2009年07月02日

湛山に学んだこと3

これだけ評価の定まった文書であるわけですが、これを書いた猪間にとって、この書はどのような意味を持つものであったのか。
前述の「石橋湛山さんとクラーク博士」は、次のように続きます。「(石橋さんに)教わったことには、経済論もあり、時事世潮に対する見方についてのこともある。しかし一番教わったのは、筆を執る者は、局に当たったら自分が実行せねばならないという責任を思え、ということである」
私には、この「筆を執る者」の心構えというのが、この『歴史的調査』編纂のとき、猪間が自らに課していたものに思えてなりません。
同じパラグラフには、「私は私の政治的良心に従います」という湛山の総理辞任の辞が引用されていますが、これは、単に湛山の人となりを紹介したものではなく、この歴史的な大仕事をなした自分をjustifyするためのものではなかったでしょうか。つまり、自分は、良心に恥じることなく、この重責を果たしましたという密やかな宣言を込めたもので・・・。
私は、猪間が執筆したと思われる、総論の一部分を読んだにすぎませんが、正直なところ、政治的なバイアスがかかっているようには思えませんし、小林氏が述べているように、タイトルの「海外活動」ということばが、「暢気な表現」にも思われません。むしろ、政治的バイアスがかかっていても当然であるこの種の文書が、統計的数字に裏打ちされた、歴史書としてもその後に類を見ない客観性をもっていることに驚きを禁じえなかったほどです。
猪間は生涯、この書について口外することはなかったようです。
ただ、湛山の公職復帰と時期を合わせるように、彼の政治的発言、言論活動が活発になります。そのまま行けば湛山のブレーンにでもなるのではないかと思われた矢先・・・こうした活動が、突然、沙汰止みになります。1952年の夏、猪間の長男が自殺するのです。
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湛山に学んだこと2

『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の一般的な評価について、Wikipedia等から引用すると次のようになります。
・敗戦直後の1946年9月、大蔵省は、日本人の在外財産の処理と連合国の賠償支払問題への対応のため、省内に「在外財産調査会」を発足させ、11の地域篇に分けて、在外財産評価推定の作業を行った。
・この調査をもとに猪間驥一(元東亜研究所所員・満洲商工公会常務理事)・鈴木武雄(京城帝大教授)・北山冨久二郎(台北帝大教授)・金子滋男(台湾銀行)らの編纂による『日本人の海外活動に関する歴史的調査』全11篇37冊が1947年12月ころ作成された。この報告書は1950年までに大蔵省管理局より刊行され、各方面に配布された(この時点では一般に公刊されていない)。
・「序」には、「日本及び日本人の在外財産の生成過程は、言わるるような帝国主義的発展史ではなく」「日本人固有の経済行為であり、商取引であり、文化活動であった」とあり、明確に日本の植民地支配を肯定する立場に立っている。そのような政治的バイアスにも関わらず、多くの基本的な統計資料を含んでいることから、日本による植民地支配の歴史を研究する際の基本文献とされている。
さらに、復刻版の出版に至るまでの経緯が、以下のように紹介されています。
・ごく限られた関係者のみに配布された部外秘の報告書であったにもかかわらず、高水準の学術的内容を含むことから、研究者の間では早くからその存在が知られており、一部ではマイクロフィルムやコピーといった非公式な形で密かに閲覧されていた。
・1970年代、復刻版の刊行が研究者により企てられたが、著作権侵害として国から刊行差し止めが求められ敗訴した(最高裁昭和59年3月9日判決:事件番号57(オ)753)ことから実現しなかった。
2000年、ゆまに書房から小林英夫の監修により全23巻の復刻版が刊行される。
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湛山に学んだこと1

猪間驥一と石橋湛山の関係が深まるのは戦後のことと思われますが、両者の終戦直後の年表を重ねてみると、ある事実が浮かび上がります。
1946.5 湛山、第一次吉田茂内閣で蔵相等就任
1946.11 猪間、一年の幽囚生活の後、帰国
1947.5 湛山、公職追放令により追放
1947.12頃 猪間、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(大蔵省)
1948 猪間、中央大学教授就任
1950 猪間、『統計図表の見方画き方使い方』(東洋経済新報社)
1951.8 湛山、公職追放解除
1952.1 猪間、「うたかたに映りし面かげ」(『統計』)
1952.5 猪間、「学生へのアッピール」(『中央評論』)
1952.8 猪間、「八月十五日―無条件降伏」(『時事新報』)
1952.8 猪間、「再軍備のための憲法改正の一提案」(『東洋経済新報』)
猪間の『人生の渡し場』の「石橋湛山さんとクラーク博士」には、以下のような件があります。
「その先生(石橋湛山)から一番教えを受けた教室というのは、石橋さんが前任主事の三浦鉄太郎先生と諮って、東洋経済新報社の楼上に設けられた、経済クラブに私も入れて頂いたので、十余年にわたって時々出かけたクラブの食卓と、石橋さんが占領軍の追放を受けて、浪々の身を駿河台の或る小ビルに潜めて居られた間の、その狭い事務室であった」
彼は、湛山が公職追放を受けて駿河台の小さなビルに身を潜めていたとき、頻繁に湛山の元を訪ねていたことがこれでわかるわけですが、これがちょうど、彼が、京城帝大教授の鈴木武雄らとともに、膨大な歴史書、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』を編纂していた時期に重なるのです。
猪間の執筆過程において、湛山の関与(助言等)があったのかどうかわかりませんが、少なくとも猪間が湛山を意識してこの書をまとめたこと、そして、湛山が早い時期にこの書を読んでいたことは間違いないと思われます。
蛇足ながら、この時代、中央大学は駿河台にあって、行き来にも便利だったはずです。
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中国大陸に渡って2

ところが、戦前戦中は順風満帆に思われた猪間の生活が、戦後になって一変します。『人生の渡し場』から、一年余りの幽囚生活、日本への引揚げの状況について触れた部分を、そのまま引用したいと思います。
「八月九日にソ連の参戦があってからは、関東軍の軍人軍属の家族を真っ先に、政府・満鉄・特殊会社関係者の疎開が始まる、最後の徴募が行われ、郊外には戦車濠の掘鑿が強行される、銀行の取付け、食糧の買漁り、奥地から避難して来た者、家財をまとめて逃散しようとする者、市中は右往左往の大混乱です。こうした中に、あの十五日正午の詔書放送となりました。(・・・・・・)
やがて入城して来たソ連兵、その装備の劣悪さ、老人少年もまじる組織の不整一には、一驚を吃したのですが、素質はその見かけ以上に劣等で、暴行略奪、目にし、耳にするところ、いきどおりの種ならざるはありません。しかしわずかの落度にも、直ぐに一区域の日本人全部を、連座で所罰する、その所罰が生死にかゝわるというのでは、手も足も出ません。(・・・・・・)
さて、これから一年余の幽囚生活であります。
大きい社宅は、接収されないまでも、目立って危険ですから、疎開逃散後の空家が附近に多いを幸い、小さい住宅を選んで移りました。周囲には鉄条網を張りめぐらし、ガラス窓はすべてピッタリ板張りして、ソ連兵と暴徒とを防ぎ、日暮れゝば男子は夜警に出ます。(・・・・・・)
終戦後一年、夏とともに、いわゆる日僑の遣送が始まりました。何が、だれが、待つか、待たぬかは知られぬながら、なつかしい故国へ帰られる日。南新京の駅を出る無蓋貨車の列車。乗りこむ人も、送る人も涙でありました。(・・・・・・)」
夫人と5人の子供たちを連れての、文字通り、命からがらの帰国であったようです。猪間の略歴には、彼が在留日本人会役員、日僑善後策連絡処役員として新京在留邦人の引揚げに尽力したことが記されています。
コミュニズムには、もともと嫌悪感を抱いていた猪間でしたが、自ら保守反動派の旗幟を鮮明にしたのには、大陸でのこうした経験があったからだと思われます。
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中国大陸に渡って1

1938年、背広ゼミナールの解散。猪間はこの年、東京市政調査会を辞して、東亜研究所の調査員となります。
1940年、上田貞次郎の急死。その後も、同人たちの集まりは続けられていましたが、今度は、猪間自身が、新京及び満州商工公会の常務理事となって、中国大陸に渡ることになります。
なぜ、大陸に渡ったのか。一高以来の友人である内海丁三の目にも、これは意外なものに映ったようです。
「その後、市政調査会に暫く在籍した上、大陸に渡って満州国商工総会の専務理事というか、とにかく羽振りのよい仕事をしていると、戦時中時折り耳にしたものである。私と猪間君との関係が、空間的にも、仕事的にも全く懸け離れた期間は、君が終戦で引揚げるまでのその数年間だけであったように思う。私は当時、満州国などのような無理に造り上げられた、見せかけの“新興国”に何としても興味を抱けなかったものだが、猪間君が何故に満州に渡る気になったか、その心境を聴き質す機会はついになかった。私自身も後にはそんな疑問は忘れてしまった」
学びの場では、派閥を超えてでも、これぞと思う師の下を渡り歩いていた彼が、仕事となると、誘われるがままに動いてしまう不思議・・・。
大学に残ったのは、河合栄治郎の助言によるものであり、東京市政調査会は、大学にいづらくなったとき、先輩の誰かに「拾われた」ものであり、東亜研究所も、新京及び満州商工公会も、やはり請われて行ったもののようでした。
もちろん上田貞次郎という師を失った空しさ、準戦時体制下の息苦しさから心機一転したいという気持ちもあったと思われますが、おそらく必要とされる場所で最善を尽すのが、彼の仕事の流儀なのでしょう。翌年には、家族も呼び寄せます。
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2009年07月01日

7月のマタニティヨガ

「助産師グループCOCO」からのお知らせです。

7月のマタニティヨガ教室
日時:7月18日(土)10〜12時
    7月25日(土)10〜12時
    7月31日(金)10〜12時
会場:東京都小金井市公民館本館生活室(福祉会館3F)
アクセス:JR武蔵小金井駅南口から徒歩5分
参加費:500円
詳しくはリンク集から「助産師グループCOCO」をごらんください。
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2009年06月30日

上田貞次郎とともに14

「育てよ病ますな」という標語はどのように生まれたのか。
ここで、猪間の果たした役割の重要性について述べておきたいと思います。
小田橋貞壽によれば、上田が「日本の将来人口の予測」を試みたとき、つまり『日本人口問題研究』の第一輯が上梓されたとき、死亡率を一定と仮定することについて、「そこには予測としての欠点があるけれども、死亡率減少の傾向を数的に仮定することは極めて困難である。又実際にはこれが甚しき誤差にならないと信ずべき理由もある」。ただ幼児死亡率は激減しつつあるので「将来に於いてさらに幼児死亡が少なくならば私の推算は当らないこと申すまでもない」と自らその欠点を認めていたといいます。
とはいっても、上田が「特に乳幼児死亡率につき精密なる研究を行った」のはその後のことであり、その結果をまとめたものが、「最近十四年間に於ける出生率及び死亡率の低減」(『日本人口問題研究』第二輯)でした。
こうしてみると、上田が乳児死亡率の低減という現象について注目したのは、1934年頃のことではないかと推察されます。そのときテキストとして用いられたものは、猪間の『都市に於ける妊産婦保護事業に関する調査』だったはずです。
その研究で、日本が、多産多死から少産少死社会に向かっていることを確信した上田にとって、30年代末に始まる、多産奨励のキャンペーンは、青天の霹靂だったと思われます。
これに対して自分に何ができるかと考えたとき、頭にひらめいたのが、20年代の妊産婦保護事業だったのではないでしょうか。というのは、この事業は、戦前に具体的な成果を上げた唯一のプログラムであり、多産に対して有効なことが実証されており(その結果、少産少死化が進むわけですが)、猪間の研究により、活動の形態、投入の予算、人数等も試算済みであったのですから・・・。
「欧米諸国では、母性保護を目的とする種々の施設があるが、我国では殆んどこれを見ることが出来ない現状である」と上田は書いており、妊産婦保護施設の具体的なイメージがあったこともわかります。
「少なく産んで、りっぱに育てよ」という文言は、すでに知られていましたが、その前半部分を多産奨励策によって覆された今、最後の拠りどころになる自らの理念を、「育てよ病ますな」という標語に託したのではないかと、私は推察しています。
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上田貞次郎とともに13

1938年、背広ゼミナールは解散となり、準戦時体制の下、メンバーはそれぞれの道を歩み始めます。上田は、1938年、国立人口問題研究所の設置が決り(39年発足)、40年に参与が発令され、その一人となります。
1938年の人口動態が、翌39年に発表されたとき、自然増加が約30万の減少を示したことから(このあたり、私の資料の読み間違いがあり、100万から30万に下がったのではなく、30万減少したということでした)、「産めよ殖やせよ」という多産奨励策が声高に叫ばれるようになるわけですが、これに対置させるために、上田が持ち出したのが、「育てよ病ますな」という標語でした。
「我国現下の人口問題」(講演)で、上田は、戦争が人口に及ぼす影響を、ドイツの例を取り、説明しています。
すなわち、人口ピラミッドが、ある年齢のところが欠けているために、日本のようにピラミッド型にならず、紡錘型になっていること。国内の食糧物資が不足すると犠牲になるのは小さな子供で、乳幼児の死亡率が増加して、引いては後年、大人の人口を減らす原因になること。また、多くの戦死者が出て、後年まで大きな影響を及ぼすこと(「子供のない国民」)。
一方、さらに重要な問題として、死亡率の問題があること。日本の総人口に対する死亡率を見ると段々に下がってきており、これは喜ばしいことであるが、欧米の死亡率に比べるとまだ非常な高率を示していること(5歳になるまでに4分の1が死亡)。
「産めよ、殖えよ」には確かに根拠はあるが(と譲歩しつつ)、「育てよ、病ますな」ということを同時に考えてもらいたいと、上田はくり返し訴えるのです。人的資源ということばを始めて用いたのも、この時期のことでした。
上田の遺稿となった、「支那事変と我国人口問題」でも、「事変の結果として第一に現わるるは出生の減少であるが、それに対する政策は産児奨励のみではない。むしろ産まれたものの健康を維持し、その死亡を少なくすることに重点をおいてしかるべきである」として、「育てよ病ますな」の標語を提言しています。
そして、「もし我国の乳幼児及び少年層の死亡率が一躍して欧州と同じくなるならば、たとい現在の産児は少なくなっても、二十年後の生存者は却って多くなる計算である」と、その本質において、軍部のキャンペーンに真っ向から対立する論理を展開したのです
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上田貞次郎とともに12

『日本人口問題研究』第三輯には、上田が、ヨセミテで開かれた太平洋会議に提出した、英文データペーパー翻訳「日本に於ける人口増加と職業の変化」が収録されています。
上田は、前回の会議で、「日本人口の将来」という報告を提出し、日本の人口問題の核心が、人口総数の増大にあるのではなく、生産年齢人口が当面激増を継続せざるをえない点にあることを指摘し、要点を以下のように説明しています。
出生数増加の傾向は1920年以降すでに弱まり、出生率は著しく低下してきたこと。したがって、最近の人口の増加は、主として死亡率とくに乳児死亡率の低減によるものであること。日本の人口は当面、増加を続けるであろうが、最終的にはその勢いが極めて緩慢になる時期が訪れるであろうこと。
しかし、一方で、現在すでに生まれている人口は膨大な数に上っているので、近い将来において、職業を必要とする生産年齢人口は激増せざるをえないこと。したがって、根本問題は、この増加する生産年齢人口に対して、いかにして職業を与えるかという点にあること。今後、農業の発展には多くを期待できないので、現在の生活程度を維持する道は、工業化以外にはないこと。
上田は、過去のデータから、今後生まれる人口を毎年210万と仮定し、生産年齢人口(15歳〜59歳)が、1930年から1950年までの20年間に1,000万に上るという予測を立てるのですが、その結果はどうだったのか。
1935年の国勢調査では、人口総数が、上田の行なった推計より、約100万多いことが確認されますが、予測が外れた大きな理由は、一定と仮定していた死亡率、とくに乳児死亡率の改善によるものでした。一方、生産年齢人口については、推算と実数とが比較的よく一致したといわれます。
こうした数字を踏まえて、上田のグループは、職業を与えうる産業の種類・規模等を考えようとしていたのです。
20年代の妊産婦保護事業が、乳児死亡率という出生直後の問題に対処するものであったのに対して、30年代の「要職業人口」政策は、すでに生まれている生産年齢人口、あるいは、これから10数年後に生産年齢に達する人口を対象に考えていかなければならないところ(つまりそのタイムラグ)にも、むずかしさがあったわけですね。
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2009年06月21日

上田貞次郎とともに11

『日本人口問題研究』第三輯は、1936年、2.26事件の後の4月に出版されます。同じ年の8月に、ヨセミテで開かれることになっていた、太平洋問題調査会の国際会議が意識されていたようです。
猪間の「東京及び大阪に於ける公務下級従業者の生活状態」は、太平洋問題調査会の依頼により、英文への翻訳を目的として起草されたものでした。
他の国々との比較検討が行なわれることになっており、小学校教員、巡査、吏員、電車従業員という、どこの国でも同じような仕事内容をもつ職種が取り上げられています。
外国人読者のために、この種の職業に就く者の数、給料、制度的なものについて、簡潔な説明が加えられており、私たちにとっては、30年代の状況を知るのに、うってつけの資料でもあります。
猪間による家計調査分析のうち、もっともユニークなものは、いわゆる「贈答費」が社会保険の役割を果たしているという指摘でしょう。
「これは他人の家に事件があった際、見舞を与えて置いて、何時か自分の家に事件が起る際に、その反対給付を受けると言う、自然的に発達した社会的制度なのであって、社会保険が極く一部のみ行われ、一般的に発達していない日本に於ては、之に代る所の機能を営んでいると言ってよい」
猪間は、これに先立って、『都市問題』誌上に3つの論文、「最近物価低落期に於ける大阪市労働者家計支出の変化」(1933)、「家計調査に現れた各国労働者の生活状態」(1934)、「最近六年間東京市勤労階級家計の変化」(1935)を発表していますが、その中でも、この贈答費=社会保険代用説が展開されています。
(ちなみに、日本初の医療保険法である健康保険法は1922年に公布され、関東大震災をはさんで、1927年に施行されていましたが、国民健康保険法は、1938年の制定を待つことになります)
また、一般に日本の小所得者が極めて勤勉であること、社会保険については、その不備を貯蓄によって埋め合わせしようとしていることなどが強調されています。
上田が日本代表として参加した、このヨセミテ会議の成果については、小田橋貞壽も、猪間も、触れていません。日本国際協会から、『太平洋問題 : 第六回太平洋會議報告』(1937.6)が出され、上田が、「ヨセミテ会議に於ける通商問題」を書いているので、それを読めば様子が分ると思いますが、後の課題としたいと思います。
この報告書が出された、翌7月、日本は日中戦争に突入します。
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