものですが)、その後、つまり9月末以降、地方税制改革問題にも本格的に取り組んでいることがわかります(10月10日号には、「税制改革案の内容検討」の特集が組まれ、ここに猪間驥一の論文も発表されている)。
 ところが1937年に入ると、座談会等の企画も減り、全体に閉塞感のようなものがあって、読むのがつらくなります。上田貞次郎グループが、日中戦争の直前に『日本人口政策』をまとめ、猪間の「人口の都市移住計画」(仮称)をまさに発表しようとしていたのに対して(あるいはその後の国立人口問題研究所設立に向けての動き)、これはという目標を見失っていたように見えなくもないのです。

 それが、こうした流れの中で、1939年分の誌面をたどりながら、「朝鮮経済の新動向=前進基地的性格と工業化運動=」という13ページにわたる論文を発見し、そこに大陸前進兵站基地構想が展開されているのを知って、驚いたのはもちろんですが、一種の活路を見出したような思いもありました。
 これを湛山らの時局協力と見ることはもちろん可能ですが、私はどうしてもこの計画に、制限された状況の中で、植民地の経済的自立を図る工業化プログラムを実現させようという強い意気込みを感じずにはいられないのです。

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2014年07月19日

「猪間、しっかりしろよ!」

 最近、ウーラント同窓会の方にお目にかかって、かつて猪間驥一が「渡し場にて」という「詩(うた)」さがしの過程で広げていった交流の輪についてご教示いただきました。この会の興味深い活動については以下のサイトをごらんください。
http://homepage2.nifty.com/anjintei/
http://homepage2.nifty.com/murasakitei/

 同会の方が探されていた猪間の『折り鶴の旅』が置かれている図書館を調べているうちに、国会図書館でも欠番になっていた「わたくしの東京16」というエッセーが中央大学図書館に保存されていたことがわかりました(『中央評論』第12巻第5号,1960年)。
 せっかくですので、その中身を少しご紹介したいと思います。カッコの中は私のコメントです。
 今回は本郷でえた「友」のことを語ろう。
 よい学校と「友」(略)
 「友」の種類(略)
 腑に落ちぬアドヴァイス第一(略)
 腑に落ちぬアドヴァイス第二(略)
 友を持つよろこび(略)

 旧友との集まり
 わたくしの友だちの間でも、法科政治科経済科方面へ行った者は、職業的にも近いだけに接触が深い。それでも学校を出てから約三十年というものは、部分的には時々集まるようなこともしたが、みんな忙しかったし、ことにその後半は、戦争と戦後の嵐に吹きまくられて、全員で集まろうなどと考える余裕もなかった。ようやく今から約十年前、本郷の寄宿寮を出てから、三十年目に、一度集まろうではないか、ということになって、集会を持ち、爾来毎年数回会合を重ねている。
 出てくる者には、台閣に列し(政務次官になった平山孝か)、大会社の経営者となり(川崎汽船社長の川崎芳熊。KDDの社長になった浜口雄彦もここに入るのかもしれない)、功なり名遂げた者もあれば、わたくしと同じような者もある。大体戦前派の保守的な思想の持ち主だが、極左の驍将として本学へしばしばアジリに来るようなのもある(これは平野義太郎だろう)。経歴も境遇もさまざまだ。たどり来し道のけわしさに、ひたいのしわの深いのもあれば、六十路を過ぎて緑髪なおつややかなのもいる。(……)主な話題はその時その時の新聞種、国連総会の形勢から、安保反対学生デモ、交通事故の頻発から大洋ホエールズの優勝にまで至る、あらゆる問題に対する各人の立場々々からの論評だ。同級の大仏次郎の近作、ベストセラーの品評も出る。ソ連へ行ってきて数年前行った時にくらべると、女の着物が美しくなった、官庁用自動車がへって今年はタクシーがふえていたことを報告する者もあれば(1955年に『対ソ外交の二元性』、1956年に『対ソ復交急ぐべきか』を著わしている内海丁三ではないか)、ブラジルから帰って、入植した日本人が胡椒の世界的景気で大発展していることを伝える者もある(1955年、浜口雄彦は平山孝とともに(財)国際観光協会を設立している。彼らか、もしくは川崎汽船の川崎芳熊ということもありうる)。そして話の落ちつく所は、四十何年か前の寮生活の間の、お互いの失敗。当人はもう忘れている様な事のスッパ抜き合い。何の遠慮もなく、何の利害関係もなく、ただワヤワヤと話し合って、二時間ばかりで、すっかりいい気持になって、また会うことを期して散ってゆく。

 会をつづける心得(略)

 亡き友
 こうしてわたくしは青年時代にえた友を、今日なお百名の余もっており、いつでも会えることを喜んでいるが、しかし悲しいことには、もう会えない友も多くなった。旧室の友、クラスの友、どういうものかわたくしには最も親しかった友から、順々に死んで行った。早くに世を去った友(これが歌人の野上久幸)、戦争で失なった友(おそらく被爆し白血病で亡くなった物理学者の三村剛昴)、思いがけず最近に訃報に接した友(これが加瀬俊一ですね)。
 しかし「真の友」というものは、「死」もその仲を隔てるものではないことを、諸君に知っていただきたい。わたくしは、そうして失った幾人かの友の未亡人と懇親である。それらの婦人は、わたくしに、亡き友を介してまた友となっている。折々たずねて、ありし日を語る時、彼についてわたくしの知らざりし反面を知ることがあり、彼に対する尊敬を新たにして、わたくしは亡き友との交遊がなお続くのを覚えるのだ。
 早くにみまかった、わたくしに最も親しかった友が、詠んだ歌がある――
 ひと杯(つき)の酒あたためて奥山に
  汝(なれ)と語りし夜半を忘れず
 その友が、わたくしの友でもある亡友を偲んで詠んだ歌である。――この思いをわたくしは、新だどの友に対しても持つ。奥山に旅して語ったことばかりではない。ォの寝室で、教室の隅で、校庭の木陰で、本郷の通り、不忍の池畔で、対校野球応援のスタンドで、サークルの席上で、ふとして友の口から聞いた片言隻語が、今も折に」ふれ、時に応じて、わたくしの耳底によみがえってくる。そして、
 「猪間、シッカリしろよ!」
といってくれるようだ。それに勇気づけられなぐさめられることが、実際に少なくない。そう感じる時、わたくしには、死したる友も、なお生きていつも語り合えることを、実感するのである。

 ウーラントの詩
 亡友との交情を語る有名な詩に、ウーラントの「渡し場にて」がある。わたくしがこの原詩を永い間求めて、ようやく探しあてた経緯については拙著「人生の渡し場」に書いておいたが、この小文に書いたことは結局この詩のもつ思想であるから、わずかの余白のあるを幸い、その訳詩だけを掲げておこう。
一、 いく年まえか この川を
  一度わたった ことがある
  いまも堰には 水よどみ
  入り日に城は 影をひく
二、 この小舟には あの時は
  わたしと二人 つれがいた
  お父さんにも 似た友と
  のぞみに燃えた 若いのと
三、 一人は静かに はたらいて
  人に知られず 世を去った
  もう一人のは いさましく
  いくさの庭に 散華した
四、 しあわせだった そのむかし
  偲べば死の手に うばわれた
  だいじな友の 亡いあとの
  さびしい思いが 胸にしむ
五、 だが友だちを 結ぶのは
  たましい同士の ふれあいだ
  あの時むすんだ たましいの
  きずながなんで 解けようぞ
七、 渡し賃だよ 船頭さん
  三人分を とっとくれ
  わたしと一緒に ふたありの
  みたまも川を 超えたのだ

 猪間の生涯を支えてきたものは、この友人たち、その「猪間、しっかりしろよ!」という声だったのですね。
 猪間のことを調べていて、内海丁三が戦後、石橋湛山のことをいろいろ書いていることがわかりました。そのうち読んでみようと思っています。
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2014年07月18日

寄り道:高橋財政期の湛山3

 「2.座談会」に入ろうとして、その合間に1934年の『東洋経済新報』を読んでいて、「まさか!」の発見をしました。うれしい発見です。
 まず、1934年2月10日号に、次のような告知がなされていて「おや?」と思いました。
 第二回経済問題論文募集
 第一回の懸賞論文募集は来る2月末を以て締切りますが、続いて第二回目を募集致します。論題は次の通りでありますが、其他の詳細なる応募規定は第一回同様で、締切りは3月末であります。奮って御応募下さい。
一、 我国人口過剰問題の対策
 論題の趣旨にそうものであればそれが全面的対策であろうと、個別的対策であろうと差支えありません。尚お来る24日号の本誌に発表される上田貞次郎博士の「我国人口の現状及将来」は論題の基礎的知識を得るに良き参考となると思いますから、御一読願います。
二、 応募者の選択する自由問題
 そこで、予告された1934年2月24日号の『東洋経済新報』を当ってみると、何とそこに、上田貞次郎の29ページにわたる長論文が異例の掲載をみていたのです(「猪間驥一氏」の1926年の論文「出産統計の虚偽と死産統計」と、上田編『日本人口問題研究』に収録された「東京市人口増加の性質に就いて」からの引用が何ヵ所かにあります)。
 その要旨・内容についてお伝えするのは不可能ですので、目次だけでも拾っておきます。
我国人口の現状及将来
主要内容
1. 人口問題の重要性
2. 外国人の観測
3. 太平洋会議と日本人口問題
4. 将来人口の推算
5. 人口統計の資料
6. 私の推算
7. 出産率と幼児死亡率
8. 人口の年齢構成
9. 人口の地方別移動
10. 都市人口の年齢構成
11. 人工都市集中の経済的意義
12. 移民と貿易
13. 食糧問題
14. 就業人口と失業人口
15. 外国貿易の展望と人口対策
 ここにも「経済問題論文募集」の告知があって、やはり同様に上田貞次郎の発表した論文を参照するよう要請しています。
 こうして見ると、私が『猪間驥一評伝』の中で書いた「石橋湛山と上田貞次郎の接近」などわざわざもち出すこともなかったと思えてきます。
 それにしても、日本の歴史学者たちの、この両者の切り離しというのは何だったのでしょう。どちらも自由主義経済学者といわれている人物であるのに、石橋湛山研究に上田が登場することはなく、上田貞次郎研究に湛山が登場することがないというのは。

 なお、1934年3月10日号の『東洋経済新報』に、有沢広巳が「経済時評」として「農村は果して弾力性を恢復するか」と題する短文を書いています。その冒頭部分――
 本誌前々号に発表された上田貞次郎博士の論文「我国人口の現状及将来」は近来の大論策」であって、我々後進を刺戟し啓発するところ頗る多かったのであるが、就中、私は博士が人口都市集中の経済的意義を論ぜられている個所において多大の感興を覚えた。博士の研究によれば、農村は実数においても比率においても特に大なる出生数を有し、その出生時を養育し、教育し、少くとも小学校教育を施したる上にて都会へ送る。それがために比較的大なる児童人口を比較的小なる農村父兄が養わなければならない。この都市へ出て働く人口を養育し教育するための費用を農村に居る者が支払わなければならぬということは農村人口にとって重い負担である。農村疲弊の一原因は茲にあるというのである。
 最後の一文の原因・結果は逆だろうと思いますが、ここまではいいとして、問題はその後。
 内容をかいつまんでいうと、「第一次大戦前の日本の農村は弾力性を持っていたが、戦後、工業の発展に利用されてこれを失った、その弾力性を恢復すべしという要求が、教育費国庫負担の増額とか、地租委譲、農村金融の改善、さらには米穀統制法などの形をとって現れたが、これらは農村問題を部分的、一面的にとらえるものでしかなかった、問題の解決は機構的方策、農村に弾力性を取り戻す方向における対策でなければないが、果してそれは可能であろうか」ということになると思われるのですが、上田の研究とどう重なるのかわからず、私にはおよそ中身のありそうな議論には思えません。
 有沢は、湛山にも「インフレーション政策の影響に就て此の頃我学者の一部に甚だ妙な議論が唱えられている」例として上げられていたこと(「インフレと勤労階級」)が思い出されます。

 ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約を議論している座談会は、一つしか見つけることができませんでした。ちょっと意外です。
1934年11月2日「門戸開放問題座談会―日満経済ブロックとの関係―」
出席者:米田實(法学博士)、室伏高信(評論家)、上田貞次郎、山崎靖純、赤松克麿、清沢洌、三浦鉄太郎、森田久(時事新報前編集局長)、杉森孝次郎(早大教授)他。(→11月17日号)
 この座談会には、湛山は都合が悪くなって出席していないのですが、出席者のうち、自由貿易を支持し、軍縮条約に価値を見出していたのは、上田くらいしかいなかった(強いていえば、他に清沢洌が上げられるでしょうか)という事実には愕然とさせられます。

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寄り道:高橋財政期の湛山2

 当初、『石橋湛山全集』第9巻、第3部「不況克服期の財政・経済政策」第1節「高橋財政に対する批判と提言」に含まれる13編の論文を一編ずつ読んでいくということを考えたのですが、たいへんな作業になると判断したのと、大原万平(1906-1989)によるとされる「解説」が、何回か読むうちに、よくまとまっているものであることがわかってきたので、それを使わせてもらおうと思ったのです。ただ、何ヵ所か誤解されかねない記述があるので、そこにコメントをつけました。
 この時期における石橋の論策は、これを一言にしていうならば、「高橋財政」にたいする批判と提言である。(……)昭和6年以来、正味3年9ヵ月の長きにわたり、いわゆる「高橋財政」を展開し、恐慌からの脱出にかなりの成功を示したのである。その特徴は、井上準之助蔵相の金解禁政策を放棄するとともに、緊縮財政・非募債政策をやめて日銀引受による公債発行を基本とする時局匡救対策を行ったことにある。
 高橋蔵相は、軍部の要求する国防の充実と農村救済とを重点として財政を運営したが、とくに農村対策としては、「時局匡救事業費」を計上、農村地帯での土木工事を通じて雇用の増大をはかった。(……)この方式は、公債発行を容易ならしめるとおもに金利水準を低下させ、輸出の増進(対米為替の低落によって日本の国内物価は割安を訂正して上昇、対外物価は割高を訂正して低落)に役立ち、わが国の景気を著しく好転させた。
 しかし、世論は必ずしも、このような考え方を理論的に理解し、全面的に同調したわけではない。昭和八年度予算案にたいし、(1)財政規模の膨張、(2)公債・借入金依存、(3)軍事費の膨張、などをあげて批判するものがあり、大多数は「時局の現状」からしてやむをえないという消極的賛成論者であった。石橋は、赤字財政の積極的意義をこれに対置しつつ、軍事費の膨張は理想からいえばむろん好ましいものではないが、理論的にみて失業・操短の著しい今日の非常事態においては、経済的意義をもっていると反論している(「昭和八年度予算の経済的意味」)。
 湛山が、どのように説明しているかというと、「1.昭和8年一般会計予算を見るに、歳出は約23億1,000万円に上るに対して約13億5,000万円に過ぎぬ。したがって其歳入不足額は公債借入及前年度剰余金合計9億6,000万円を以て補填するの余儀なきに至った。常軌を以て律すれば、もとより非常に不健全な財政と云わねばならぬ。」、「2.併しながら我国の現在の実情より考えれば、此財政を俄に常軌に従って批判し、歳出を普通歳入金額の限度に削減するが如きは、第一に不可能であり、第二には又決して望ましき事ではない。(……)取りも直おさずデフレーション政策に転向することであり、国民経済上絶対に避けねばならぬ不利益な処置であるからだ。」
 高橋蔵相に会見して陳述した内容をまとめたという「財政整理私案」は、もっともよく昭和八年ごろの石橋の財政観をあらわしている。石橋は、そこで、赤字財政が常態を越えて悪性インフレに転嫁する時期を昭和10-11年と見通し(実際に、石橋が増税論を主張しだしたのは11年からである)、それまでは、積極政策をつづけるべきだと述べている。さらに、財政難を補うため、(1)公債利子の引下げ、(2)小学校義務教育費国庫負担その他の地方交付金の削減(石橋はかわって地方税制強化を提案)、(3)満州事変費の削減、(4)軍備費の削減等をすすめつつ、赤字公債発行による財源をもって「公益事業院」を設け、港湾、水路、鉄道、道路、上下水道、住宅、其の外の社会投資を行うよう提案している。
 ここで確認しておかなければならないのは、「さらに、財政難を補うため」以下に述べられた4項目の提言(テキストでは、(1)公債利子の引下、(2)小学校教員俸給負担金はじめ、地方事業他に対する補助及び奨励金類の大削減、(3)大学及学校図書館費の削減、(4)満州事件費の削減、(5)陸海軍兵備改善費の削減、の5項目になっている)が、1933年の時点で高橋蔵相に対して行われたものであり(つまり後述の1935年5月末の高橋蔵相談話の発表より前のことだということ)、しかもポイントは(1)(2)(3)にあった(これにかわるものとして地租委譲という主張があった)ということです。
 この高橋蔵相の談話が、「健全緊縮財政乃至デフレーション政策への転向」とされていることから、「軍備費の削減等をすすめつつ」というような記述が誤解を招かないように書いておきました。
 公債発行高は、昭和6年度47億1,500万円(内国際)から、昭和10年度初めになると、85億2.200万円に達し、高橋蔵相は、悪性インフレーションへの危険を意識しはじめ、五月ごろ、次年度の予算について「赤字公債の発行を濫りにしてはならぬ」との発言を行ない、軍部と財界に恐怖感をいだかせ、物議をかもした。
 石橋は「財政膨張の上限と収縮の下限」という注目すべき論文においてこれをとりあげ、「資本主義を廃止さえすれば、或いは統制経済にしさえすれ幾らでも財政は膨張せしめ、軍備拡張も自由であるかの如く云う者」をいましめながらも、「最近の無計画なる財政緊縮、公債発行制限論に対して、寧ろ無計画なる財政膨張、公債増発論に対するより以上に、今日の場合大局を誤まる危険を多く感ずる」と述べ、高橋蔵相の真意は、不生産的な軍事費のみの増大に警告を発しているのであって、財政膨張そのものに反対しているのではないと呼びかけている。
 ここで確認すべきことは、1935年になって軍事費の削減をもち出したのは高橋是清であり、湛山はこれを批判したのであって、この時期に大幅な削減などありえないと主張したのです。湛山は、高橋蔵相の真意をはかりかねていたようです。
 しかし、前述の高橋談話に対し、陸軍が憤懣を爆発させ、激越な調子で反駁声明を出したため、昭和11年度予算編成をめぐって蔵相と軍部大臣との間で激しい争いが演じられたことが明らかとなった。高橋蔵相の公債漸減=健全財政主義への転換方針と、「非常時」をふりかざして軍備費(とくに製艦費)の無制限膨張を要求する軍部とが真正面から対立したのである。石橋は、高橋蔵相の考え方を支持する立場に立ちながらも、このたびの11年度の予算案決定は一つのしっかりした指導原理にしたがって編成されたものではなく、財政にもっとはっきりした指導を打ち出すべきだと蔵相に要望している。高橋蔵相は、この予算編成において軍部とたたかったため、翌年、二・二六事件で倒された。この時期の石橋の議論からも、その危険を予感することができるであろう。
 「石橋は、高橋蔵相の考え方を支持する立場に立ちながらも」というのも誤解を呼ぶところですが、「高橋蔵相の公債漸減=健全財政主義への転換方針」を、湛山が支持していなかったことは、ここで確認しておく必要があると思います。
 湛山は「高橋蔵相の公債政策 自ら排撃せる公債無限発行論に堕す」において、「今日真に攻究せねばならぬのは、公債を止め度なしに出して財政を膨張させることが善いか悪いかなどと云う抽象論ではない。そんな事は、いつの世に於て議論の余地なく悪いにきまっている。問題は然うでなくして、具体的に昭和11年度には、幾何の公債を出し得るか、出すを適当とするかと云うことだ」と指摘し、「然らば蔵相は何うして斯様な自己矛盾に陥ったか。それは蔵相が、昭和七年度の公債発行が、其の初め多くの者の予想した所に反して悪性インフレを起さず、今日まで成功して来た理由を全く理解しないからである」と批判しています。
 なぜ軍事費を削ってはならないのか。そこが湛山の主張の核心であったわけですが、結論からいえば、日本を軍国主義化させないためには、経済を一気に活性化させないといけないと考えたのだと思います。削減するのは、1936年以降、日本の景気がよくなってから。時局匡救事業との関連でいえば、軍事費はそのままにして、土木事業費を増やすべきということになります。いたずらに軍部を刺激するようなことを避ける意味もあったと思います。
 この主張が「十五年戦争下」にあったとするなら、ずいぶんすわりの悪いものになりはしないでしょうか。
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2014年07月13日

寄り道:高橋財政期の湛山1

 1930年代の湛山の活動を知ろうと、『石橋湛山全集』第9巻、『東洋経済新報』復刻版から座談会、同じく復刻版から政府要人のインタビューと読み重ねて行くうちに、改めて、湛山のもっていた広範にわたるネットワーク、あらゆる可能性を求めての超人的フットワークに圧倒されています。これらを整理するために、これからさらに何回か寄り道をさせていただくことにしました。
 この間、私が読んでいたものを以下に列挙します。

.『石橋湛山全集』第9巻の「高橋財政に対する批判と提言」に収められた以下の13編の評論とその「解説」(大原万平による)。
1933年2月「最期の場合の我が経済 何うなるか、何うすべきか」
1933年4月「昭和八年度予算の経済的意味」
1933年8月「財政整理私案」
1933年8月・9月「米穀専売と台鮮米移入管理」
1934年1月「歳出縮少と増税の時期」
1934年4月「教育、思想、及び農村対策 斉藤内閣には如何なる具体方針ありや」
1934年4月・5月「如何にして農村の収入を増加するか」
1934年11月「主義に於て誤れる臨時利得税の計画」
1934年12月「金本位制停止下の満三年」
1935年1月「昭和十年の経済界の予想と資本主義」
1935年6月・7月「財政膨張の上限と下限」
1935年8月「高橋蔵相の公債政策」
1935年12月「昭和十一年度予算の編成」

.『東洋経済新報』に収められた1932年から1933年にかけて行われた「座談会」のうち、自由通商や関税改正、世界経済会議をテーマとしたもの(この時期の重要な事件等を少し補いました)。
1932年5月5日、石橋湛山講演「関税が貿易及産業に及ぼす影響」+座談会「関税改正問題座談会」(出席者:上田貞次郎、大河内正敏、小島精一、武藤山治他、司会:湛山)(→5月21日号)
1932年5月15日、五・一五事件
1932年7月21日‐8月20日、オタワ会議(オタワ協定)
1933年3月、米・ルーズベルト大統領、ニューディール政策(-1936年)
1933年3月27日、日本が国際連盟脱退表明
1933年4月19日、座談会「世界経済会議に対し吾々は何を要望するか」(出席者:湛山、小汀利得、高橋亀吉、山崎覚次郎、山崎靖純、深井英五、三浦鉄太郎他)(→4月29日号)
(世界経済会議に日本代表として主席する、日銀副総裁・深井英五を招いての座談会)
1933年6月15日、座談会「日米親善問題座談会」(出席者:蝋山政道、長谷川如是閑、田川大吉郎、鶴見祐輔、上田貞次郎、芦田均、清沢洌、茂木惣兵衛他、司会:湛山)
1933年6月・7月、ロンドン世界経済会議(日本代表、日銀副総裁・深井英五)
1933年6月24日、湛山「為替比率協定の失敗説と世界経済会議」
1933年7月、上田貞次郎編『日本人口問題研究』刊行(この中に「近き将来に於ける日本人口の予測」)。
1933年8月、バンフ太平洋会議(上田の日本の将来人口予測が「要職人口一千万」という主張として世界に紹介される)。
★実は、1934年の『東洋経済新報』誌上座談会はまだチェックしていないのですが、ここに1935年12月開催予定の第2次ロンドン海軍軍縮会議に向けての議論が展開されていると思われます。3の「若槻男爵縦談」で触れるつもりではいましたが、興味深いものがあれれば、ここに載せたいと思います(追記)。

.同じく『東洋経済新報』収録の、1935年4月-7月に集中的に行われた、湛山による5人の政界要人へのインタビュー。
1935年4月20日、高橋是清大蔵大臣「高橋蔵相縦談」(→5月4日号)
1935年5月11日、町田忠治商工大臣「町田商相縦談」(→5月25日号)
1935年5月13日、荒木貞夫陸軍大将「荒木大将国策縦談」(→6月1日号)
1935年6月21日、若儀槻礼次郎元首相「若槻男爵縦談」(→7月6日号)
1935年7月2日、山崎達之輔農林大臣「山崎農相縦談」(→7月20日号)

 以上から、次のことが明らかにできるのではないかと考えています。
 1では、湛山の、「軍費が多過ぎるんじゃない、財政全体の支出が小さ過ぎるのである」という、この時期の一貫した主張(その「十五年戦争」史観との矛盾)、2では、一見対立した主張をもっているように見える人々の間にどれだけ共通認識が広がっていたか、3では、湛山の行っていた精力的な活動の一端、政界の要人たちをどのように巻き込んでいたか、そして、これら全体を通して、湛山がこの時期、日本の経済を活性化するためにあらゆる手段をつくそうとしていたこと。
 次回より、1、2、3の順で書いていく中でまた述べるつもりですが、例えば、地方財政問題において「地租委譲」を強く主張していた湛山が、その実現が遠のくと、さっさと「地方交付金制度」の中での可能性を探るという方向に頭を切りかえ、「教育費の国庫負担」さえ考えはじめたということ、湛山がそのような側面をもつ人物であったということはもっと注目されてもいいのではないかと思います。
 昨今、NHKの歴史番組など観ると、「十五年戦争」ということばが当たり前のように使われていて危惧の念を覚えています。

posted by wada at 23:30 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする