2012年01月26日

湛山の表現をそのままに!

大学院の紀要のために書いている論文の締め切りが迫る中で、石橋湛山関連の文献から重要なことが分かりました。『湛山回想』の中に次のようなことが書かれています。
私は明治天皇崩御の直後「明治時代の意義」と題し、『東洋時論』(大正元年九月号)に次のごとく記した。
「多くの人は明治時代の最大特色を以て、その帝国主義的発展であるというかもしれない。……しかし僕は明治時代をこう見たくない。而してその最大事業は、政治、法律、社会の万般の制度及び思想に、デモクラチックの改革を行ったことに在ると考えたい。軍艦をふやし、師団を増設し、而して幾度かの大戦争をし、版図を拡張したということは、過去五十年の時勢が、日本を駆ってやむを得ず取らしめた所の偶然の出来事である。一時的の政策、偶然の出来事は、時勢が変われば、それと共にその意義を失ってしまう。しかし明治元年に発せられた世に有名な五事の御誓文を初めとして、それ以後、明治八年の元老大審両院の開設詔勅、明治十四年の国会開設の詔勅等において、幾たびか繰返して宣さられた公論政治、その光輝の発揮せらるることありとも、決して時勢の変によってその意義を失ってしまうようなことはない。
而してもし明治年代が永く人類の歴史の上に記念せらるるとすれば、実にこの点いおいてでなければならぬ。しかも我が国民の上下は果してこの点においてどれほど深く明治時代の意義を意識し、而してこれを完成する覚悟をもっておるであろうか。」
猪間驥一が『日本人の海外活動に関する歴史的調査』総論の「序」に書いた、「日本及び日本人の在外財産の生成過程は、言わるるような帝国主義的発展史ではなく、国家或は民族の侵略史でもない」の中の「帝国主義的発展ではない」という表現の由来は、実にここにあったのですね。
また湛山は、この『湛山回想』の中で
ワシントン会議は、軍縮会議として十全の成果は収めなかったが、しかし列国海軍の基本を成す主力艦に制限を加え、さもなければどこまで走ったかもわからぬ形勢にあった建艦競争を、爾後十五年にわたって防止した功績は偉大であった。
とも書いており、こうした見方が猪間の主張の根拠となっているように思われます。
石橋湛山と1920年代の幣原外交との関係について、長幸男は「解説」の中で次のように述べています。
湛山は幣原の人格に私淑しただけでなく、大正後期から昭和初期における幣原外交路線を基本的に支持し応援した。(……)幣原が全権委員となったワシントン会議(1921‐22年)の推進・成功のために全力をあげて論じた。それだけでなく、(……)列強の勢力均衡の軍縮にとどまった同会議の“思惑”をこえて、帝国主義戦争と植民地領有を全面的に否定した徹底した世界平和構想(……)を打ち出した。この間、軟弱外交と非難された幣原国際協調主義を擁護し、軍のアグレッシヴな大陸政策や軍備拡張を始終批判しつづけた。
『日本人の海外活動における歴史的調査』総論(鈴木武雄の朝鮮篇等と区別しています)は、湛山の思想・歴史観が書き込まれたものと見て間違いないでしょう。これが戦後の長きにわたって、「明らかに植民地主義を肯定する立場で書かれた」と見なされていることについては、とくに歴史学に携わる人々による早急な再検討が迫られていると思います。
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2012年01月14日

幣原喜重郎の「経済外交」4

幣原喜重郎全権のワシントン会議第6回総会(1922年2月4日)席上での発言:
日本は条理と公正と名誉とに抵触せざる限り、出来うるだけの譲歩を支那に与えた。日本はそれを残念だとは思わない。日本はその提供した犠牲が国際的友情及び好意の大義に照らして、無益になるまいという考えの下によろこんでいるのである。日本は支那に急速なる和平統一が行われ、かつその膨大なる天然資源の経済的開発に対し、緊切なる利益を持つものである。日本が主として原料を求めまた製造品に対する市場を求めねばならないのは実にアジアである。その原料も市場も支那に善良安定の政府が樹立され、秩序と幸福と繁栄とが光被するにあらざれば得られない。日本は支那に数十万の在留民をもち巨額の資本を投下し、しかも日本の国民的生存は支那の国民的生存に依存すること大なる関係上、他の遠隔地にある諸国よりもはるかに大なる利害関係を支那にもつことは当然である。
日本が支那に特殊利益をもつということは単に明かなる現実の事実をのぶるに過ぎない。それは支那もしくはその他のいかなる国に対しても有害な要求もしくは主張をほのめかすものではない。日本はまた支那において優先的もしくは排他的権利を獲得せんとする意図にも動かされていない。どうして日本はそんなものを必要とするのか。どうして日本は公正かつ正直に行わるる限り、支那市場において外国の競争を恐れるのか。日本の貿易業者及び実業家は地理上の位置に恵まれ、また支那人の実際要求については相当の知識をもっておる。したがって彼らは別に優先的もしくは排他的権利をもたずとも、支那における商工業及び金融的活動において十分にやって行けるのである。
日本は支那に領土を求めない。しかし日本は門戸開放と機会均等主義の下に日本のみならず、支那にも利害ある経済的活動の分野はこれを求める。日本は国際関係の将来に対し、全幅の信頼を抱いてワシントンに来た。しかして今やその信念を再確保してワシントンを去らんとしている。日本はこの会議が善い結果をもたらすと思うた。しかして実際よい結果をもたらした。
今や国民的福祉を破滅し、国際的平和に有害なる海軍軍備の競争は過去のこととなった。海軍軍備の制限、野蛮な戦争方法の禁止、支那問題に関する政策の確定を規定する諸協定の成立によって緊張は解けた。本会議はまた太平洋の委任統治に関する困難なる問題並びにさらに困難なる山東問題を解決する機会を与えた。
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投稿論文のこと、研究のこと

●先日、『都市問題』のために書いていた原稿が、同誌の3月号に載ることになったという連絡がありました。まだ細かな手直しは必要なようで、完全に解放されたわけではありませんが、こういう原稿を抱え込んでいると他のことが何も手につかなくなる人間なので、とりあえずホッとしています。ただ、ホッとしたついでに、今月中に書かなければいけない紀要のための原稿のことを忘れてしまいそうなのが恐いです(考えてみたら、あまり時間がありませんね。他にもやるべきことがあるのに…)。『都市問題』の件は、決定したらこのブログでお知らせします。
●そのやるべきことの一つが、石橋湛山の小日本主義の幣原外交への影響の検証です。これは、紀要の原稿の後半部分にも反映させるつもりであり、何より博論の概要をまとめるのにどうしても必要です。ということで、これからしばらく、幣原平和財団『幣原喜重郎』(1955年)からの引用が続きます。初めは、ワシントン会議前後のものから。
@幣原喜重郎全権のワシントン会議第6回総会(1922年2月4日)席上での発言
A高橋是清首相の加藤友三郎、埴原久和代両全権慰労会(1922年3月12日)の席上における挨拶
B幣原喜重郎全権の『ニューヨークタイムズ』の月刊誌『カレント・ヒストリー』(1921年12月号)における談話「日本の率直なる公式声明」
Bは会議の前のもので時間的には先なのですが、長いので後回しにします。
●学部の稲葉ゼミに入られている、ただ一人の学生さんが、いろいろお話をしているうちに、お祖父様のそのまたお祖父様が横浜正金銀行の頭取、児玉謙次(1871-1954)で、この方が、高橋是清(1854-1936)と親しく姻戚関係もあったということがわかりました。児玉謙次の一番上のお孫さん(学生さんのお祖父様)と、高橋是清の一番下のお孫さん(アンクル・トビーと呼ばれている)は今も親しい関係にあり、この学生さんから申し出があって、アンクル・トビーから高橋是清についてのお話を聞く会を企画することになりました。今年度中に準備をして、来年度初めの実施を考えています。内容については今のところ未定です。
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2012年01月08日

幣原喜重郎の「経済外交」3

服部龍二著『幣原喜重郎と二十世紀の日本 外交と民主主義』(2006年)にも、第1部第2章に「経済外交の行方」という節が設けられています。
この中で目についたのが、「北京関税特別会議」のところにある「ここでの幣原は経済的な利益に固執するあまり、柔軟な協調外交を見失っていた」という表現、あるいは「北伐と南京事件」にある「このような判断の根底には、経済的利益を重視する国益観があった」というような表現です。
著者の方にはたいへん申しわけないのですが、おそらく著者の意図するところとはまったく逆の観点から、私はこの表現に一つのひらめきを得ました。
それはつまり、幣原喜重郎の平和外交とか自由主義外交と呼ばれるものは、実は一貫して経済的利益を追求して来たものではなかったかというものです(私は、経済的利益を最優先させる姿勢を悪いものとは思わず、むしろ望ましいものと思っています)。
そうすると、幣原外交の批判されている部分の多くが、合理的意味をもってくるのではないかと思うのです。つまり、幣原外交は、外国の圧力に屈するような軟弱なものでも、理想主義的なものでもなく、現実に即した相当したたかなものであったということです。
いい方を変えれば、幣原の行ってきたのは、総体として「経済外交」と呼ばれるべきものであり、ひと言でいうと、まさに「幣原の小日本主義外交」とでも呼ばれるべきものだったということです。
この幣原外交の存在を踏まえて、猪間驥一は、日本人の海外活動が帝国主義的発展の過程ではなく、小日本主義に基づいたものであったと主張しているのだと、いま改めてその歴史観の深みを思います。
なお、この著書をきちんと読むことなくして、こんなことを書いてしまって(石橋湛山の小日本主義への言及もあるのにそれにも触れず)、著者の方には重ねてお詫び申し上げます。
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幣原喜重郎の「経済外交」2

幣原平和財団『幣原喜重郎』(1955年)には、第9章「外務大臣時代(上)」のところに「経済外交の展開」という節があって、今回はそこからの引用です。幣原という人は、いわゆる幣原外交だけでなく、「幣原の経済外交」も有名だったのですね。
幣原が外務大臣に就任したころのことですから、1924年頃のことということになります。
幣原が外務大臣に就任したころ、我が経済界の不況は全くそのドン底にあった。何しろ第一次世界大戦後の世界的不況に続いて、関東大震災の厄災を受けたのであるから、果して再起出来るかどうか、すこぶる怪しい雰囲気にあった。(……)彼が断乎実践せんと決意したのは、すべからく「経済外交」を推進し、我が経済界の立直しに協力しようとするにあった。
さて幣原外相はその決意なるや、直ちにその胸奥を佐分利(貞男)通商局長に伝え、彼をしてこれが施策を慎重攻究せしめた。(……)佐分利は真剣になってこれに共鳴し、かつこれが実現に就いて大いに協力すると共に、その出資の普及徹底に努めた。当時佐分利局長が部下に訓示した経済外交の要旨はほぼ左の如きものであった。
「我が国歴代の内閣や各政党は頻りに産業立国を高調して居る。猫額大の領土と年々七八十万の人口増加に苦しんで居る我国としては、産業立国によって国民経済生活の調節をする以外に施策のありよう筈はない。しかも産業立国当然の帰結として海外市場の開拓確保を必要とする論はまたざる所である。すなわち産業立国の政策は経済外交の推進街呼応の経済化によりて初めて完成する。ところで国民生活の前途を国土の膨張とか拡張とかと言う様な事で打開する事は国際協調を破る恐れがある。日本は専ら国内に工業を興し、外国への輸出通商の振興によって国家的な利益を上げ、それによって将来の国民生活の安定を期する、こういう事で行くより外に方法はない。なかんずく、日本に取って一番大切なのは支那である。支那には四億五千万の民衆が居る。これは日本の工業でまかなうのに最も手頃なマーケットであり、何とかしてこの四億五千の消費者を日本の為に確保しなければならぬ。日本の強敵としては英国もあればドイツもあるが、何と言っても日本は支那に一番近く運賃の点で優位であり、労働賃金の上から言っても日本が最も競争力が強い。だからこの強味を利用して、支那という大マーケットを日本の為に確保する事が先決問題である。その上に日本の手近な仏印、オランダ領東インド(今のインドネシア)或はシャムなどの東南アジア、これも支那に次いで日本の為に絶好のマーケットである。そこでまず一番近い支那から始め段々東南アジアに及ぼし経済立国の基礎とすべきである。」
英・米・インドを通商の相手国とする大切さについては書かれていませんが、中国をマーケットとして確保することが重要なのだとする視点は、当時、画期的だったのではないかと思います。
なお、「幣原の外務大臣在職中に行なわれた列強との通商条約の締結又は改訂されたものは約十数ヵ国に上る」といいます。
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幣原喜重郎の「経済外交」1

いま幣原喜重郎の『外交五十年』を読みながら軽い興奮状態にあります。
幣原関連の書は、石橋湛山の小日本主義との直接的つながりを示すものはまずないだろうと思い、これまで後回しにしていたのですが、湛山とのつながりはともかく、貿易立国を重要視していたことを示す文献、あるいは小日本主義的発想を示す文献は見つかるかもしれないと思いついて、先日、図書館から以下の5冊の本を借り出してきました。
幣原喜重郎『外交五十年』(1951年→復刻版1974年)
幣原平和財団『幣原喜重郎』(1955年)
宇治田直義『日本宰相列伝17 幣原喜重郎』(1958年→新装版1965年)
岡崎久彦『幣原喜重郎とその時代』(2000年)
服部龍二『幣原喜重郎と二十世紀の日本 外交と民主主義』(2006年)

そしたら、ほんとうにあったのでした。とりあえず読んだのは、幣原自身の『外交五十年』だけで、あとはぱらぱらめくっただけですがすが、幣原が実際に、小日本主義を地で行くような外交を行っていたことを知ってびっくりしました。
まだメモの段階ですが、これらの中から、目についた箇所を引用しておきたいと思います。
最初は、幣原喜重郎自らが口述した『外交五十年』の「門戸開放と機会均等」からのもの。九ヵ国条約とあるので、1921-22年のワシントン会議のことを振り返っているものですが、彼の考え方がよくわかります。
九ヵ国条約は、極東委員会で討議決定されたのであるが、この条約の中に、中国門戸開放または機会的均等の規定がある。この規定は、日本の中国に対する経済行動を掣肘するため、英米が発案したなどという臆説が、日本の新聞に報道された。ところが実際は、外務省に関するかぎり、この中国における門戸開放、機会均等主義というものは、中国の対外関係を律する一つの重要原則として、日英同盟条約以来、日本が常に主張してきた原則なのである。だから日本が列国と結んだ中国に関する条約の中には、ほとんどすべてこの機会均等主義ということが書いてある。それは日本のために、こういう事が必要だからである。
その理由は、中国において経済活動をするのに、日本は優先的ないし独占的の権利を主張する必要はない。門戸開放とか、機会均等とかいうことは、すなわち公明正大な競争が行われるということである。それならば、わが商工業は外国の業者の競争を恐れることはない。日本は実に有利な地位を占めている。だからわが商工業の正当な進路を妨げるものは、かえって機会均等主義の違反であって、ボイコットの如きがそれである。

追記(1/9):
読みながら、登場する人物がよく亡くなるので不思議に思っていたら、それもそのはずで、GHQ占領下の1951年(新聞連載はそれ以前)頃の微妙な時期、生きて要職にあった人(湛山もその一人)のことなど書けませんね。また幣原は日記をよく書いていた人のようですが、1923年の関東大震災で焼けてしまったようです。
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2012年01月01日

新年おめでとうございます

年末になって思いついた仮説(といえるかどうかわかりませんが…)。
つまり、なぜ戦後になって、大内兵衛ら左翼知識人が日本の思想界、歴史学界の主流たり得たのかという問いに対する答えのようなものですが、それは、戦前に何も行わなかったことを逆に「強味」として利用したのではないかということです。
何かを行っていれば(それは階級闘争以外の何かということですが)、マルクス主義史観からすれば、すべて体制を利することにつながってしまうわけです。今でも、資本主義と帝国主義とをほとんど同義語として使っている方があるくらいですから、貿易は大国が小国を食いものにするだけとして、自由主義者たちは軍国主義に加担あるいは最終的に取り込まれたと片づけることができたわけです。昔、西川長夫が国民国家の議論において述べていた、何を行ってもすべては国家に回収されてしまうので何も行わないほうがよいとする論理(?)が思い起こされます。
何も行っていなければ、そこに「意志」なるものがあったかのように主張することができます。大内兵衛らは、自分たちのことを、反戦・反軍国主義をかかげて闘う意志はあったけれども手足を縛られて身動きできなかったのだと思わせることに成功したということではないでしょうか(私たちが戦前の左翼にイメージする反戦・反軍国主義の運動を、実際に行なっていたのは、反共主義者の渡辺鉄蔵であったのですが…)。
大内は政治判断に長けている人ですから、関東大震災を東京帝大における自らの勢力拡大に利用しようとしたように、GHQの占領下、石橋湛山の公職追放直後、猪間驥一らの『日本人の海外活動に関する歴史的調査』と入れ替わるように始まった『昭和財政史』の編纂においても、この状況を利用して、戦争に至るすべての責任を「高橋財政」に負わせようと目論んだのだと思います。あたかも、自分たちがその時代に、戦争・軍国主義を批判・攻撃していたかのように。
以上は、思いつき以上のものではありませんが、こういうことを明らかにするのも今後の課題となると思います。

いつの間にか年が明けていました。
2012年が私たちにとって明るい見通しのもてる一年になりますように!
タグ:大内兵衛
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2011年12月26日

1936年の経済学者たち2

高橋亀吉
・1935年、朝鮮を視察して『現代朝鮮経済論』を発表する。この中で、第一世界大戦後の農産物の生産過剰、これが世界不況の根本的要因とする分析を行う。これ以降、亀吉は東亜経済ブロックの形成を積極的に支持するようになったように思われる。
・1936年、ヨセミテ太平洋会議に出席。原料過剰な時代にあって、資源に乏しい国が原料獲得の問題で重要なのはマーケットの確保であるのに、これを、「原料獲得の自由」の問題にすりかえたイギリスへの不信感をあらわにしている。そして、会議の報告書の中で、英、米、とくに英国のブロック政策強化に対応して、自衛上、日本を中心とするブロック結成を目標として原料輸入を分散し、ブロックない輸出の増進を図る必要があると訴えた(戦時体制への準備としても必要と考えていた)。
・1937年1月、台湾を視察して『現代台湾経済論』を発表する。内外の政治経済状況の変化についての分析があり、台湾の場合も、「米と砂糖の農業王国」であった時代は終わり、工業化の必要に迫られていると訴えている。日中戦争開始後、亀吉は台湾総督府の行政に積極的に関わっていく。
・1937年、近衛文麿らの昭和研究会に参加し、近衛内閣企画院参与(翌年、企画院専門委員)に任命される。

鈴木武雄
・1936年、ヨーロッパ留学から京城に戻り、高橋亀吉の『現代朝鮮経済論』を読んで、朝鮮の工業化政策へと関心が向いたものと思われる。以後、鈴木はマルクス主義の立場を離れ、朝鮮総督府の顧問という役職に就いて、総督府の行政に時局協力というかたちで積極的に関わっていく。
・日本の満州との間の輸送は、従来、日本海を経由して行われていたが、鈴木はこれに対して、朝鮮半島を日本の最前線の兵站基地化するという名目で、朝鮮の工業化に不可欠な鉄路の整備を図ろうとした(この時点では、幹線鉄道のほとんどが未完成であった)。それが、大陸兵站基地構想(大陸ルート論・北鮮ルート論)である。
・日中戦争開始後、高橋亀吉が鈴木を訪問した形跡があり、両者は、大国の経済ブロック化がすすむ中で、植民地のブロック外の存在はあり得ないと考え、ブロック内にあって工業化を図ることで、実質的な独立をもたらしうるとする点で、意気投合したものと思われる。
・鈴木が朝鮮半島を南北に縦断するルートを重視していた理由が、終戦直後の論説からわかる。
独立朝鮮の国民経済は、かりに全鮮をその範囲とするも国土は狭少、資源は世界的標準より見て貧弱で、その健全な発達には少からぬ困難が予想せられるのであるから、いわんや南北分割が朝鮮経済にとって致命的であることは言うまでもなく明白である。しかも産業の分布状態は南北ほぼ割然と分たれており、北は南なくして、南は北なくして再生産を維持し得ざる相互依存の関係にあることを示している。これを南北に切断することは朝鮮経済を崩壊に導く以外の何物でもないと言わなければならぬ。
南北を分割した朝鮮経済というものは考えることすら出来ない。
(『日本人の海外活動に関する歴史的調査』朝鮮篇より)

渡辺鉄蔵
・1934年2月末、8年間理事を務めた東京及び日本商工会議所を辞める。これは、1933年秋から34年春まで行っていた反産運動が累を及ぼすことを恐れたため。
・1936年1月、衆議院議員(民政党)となる(〜1937年)。その直後に起きた2.26事件を、アントン・ツィシュカの予言「1936年の日本に貧乏なる「農民と軍人による革命」が起る」の的中ととらえる。
・2.26事件以降、渡辺は、「非常時とは」、「生活安定と国防」、「庶政一致」、「外交と国防」、「粛軍の完成」等の論文を次々に発表する。この中で彼は、「5.15事件以来の軍人の行動を警め、ソヴィエット、ナチス、ファッショの模倣の不可なる所以を説き、庶政一致はその必要ありとすれば議会に於いて政党が主張すべきもので、青年将校が革命もしくは革新運動を行わんとすることは筋違いなることを力説し、徒に国防費等の大増加を行うことは危険なること、貿易上利害関係の最も緊密な米国と日本が干弋を交えるが如きは互に無意義なこと、従って国防の充実を行う前に先ず外交方針を定むべきこと等を説いたのである」(『反戦反共四十年』)。
・1938年3月、「ナチ化した日本の朝野に公平な情報を提供して、その反省と冷静な判断を促さんとすることを目的」として、渡辺経済研究所を設立する。

なお、1938年、東京帝国大学・人民戦線事件が起こるが、大内兵衛グループは、学内の派閥抗争を除いて、この事件まで目立った活動をしていないように思われる。
渡辺鉄蔵は、1939-40年頃より、共産主義者たちが、「一列となって猛烈に戦争賛美、大政翼賛、大東亜戦争推進、新体制、八紘一宇論」を展開したとしているが、左翼知識人の「苦悩」が始まる時期に、これは一致する。
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1936年の経済学者たち1

1936年、つまり2.26事件前後の主要な経済学者の言動を追うと、非常に興味深い歴史の断面図が描かれるように思います。ここではそれを、メモの形で書いておきたいと思います(それぞれの活動のあり方の違いと層としての厚みというようなものを個人的にはとても重要なものと考えています)。
時代背景:
1933年3月、国際連盟脱退表明
1933年3月、ILO会議(使用者代表、渡辺鉄蔵)→1938年、脱退表明
1933年6月、ロンドン国際経済会議(深井英五)
1933年8月、バンフ太平洋会議(上田貞次郎、高橋亀吉ほか)
1936年2月、2.26事件(高橋是清蔵相らが殺害される)
1936年8月、ヨセミテ太平洋会議(上田貞次郎、高橋亀吉ほか)
1936年11月、日独防共協定
1937年7月、日中戦争開始


上田貞次郎
・1933年のバンフ太平洋会議以降、上田グループは、今後、激増が予想される生産年齢人口に対してどのような職業が与えられるかという核心部分の研究に入る。1936年4月、この成果が、ヨセミテ太平洋会議を念頭において編集されたと思われる『日本人口問題研究』第3輯に収められる。
・同じくヨセミテ太平洋会議に向けて、10冊の英文資料を作成して提出する。このうち商工業関係のものは、オックスフォード出版局から以下のタイトルで出版され、高い評価を受ける。
・人口問題をテーマにした講演活動を盛んに行う。1934年には、ラジオの生放送で講演が行われた。
・1936年8月、ヨセミテ太平洋会議に出席。日本の大陸政策への疑念が渦巻く中で、日本の貿易立国の必要性を訴える。この会議の後、1936年末に日豪協定、1937年初頭に日米綿業という二つの関税協定が成立する。

石橋湛山
・1934年5月、『東洋経済新報』の英文姉妹誌『オリエンタル・エコノミスト』を発刊する。
・1936年2月より、「貿易に現れたる我国勢発展の趨勢と前途」他、「外国貿易論」を展開する。
・1936年9月、『東洋経済新報』誌上(「世界開放主義を提げて―懊悩せる列強を指導せよ」)、『オリエンタル・エコノミスト』誌上で、以下の二つの提案を行う:@各国が貿易に関するかぎり、その植民地を完全な独立国として取り扱うこと、A巨額の輸出超過をもつ国が、国内事情があるにせよ相手国からの輸入を無遠慮に阻止するような強引な差別政策をやめること。
・1936年以降、インフレ警戒論者に転じ、増税を提言し始める。
石橋は、昭和五年の金輸出再禁止の提唱以来、為替の引下げ、公債発行、財政膨張、物価水準の引上げ、これらを総称して、いわゆるインフレーション政策(別名リフレーション)をとるように高橋蔵相に提言しつづけてきた。この主張は「高橋財政」のなかに生かされて、満州事変以後の軍事費増大というマイナス面を伴いつつ、ともかくも日本経済を「繁栄の孤島」といわれるような活況に導いてきたのであった。軍事費に関して石橋は、軍部の要求をむやみにおさえつける愚をさけ、むしろ国内の生産力の許す範囲でその要求に応じつつ、国策の軍国主義化を議会・政府の力によっておさえようと考えていた。「準戦時」下においても、この考え方は基本的に変わっていないが、結果的には、ファシズムの台頭を防ぐことはもはや不可能であった。
昭和十一年から十二年にかけて、石橋は財政・経済政策に関してはインフレ警戒論者に転じ、増税を主張しはじめる。日中戦争勃発以後軍事費を公債増発によってまかなおうとする傾向が勢いを得るにしたがって、石橋はいちだんと強く大増税を唱えた。その理由は、日本の過剰生産力はすでに一掃せられたという点にある。労働力不足の兆しが各方面に現われ、とりわけすでに熟練工の欠乏に悩んでいた造船・機械・金属工業等において、その度合いはますます深刻になっていた。したがって、これ以上財政が膨張するなら、インフレーションは免れず、輸出の減退、輸入の増加の結果、国際収支は赤字に転じ、日本経済は容易ならぬ事態に陥る――これが石橋の論拠の主要点である。この主張は、その後の財政・金融・物価・為替・貿易等々、すべての論策の基調となって貫いているといってよい。
(『石橋湛山全集第10巻』「解説」より)
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2011年12月25日

牛に引かれて善光寺参り?

実は昨日、東洋大学で開催された、稲葉振一郎×田中秀臣×山形浩生トークイベント「SFは僕たちの社会の見方にどう影響しただろうか?」というものに出かけてきました。
SFなどほとんど読んだことがないのになぜ出かけたのかというと、私のもっとも尊敬するお三方が一堂に会されるというのと、まだ一度も見たことのない山形さんのお顔を一目見たいという好奇心からで、必ずしも褒められた動機からだけではなかったのですが…。
けれども出かけてみて、こんな機会を逃さなくてほんとうによかったと思いました。
それぞれがどのようにSFと出会い、どのように読み深められてこられたのかということから、現在の関心のありかまで、エピソードを交えながら解説してくださって、私の見てこなかった世界の奥深さについて、あらためて教えられる思いでした(同じ国に住んで、読んできたものがまったく違うということを知るのは、食べてきたものがまったく違うことを知る以上にショッキングなことではありましたが…)。
こういうクリスマス・プレゼントというのもあるのですね。
猪間驥一関連のことがある程度まとまったら、このお三方が読まれた本を、小学校時代のものから一冊一冊たどってみたいと思いました。
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