2012年05月25日

猪間驥一のデフレ政策批判3

前回の記事に「我が産業の操業短縮状態」というタイトルだけご紹介した図表ですが、そのすさまじい内容をやはり示しておくべきかと思い、「3」を付け加えることにしました。
実際には、表の形になっているのですが、私にとってこのブログに図表をアップロードするのは至難の業なので(一度だけ偶然うまくいったことがありましたが)、以下のように分解した形で載せたいと思います。
我が産業の操業短縮状態 (昭和四年九月二十七日東京日日新聞夕刊所蔵)

産業別:紡績     
操短率:二割七分二厘    
施行期間:六月一日より九月末日まで
備考:次期限産率三割四分四厘、二割休錘、四昼夜休業   

産業別:生糸
操短率:十二時間操業を十時間に短縮     
施行期間:六月一日より十二月末日迄
備考:来年一月より一ヶ月全休の議あり  

産業別:セメント
操短率:五割三分二厘      
施行期間:九月一日より十一月末日迄
備考:封緘  

産業別:製紙
操短率:三割五分    
施行期間:五月一日より向一ヶ年間
備考:義務限産二割五分、任意限産一割、更に拡張の議あり   

産業別:石炭
操短率:一割
施行期間:三月一日より十月末日まで
備考:送炭基準一ヶ年二千四百二十二万トンに対し十月一日より十二月末日迄二割二分

産業別:晒粉
操短率:四割五分
施行期間:九月一日より同月末日まで
備考:十月一日より同月末日まで一ヶ月間更に四割五分継続

産業別:過燐酸肥料
操短率:三割
施行期間:昭和五年七月一日より同六年二月末日迄
備考:硫酸の製造三割六分制限を行って実行

産業別:丸鋼
操短率:五割
施行期間:七月一日より九月末日まで
備考:関東においては六割を実行(九月二十五日申合)

産業別:人絹
操短率:二割
施行期間:九月十五日より向三ヶ月間
備考:輸出を二割にするか減産を二割にするか任意      

産業別:船舶(郵船)
操短率:一割九厘
施行期間:――
備考:繋船トン数七万五千トン  

産業別:船舶(社外船)
操短率:七分九厘
施行期間:――
備考:繋船トン数六万四千トン

(猪間驥一『日本経済図表』第八章「最近の我が経済界の不況に関する若干の観察」)
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2012年05月15日

猪間驥一のデフレ政策批判2

以下、具体的な分析です。
1.日銀兌換券及び正貨準備
金輸出禁止の間日本銀行の正貨準備は、10億6,000万円を維持して下らなかった。然るに昭和5年1月11日愈々金の輸出解禁さるるや、兌換請求続々と至り、金の現送さるるもの上半期だけで2億2,500万円、それだけ正貨準備は減じたが、また多少の補充もしたので、上半期松に於ては8億7,000余万円になったのである。之に応じて兌換券も図表の如き経過を以て収縮を見るに至った。
2.外国為替相場
外国貿易は大正13年から14年にかけて大暴落をし、遂に対米30ドル台を現出した事もある。此の為替の逆調が輸出を促進して、大正14年に一時我が経済界に些かの好況を呈せしめたのであるが、翌年は極めて急速に回復し、殊に下半期に入っては政府が金解禁を決意せるかに伝えられ、昭和2年3月へかけて平価近く迄も暴騰を演じた。其の為輸出は抑圧されて、輸出品に始る物価暴落を来し、その事は昭和2年の恐慌を招く重大な原因になった。昭和2年の恐慌後は再び低落を始め、ただ、3年下半期に金解禁説が起って、相場の小騰を見たが、政友会内閣にはまだ其の決心がつかず、4年6月まで崩落がつづいたのである。恰も此の際に政友会内閣は倒れて民政党内閣が更って朝に立った。組閣早々の金解禁実行の声明と共に、為替は急速なる回復運動を起し、遂に平価近くなって解禁実施期を迎えたのである。解禁後は連続して、現送点付近を低迷している。
3.外国貿易
昭和5年上半期に終る一年間、即ち浜口内閣成立後一年間の外国貿易を見ると、其の前年度に比し、輸出入共著しい減少である。(…)併し輸入の減少は輸出のそれ以上に甚しいので、この一年間の貿易収支は殆んど全く同額で、輸入超過を見なくなった。
4.銀行預金及び貸出
銀行の貸出額は、昭和3年迄は預金額より多かったのであるが、同年の春から之を下回るに至った。銀行が貸出しを行いたいにも、不況の結果は事業の前途見込み立たず、安心して貸出し得る様な事業が見出せなくなり、一般の人も事業投資するよりも、安全な銀行預金を選んだものと見るべきである。然るに金解禁を期として、不況深刻化すると共に、預金が引出されて資金となるもの多く、その額は急激な減少を見ている。
5.金利
手形割引利率は昭和3年頃から見ると些か高まっているが、金解禁によっては別段高くなっていない。併しコールの動きを見ると、流石に前年前々年に比べて高位に進んで居り、解禁による通貨縮小、之による銀行遊資減の傾向を語っているものの如くである。
6.物価
大正14年に物価の騰貴があって、些かの中間景気が出た事、及び昭和元年為替の騰貴に伴い物価下落を見た事は既に第2章10節に於て指摘したが、昭和2年3年は概して持合いであった。昭和3年には後半期に微騰さえしている。それが昭和4年以来は毎月例外無しの下落で、殊に11月に金解禁期声明があってからは下落のテンポは一層急になった。(…)
7.賃銀
日本銀行は、昭和元年以来全国の主要工場に就いて、その労働者の日給定額平均額と、賃金実収額との指数を発表している。表及び図表に定額賃金と記された指数即ち賃金率の指数は月々少し宛現象を続けて来、昭和5年に入っては殊に甚しく、6月には遂に96.6迄落ち込んで終った。併し実収額、即ち工場の賃金支払額を労働者数で、平均した額の指数は、些か異る趣を呈し、昭和元年から3年へかけて増加を見たのであるが、その12月を頂点として下降に転じ、昭和4年秋には、例年的な増収があったにはあったが、その程度は例年よりも微弱であった。昭和5年に於ける指数の一般的下降は言う迄もない所で、6月には指数98.9、昭和元年の平均よりも降るに至った。
実収賃金の斯様な減少が、次に述べる労働者従業人員の激減と伴えるところに、労働者の生活の不安と、購買力の委縮による商品不売行の状勢が窺われる。
8.労働者雇用状態
日本銀行は、上述の賃金指数と共に、昭和元年一箇年を百とする全国主要工場雇用月末現在数の労働者指数を月々発表している。昭和元年以来指数は、昭和2年3年と低落の一方であったが、4年には稍増加を見せていた。昭和元年には既に失業問題の喧しかった年であるが、この連続しての雇用指数減少は、愈々失業労働者群の増大を標示するものがある。昭和4年秋からはその指数の落潮は一層急速となり、失業の渦は加速度を以て旋回しつつある事が窺われる。
9.株式価格
惨憺たるものは株式市場である。(…)曾ては我が産業を代表する最も有力の会社と思われたものすらも、払込以上の株価を有するものは数える程しか無いと言う状態になった。(…)
10.手形交換高
商取引の増減を語り、また取引に於ける信用の程度を示す手形の交換高は、昭和2年の恐慌後激減を見、3年の上半期はその極限に達したが、下半期にまた反動的に増加した。併しそれ以来再び減少の一路を辿り、昭和5年の上半期は、2年前の同期に近からんとする状況である。その一方で不渡手形は、2年の恐慌後増加し、殊にその枚数は一期毎に増している。金額も、昭和4年下半期に於ては、恐慌以来最大の額に達した。
11.資本の調達
如上の如き経済界の状況であるので、最近は会社の新設拡張等は思いも依らず、計画資本額は急速に減少しつつある。企業心は完全に委縮して終った。社債の払込も激減し、金融に窮して株式払込を求める会社が最近目立って来たが、甚だ困難であろうことは、此の頃の減少に依ても察せられる。地方債は浜口内閣の緊縮宣伝期たる4年下期に激減したが、余りの不況は多少政府の非募債主義を動揺せしめたが、昭和5年に入っては再び増加を見ている。斯て公社債株式の払込金も昭和3年上期を最高として減少を続けつつあるのである。
12.事業界を覆う生産制限
不況の深刻化の結果は、我が産業はいずれも生産過剰を来し、働けば働くだけ損と言う状態に陥りつつある。之が対策として例外なく取られているものは、操業短縮であって、事業家は之によって、経営費の縮減を図り、また市価の安定を図らんとしている。いま主なる事業の操短率、施工期間及び実行方法を表示すれば左の如くである。
「我が産業の操業短縮状態」(…)
所期の効果、果して得らるべきや、否やは問題であるが、要するに我が産業は巨額の資本、精良なる生産設備、働かんとする意思と能力を有する労働者を寝かして、今や怠業時代に入りつつあるのである。
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猪間驥一のデフレ政策批判1

1930年代の猪間の論説をまとめようとしている関係上、これからいくつか著作論文からの引用をメモとして載せたいと思います。何かのご参考になれば幸いです。
猪間驥一『日本経済図表』(1930年11月)の第8章「最近の我経済界の不況に関する若干の観察」の内容については、以前にも何度か触れていると思いますが、浜口内閣のデフレ政策が簡潔なデータ分析によって批判されているので、ここで改めて詳細を見てみたいと思います。
最後の一章として、最近に於ける我が経済界の不況深刻化を語る数字と図表とを掲げることとしよう。本書の他の諸章が、日本経済の構成解剖に重きを置き過ぎて編成され、些かその運動状態を語るに粗であったのを、幾分かでも補って置きたいがために此の章を付録的に設けたものである。固より、最近の此の不況が果して如何なる原因に基いて斯く深刻を極め、斯く永続するかを理論的に解釈しようとするものではない。多くの数字的資料を結合し、更に之を我が経済界政治界の勢力関係と関連せしめて、因果関係を究めることは、元来此の書の任ではない。ただ読者が種々なる角度から斯る考察をされるに何等か役立つだろうと思われる資料を提出すれば即ち足るのである。事はまだ我々の記憶に生々しい事実であり、之をありの侭に写した数字と図表だけであるから、上章に掲げたもの程にも分析説明の必要はなさそうであるが、簡単なる解説を施して置く。不況の徴候を総て金解禁期を中心として観察するが、之は此の時期を中心として述べるのが最も簡単明瞭だからであり、且つ本書の取材範囲が日本の経済統計に限られているからであって、編者としても無論世界的不景気、銀価の暴落等の事実を知らないのではなく、金解禁を以て不況の唯一原因なりとするものでもないことは、蛇足ながら一言御断りして置く。

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2012年05月01日

大きな夢、中くらいの夢…

先日、博論の計画書を出しました。出してからまる一日気分が落ち込んで、その後でようやく何がまずかったのかぼんやりわかってきました。指導教授がコメントに書いてくださったことも理解できたように思います。
何がどうわかったのか、これからどのように進めようとしているのか、くだくだ書くことも考えたのですが、それも始めてみると切りがなさそうで、今回は、とりあえず計画書を提出したこと、提出してしまったからには、10月の完成を目指してがんばります、ということだけ書いて、ご無沙汰してしまっている皆様へのご報告とさせていただきます。

以下、気を取り直すために、少し飛躍しますが、猪間驥一に関しての、私のひそやかな夢を大公開します。
いちばん大きな夢:
『日本人の海外活動に関する歴史的調査』総論が、日本近代史の教科書として読まれること。
次に大きな夢:
2019年、東京大学経済学部は創立100周年を迎えます。猪間驥一が、第一期生とし入学してから100年です。この年は、奇しくも猪間の没後50年に当ります。そこで…
遅くともこのときまでに、関係者の方々(100年史の編纂委員とか)によって、猪間驥一東大追放事件の名誉回復がなされること。
中くらいの夢:
現在、Wikipediaの『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の項には、この報告書について次のような説明があります。
「序」には、「日本及び日本人の在外財産の生成過程は、言わるるような帝国主義的発展史ではなく」「日本人固有の経済行為であり、商取引であり、文化活動であった」とあるように、明確に日本の植民地支配を肯定する立場に立っている。そのような政治的バイアスにも関わらず、多くの基本的な統計資料を含んでいることから、日本による植民地支配の歴史を研究する際の基本文献とされている。
この「明確に日本の植民地支配を肯定する立場に立っている」あるいは「政治的バイアス」という部分が訂正されること(できれば復刻版監修者の小林英夫氏によって)。
小さな夢:
猪間驥一研究が私の手を離れること。そうなったとき初めて、ほんとうの意味での猪間の再評価が始まるのではないかと思います。そのためにもこれからがんばりたいと思います。
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2012年03月31日

清沢洌の見た高橋財政2

「清沢洌の見た」といいながら、今回は、清沢洌(1890‐1945)ではなく、高橋是清を「経済技師」と見ていた清沢の高橋是清観と対比させるべく、大川三郎(1894‐1950)の『自由を護った人々』(1947年)から「高橋是清」を取り上げます。
この大川三郎については、ネット検索で、「大正・昭和期の農民運動家」であり「群馬県議会議員」であったことくらいのことしかわかりませんが、「自由を護った人々」として、次の12人をあげていることから、どんな考え方をする人か、およその見当はつくように思われます。
板垣退助/大隈重信/福沢諭吉/森有礼./新島襄/高橋是清/犬養毅/尾崎行雄/片山潜/幸徳秋水/大杉栄/河上肇
このような人々のなかに、高橋是清が混じっていると少し意外な感じもありますが、当時としては、むしろこのほうが高橋是清への一般的な評価だったのかもしれません。
犬養・岡田両内閣の蔵相として
昭和六年十二月、若槻民政党内閣が瓦解し、犬養政友会総裁が代って、内閣を組織しました。高橋は、犬養に請われて、又もや、大蔵大臣の椅子につきました。
若槻内閣が瓦解したのは、その財政策が失敗し、行き詰ったからでした。当時の蔵相井上準之助が採った金解禁政策や消極的の財政策は、日本を挙げて不景気のドン底にたたき込んでしまいました。
高橋は、そこで、井上とは全く反対の立場を採った、金の輸出禁止政策や、積極的財政策を断行しました。ために、輸出は増進し、通貨は膨張し、今まで下落していた物価は騰貴し、金利は低下するという風で、事業も起り、生産は増大して、経済界は景気づいてまいりました。
しかし、このような状態は、財政自体にとって好ましいものでないのみならず、経済界に対してもいろいろな影響をもたらすところから、これに対しては、相当戒心を要することは言うまでもありません。
昭和七年五月、犬養首相は、後述(「犬養毅」の項参照)のように、いわゆる五・一五事件で横死しましたので、皇国一致内閣を標榜する斉藤実内閣が成立しました。この内閣の藤井蔵相は、いわゆる「健全財政」をスローガンとして、極力、財政の均衡回復をはかって、自ら斃れるまでも努力したのであります。
しかし満州事変の勃発によって、国際政局が俄然緊張し、軍備充実の必要が痛切となる一方、いわゆる五・一五事件など国内の不安が高まって、農村救済の要求も盛んになってまいりましたので、これらに要する経費は年々膨張して行くのは止むをえないところでありました。
ですから、これらの費用をどの辺でとどめていかなければならぬかということは、財政家の最も苦心を要する問題でありました。
軍部におもねて、軍事費を沢山、予算に計上することは、た易いのですが、それでは、赤字が増加し、経済界は悪性インフレとなって、どうにも仕方なくなります。
昭和九年七月、斉藤内閣は、いわゆる帝人事件(当時の政治家、実業家の腐敗、紊乱が議会及び司法当局の手によって取上げられた)の綱紀問題に関連して引責辞職し、矢張り挙国一致を看板とする岡田啓介内閣が成立しました。高橋は懇請止み難く、この内閣にも蔵相の椅子につきました。
彼は当時、満州事変以来相当鼻いきが荒く、事毎に、横車を押そうとする気はいのあった軍部を、押さえつけて、国家の財政を、あくまで健全なものにしなければならぬと、軍の飽くなき要求を、思い切って削減しました。
このことは、何でもないように思われますが、当時の情勢では、なかなか、出来ない芸当でした。高橋の如き、欲も得も要らぬ、公平無私の、また苦労人で、腹の出来た人にして、はじめて出来得る事であると、当時の人々は、皆感心したものであります。
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2012年03月30日

清沢洌の見た高橋財政1

『現代日本論』(1935年)の第3章「現代日本の人物」に「高橋是清論」があって、これはほとんど人物評といっていいものだと思うのですが、そのなかに高橋財政に対する評価もたどることができるように思われます(猪間驥一から見ると、不満のある評価ということになるのではないかと思うのですが)。
七、機会主義者と行政家
この楽観的性格が、丁度日本の歩く道を予示して来た。かれは増税などには常に反対で、借金政策を主張して来た。日本のような資本においても、産業組織においてもなお未発達の国においては、借金政策で産業を発達させ、その発達による収入によって自然に返金しうるような政策をとらねばならぬとした。かれが日本銀行総裁以来抱懐する通貨と物価の関係に関する議論などは経済学説としてみれば批評が出ようが、楽観主義に生れた実際経済観とみれば別に大した変哲もないであろう。この楽観主義は日本へあてはめて決して間違っていなかった。今まで天佑を保有しているほどに、大体に順調に辿って来た日本の経済界は、かれの無軌道の楽観論がピタリと合ったのである。この点では時代の波がかれに代表されたといえる。
八、政治的幸運者高橋
かれはまた昭和六年十二月に犬養内閣に入るや、井上準之助財政を打ち切って直ちに金再禁止をやった。その断行振りは、なまなか他人に相談したりせずして、独自の考えでやるだけに、華やかでもあり、効果的でもある。こう言う事が続くと、何か事件が起ると、財界人は自然に高橋を見るようになるのは自然だ。高橋が大蔵大臣をやっていると、サアという時に無理をしないだろうという安心がある。
それと同時に高橋が幸運に恵まれたという事実も忘れてはならぬと思う。その幸運は前にも触れたように無論かれがインフレーションそのものに生れ、しかも過去現在の日本はデフレーションにたえぬような状勢にあって、時代の要求がつねにかれに対してあったこともふくまれて居る。公債政策、金禁止、円の暴落、輸出繁盛、それは必然にかれの性格的政策の線をたどれるものである。
しかし筆者が、彼の幸運というのは今少し現象的な意味においてである。彼の蔵相就任は多くの場合、前任者の緊縮政策が極端になって、いずれは転向を余儀なくされる際においてであった。即ち膨張政策に移る下準備が完成したときにおいてであった。この時に彼がこの楽観経済を挙げて立つのであるから、一番得をするのがかれである。たとえば現在の輸出旺盛が浜口内閣時代の緊縮と整理によって可能であったという事実は、最早一般の常識になって来ている。しかし世人は浜口内閣は『不景気内閣』であって、高橋財政は好景気を表象すると考える。この場合富籤をひくのが高橋なのは申すまでもない。
九、何故の人気か
かれの存在は買っていいと思う。しかし高橋が偉大であれば、それは偉大なる経済技師としてである。日本を救うのは単なる経済技師ではない。それは目前の問題を処理するのに必要であって、それ以上ではない。日本がこの外に要するのは、かれの経済技術に加えて、原敬の政治的技術を有することである。更に――適当な人が無くて困るが、少なくとも尾崎行雄の理想主義が混入されてなくてはならぬ。
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清沢洌の見た幣原外交2

もう一つ、『現代日本論』(1935年)の「廣田外相に訊く」に収録された、『婦人の友』インタビュー記事からも、清沢洌が幣原喜重郎(の外交)をどのように見ていたかが確認できます。
清沢 私は評論家として、ひたぶるに協和外交を主張して来ました。それが私の任務だと思って。しかし実際外交家として、あなたは産業革進の過程の時代とその民衆の心理を背後にもつ外交家として、たえず時代を顧みる必要があります。その点であなたはよい要素を具えておられると思います。あなたの外交は原則としては幣原さんのそれと大差ないのではありませんか。
廣田 強いて差を求めれば、幣原さんは満州事変前、僕は満州事変後に在任したというに止まりましょう。
清沢 だが幣原さんは与論を後ろに置き去りにしていた欠点があったに比し、あなたはその点に注意されておられることに、私は敬意を払っております。

前回の『黒潮に聴く』からの引用では省略しましたが、「田中外交の文明史的批判」の内容を小見出しで追うと次のようになります。
一 同じ国から三つの抗議
二 政争の犠牲になった外交
三 強硬世論の没落
四 外交を動かす経済的要求
五 必要が自由主義の道を辿る
『日本人の海外活動に関する歴史的調査』総論(における猪間の主張)の合理性の立証には、このなかにもある、日本の大陸政策に関する「強硬世論の没落」という事実が(あったとすれば)、非常に有力な根拠となりうるように思われます。これは、幣原喜重郎がどのような意志をもって、外交に臨んでいたかということ以上に重要な意味を持つものと思われます。
もう一つ、押さえておかなければならないのは、清沢が石橋湛山の小日本主義と近い思想を持っていることは間違いないとしても、ただ、すでにある植民地を手放すというようなことはまったく考えていないということです。
こうしたことを考えると(ここから先はうまくいえないのですが)、清沢のいうような歴史の展開がありえたとして、そうならなかった現実(幣原外交がもたらした、ある意味で現実が理想を超えているといえるような状況)との間の対比、あるいは「差」が、猪間の主張を裏付けるものになるのではないかと思えてきます。別のいい方をすると、猪間は清沢の歴史認識をベースに(その著作をテキストに)、換骨奪胎のようなことを行ったのではないかという疑いが生れてくるのです。
このあたりのことは、もう少し時間をおいて考えてみたいと思います。
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2012年03月29日

清沢洌の見た幣原外交1

清沢洌『黒潮に聴く』(1928年)の第8編「日本の行くべき道」の中の「田中外交の文明史的批判」を読むと、清沢が幣原外交をどのように捉えていたかがよくわかるように思われます。
田中内閣が青島に出兵すると、日本は同時に三つの政府から抗議を貰った。第一は北京政府であり、第二は南京政府であり、第三は漢口政府である。
これらの政府からの抗議は、いずれも日本の出兵が支那の主権を侵し、国際法に反するものであることを極説している。われらは当時、同じ事件に対し、同じ国から一緒に、三つの抗議を発し得る国に、侵し得べき主権がどこにあるかを思うて、自ら迷わざるを得なかった。またかれらは盛んに国際法をいうけれども、かれら自身は外国の租界の占領といい、外国領事館の略奪といい、関税の増徴といい、果して国際法に準拠した行動をして居るか。かりに準拠して居るとしても国際法というものは、一国に三つの正当政府を主張する機関のある国を前提として、出来上がって居るものであるか。外交的論争に馴れないわれらの頭は、完全に迷宮に入るのをいかんともするを得なかった。

この迷いはわれらばかりではなかったようである。今まで幣原外交を謳歌していた日本の朝野の意見も、これと反対な方向を辿るように見える出兵に対しては、ただそれが在留民保護以外に出でることのないように希望するに止まって、出兵そのものを否定する議論はほとんどなかったようである。

支那は謎の国というけれども、この謎の国に対するわが国の与論も確かに謎である。

しかしながらこの世論の立往生から観取し得る一事は、支那の出兵は理論的には、それが在留民保護である以上、決して批難すべきものではなく、ただ問題になるのは、これが結局日本に幸いするかどうかという将来に関する政策についてだということである。

日本の出兵は理において、少しも非難さるるところはない。国際条約により他国民が、他国に居住する権利があり、しかもその居住する国の主権が、その国内に住する外国人の生命財産を保護することが出来なければ、当該国が進出してこれを保護するのは当然である。
しかもこの当然な行為に対して日本国民の多くは必ずしも賛成しなかったばかりでなく、従来は対外交の本家のように見られた貴族院すらも、自重を唱えてやまず、また一時批評を控えた新聞の論調も、戦況やや小康を見るや、直ちに撤兵の出来るだけ速やかなるべきを論じ始めたのである。これを過去の時代において、他国の領土に出兵するとさえいえば、国民の与論が憤激したのに対比すれば隔世の感あるを禁じ得ない。

幣原外交といえば、その別名は譲歩外交といってもいいほどのものである。いかなる会議においても、支那に真先きに譲ったのは日本である。そしてこの結末が、ついに南京事件や、漢口事件に終ったのである。この間支那人が日本に加えた侮辱は、今までの日支交友の間にかつてないほど極端のものであった。

1921年度に、ワシントン会議が開かるるや、日本の朝野は非常なショックを受けて、中には堂々と「国難来たる」と呼号したものがあった。然るに今回第二回の軍縮会議を提唱し来るや、日本の朝野は即座に主義としてこれを受入れた。

この変化の最も重要なる理由をあげようというならば、私は日本の生存の必要から出ていると断言するに憚らない。
数字を挙ぐるまでもなく日本は工業原料において食糧において、自ら立つ能わざる国である。日本が生存するためには、好むと好まざるとにかかわらず、日本の生産物を輸出して原料を買入るるの外はない。そしてこれらのものを輸出するにも、輸入するにも最上の顧客は支那と米国とである。

日本の外交はその経済的必要、生存の必要から、自由主義的、妥協的にならざるをえない。そしてこの事が戦後、経済的難境が目立って来た時に外相になった幣原氏によって実行されたことは注目すべきであると思う。幣原外交は、われらから見れば、まったくの無策外交であった。しかもこの無策外交は、日本の事情から生れ、かれは単にその事情の指示した通りに動いたに過ぎなかった。この無策外交が国民の支持を受けたところに重大な意味がある。

われらは必ずしも幣原外交の謳歌者ではない。否、われらはこれに不満がある。その欠点として余りにいわゆる自主独立の名に囚えられ、かつその根本思想が、他国を置去りにしても、自己だけが人気と利益とに居らんとする道徳的不純さをあげ得る。

こうした欠点があるにかかわらず、その大体の方針が示す自由主義的傾向は、将来の日本の外交が向う唯一つの道であらねばならぬと信ずる。
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近代デジタルライブラリー2

現在、本来やるべきことを放り出して、清沢洌を(十分な時間が取れないので)あちこちつまみ食い的に読んでいます。
面白い。猪間が評価していた幣原喜重郎の外交、高橋是清の財政を、清沢は少なくとも個人の力としてはそれほど認めてないようなのですが(時代の流れとか成り行きとか運の良さとかいうようなものとして捉えている)、それがとても面白いのです。
清沢洌を私はまったく読まないまま、これまでの猪間驥一研究を進めてきましたが、彼の時代分析は(その思想は別にして)、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』総論の検証の重要なカギを握るものとなりそうです。
清沢洌の著作のうち現在、近代デジタルライブラリーで、以下の17冊と、講演記録1つが読めます。このうち、★印を付けたものが、私が読もうと思っているもので、とりあえず『黒潮に聴く』と『現代日本論』から、「清沢洌の見た幣原外交」、「清沢洌の見た高橋財政」を見てみようと思います。
米国の研究』1925年
モダンガール』1926年
黒潮に聴く』1928年★
第6編「支那と日本」
第7編「現代日本の社会と思想」
第8編「日本の行くべき道」
自由日本を漁る』1929年
転換期の日本』1929年★
第3編「新日本への道」(第7「人口問題と合理化運動」は、高田保馬「合理化の行方」批判)
アメリカを裸体にす』1931年
不安世界の大通り』1931年
アメリカは日本と戦はず』1932年
非常日本への直言』1933年
吾国社会不安に関する一考察」『経済倶楽部講演』1933年★
革命期のアメリカ経済』1933年
激動期に生く』1934年
中編「危うし国際日本」・第1章「1935,6年の危機の解剖」
混迷時代の生活態度』1935年
第4章「国際不安の内容」・第2節「1935,36年危機の問題」
現代日本論』1935年★
第3章「現代日本の人物」・第1「高橋是清論」
世界再分割時代』1935年★
時代・生活・思想』1936年★
第4「国際編」第1章「日本外交の進路」・第2章「植民地分割と日本」
現代世界通信』1938年
日本外交史』1942年★
序論「日本外交を貫くもの」
第4編「国際日本の確立」・第3章「国際協調時代」
第5編「興亜外交時代」・第3章「邁進する自主外交」
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2012年03月25日

東京市政調査会からの手紙2

せっかくの機会なので、五石論文のなかの誤りのうち、私が重要と思っているものを2つだけ、ここに取り上げておきたいと思います(私の『都市問題』への投稿論文は、当初、五石論文批判として書き始められたものですが、編集長からの提案で、単純な誤りを指摘した部分は極力端折り、猪間驥一の再評価に特化して書くことになったという経緯があります。ですので投稿論文の内容にこれらは含まれていません)。
◆「日本では、特に下層階級においては、ほとんど全く母乳をもって保育していた。そこで、震災直後に内務省衛生局は、幼児の食糧を考慮して牛乳配給事業をはじめ、その後に東京市社会局がこれを引き継いだ」
下層階級の人々が母乳哺育をしていたというのは、今日なお残る(昔の人は…という)幻想にすぎません。牛乳配給事業を行っていた東京市や大阪市では、乳児の栄養法に関する調査がしばしば実施されていましたが、下層階級の人々には、母乳が十分に出ないため、甘い練乳をお湯で溶かして与える例が散見されていました(甘いので赤ん坊が泣き止んでくれる)。母乳か人工乳かという話であれば、当時、欧米でも日本でも、母乳栄養が推奨されていました。問題は、母乳が出ない場合にどうするかということです。牛乳配給事業は、母乳栄養を人工栄養に変えようという試みではなく、母乳が十分に出ていない人に対応するものでした。ちなみに、当時の人工栄養というのは、粉ミルクではなく、牛乳をお湯で割って、はちみつ等で甘味をつけたものでした。今日の私たちにはとても考えられないことですが、東京市でも新宿や練馬など、人々の生活圏の身近に牧場があるような環境では、それが可能であると、以前、アレルギーがご専門の先生に伺ったことがあります。今日でも、ネパールだったか、ヤギの乳を乳児に飲ませている例があるそうです。
◆「巡回産婆制度において、産婆は異常産等の場合手術を行うことを禁じられていたため、そうした場合に直ちに利用し得る施設としては、(……)無料産院があった」
ここで手術とは、帝王切開が想定されているようですが、日本の帝王切開第1号は、1900年に実施されていたものの、まだ庶民の出産に適用されるような時代ではありませんでした(鉗子分娩がいいところか)。また厳密にいえば、巡回産婆事業を行っている都市には、医療的な設備が整った無料産院はなく(つまり巡回産婆制度のある都市と無料産院のある都市はほとんど重なっていない)、例えば、神戸市では、産院どころか開業医にも嘱託医のなり手がないことを、猪間は指摘していました(『都市に於ける妊産婦保護事業に関する調査』で猪間は、この事業には、巡回産婆と無料産院の併設が望ましいと論じています)。
以上は、査読では「そうですか、勉強になりましたとしか言いようがない」といわれた部分ですが、1920年代の妊産婦保護事業とその調査研究の再評価を論じるのであれば、このくらいは常識として押えておいてほしいと個人的には思っています。
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