東京を何日か離れていたので、前回の記事を放りっぱなしにするかたちになりました。ほんとうは記事を書く前に、『石橋湛山日記』の、増田弘による「解説」を読んでおくべきだったのですが・・・
その間、いくつかのことが判明したので、今回は、細かな訂正をするのでなく、現段階でこうではないかと思っていることを、
そのまま述べてみたいと思います。
さて、「解説」を読んで初めて気づいた重要な点ですが、湛山日記は、1949年分が欠落しており、増田氏はこれを「公職追放中であり、当局からの追放を避けるため、記録を残さなかった可能性がある」としています。したがって、この年の日記が残されていたら、さらに何回か、猪間の名前が記載されていたことが考えられます。
また、これは訂正になりますが、前回、猪間の名前のある13ヵ所を抜書きしましたが、同じページに2回出ているところがあって、実際に名前は14ヵ所で登場します(この分については、追記にて訂正しました)。
私の考える猪間が報告書を完成させた経緯は以下のようになります。
1946年11月、猪間帰国。湛山日記に「1946年12月3日:官庁職員
組合代表、引揚者代表と夫々会見」とありますが、引揚者代表というのが猪間を指しているとすれば辻褄が合います。この日、湛山は、猪間が『日本人の海外活動に関する歴史的調査』と名づけることになる報告書の執筆依頼をしたのではないでしょうか。
1947年5月、湛山の公職追放。6月13日、海運局の講演会の前または後で、猪間は湛山と善後策を話し合った可能性があります。
1947年12月、猪間ら脱稿。12月1日の自由思想協会
研究会の前か後に、猪間は経過報告をしているのではないかと思われます。
1948年2月13日、「
事務所で常例研究会があり、猪間氏より米国の
労働法について報告を受ける」というのは、いくらでも他の可能性を考えることができると思います。猪間は、とくに法律の専門家というわけではありませんし・・・。
1948年10月8日以降、1949年12月末日以内に、自由思想協会研究会の活動への圧力で、湛山の事務所が閉鎖されているので、猪間が湛山のもとを訪れ、「湛山が身を潜めていた」としていたのは、1949年より前ということになります。
1950年7月、印刷製本が完成。刊行を遅らせ、担当部署を大蔵省管理局から理財局に移し、序・本文の両方から湛山の名前を削除するということを、私は猪間が意図的に行ったのではないかと推測しています。「1950年7月15日:午前猪間驥一氏来談」というのは、この報告または最終的な詰めのいずれかのためだったように思われるのですが、いかがでしょうか。
「解説」には、「石橋が日記の公開をまったく意識せずに執筆していたことはまちがいなく」と書かれていますが、この在外財産調査プロジェクト(と仮に呼んでおきます)だけは、最初から極秘裡に行われたもので、日記からも意識的に「外された」部分なのではないかと私は考えています。
なお、猪間以外の執筆者、鈴木武雄、北山富久二郎、金子滋男の名前は、湛山日記に一度も登場しません。
posted by wada at 20:13
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