私は明治天皇崩御の直後「明治時代の意義」と題し、『東洋時論』(大正元年九月号)に次のごとく記した。猪間驥一が『日本人の海外活動に関する歴史的調査』総論の「序」に書いた、「日本及び日本人の在外財産の生成過程は、言わるるような帝国主義的発展史ではなく、国家或は民族の侵略史でもない」の中の「帝国主義的発展ではない」という表現の由来は、実にここにあったのですね。
「多くの人は明治時代の最大特色を以て、その帝国主義的発展であるというかもしれない。……しかし僕は明治時代をこう見たくない。而してその最大事業は、政治、法律、社会の万般の制度及び思想に、デモクラチックの改革を行ったことに在ると考えたい。軍艦をふやし、師団を増設し、而して幾度かの大戦争をし、版図を拡張したということは、過去五十年の時勢が、日本を駆ってやむを得ず取らしめた所の偶然の出来事である。一時的の政策、偶然の出来事は、時勢が変われば、それと共にその意義を失ってしまう。しかし明治元年に発せられた世に有名な五事の御誓文を初めとして、それ以後、明治八年の元老大審両院の開設詔勅、明治十四年の国会開設の詔勅等において、幾たびか繰返して宣さられた公論政治、その光輝の発揮せらるることありとも、決して時勢の変によってその意義を失ってしまうようなことはない。
而してもし明治年代が永く人類の歴史の上に記念せらるるとすれば、実にこの点いおいてでなければならぬ。しかも我が国民の上下は果してこの点においてどれほど深く明治時代の意義を意識し、而してこれを完成する覚悟をもっておるであろうか。」
また湛山は、この『湛山回想』の中で
ワシントン会議は、軍縮会議として十全の成果は収めなかったが、しかし列国海軍の基本を成す主力艦に制限を加え、さもなければどこまで走ったかもわからぬ形勢にあった建艦競争を、爾後十五年にわたって防止した功績は偉大であった。とも書いており、こうした見方が猪間の主張の根拠となっているように思われます。
石橋湛山と1920年代の幣原外交との関係について、長幸男は「解説」の中で次のように述べています。
湛山は幣原の人格に私淑しただけでなく、大正後期から昭和初期における幣原外交路線を基本的に支持し応援した。(……)幣原が全権委員となったワシントン会議(1921‐22年)の推進・成功のために全力をあげて論じた。それだけでなく、(……)列強の勢力均衡の軍縮にとどまった同会議の“思惑”をこえて、帝国主義戦争と植民地領有を全面的に否定した徹底した世界平和構想(……)を打ち出した。この間、軟弱外交と非難された幣原国際協調主義を擁護し、軍のアグレッシヴな大陸政策や軍備拡張を始終批判しつづけた。『日本人の海外活動における歴史的調査』総論(鈴木武雄の朝鮮篇等と区別しています)は、湛山の思想・歴史観が書き込まれたものと見て間違いないでしょう。これが戦後の長きにわたって、「明らかに植民地主義を肯定する立場で書かれた」と見なされていることについては、とくに歴史学に携わる人々による早急な再検討が迫られていると思います。


