2009年11月17日

湛山日記の渡辺鉄蔵

『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の関連で、あと二つ重要な資料があるのですが、その検討に入る前に、他の話題を一つだけ・・・
『石橋湛山日記』をぱらぱらめくってみて、もう一つびっくりしたのが、石橋湛山と渡辺鉄蔵との関係です。訂正もかねて書いておきたいと思います。
渡辺は、5ヵ所に登場しています。
1946年2月2日:八時一分電車にて出社。午前中来客多し、渡辺鉄蔵、伊東敬、根津知好、望月氏妹等。
1946年2月15日:正午帰社、倶楽部講演会に出席。渡辺鉄蔵氏。
1948年6月17日:午後一時すぎ国際連合協会にて行われたる渡辺鉄蔵氏の東宝労働争議の報告を聞く。
1953年3月23日:経済倶楽部にて広田大田区長等を集めて渡辺鉄蔵の立候補を依頼す。
1956年7月26日:十二時、渡辺鉄蔵氏著書祝賀会、日本クラブ。
この両者の関係は、少なくとも悪くはないようです。GHQから戦車まで出動させたという東宝労働争議についても必ずしも批判的ではなさそうに思われます。経済倶楽部での講演を聴きに行き、区議であったのか立候補を依頼し、著書の祝賀会に参加し・・・
猪間が、渡辺鉄蔵が立ち上げた自由アジア社で、反共書の翻訳を引き受けたとき、「中立的な立場で行った」という主旨のことを書いていたのは、本人が反暴力主義であることの他に、湛山への遠慮もあると思っていたのですが、この部分は少し考え直してみる必要がありそうです。
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湛山日記の猪間驥一2

東京を何日か離れていたので、前回の記事を放りっぱなしにするかたちになりました。ほんとうは記事を書く前に、『石橋湛山日記』の、増田弘による「解説」を読んでおくべきだったのですが・・・
その間、いくつかのことが判明したので、今回は、細かな訂正をするのでなく、現段階でこうではないかと思っていることを、そのまま述べてみたいと思います。
さて、「解説」を読んで初めて気づいた重要な点ですが、湛山日記は、1949年分が欠落しており、増田氏はこれを「公職追放中であり、当局からの追放を避けるため、記録を残さなかった可能性がある」としています。したがって、この年の日記が残されていたら、さらに何回か、猪間の名前が記載されていたことが考えられます。
また、これは訂正になりますが、前回、猪間の名前のある13ヵ所を抜書きしましたが、同じページに2回出ているところがあって、実際に名前は14ヵ所で登場します(この分については、追記にて訂正しました)。
私の考える猪間が報告書を完成させた経緯は以下のようになります。
1946年11月、猪間帰国。湛山日記に「1946年12月3日:官庁職員組合代表、引揚者代表と夫々会見」とありますが、引揚者代表というのが猪間を指しているとすれば辻褄が合います。この日、湛山は、猪間が『日本人の海外活動に関する歴史的調査』と名づけることになる報告書の執筆依頼をしたのではないでしょうか。
1947年5月、湛山の公職追放。6月13日、海運局の講演会の前または後で、猪間は湛山と善後策を話し合った可能性があります。
1947年12月、猪間ら脱稿。12月1日の自由思想協会研究会の前か後に、猪間は経過報告をしているのではないかと思われます。
1948年2月13日、「事務所で常例研究会があり、猪間氏より米国の労働法について報告を受ける」というのは、いくらでも他の可能性を考えることができると思います。猪間は、とくに法律の専門家というわけではありませんし・・・。
1948年10月8日以降、1949年12月末日以内に、自由思想協会研究会の活動への圧力で、湛山の事務所が閉鎖されているので、猪間が湛山のもとを訪れ、「湛山が身を潜めていた」としていたのは、1949年より前ということになります。
1950年7月、印刷製本が完成。刊行を遅らせ、担当部署を大蔵省管理局から理財局に移し、序・本文の両方から湛山の名前を削除するということを、私は猪間が意図的に行ったのではないかと推測しています。「1950年7月15日:午前猪間驥一氏来談」というのは、この報告または最終的な詰めのいずれかのためだったように思われるのですが、いかがでしょうか。
「解説」には、「石橋が日記の公開をまったく意識せずに執筆していたことはまちがいなく」と書かれていますが、この在外財産調査プロジェクト(と仮に呼んでおきます)だけは、最初から極秘裡に行われたもので、日記からも意識的に「外された」部分なのではないかと私は考えています。
なお、猪間以外の執筆者、鈴木武雄、北山富久二郎、金子滋男の名前は、湛山日記に一度も登場しません。
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2009年11月12日

湛山日記の猪間驥一

『石橋湛山日記』というものがあって、1945年1月1日から1957年1月23日までの、政治家時代を中心とした、湛山の交友の記録を見ることができます。インデックスがあって、そこから猪間の名前のあるページを簡単に見つけることができるので、拾ってみることにしました。
1947年6月13日:午前十時頃出社。午後一時頃より海運局にて講習学生に向って講演、三時頃まで。猪間氏の依頼による。
1947年11月27日:午後一時より自由思想協会第一回会合。議会関係者は本日議会の関係にて出席せず。東洋経済編輯部首脳者、猪間氏等にて懇談、今後の運営方針等協議、三時半頃終了。(この3行追記)
1947年12月1日:午後一時半頃より自由思想協会第一回研究会を開く。集る者、工藤復金副理事長、横田庶金理事長、安積得也、猪間驥一、その他東洋経済編輯幹部等。(・・・・・・)
1948年2月13日:十一時頃事務所に赴く。午後二時より常例研究会、猪間氏より米国の労働法につき報告を受く。
1948年5月11日:午後一時より生方氏肝入の会合を催す。福泉よりウィスキー及びブランデーの寄贈あり、之を饗す。煙山、本山、村松、杉森、猪間、関、徳川、馬場、生方の諸氏参会、頗る賑かなり。
1950年1月1日:年賀客 谷一士 猪間驥一 内海丁三氏
1950年7月15日:午前猪間驥一氏来談、(・・・・・・)
1950年11月12日:午後四時より内海丁三、猪間驥一、延島英一、大原万平の四氏を招きて夕食且つ歓談。延島という人は甚だ説に富む人なり。
1951年1月29日:午後四時より経倶にて内海、猪間、延島及び大原氏と会食。
1951年3月31日:午後三時経済倶楽部に赴き猪間驥一、渡辺滋氏等と会談。
1951年5月6日:来客多し。三島市の鈴木栄、猪間驥一氏、石田博英氏等。
1951年10月26日:午後三時より猪間氏の依頼により中央大学にて講演一時間余。
1952年1月1日:帰宅すれば島村一郎、浅川栄次郎、片桐良雄の諸氏来賀、酒を出す。宮川氏一家、猪間氏等も亦来。夕刻内海丁三氏、泉山三六氏来、いずれも酒を出す。
1954年1月1日:午後来客多数五時すぎまで。島村代議士夫妻、片桐元秘書官、坂本警備犬協会理事、河村医博等、賀陽之宮様、内海丁三、猪間驥一、(・・・・・・)
12年の間に13回名前が出ていますが(うち湛山の公職追放中には10回)、事務所で会ったとしているのは、1948年2月13日の一度きり。『日本人の海外活動に関する歴史的調査』編纂中は、1947年の6月と12月で、一度は講演会、一度は東洋経済新報社で開かれた会合にて。
猪間の書いたものには、湛山が身をひそめていたという表現があり、この事務所で何度か会ったというニュアンスがあるので、やはり、この『歴史的調査』にまつわる出来事は、日記にも書いてなかったということではないかと思います。次回は、このことについて触れたいと思っています。
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2009年11月07日

湛山と戦後の人口問題

石橋湛山について、訂正を含めていくつかのことを書きたいと思っているのですが、目についた記事や論文があると、つい後まわしになってしまいます。
というわけで、今回は、湛山が人口問題について触れた「八千万人生きる道」(1951年7月)という『東洋経済新報』インタビュー記事からの引用です。
石橋 日本には人口が多い、ある意味では多すぎるということは確かにいえることです。この場合、日本が活路を求める方法としては二つあると思う。
一つは、かねて東洋経済新報が主張してきたように、もし貿易が自由であるなら、人口の多い日本でも容易にやってゆけるという考え方です。これは、終戦直後にも、僕が採った立場です。
領土がせまくなるということはそこから生産される物が減るということだが、しかし、これは何も悲観するには当らない。というのは、当時の世界は国際連合に多大の希望がよせられていたからです。これは、例の大西洋憲章にも語っているように、原料資源の確保や製品の販路について、全世界が自由を獲得するということを前提としていたのです。
もしこれが実現するのなら、日本が多くの人口を抱えていることで苦労することは少しもない。現在でも同様です。もし、完全な自由貿易にならないまでも、大幅な自由貿易が行われるのなら、日本は何ら心配することはない。
ただ、ソ連を中心とする共産国家群と、英米を中心とする自由国家群の対立が激化するという世界情勢の中では当面、自由貿易は期待薄で、自給自足でいかなければならないというのが1951年当時の状況だったようです。このような状況のもとで、人口は制限すべきなのか。
石橋 人口制限などということは無益なことで、英国やフランスのように、放って置いても人口の減るとという時がある。今度は殖やさなければならないといって努力しなければならない時があるのだね。むやみに「生めよ、殖やせよ」で、質のよくない人を殖やすことは好ましくないが、そこは社会政策で、質のいい人が殖えるという政策をとるべきだと思います。今のように、当面人口が多過ぎるというので、それをむやみに調整しようとしても、今いる人口は制限できない。これから生れる者を規整するとして、その影響がいつ来るかということを考えなければならない。今日生れる者を調整しようというのではその後に生れる者が迷惑だ(笑)
人口問題はなかなかデリケートで、そう簡単ではない。
産婆がこぞって産児制限を広めようとしていた折、この発言は興味深いものがあります。
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2009年11月06日

注意を与えてくれる猪間君

石橋湛山のエッセーの中でたった一つ、猪間の名前が出てくるものを見つけました。
去る三月二十四日号の本誌の「幣原さんの思い出」の中に、私は幣原さんから聞いたデニソン氏の話しを書いた。ところが、これには、私の記憶に大そうの誤りのあることを発見した。訂正して置かねばならない。(・・・・・・)
いつも私に良い注意を与えてくれる猪間驥一君から、あの雑誌が出た直後に葉書が届いて、こういうて来た。デニソン氏の話しは、自分も感激をもって読んだが、しかし同氏の墓は、青山墓地の小村さんの墓のそばにある。私が書いたように、同氏は、はたして日本を去ったのであろうか、と。
かつて青山墓地を歩いたことのない私は、実はデニソン氏の墓が小村さんのそれのそばにあるということも、猪間君のこの葉書で初めて知ったしだいであった。あの話しを書くときに何かデニソン氏の略歴でも記したものはないかと捜したが、手もとにある材料の中には、ついに見つからなかった。そこで、幣原さんの話しは、デニソン氏の室を片づける折のことであったから、たぶん外務省をやめ、日本を去る時のことでもあろうと、あて推量でああ書いたのにすぎなかった。従って猪間君から、前記のごとく言うて来られては、返答のしようがない。あわてて外務省等に頼み、調べてもらったというわけで、そしてその結果は、右の推量が全く間違っていたことを知ったのである。(・・・・・・)
すなわち、この幣原さんの手記によると、デニソン氏の室の片づけをしたというのは、明治四十五年、氏が休暇を取って,帰国する際で、また、問題の書類は、日露戦争開始に至るまでの交渉文書であって、私が講和条約の草案と書いたのは、また誤りであった。猪間君からの注意により、これらの重要の事実の誤りをさっそく訂正する機会を得たことを、私は深く感謝するしだいである。

蛇足ながら、幣原さんは戦前に外務大臣、戦後には首相を務めた幣原喜重郎、小村さんは明治期に外務大臣を務めた小村寿太郎、デニソン氏は日本の外務省顧問を務めたヘンリー・ウイラード・デニソンです。
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有沢広巳に関する訂正

訂正しなけばならないことがいくつかあるのですが、なかなかブログに反映できないでいます。
このブログを読んでくださる方は限られているのですが、ときどき検索のキーワードを見て情報の間違いがそのままになっていることを思い出したり、はっとさせられるメールを頂くことがあるので、気づいたときに「**に関する訂正」としてメモを載せ、追加があれば書き加えていくことにします。
まずは、有沢広巳に関する情報の訂正から。
有沢広巳が猪間驥一を東大から追い出した話のところで、1924年12月、糸井靖之が亡くなって、その後、自分が助教授になりたくて、猪間を追い出したのではないかと書いたと思うのですが、実は、有沢広巳は同年の6月に、大森疑太郎とともに助教授になっていたのでした(竹内洋『大学という病』からの情報)。
猪間は病気で一年療養していたのですから、このこと自体は当然のことだったと思われます。
したがって有沢が猪間を追い出したのは、猪間を評価していた糸井が亡くなって、卑劣なことを行っても咎め立てする人間がいなくなったからということになるのでしょうか。このとき河合栄治郎もまだ留学中だったようですから。
以上、お詫びとともに訂正させていただきます。
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2009年11月01日

11月のマタニティヨガ

「助産師グループCOCO」から、ヨガ教室のお知らせです。

11月のマタニティヨガ教室
開催日時:
 11月10日(火)10〜12時
 11月18日(水)10〜12時
 11月28日(土)10〜12時
会場:東京都小金井市公民館本館生活室(福祉会館3F)
アクセス:JR武蔵小金井駅南口から徒歩5分
対象:妊娠16週以降の妊婦さん
参加費:500円/回
持ち物:スポーツタオル1枚
*予約不要、動きやすい服装にて直接会場へおいでください。
*詳しくはリンク集「助産師グループCOCO」をごらんください。
お問合せ:coco.yoga@gmail.com(なかじま)
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2009年10月27日

ご無沙汰しています

たいへんご無沙汰していて申しわけありません。
◆現在、猪間驥一の評伝に取り組んでいるのですが、一章ごとに新しい事実が現れてくるという状況で、難航しています。希望的観測では、10月いっぱいで山場を越えるつもりですが、どうなりますことやら。
◆河上肇賞奨励賞をいただいた論文を短くまとめた「猪間驥一と1920年代の巡回産婆事業」が、ある大学経済学論集に載りました。
もし読んでくださる方があれば送りますのでお知らせください。
このブログの「猪間驥一という人」に書いたものと同じような内容です(というより、その小論文を書くために、ブログのほうをメモ書きに利用したというのが実際のところです)。
◆もう一つは、とてもうれしいニュースです。
あるところの、ある企画で、猪間驥一が取り上げられるようです。取り上げられるのは、東京市政調査会のときの研究だそうですが、彼の再評価が進むのはうれしいです。
時期がきたら、詳細をお知らせします。今年度末、つまり来年3月のことのようですが。
タグ:猪間驥一
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2009年10月09日

歴史的調査が語るもの5

おそらく、戦後民主主義教育によって、多かれ少なかれ、マルクス主義史観に影響を受けた人々の、戦前の歴史を見る眼の間違いは、国家と反体制運動の対立という構図で社会を捉えていたことによるものではないかと思います。
それが、石橋湛山や上田貞次郎、猪間驥一らの活動を見えにくくし、マルクス主義者たちの運動を過大評価することにもつながったのではないかと思います。
マルクス主義者たちが、スローガンとしては、反帝国主義、反植民地主義を唱えながら、猪間の身近で起ったことからも明らかなように、実際には、学内の派閥抗争、権力闘争に汲々としていたわけです。しかも、それらを実現させるためには、体制の変革しかないと考えていたわけです(換言すれば、スローガンは人々を惹きつけるための単なる文言だったということにもなります)。
けっきょく植民地主義に対する強力な代替案(海外貿易)を提示できたのは、新自由主義者と呼ばれる人々だけだったということになるのではないでしょうか。彼らは、「理想」主義者としてではなく、現実主義者として、それが日本の将来の利益になる政策だと考えたのです。
それでは、「自由主義史観」(名称が紛らわしいですが)を標榜する人々と、猪間らの考え方の違いはどこにあるのか。
猪間は、植民地統治の中でも評価できる部分はあると考えていました。例えば、それは、あへん吸飲や纏足といった弊習の矯正、衛生状態の向上や教育の普及等を指しているのですが、その主張の共通性から、今日、誤解を招いている部分があるのは確かです。
(衛生状態の向上は、当時、日本国内でも社会事業の重要な課題でした)
「自由主義史観」との一番の違いは、猪間らが、戦争や植民地主義が政策として誤りであるということを、まず前提にしていたということだと思います。彼は、石橋湛山や上田貞次郎と同様に、日本が間違った選択をしたと考えていたはずです。
また、重要なことは、植民地統治の中に評価できる部分があるからといって、植民地主義や戦争を肯定することはできないとしていたことです。猪間は、「戦争を遂行していること自体が害悪」という言い方でそれを示しています。
ただ、現実は現実として受け入れ、その中で日本の前途のために最善を尽くそうとするのが彼のやり方だったのだと思います(このあたりが新自由主義者に共通した態度であるように思われます)。
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歴史的調査が語るもの4

以前にも触れたことがありますが、ここで、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』「総論の一」の「結論」から、石橋湛山らの言説・活動を指すと思われる、日本の「平和主義的な思想」、「平和主義的な勢力」に言及した部分を抜き書きしておきたいと思います。
「大正三年(1914年)勃発した欧州大戦は、日本の国際的地位に一大変化を与えた。日本はいち早く連合国側に立って参戦し、(・・・・・・)この間、日本は武力を背景にして、大陸における足場を固めんとした。大正四年(1915年)の対支21カ条要求はその著しい例である。これに対する反動は平和とともに来たり、大正九−十年(1920〜21年)のワシントン会議において、日本の戦時中のかかる努力は多く空に帰せしめられた。しかしすでにパリの講和においては、国際連盟から南陽群島の統治を委任せられて、日本の勢力は遠く太平洋に伸び、大陸においても、1917年のロシアの革命は一時日本の北方の脅威を除き、その事実上の勢力は深く浸透することができた。
しかしかかる武力的勢力の採った政策に反対する平和主義的な思想は、民主的な勢力とともに、大戦中よりも著しく複雑化し、近代化された日本の社会に伸長しつつあってのであって、ワシントン会議における海軍軍縮条約に対する軍部の強い反対を抑えてこれを成立に導いたのは、かかる新興の思想ないし勢力であった。その思想ないし勢力は、引き続いて陸軍軍備縮小にも、小規模ながら成功し、対外的にはいわゆる幣原外交となって現われたのである。この平和外交の一つの著しい表現は、ワシントンで結ばれた中国関税条約に基いて開かれた1925年北京関税会議において中国が要求する関税主権に対し日本が列強に率先してこれを承認した点に認められる。」
「満州事変は昭和六年(1931年)九月、此の恐慌の最中に勃発した。それは近因としては内外に種々なるものが挙げられるが、根本に於ては前期の終に生じた満州に於ける日本の地位の危殆化に対して武力を以て対応せんとするものであり、当時の日本に於て政権を占め、国民思想の主流となっていた平和主義的民主的の潮流への反動であり、世界経済のブロック化に応じて日本の食料重工業資源を満州に確保して、その武力的基礎を固めんとする要求を持ったものであった。」
このように、平和主義的勢力、民主主義的勢力が日本の外交のあり方に与えてきた影響、あるいは、ここには引用していませんが、台湾の植民地統治のあり方に与えてきた影響等についても分析が加えられています。

posted by wada at 12:26 | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする